タイトル未定2024/03/23 09:45
目が合う。
彼と、目が合う。
僕が、彼を見つめる。
彼が、膝頭から、僕を見つめる。
彼はいつものように、苦笑いというか半笑いというか、とにかくそんな顔をして、僕を、じっと見つめる。
『おお、目が合ってしもうた』
彼の半苦笑いは、そんなふうに問い掛けて来るようだ。
彼と僕はお互い、笑みを浮かべて、目で会話を交わす。
彼と出会ったのは、いつやったやろう?
正確には、彼が入り込んで来たのは、いつやったやろう?
いつの間にやら、彼が入り込んでいた。
彼が、できていた。
いつの日のことか、思い出せない。
その日、ジーンズを脱いで脛まで下ろした時、初めて彼と目が合った。
出会い頭開口一番、彼は言った。
「よう」
そのさりげない挨拶に、僕も訳が分からないまま、挨拶を返していた。
「やあ」
そのまま二人(?)共、無言のまま、しばらく顔を見つめ合う。
彼は、『しょうがねえな』とばかりに苦笑を浮かべ、僕に言う。
「話しにくいんで、とりあえず着替え、済ませてしまえ」
「ああ、うん」
僕は、ジーンズを脛まで下ろしたまま ‥ 前屈のような体勢をとったまま、無言で固まっていた。
僕は着替えを済まし、床に尻を着く。
姿勢を、体育座り(三角座り)に整える。
スウェットパンツの右脚を、足首から捲り上げる。
捲り捲り、膝上まで捲り上げる。
膝頭まで来たところで、彼の頭が、顔を出した。
額が、顔を出す。
眼が、顔を出す。
鼻が、顔を出す。
口が、顔を出す。
顔全体が、スウェットパンツの下から出ると、彼は一息つく。
「プハッ」と、洞窟から出た時のように、一息つく。
彼は、僕の方を見て、言う。
「改めて ‥ よう」
僕も、挨拶を返す。
「改めて ‥ やあ」
さっき感じたことだが、なんとなく、『彼と、目を合わせることができる』ことに、違和感があった。
さっき、僕が下を向いている時に、彼とキッチリ正面から、対面することができた。
座って、改めて相対してみて、分かった。
彼は、頭が膝の下部に、口が膝の上部にきている。
つまり、顔の位置が、上下逆さまになっている。
『頭に血、昇らへんのかな?』
僕は、やけに落ち着いている彼を見て、見当違いの疑問にとらわれる。
「昇らへんで」
彼は、《僕の考えが分かった》かのように答える。
口元に、笑みを湛えて、答える。
そして、言葉を続ける。
「とにかく、お前は、戸惑っていることやと思う」
「うん」
先生のような師匠のような、上から目線の物言いだったが、僕は素直にうなづく。
「こんなん、見たことないか?」
「無い」
「ああそりゃ、実際、見たこと無いわな。
じゃあ、聞いたことや、読んだことないか?」
僕は、そういや、心当たりがあった。
ウェブか雑誌かテレビかは知らねども、こんなん、見たことあった。
確か、小説にも、こんなんがあったような気がする。
「その顔は、心当たりがあるようやな?」
「うん」
「詳しくは、知ってるんか?」
「知らない」
「じゃあとりあえず、検索して調べてみい。
その間、ひと眠りするわ」
彼は、眼を閉じて口を閉じて、睡眠体勢に入る。
僕は、パソコンの前に陣取り、電源を入れる。
検索サイトに、[膝 顔 話す]と入力して、検索する。
