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どきどき…

どきどき……

どきどき………


あ、れ?


桶の水面には波紋ができましたが、その後には

何の変化もありません

シルワさんの声も聞こえませんでした


「…おかしい、ですね?」


ノワゼットさんと私は顔を見合わせました


約束の時刻はもう過ぎています

シルワさんは、約束を忘れたり、違えたりなど

決して、なさらないはずです


ノワゼットさんは、もう一度水を入れ替えて

同じことを繰り返してみました


けれども、今度は、波紋すら、浮かんできませんでした


「…そんなはずは…」


ノワゼットさんのお顔を見上げると

どこか気の毒そうな目をして私のほうを

御覧になっていらっしゃいました


「…あのさ、もしかして、だけど…」


ノワゼットさんは、珍しく、ちょっと言いにくそうに

してから、おっしゃいました


「夢をみた、ってことは、ないかな?」


「夢?…ですか?」


確かに

昨日のあれは、ちょっとうっとり夢心地、に

なってしまいました


「あまりにもシルワ師のことが恋し過ぎて、とか?」


「…夢、ではなかったと、思いますけれど…」


途端に自信はなくなりました


シルワさんのことが恋しくて、泣いてしまったのを

思い出しました


もしかしたら、夢かもしれない、と思いました


いえ、多分、夢だったに違いない、とすら

思えてきました


あのようにシルワさんが誓ってくださるなんて

夢でしかあり得ないと思いました


と、そのときでした


「夢じゃない」


そんな声が聞こえたかと思うと

突然、私の背後から、ネムスさんが現れました


「聖女様は確かに昨夜、兄様と水鏡で話していたよ」


え?

どうしてそれを、ご存知なのでしょうか…


「まさか、立ち聞きしていたのか?」


ノワゼットさんが咎めるようにおっしゃいました

それに、ネムスさんは、ごめん、と頭を下げました


「立ち聞きするつもりなんて、なかったんだけど

 ただ、聖女様が泣いているのが、気になって…」


「お気づきに、なっていたのですか?」


なるべく、声を潜めて泣いていたつもりでしたけれど


「狩人は、耳がいい」


ノワゼットさんは小さく舌打ちをなさいました


「おまけに気配を殺すのもお手の物だから

 気づかなくても仕方ない」


「…それでは、あの、昨夜の会話は、全部…?」


恥ずかしくなりながらそうお尋ねしたら

ごめん、とネムスさんはもう一度おっしゃいました


「泣いてるのが気になって…

 けど、なんって言ったらいいのか、分からなくて…

 ただ、ひとり残して行くのも心配で…

 そうしたら、兄様の声が聞こえてきて…」


ネムスさんは、ぼそぼそと経緯をご説明になりました

私は恥ずかしくて、顔を上げられませんでした


「ずっと、今日一日、どうやって謝ろうか、考えてた

 盗み聞きなんか、するつもりは、なかったんだ

 だけど、あんなにはずんだ兄様の声は

 聞いたことが、なかったから

 いったい、何を話しているんだろう、って

 気になってしまって…」


「わたしも、森に戻っていらしたシルワ師を見て

 いろいろと、驚いたからな」


ノワゼットさんも、同意するように頷かれました


「シルワ師は、昔から、思慮深く穏やかで優しい方だった

 しかし、昔のシルワ師は、白と黒の濃淡の世界で

 生きていらっしゃる方のようだった

 けれど、今のシルワ師の世界は、色鮮やかに彩られ

 深みも増した、ように感じる」


「本当に、兄様は、変わった

 うん、だけど、今のほうが、ずっと幸せそうだ

 兄様をあんなに幸せにしたのは、聖女様なんだね?」


ネムスさんにじっと見つめられて

私は、ますます恥ずかしくなってしまいました


「それは、私の手柄ではありません

 もし、シルワさんの世界が、そのように

 変わられたのだとしたら、それは、私のせいではなく

 シルワさんが、いろいろなことを積み重ねられたから

 だと思います」


「まあ、いいや、そういうことにしておこう」


ノワゼットさんはそう言って肩を竦めました


「それでさ、思ったんだけど

 もしかしたら、足りない条件は

 これなんじゃないかな」


ネムスさんは、気を取り直したようにそうおっしゃると

懐から小瓶を取り出して、中身をぽとぽとと

水の中へ落としました


引き留める暇もなくやってしまわれたことに

私はびっくりしました


「それは!」


「聖女様の涙」


それは、ネムスさんの大切なお薬です


慌てて拾おうと桶に手を突っ込みましたが

涙は溶けてしまったのか、もうどこにも

見当たりませんでした


すると、どうでしょう

涙の溶けた水のなかに

ふわり、ふわり、と水紋が浮かび上がりました


「あっ!これは!」


昨日見たのと、そっくり同じです


水紋の中から、声も聞こえてきました


「…聖女様、そこにいらっしゃいますか?」


間違いありません

シルワさんのお声です


「はい!

 ここにいます」


そう応えると、すっと水紋の中に影が映りました


「おや?

 今日はそちらも賑やかですね?」


にこにことそうおっしゃったのはシルワさんでした


ノワゼットさんとネムスさんは

両隣りから身を乗り出すようにして

水面を覗き込んでいらっしゃいました


シルワさんの目が、それを確かめるように

ゆっくりと一回りしました


「ノワゼット?ネムス!

