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エルフの森を出発してから数日
私たちは、広い広い荒野を旅しておりました
妖精さんの魔法で強化はされていても
それでも、踏破するには、なかなか根気のいる
広い広い荒野です
その昔、村長さんは、この荒野を歩いて
日の出村まで辿り着きました
村長さんの他の村の人たちも
この荒野を歩いて、エルフの道具を
遠い町まで売りに行きました
それは、たとえようのないくらい
遠い遠い道だったはずです
その人たちには、妖精さんの魔法もありません
みなさん、自分の足で歩くしかありませんでした
それでも、その道を歩き通した人たちに
心から尊敬の念を抱きました
そうして、ようやく、エルフの森も
後ろに、黒く横たわる線くらいに、遠くなりました
けれども、まだ、目の前には、人間の住む場所は
見えてはきません
あとは、お日様やお月様、お星様だけを頼りに
ただ、ひたすらに、人里を目指して歩くしかありません
暑い夏も、そろそろおしまいになりかかっていました
涼しい地方から温かい地方にむかって旅をしているので
なかなか、秋がきたという実感は湧いてこなかったのですが
それでも、少しずつ遅くなる夜明けや
少しずつ早くなる日没
草むらで鳴く虫の声
日が落ちると吹く涼しい風に
なんとはなしに、秋を感じ始めておりました
視界を遮るもののあまりない荒野では
お月様がとても大きく見えます
お師匠様は、いつも、完全に暗くなる前に
野営の支度を始めます
ここのところ、日暮れが早くなってきたので
そのぶん、お食事の支度をゆっくりとして
眠りに就くまでの時間にも余裕がありました
その日は、まんまるのとても綺麗なお月様が上りました
お師匠様は、まんまるに切ったお芋のたくさん入った
スープと、まんまるにまるめたお団子をたくさん
夕食に作ってくださいました
「今日はお月さんにも、お相伴してもらおうか」
そうおっしゃって、小さな台座に
スープとお団子をお供え物のように並べました
台座のむこうには、ちょうど上ってきたお月様が
ぽっかりと、まんまるに光っていました
「月の精霊にお供えしていらっしゃるのですね?」
隣にいらしたシルワさんは
月を見上げておっしゃいました
「さあ、どうやろ?
だいたい、月って、精霊おんのん?
井戸とか、泉、みたいに?」
「月やら星やらお日様やらは
実際に行って確かめる、というわけには
いかないっすからねえ」
フィオーリさんはそう言いながらも
お月様にむかって、祈りの仕草をなさいました
「精霊がいるかどうかは分かりませんけど
うちの郷も、今時分は、お月見、しますよ?」
「へえ、ホビットさんもしはるんや」
「人間もいたしますよ
満月の夜には、神殿でお祈りを捧げます」
「エルフも、いたしますよ
きっと今頃は、森のエルフたちも
お月様を眺めて祈っていらっしゃることでしょう」
「なんや、どこの種族も一緒なんや」
お師匠様はちょっと呆れたように笑いました
「お月様は、どこからだって見えるからねえ」
ミールムさんは小さく背伸びをしておっしゃいました
「ところで、僕らのご飯は、まだなの?
