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しくしくしく
べそべそべそ
しばらくして、どこからか泣き声が聞こえてきました
「ひどいっ
ひどいよ、シルワ…
オレの髪、なくなっちゃったじゃないか」
「なくなってはいませんよ
あんなに絡まっていたのじゃ、切るしかないでしょう?
伸ばすならもうちょっと綺麗に伸ばさないと…」
「べつに?伸ばしてないけど?」
「伸びっぱなし、なんでしたね、あなたの場合」
と思うと、ひょい、と縄梯子の出入り口から頭が覗きました
顎の辺りで切り揃えた銀色の髪がさらりと流れ
春霞にけぶる菫の色をした瞳は、淡い光をたたえています
見たことのないエルフでした
「あのう、お客様、ですか?
アイフィロスさんなら、今、お出かけ中で…」
そうお声掛けすると、お客様は自分を指さして言いました
「オレ
オレ、アイフィロス」
「は?」
びっくりしたら、銀髪の人は苦笑いなさいました
「誰かも分からなくなるくらいひどい有様だったんですよ」
後ろから上ってこられたシルワさんは笑っていました
「ちゃんと綺麗にしたら、そこそこ整った容姿なのに」
「べっつに
見た目なんかどうだっていいし
誰にも迷惑かけてないんだから、いいだろ?」
銀髪の人は子どものように口を尖らせました
それから、わざと髪をくしゃくしゃにしました
「いいえ
あの臭気は十分に毒です」
シルワさんはきっぱりと言い切りました
「聖女様がご気分を悪くなさったらどうするんです?」
「べつに、大丈夫だよねえ?聖女ちゃん?」
銀髪の人は私にむかって首を傾げてみせます
私は、慣れない聖女ちゃん呼ばわりにちょっと戸惑います
「あの、本当にアイフィロスさん、なんですか?」
「本当にオレです」
そう言うとぱんぱんと手を叩きました
すると、足元の枝がにょきにょき伸びて長椅子になりました
そこへ寝転がって、アイフィロスさんはため息を吐きました
「はあ、やれやれ
やっと帰ってこられた
やっぱ家が一番だねえ」
「旅行に行ってたんじゃないんですから
ちょっと沐浴場に行っただけでしょう?
それより、ちゃんと髪乾かさないと風邪ひきますよ?」
「歩いてるうちに乾いたって
短いと乾きやすくていいな…」
アイフィロスさんは短くなった髪の先を指先でつまみました
「シルワ、ずっとここにいて、また髪、切ってよ?」
「わたしはあなたのお世話係じゃありませんよ」
シルワさんはちょっと呆れたように言いました
アイフィロスさんは、ふん、と軽く鼻を鳴らしました
「さてと
じゃあ、今度こそ、本題に入るかねえ」
そう言ってちらっとシルワさんを見上げます
「君の用ってのは、例の鍵なんだろ?シルワ」
シルワさんは、え?とちょっと驚いたみたいでした
けれどすぐに目を伏せて、ええ、とだけおっしゃいました
その視線は下をむいたまま、誰のほうも見ていませんでした
そのシルワさんにアイフィロスさんは続けて尋ねました
「決心は?ついたの?」
シルワさんは、また、ええ、とだけ答えました
アイフィロスさんはもう何も言わずにため息だけ吐きました
それから椅子からからだを起こして立ち上がりました
「ちょっと探すから、待ってて?」
そう言って小屋のほうへとむかいます
「ああ、わたしも手伝います」
シルワさんは慌ててアイフィロスさんを追いかけました
わたしもその後をついていきました
小屋だと思ったのは巨大な物入れでした
扉を開けた途端に、がらがらと物が雪崩落ちてきました
アイフィロスさんは、うっひゃあと叫んで飛び退きました
思い思いに寛いでいた皆さんも、びっくりして集まりました
「いったい、これはまた、どないなっとんねん?」
お師匠様はちょっと呆れたみたいにおっしゃいました
「おいらたちも、収集癖はありますけど
流石にここまではいきませんねえ」
呆れているのか感心しているのか
フィオーリさんはしきりに頷いていました
ミールムさんはいったんはやってきましたけれど
惨状を見ると、無言でむこうへ行ってしまいました
アイフィロスさんは、けけけっと奇妙な笑い声を立てました
それを見て他の皆さんもむこうへ行ってしまいました
その場にはシルワさんと私だけ残りました
「さてと
どこへしまったかなあ…」
アイフィロスさんは崩れ落ちた物には構わず
ごそごそと物をかき分けて中へ入っていきました
流石に、中についていくのは遠慮しました
シルワさんも黙ったままその場で待っていました
その目は何か思いつめたように宙の一点を見つめていました
鍵というのは、どこの鍵なんですか?
決心とは、一体なんのことなのですか?