[人面瘡]という言葉が、引っ掛かった。
「じんめんそ ‥ 」
解説文を、読んでいく。
いくつかのサイトを読んで、分かったことは、大まかに次のこと。
・妖怪、または、奇病の一種。
・体に、顔のようなものができ、それがしゃべったり、物を食ったりする。
・昔から、文献で多く取り上げられていて、
最近では、小説や漫画などの題材になっている。
・体の皺が、光りの当たり具合で陰翳を作り、それが顔に見えるもの。
それが、しゃべったり物を食べることは、ありえない。
「ありえてるやん」
僕は、『なんやねん』という感じで、画面の字面を追う。
それ以上検索しても、時間の無駄だろうから、パソコンを閉じる。
パソコンを閉じて、お茶を一杯。
足を結跏趺坐に組んで、本を読み始める。
十数分後、右膝から声がする。
「おい」
今、いいとこ読んでるんで、邪魔してくれるな。
「おい」
してくれるな。
「おい、呼んどんねん」
仕方無く、僕は、体育座りをして、ズボンを膝まで捲り上げる。
彼は、「プハッ」という顔をして、口を開く。
「なにしてんねん、早よせいよ」
「ごめんごめん」
「窒息させる気か」
「いや、窒息せえへんやろ」
「ツッコむなや ‥ 何か、分かったか?」
彼は、半笑いのまま(おそらく《半笑い》がデフォルトなのだろう)、僕に尋ねる。
僕は、調べて分かったことを、羅列する。
・妖怪、または、奇病の一種。
・体に、顔のようなものができ、それがしゃべったり、物を食ったりする。
・昔から、文献で多く取り上げられていて、
最近では、小説や漫画などの題材になっている。
・体の皺が、光りの当たり具合で陰翳を作り、それが顔に見えるもの。
それが、しゃべったり物を食べることは、ありえない。
「う~ん、ちと、ちゃうな」
「違うの?」
「ちゃう。
まず第一に、妖怪でも奇病でも無い」
「でも無い」
「そう。
お前から、顔の筋肉を動かすのに必要な、微々たる栄養をもらうだけ。
お前には、蚊に刺された程の影響も無い。
だから、妖怪や奇病のように、害を及ぼすことは無い」
「なるほど」
「だが ‥ 」
彼が、少し言い淀む。
僕は、『ふんふん、それで』顔を作って、先を促す。
「 ‥ しゃべったり物を食ったりは、する。
別に、黙ってても栄養は取れるわけやから、ジッとしてりゃええんやけど、
しゃべりたい性格やから、しゃべるし、何か口にしたい性格やから、物食う」
「何、食うの?」
「う~ん。
歯応えがええもんやな」
「フランスパンとか?」
「う~ん。
パリパリより、バリバリの方がええな」
「軟らかい骨とか」
「お、ええな」
「フライドチキンの、噛み砕けるくらいヤワくなっている骨とか」
「お前、ええこと言うな。
それとか、軟骨とかな」
「僕も、好きやねん」
「おお、気が合うな」
多分、彼に手があったら、僕と彼はここで、がっしりと握手をしたことだろう。
「それと ‥ 」
「ん?」
彼の顔が、ちょびっと、真面目になる。
「お前が言うように、小説や漫画には、度々度々、題材になっとる」
「例えば?」
「 ‥ う~ん。
多過ぎて、全部挙げるのは難しいなー。
とりあえず、谷崎のやつ、読んだらええんとちゃうか」
「谷崎 ‥ ?」
「谷崎潤一郎」
「おお、谷崎潤一郎!