お腹すいたんだけど」
「ああ、はいはい
すぐにしますよ」
お師匠様はそう言って、みなさんにお給仕を
してくださいました
スープもお団子もとても美味しくて
みなさん、たくさんおかわりをなさいました
お鍋がからっぽになってしもたわ
と、お師匠様は、ちょっと嬉しそうに
おっしゃっていました
食後の後片付けを済ませたら
みなさん、思い思いにお休みになります
今日はお天気もいいし、天幕の中は暑いので
みなさん、草の上にごろごろと横になって
いらっしゃいました
ミールムさんとフィオーリさんは
横になるやいなや、すぅすぅと
寝息を立て始めました
お師匠様も、火の番は朝方にするわと
おっしゃって、先に寝てしまわれました
シルワさんは、おひとり、火の番をして
焚火の傍に座っていらっしゃいました
みなさんの眠りの妨げにならないように
小さな音で、静かに竪琴を爪弾いておられます
それは、獣避けの魔法の効果もあるのだそうです
眠りの妨げどころか、琴の音は、子守歌の代わりにも
なるようでした
もしかしたら、癒しの効果も、付け加えてあるのかも
しれません
いつもなら、横になったら最後、三つ数えないうちに
眠りに落ちる私なのですけれど
どうしてか、今宵は全く眠れませんでした
心地よい琴の音を聞いていても
眠くなるどころか、ますます目が冴えるのです
それで、起きて、シルワさんのところへ行ってみました
シルワさんは、起き出してきた私を御覧になって
おや?と首を傾げました
「眠れませんか?聖女様
今宵の月は、少し明るすぎますか?」
「月が明るいのは、助かります
それに、いつもなら、お日様の光があったって
眠れるのですけれど」
私も、どうして眠れないのか、分かりませんでした
シルワさんは、ちょっと笑って、こちらへ、どうぞ、と
ご自身のマントを草の上に広げてくださいました
私は、最初、そのマントを避けて座ろうとしたのですが
シルワさんは、いいえ、ここへお座りください、と
もう一度マントを広げ直しました
しばらくお互い押し問答いたしましたが
とうとう、私が先に折れました
「…このマント、ネムスさんが着て
旅人みたいだ、って、喜んでいらっしゃいました」
マントを見て、そのことを思い出しました
「ええ、これは元々、弟のものでした
兄弟で旅をしていたとき、いつもネムスが
着ていました
ネムスを棺に封じたとき、私はいつでもネムスと
一緒にいられるようにと、これをもらったのです」
「そんな大事なものの上に、座ることなんて
できません」
あわてて私はマントから下りようとしましたが
シルワさんは、そっと、その私の肩を抑えました
「かまいません
弟もそう言うと思います」
ネムスさんなら、そうおっしゃるだろうな、と
私も思いました
「そう言えば、ネムスさんは、ベアの毛皮を
敷物に出してくださったこともありました」
あの、お薬を作っていらっしゃったときです
「まだ剥ぎたてで、頭もついていて…」
「それはそれは
我が弟ながら、無粋な真似をいたしまして
申し訳ありません」
シルワさんは苦笑しながら頭を下げました
「それもこれも、兄であるわたしの教育が
行き届かないせいです
どうぞ、弟を悪く思わないでやって
くださいませ」
シルワさんは、ずっとこんなふうにネムスさんの代わりに
謝ってこられたから、そのまま癖になっていらっしゃる
のだろうなと思いました
シルワさんは月を眺めて、また竪琴を爪弾き始めました
琴の音に合わせて、小さな声で歌っていらっしゃいます
優しい歌でした
古いエルフの言葉なのか
詞の意味は分かりませんけれど
ゆったりとした旋律が、何度も繰り返されて
それは、単調なようで、それでいて不思議に
安心する調べでした
「以前、聖女様には、子守歌を歌って差し上げたことが
なかった、と申しておりましたね」
シルワさんは、そんなことをおっしゃいました
「いつかそんな日が来るだろうかと思いましたが
ずっと旅をしていれば、こんな日も来るものですね」
こちらを御覧になったシルワさんは
微笑みを口元に湛えていらっしゃいました
まあるいお月様を背景に、シルワさんはまた
竪琴を爪弾きながらお歌を歌い始めます
こんな素敵なものを見られるなんて
眠れない夜というのもまた
よいものだと思いました
しかし、子守歌の効果は絶大だったらしく
私は、早速、うつらうつら、し始めておりました
「こちらへ」
すると、シルワさんは私を、お膝の上に寄りかからせて
くださいました
「いえ、そんな、ご迷惑…」
私は遠慮しようとしましたが、うまく起きられません
シルワさんのお膝を、じかに目にしたことはありませんが
想像するに、さぞかし細くて固いのだろうと思って
おりました
しかし、実際には、たっぷりした衣が柔らかくて
その衣がふわりとよい香りもして
なんだかとっても寝心地がいいのです
おまけにシルワさんは、優しく、髪を撫でてくださいました
それから、またあの子守歌が、すぐ真上から
降り注いでまいります
これは!
なんの罠でしょう?
でも、逃げられません
逃げる気も起こりません
「おやすみなさい、聖女様」
額に、優しい吐息と、なにか柔らかなものを感じました
けれど、あれはきっともう、夢の中にいたに違いありません




