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しばらく静かに泣いておりました
帳のむこうにいるネムスさんには気づかれないように
なるべく音は立てずに、静かに、静かに…
ネムスさんは何もおっしゃいませんでした
けれど、少しして、ゆっくりと立ち去っていく気配が
ありました
お湯のなかに落ちた涙は、玉にはならずに
溶けてしまいました
少し、もったいないかな、と思いましたけれども
また今度、ノワゼットさんが玉ねぎを刻まれるときに
お傍にいて、涙を貯めておくことにしましょう
それに、これは、私の淋しさの固まった涙でした
辛い気持ちの塊でした
これでは、ネムスさんやシルワさんのお薬には
なれないと思いました
と、ふと、また声が聞こえた気がしました
「……い、じょ……せい……ま……」
ネムスさんはもう立ち去ったはずです
それ以外に、聖女様、と私を呼ぶ方は
ここにはいらっしゃいません
どなたかな、と思って、帳のむこうを伺ってみます
けれどやっぱり、そちらには、人の気配はありません
そのとき、はっと気づきました
どうやら、声は、バスタブの中から聞こえてくるのです
ええっ?
まさか、こんなところに、人はいるはずが…
ぽたり、と落ちた水滴がまるい波紋を広げます
すいと広がる波紋の作った円の中に
ゆらゆらと、人の影が現れました
???
「…シルワ、さん?」
思わず、その名を呼んでから、とうとう私は
シルワさん恋しさが募りに募って
このような幻まで、見るようになってしまったのかと
思いました
けれど、水面に映ったシルワさんは
にっこりと、微笑まれました
「聖女様
そこにおられるのですね?」
「あ、はい
ここにおります」
思わず、水面の幻にむかって
そんなふうに応えてしまいました
「ずっと、どうなさったのだろうと
心配、しておりました」
波紋の中の幻は、そんなことをおっしゃいました
「いつもいつも、ご心配ばかりおかけして
申し訳ありません」
思わず、いつものように謝ってしまいました
「いいえ、心配できることは
わたしの幸せでもありますから」
幻はそう言って、にっこりと微笑みました
なんだか、その笑顔は、やっぱり、シルワさんです
「…あのう、もしかして、本当に、シルワさん、
なのですか?」
思わず、尋ねてしまいました
すると、幻は、あはは、と笑い出しました
「水鏡です、聖女様
あなたのことが恋し過ぎて、泉を見つめていたら
泉の水が、あなたとわたしを、繋いでくれたのですよ」
えっ?
じゃあ、あの、ここに映っているシルワさんは
幻、ではなくて…
「もしかして、本物?」
驚いて立ち上がりかけて、それから唐突に
自分の現状を思い出しました
私、今、お風呂に入っている最中でした
慌てて、両腕を胸の前に交差します
もっとも、シルワさんにどのように
私の姿が見えていらっしゃるのかは
まったく、分かりませんけれども
「え?あ!ええっ?」
かき乱された水面に映るシルワさんは
何故か少し慌てたような声をあげました
「…も、もしかして、聖女様
入浴中で、いらっしゃいましたか?」
「……あ………は、い……」
とりあえず、お湯のなかに肩まで漬かりました
私、耳まで赤いに違いありません
お風呂のお湯は、もうそんなに熱くありませんけれども
ゆらゆらと大きく揺れる水面に
映るシルワさんの影もゆらゆらと揺れています
心なしか、シルワさんも赤くなって
焦っていらっしゃるようでした
「あの、お目を穢すような真似をして
申し訳ありません…」
やっぱり、謝ってしまいました
すると、シルワさんは、両手のひらをこちらにむけて
ばたばたと振ってみせました
「とんでもありません!
目を穢すなんて!
むしろ、そのようなものを見せていただいたあかつきには
目の宝、最高の至福
あ!いや!わたしは、なんてことを!!!」
シルワさんはぎゅっと目を瞑った上に
両方の手で自分の顔を隠していました
「いいえ!
もちろん、見ておりません!
わたしは、何も見ておりません!
ええ!見えたのは、聖女様のお顔の辺りだけです!」
本当、でしょうか?
それならば、よかったのですけれども
「わたしの方こそ、とんだ失礼を…」
シルワさんは、ひとつ、深呼吸をしてから
手を外して、しょんぼりとおっしゃいました
「聖女様の状況も考えず
水に、お姿が映ったのが嬉しくて
つい、呼びかけてしまいました」
それから、少し考えるようにおっしゃいました
「入浴中、ということは
今いらっしゃるのは、日の出村の村長さんの
お家でしょうか?」
それに答えて、私は今自分たちのいる状況を
少しお話ししました
「そちらは、井戸の祭壇の修理を?」
「ええ、グランがそれはそれは張り切ってね?