作品名は?」
「そのものズバリ、【人面瘡】。
一風変わった人面瘡話で、おもろいで」
「読んだん?」
「まあな」
彼に手があれば、きっと親指を立てて、グッジョブポーズを取ったことだろう。
彼に手があれば、僕はまたもや、彼とがっしり握手をしたことだろう。
歯応えええモン好きの、本好き。
彼と、好きなものの共通項が、見つかった。
僕は、急速に、彼に好意を持つ。
自分の膝頭に。
「お前は大丈夫やと思うけど、一応言っとく」
彼の口調が、変わる。
厳然と、威圧的に、キビキビしたものに変わる。
半笑いも、引っ込めている。
「俺の存在が不都合になって、剃刀とかナイフとか包丁とか、
刃物で取り除こうとしても、無駄やで」
「無駄なん?」
「そう。
お前の身体に、キッチリ根張っとるから、切り落とすとか裂き剥ぐとかしても、
すぐに、次が顔出すから」
「金太郎飴」
「まあ ‥ 似たようなもんやな」
彼は、半笑いを再び浮かべ、苦笑する。
「それに ‥ 」
「うん」
「復活にエネルギー使うから、お前の体力が減る分だけ、損やで」
「うん」
「もし、意図的に、切り落とし裂き剥ぎしたら ‥ 」
「うん」
「仕返しするで」
彼は、半笑いで、でも、眼は恐いくらい笑わず、言う。
「仕返しすんの?」
「そう。
根に指示出して、そこら中に、顔出さすで」
「え。
どこら辺に?」
「そやなー。
関節部で、陽の当たらんジメジメしたところがええから、
脇の下とか、股関節とか。
いろんなところに顔あると、気持ち悪いやろし、
顔増えた分だけ栄養取られて、体力落ちるで」
「う~ん」
体力が落ちるのは御免だけど、顔が増えて話し相手が増えるのは、『嫌いじゃない』気がする。
彼は、『おやっ』とした顔をしつつも、改まって言う。
「そんなわけで、まあ、よろしく」
「こっちこそ、よろしく」
彼に首があれば、ピョコッと会釈したに違いない。
僕も、ピョコッと、頭を下げる。
「で ‥ 、とりあえず、どうすんの?」
「とりあえずは ‥ 」
「とりあえずは ‥ 」
「フライドチキンやな」
彼は、二カッと笑みを浮かべて、食事を乞う。
僕は、財布の残高を計算して、『コンビニじゃなくて、ファストフードのチキン買えるな』、と思う。
彼との同居(同身?)生活が始まった。
なんのことはない。
自分の身体の中に ‥ 膝頭に、話し相手ができただけだった。
他は、何にも変わらない。
変わったことと言えば、一週間に一日、[フライドチキンの日]ができたことだけだった。
フライドチキン。
たっぷり骨付きであることは、マスト。
身は、僕が食べる。
骨は、彼が食べる。
僕は、チキンの身の、グルメになった。
彼は、チキンの骨の、グルメになった。
ワシワシクチャクチャ
バリッガキッゴキッゴリッ
ワシワシクチャクチャ
バリッガキッゴキッゴリッ
「やっぱり骨は、ケイタが一番、美味いな」
「身も、そやと思う」
「マクラもロッカテアもファイマも頑張ってるけど、やっぱ、ケイタが一番やな」
「身も、そやと思う。
何が違うんやろ?」
「スパイスなのか?揚げ方なのか?、はたまた、圧力のかけ方なのか?
謎は、尽きんな。
まあ、安くて美味いもん食えるんやったら、俺は何でもええけど」
「違いない」
僕は、彼に、同意する。
彼とは、どうも、同意すること ‥ 共感することが多い。
趣味、食べ物の好み、などなど。
やはり、一つの身体を、共有しているからだろうか。
よく考えれば、神経や血管は、まぎれもなく共用している。
ということは、神経伝達や血液も、共用していることになる。
ひいては、脳や心臓も、共用していることになりはしないか。
僕は、ここまで思って、彼を見つめ直す。
彼は『うんうん』とうなづく(実際には、うなづいていないが)顔をして、言う。