 お二人ともお元気そうでなによりです」


シルワさんは、にこにことおっしゃいました


「シルワ師!

 マリエとネムスには、わたしがついておりますから

 どうか、ご安心ください」


ノワゼットさんは、勢い込むように

胸を叩いておっしゃいました

それに、シルワさんは、ちょっと困ったように

微笑まれました


「有難う、ノワゼット

 ただ、聖女様のことは、たとえ大精霊様がお相手でも

 お任せしたいとは思えなくて…」


ノワゼットさんは、ますます声を固くしておっしゃいました


「当然ですとも

 しかし、今はやむを得ない事態

 かくなる上は、シルワ師に無事にお返しするまでは

 危ないことも、愚かなことも、なさらぬように

 きちんと、目を光らせておきます

 そうして、再びお目にかかるときには

 傷ひとつつけずに、無事にお返しできますよう

 心しておきますので」


ノワゼットさんは、ふん、ともう一度、荒く

鼻息を吐きました


それを横で聞いていて、思わず言ってしまいました


「なんだか、私、預り物の壺か何かのようです」


「壺なら動かないから、まだまし…

 あ、いえ、なんでもありません…」


ノワゼットさんは、何か言いかけましたけれど

うやむやになさいました


あはは、と困ったように笑われたシルワさんは

横から誰かに、ぐい、と押し退けられました


「嬢ちゃん!元気か?

 何か、困ってへんか?」


そうおっしゃったのはお師匠様でした

そのお師匠様も、一言言っただけで

隣から押し退けられました


「マリエ?

 危ないことはしてないだろうね?」


ミールムさんは、桶から飛び出してこられるのでは

ないかと思うくらい、身を乗りだしておっしゃいました


「聖女様、今回はおいらお留守番になりましたっす」


ミールムさんを持ち上げるようにして

顔をお出しになったフィオーリさんは

手を振ってくださいました


なんだか、その、いつも通り、なみなさんに

とてもとても、ほっとするのを感じました


「みなさんねえ

 水鏡が繋がるものなら

 聖女様のご無事な姿を

 是非とも一目見せろと

 今日はもう一日中

 そのことばかりおっしゃってましてね」


フィオーリさんに譲られて

シルワさんは、また正面に

戻っていらっしゃいました


「けれど、ノワゼット

 あなたが水鏡に参加なさったのは

 みなさんのお顔を見たかったから、では

 ありませんよね?」


はい、とノワゼットさんは頷きました


「実は、シルワ師に是非ともお伺いしたいことが

 ありまして」


そうして、ヒノデさんのことをお話しなさいました


話しが終わるまで、じっと聞いていらしたシルワさんは

ふぅむ、となにか考えるようになさいました


「確かに、聖女様には、精霊を実体化させるお力が

 おありのようです

 ただ、それは、ご本人のご意志とは関りないのかも

 しれません

 それについては、今しばし、考える時間を

 いただきたい」


それから、もう一度、ふぅむ、とおっしゃいました


「実は、こちらの祭壇が仕上がったら

 井戸の精霊の召喚術を執り行おうと

 考えていたのです

 けれど、もしも、そのヒノデさんが

 精霊ではない、のだとしたら…

 少し、やり方を変えた方がよいかもしれません」


それから、ノワゼットさんにむかって

にっこりと微笑まれました


「それも、少し、考えるお時間をいただきたい

 明日の同じ時刻、お返事をいたしましょう」


分かりました、と頷いたノワゼットさんに

シルワさんは、いきなり、両手を合わせてみせました


「ところで、ノワゼット

 わたしにもう少し、聖女様と

 お話しをさせていただけませんか?」


ノワゼットさんは、あ、とおっしゃると

急いで私を前に押し出しました


「わたしの用件は、もう終わりましたから

 あとは、ご存分に、お語らいください」


え?お語らい、って…いえ、そんな…

みなさんも見ていらっしゃるのに…


私が焦ってきょろきょろいたしますと

水鏡のむこうからシルワさんが、ふふ、と

笑うのが聞こえました


「聖女様

 今日は一日、恙無くお過ごしでしたか?」


「え?」


うっかり精霊召喚などしてしまいそうになって

ノワゼットさんに叱られた、ことは、黙っておきます


ちらりとノワゼットさんの方を見たら

ノワゼットさんは、ふん、とだけおっしゃいました


ふふ、とまたシルワさんが笑うのが聞こえました


「ノワゼットは、意地悪で言うのではありません

 聖女様のことを、とても大切に思うがゆえなのですよ」


なんだか、お見通しだなあと思いました


「承知しております」


思わず素直に頭を下げました


「聖女様はとても賢い方ですね

 なのに、わたしは、そんなことでも、嫉妬心を感じて

 しまってます…」


シルワさんは、また、ふふ、と笑われました


「早く、ここへ、帰ってきてください、聖女様」


桶の中のシルワさんは、お顔しか見えません

なのに、両腕を広げていらっしゃるお姿が

見えたような気がいたしました


はい、と一言、私は答えました


「ゆっくり、おやすみください、聖女様」


シルワさんは、とてもとても優しく微笑んで

そう言ってくださいました


窓は開いていなかったのに

柔らかな風が吹いて

髪を優しく撫でていきました




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