その間に、一度、わたしは、森に戻ったのです」
シルワさんは、ひとり森にお戻りになったということでした
「聖女様の行方を探すのに
泉の精霊のお力をお借りしたくて
日の出村の井戸は、残念ながら枯れてしまって
いますから」
「それは、お手数をおかけしました」
「いえいえ、聖女様を見失ってまた落ち込んだわたしを
見かねた皆が、そうしろと言ってくださったのです」
シルワさんは、ちょっと困ったようにおっしゃいました
「これは、シルワさんの、魔法、なのですか?」
ええ、とシルワさんは少し微笑みました
「遠く、遠くにいる方と、こうしてお話しができる
魔法です
もっとも、この魔法は、よほど互いの心が
通じ合っていないと、起こせないのですけれどね」
それって、シルワさんと私の心が
通じ合っている、ということなのでしょうか?
そんなことを思ってから
少し、恥ずかしくなってしまいました
そんな大それたことを考えるなんて
なんて、私、はしたない
けれど、シルワさんは、おっしゃいました
「聖女様
聖女様も、わたしに会いたい、と
願ってくださいましたか?」
ええ、それは、もちろん、願ってしまいましたけれども
それって、あの、もしかして、シルワさんも、私に
会いたいと…
いえ、なんでも、ありません!
「などと、わざわざ確かめる必要などないのに…
すみません
あなたの口から、会いたかった、と
言っていただきたくて」
シルワさんはちょっと困ったように微笑まれました
えええ…、なんでしょうか、その笑顔
とても、お優しくて、少し、淋し気で
あまりに、心惹かれてしまうのですけれど…
あああ、いえ、あまりに乗り出してはいけません
しっかり、首までお湯に浸かっておかないと
「けれど、こうして水に映るあなたの姿を見て
改めて確信、いたしました
たとえ、どんなに離れていても
空間も、時間でさえも
あなたとわたしの間を
隔てることなどできない、と」
なんだか、そんなふうにおっしゃられると
まるで、シルワさんと私は、その…
「尊いわたしの聖女様」
焦って何も言えないわたしに
シルワさんは、神官がする
誓いの仕草をしてみせました
それは、神官が、精霊に対してする
信頼と敬服を表す仕草でした
「聖女様が、大いなる使命をお持ちなことなど
とっくのとうに、覚悟しております
それゆえに、このように離れ離れにさせられることも
これからも、きっと多いことでしょう」
水面のシルワさんは、こちらを真っ直ぐに見つめました
その瞳は清んで、きらきらと輝いていました
「けれども、どのようなときも、わたしの心も魂も
常に、あなたと共にあります」
そうしてもう一度、神官が神殿でするように
誓いの仕草をなさいました
そんな、いけません
それは、最大限の敬意を表す仕草なのです
それをしてよいのは、大精霊様にだけ
あとは、この世界に、たったひとり…
「私に、それは…
もったいないです、シルワさん…」
心も命も魂も
すべてを差し出して、永遠の忠誠を誓う
シルワさんがなさったのは、そういう仕草でした
「あなたが、わたしに、もったいない?」
「いえ!あの!」
そうではありません
シルワさんが、私にはもったいないのです
それに、そんなふうにしていただいたからには
私も、同じ誓いを返したい
けれども、それは、今の姿では、その…
シルワさんは、私の言いたいことも分かったように
ふふ、と笑いました
「お返しなど、いりませんとも
これは一方的に、わたしがあなたに
誓いたいだけですから
それは、ご迷惑でしょうか?」
「迷惑だなんて、申しません
…けど…」
「それなら、よかった」
シルワさんは、また、ふふ、と笑いました
「長話をしていては、湯冷めしてしまいます
名残惜しいですけれど、この辺にいたしましょう」
シルワさんはそうおっしゃって微笑まれました
「今宵は、あなたの夢を見て
よく眠れそうです
聖女様、感謝いたします」
「私も!
私の夢にも、シルワさん、出てください!」
思わずそう言ってしまいました
シルワさんは、ちょっと驚いた顔をして
それから、いいですよ、と頷かれました
「こちらへ、聖女様」
水鏡のむこうから、シルワさんは手招きをします
どうやって近づいたもんだか、と思いながらも
ゆっくりと、そちらへ顔を近づけました
すると、突然、ぴしゃりと水が跳ねて
私の額を濡らしました
「お呪いです」
シルワさんは、にこっと微笑まれました
「おやすみなさい、聖女様」
「おやすみなさい、シルワさん」
本当はもっと話していたいのです
けれど、流石に、もうお湯は冷めて
ほとんど、お水みたいになっていました
「また、こんなふうに、お話しできますか?」
けれども、思わずそう引き留めてしまいました
「もちろん、ですとも」
シルワさんは、大きく頷きました
「聖女様のお望みとあらば
明日、また同じ時刻に
水鏡を開きましょう」
「分かりました
明日、また、同じ時間に、ですね?」
なんだか、そんなお約束をいただけると
心がぱっと明るくなる気がいたしました
「それなら、明日もまた一日
頑張れそうです」
「ふふ…
それは、よかった
わたしも、明日一日、聖女様の御ために
生きていようと思いますよ」
シルワさんも、嬉しそうになさいました
「それでは、また明日」
「それでは、また明日」
ぴったり同じご挨拶を交わしました