「もっと、食おうぜ」
「ああ、うん」
ワシワシクチャクチャ
バリッガキッゴキッゴリッ
ワシワシクチャクチャ
バリッガキッゴキッゴリッ
ワシワシクチャクチャ
バリッガキッゴキッゴリッ
ワシワシクチャクチャ ‥
バリッガキッゴキッゴリッ ‥
ゲフッグフッ
ゲフッグフッ
「もうええわ。
ごっそさん」
「僕も。
ごちそうさま」
週一回のフライドチキンパーティは、お開きになる。
僕は、おなかいっぱいで、ひっくり返っている顔を浮かべる(あくまで、顔だけだが)彼に、従来からの疑問をぶつける。
「あのさ」
「なんや?」
「基本的に君は、顔だけやんな」
「ああ、そうや」
「だとしたら、食べたもんは、どこに行くん?」
彼は一瞬、素面に戻ったが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべる。
「知らん。
考えたことも無い」
「自分で、分からへんの?」
「分からんなー。
でも、口に入れたもんはどっか行くし、満腹感もあるから、
なんとかなってるんやろ」
「ポジティブ思考やね」
「考えても、しゃーないしなー。
おおかた、お前の腹の中にでも、ワープしとるんやろ」
にしては、僕の腹具合や満腹感は、彼が来る前と、彼が来た後を比べても、そう大差が無い気がする。
僕は、イマイチ、納得しかねる。
そのうち、次の疑問が湧いて出る。
「あのさ」
「はん?」
「しゃべってるやんか?」
「しゃべってるな」
「考えたことを、しゃべってるわけやろ?」
「そやな」
「考えるということは、頭というか、脳味噌を動かしてるわけやん」
「そやな」
「脳味噌、無いのに?」
ズバリ、僕は、核心を突く。
彼も、『盲点を突かれた』という顔をする。
「そういや、そやな」
でも、彼のその顔は一瞬で過ぎ、すぐに半笑いの、いつもの顔に戻る。
柳に風。
右から左に抜ける。
さして、影響無し。
「おおかた、お前の脳の、ちっちゃな一部分が、俺用の脳になっていて、
考えてくれてるんやろ。
神経、共用しとるから、考えの道 ‥ 思考伝達経路も同じやろうしな」
「なるほど」
僕としては、自分の脳の一部分が勝手に、他のことを考えているのは、実感が無い。
でも、《脳の九〇%は、未使用》とも言うし、《無意識領域は、脳の中で多大な部分を占める》とも言うし、『まあ、そういうこともあるわな』と思う。
「来てみ」
母が、言う。
「うん、何?」
僕が、言う。
「見てみ」
再び、母が言う。
見てみると、花壇いっぱいに、若芽が出ていた。
何の花の芽かは知らねども、ちっちゃな芽が、土からそびえ立っていた。
花壇いっぱい、そこらじゅう、芽芽、芽芽、芽芽、芽芽。
そして、芽芽、芽芽、芽芽、芽芽 ‥ 。
「何の花?」
「ペニーロイヤルミント」
「ミント?
じゃ、ハーブなん?」
「うん、ハーブ。
でも、食べられへんで」
「え、あかんの?」
「あかん、毒性がある。
昔は、堕胎にも使われたらしい」
「うわっ、鬼灯みたいやな」
「主に、防虫に効果がある。
まあ私は、花が好きやから、育ててるんやけどね」
決して、食用では無い。
実利を、求めているわけではない。
花の美しさを求めて、私は花を育てているのだ。
母は、そう言いたいのだろう。
「なんか、ペニーロイヤルミントって呼んだら、美味しそうやな。
日本名は無いの、日本名は?」
僕が尋ねると、母は、目の焦点をボヤかして考えて、答える。
「う~ん、確か和名は、目草薄荷」
「めぐさはっか」
「そう、めぐさはっか」
芽芽、芽芽、芽芽、芽芽 ‥
めめ、めめ、めめ、めめ ‥
眼眼、眼眼、眼眼、眼眼 ‥
目目、目目、目目、目目 ‥
花壇に広がる芽の群生を見て、思わず想像する。
[悪魔くん]の妖怪、百目。
鳥山石燕の描く妖怪、目々連。