それを尋ねてみたいと思いました
けれども、尋ねる勇気はありませんでした
多分、きっと、それはシルワさんにとって
触れられたくないことのような気がしました
けれども、心の中は不安でいっぱいでした
胸がきゅっと締め付けられるような感じでした
じっとしているのも耐えられないくらいでした
シルワさんのお顔はとても深刻そうです
シルワさんがどこかに行ってしまう
理由もなく、そんなふうに感じました
すると、はっとしたように、シルワさんが顔をあげました
その目と私は目が合ってしまいました
なんだか気まずくなって、私は慌てて目を逸らせました
シルワさんの小さなため息の音が聞こえました
「ご心配をおかけして
申し訳ありません、聖女様」
シルワさんは静かにおっしゃいました
けれど、それは私を打ちのめしました
シルワさんにお気を遣わせてしまった
そう思って落ち込みました
シルワさんはこんなに辛そうなのに
そんなシルワさんに謝らせてしまうなんて
シルワさんは、今、何か酷く思いつめていて
アイフィロスさんには、多分、その原因が分かっていて
けれど、私には、何もして差し上げられない
そのことを、とても悲しく感じました
お力になれないことが、とても残念でした
いいえ、お力になれないどころか
謝らせてしまうなんて…
つくづく、自分の至らなさを思い知りました
シルワさんはいつも私を助けてくださいます
私はシルワさんにしてもらってばかりいます
なのにひとつもお返しできていません
せめて、慰めの言葉のひとつでもあればよかったのに
けれど、何を言っていいか分かりません
的外れなことを言ってはもっと傷つけるかもしれない
そう考えると怖くて何も言えません
私は臆病な情けない人間です
こんなにお世話になっているのに
その恩すら返せません
もっと強く優しくなりたい
シルワさんのようになりたい
そんなことを思いながらシルワさんの横顔を見ていました
しばらくしてアイフィロスさんは戻っていらっしゃいました
小屋の中で遭難しなくて本当によかったです
けれど、その手は空っぽでした
「悪い、シルワ
どこ探しても見つからないんだ
こんな状況だからさ
さっき雪崩たときに、どこかに紛れ込んだのかも」
アイフィロスさんは申し訳なさそうにおっしゃいました
「…そうですか…」
シルワさんは、かすかに微笑んで首を振りました
それに、アイフィロスさんは、ごめん、と頭を下げました
「とにかく、急いで探すから
少し、待ってもらえないかな?」
「分かりました」
シルワさんは穏やかに答えました
「突然、やってきてご迷惑をおかけしているのはわたしです
申し訳ありません、アイフィロス」
「水臭いこと言うなよな」
アイフィロスさんはシルワさんの背中をぱんと叩きました
「待ってる間、お仲間は君の家に泊まれるかな?」
「ああ、そうでした!」
シルワさんは突然ぱんと手を叩きました
「あの壁を直したいのです
板を少々、分けてもらえませんか?」
そうでした
そもそも、そのためにここに来たのでした
「ああ、お安い御用だ」
アイフィロスさんは軽く頷きました
またあの物入れに探しに行くのでしょうか
板は見つかるといいのですけれど
思わず少し不安になってしまいます
ところがところが
アイフィロスさんがぱんと手を叩くと
木の上からちょうど手頃な板が降ってきました
「よ、っと
こんなもんでいいかな?」
アイフィロスさんは板を受け止めてシルワさんに渡しました
なんとまあ
私は目を丸くしたまま立ち尽くしておりました
あんなところから落ちてきて、大丈夫なのでしょうか
上手に受け止められてよかったけれど
もし、受け止めきれなかったら?
頭の中が、ぐるぐるぐるぐるいたしました
「あれ?
驚かせちゃったかな、聖女ちゃん?」
アイフィロスさんは私の顔を覗き込むようにしました
「こやつのやることにいちいち驚いていては身がもちません
聖女様、お気の毒ですけれど、慣れてください」
シルワさんは宥めるようにおっしゃいました
「ちょっと、それどういう意味だ?
酷くないか?」
アイフィロスさんが不満気にシルワさんを睨みます
シルワさんはしれっと微笑み返しました
「酷くなんかありませんとも、疑いようのない事実です
もちろん、褒めているのですよ?
あなたはとっても奇抜な面白い方ですって」
うそつけ、とアイフィロスさんは顔をしかめました
それから、にこっとしておっしゃいました
「今日は夕飯、食っていけ
エルフの特製料理を作ってやる」
「それはどうも有難う
せっかくのお誘いなので、ご馳走になりましょう」
シルワさんもにこっと返しました
よかった
やっと笑ってくださった
シルワさんの辛そうな顔を見ると、とても辛くなります
だから、その笑顔に、私はほっとしていました