[鋼鉄の錬金術師]の、ホムンクルス。
僕は、右膝のことを思い、将来、自分に起こりかねないことを想像する。
目目、目目、目目、目目 ‥
鼻、鼻、鼻、鼻 ‥
口、口、口、口 ‥
『ま、ええか』
『ええのかよ!』
僕は、ツッコミが入った気がして、ガガッと、母の方を見る。
母は、素面に戻って、僕を見つめる。
「どうしたん?」
「いや、今、何か言わへんかった?」
「別に、言ってないで」
母は、『おかしなこと言うなー、この子』という顔をして、花壇に視線を戻す。
僕は、微かに存在感を増した右膝を、そっと、擦る。
まただ。
またか。
上履きが無い。
また、上履きが無い。
仕方なく、持参した上履きをカバンから出し、履く。
今週も早よ二回目。
こりゃ、毎日、上履き持って来た方がええな。
精神衛生的にも、経済的にも、その方が良さそう。
僕は、教室に向かいながら、つらつら考える。
教室のドアを開けると、空気が固まる。
教室内の空気が、ビンッと、張りつめる。
一見、教室内の風景は、変わらない。
数人で、雑談しているグループは、そのまま雑談している。
数人で、ゲームをしているグループは、そのままゲームをしている。
下を向いて、個々人で漫画を読んでいるやつは、そのまま漫画を読んでいる。
下を向いて、個々人で勉強をしているやつは、そのまま勉強をしている。
一見、教室内は、僕が入る前と、何ら変わらないように見える。
が、僕が入って来たことで、明らかに、何らかが変わった。
教室内の空気だけが、ごっそり丸ごと、入れ替わったかのように。
教室内の空間だけが、ごっそり丸ごと、異次元に飛ばされたかのように。
いつものように、誰も、「おはよう」とか「おっす」とか、挨拶はしない。
だから、僕も、挨拶をしない。
『やれやれ』
僕は、飄々と、自分の机に向かう。
まただ。
またか。
花瓶だ。
また、花瓶が置かれている。
僕は、花瓶を、教室後ろの棚に移し、椅子に座る。
机の上を、学生服の袖で拭いて、カバンからノートと筆記用具を出す。
ビシバシ感じる。
みんなの視線を、ビシバシ感じる。
みんな一切、こちらに顔を向けていないが、みんなの意識の視線を、ビシバシ感じる。
『僕の一挙手一投足に、むっちゃ注目してんのやろなー』
と、僕は思って、ノートを開く。
おっと、一挙手一投足とか、難しい言葉を使っちゃったぜ。
参ったな。
自分で自分が、コワくなる。
僕は、自分で自分に話しかけ、状況を客観的に捉えようとする。
別に、上履き隠されたり、机に花瓶を置かれることぐらいで、その他の被害は無い。
殴られたり蹴られたり、陰口されたり、身の覚えの無いことをチクられたりはしない。
登下校中に待ち伏せされたり、カツアゲされることもない。
ああ、仲間外れ、にはされているか。
でも、頻繁に、ネチネチ、ウジウジ、ズルズルと繰り返されると、効いて来る。
俗に言う、《ボディブローのように、効いて来る》って言うやつやな。
上履き隠し、花瓶置き、仲間外れ、とかだけとはいえ。
仲間外れ、ね ‥ 。
みんなは、カラーの世界に生きているけど、僕だけ、グレーの世界に生きている感じ。
みんなの周りは、総天然色で、僕の制空圏は、白黒。
違うんやな、お前とは。
違うんやね、君とは。
違うんか、みんなとは。
『えっ、お前って、もしかして、いじめられっ子なんか?』
「なんや?」
僕は、辺りを見回す。
顔をこちらに向けていた、クラスの数人が、慌てて顔をそらす。
誰も話し掛けていなかった。
話し掛けるはずもない。
「俺やがな」
右膝の辺りから、僕だけに聞こえるような声で、微かなささやきが聞こえる。
彼か。
彼らしい。
僕も、微かなささやき声で、返事を返す。
「なに?」
「続きは、頭の中で」
彼からの返事を受けて、僕は頭の中の会話に、切り換える。
『僕の頭ん中に、話し掛けられるん?』
『まあな。
俺とお前、神経繋がっとるしな。
それより、お前、いじめられっ子なんか?』
『不本意ながら』
『いつからや?』
『かれこれ、半年ぐらい前からかな』
『よー我慢しとんな』
『今のとこ、対処法無いし。
教師、親含め、大人は信用できひんし、
なんとかしてくれそうな友達も、いいひんし』
『転校とか考えへんのか?』
『う~ん。
現実的やないな。
養われてる身やし』
『そうか』
彼は、それっきり、しばらく黙りこくる。
しばらくして、ようやっと、口を開く(僕の頭の中に、言葉を注ぐ)。
『とにかく、今日一日、お前の学生生活を、見せてもらうわ』
『うん。
分かった』
『頭の中の会話、疲れるから、今日はもう話しかけへんぞ』
『疲れんの?』
『普通に口でする会話の、何倍も疲れる。
ほな』
彼の音声は、途絶える。
それからウンともスンともなく、一日は過ぎて行った。
時折、右膝が、それとなく、むず痒いくらいだった。
家に帰って来て、学生服のズボンを下ろした途端、彼は言う。
「あかんやろ」
僕は、ズボンを下ろした前屈の姿勢のまま、彼と目を合わせる。
「何が?」
「お前の学生生活」
「このままでは、あかんやろな」
僕が言葉を返すと、彼は『やれやれだぜ』という顔をして、言う。
「分かっとるやんけ。
とにかく、頭に血昇るから、着替え済ませてしまえ」
「ああ、うん」
僕は、手早く着替えを済ますと、右脚のズボンを、膝上まで捲り上げる。
「やっぱ、あかんやろ」
彼は、言う。
「あかんよな」
僕は、言う。
「分かってるやろ」
彼が、言う。
「分かってるよ」
僕が、言う。
「どうすんねん?」
「どうしようかな」
彼は、あからさまにイラついた顔をして、僕を睨む。
「自分のことやろ。
先送りすればするほど、ひどくなるんちゃうんか」
「やと思う」
「なら早急に、なんか考えて、なんか手打てよ。
もう半年も経ってるやんけ」
「でも、何も考え浮かばんし、だから、何も手打てんし ‥ 」
エモーショナルな彼の言動に圧され、僕は口ごもる。
彼は、『しゃーないやつやなー』という顔で、僕を睨む。
「このまま当分、《様子見》ってことか」
「うん。
幸い、身体的実害は無いし」
「精神的実害は、あるやんけ」
彼は、プリプリした顔を作って、引き続き、僕を睨む。
彼は、『納得しかねるけど、OK分かった』の顔に切り換え、僕に告げる。
「じゃあ、しばらくは、俺も黙って付きあったる。
でも、お前が耐えられても、俺が耐えられんようになったら、
問答無用で、何か考えて、何か手打つぞ。
それで、ええな」
「うん」
僕自身は、あと半年は楽勝で耐えられるだろうけど、彼はどやろ?
一ヶ月も、無理ちゃうかな。
僕は、彼の《堪忍袋の緒が切れた》時に起こることを予想する。
予想が追いつかない。
おそらく、予想の範囲外。
『なるときには、なるようになるしかないか』
僕は、とりあえず、考えるだけ考えて、予想できるだけ予想する。
その上で、何か起きた時は、それを土台に、柔軟に対応することにする。
彼言うところの「あかんやろ」状態は、勿論、それからも続いた。
僕の学生生活が、そうおいそれと、変わるわけがない。
彼は、それこそ、『イラつき、ムカついてる』ことだろう。
が、僕には、どうすることもできない。
そりゃ、《ちゃぶ台ひっくり返すような、思考の転換》をすれば、いくらかの手は、思い付く。
が、現実的ではない。
《逃げ》と言われようが、現実的でない。
彼の堪忍袋の緒が切れて、何かが僕の身に起こるのを、おそるおそる待ち受けている。
覚悟は、できている。
実は、ちょびっと、楽しみでもある。
この僕の心模様は、彼にも届いているはずだ。
なにせ、神経が繋がっているのだから。
とか、思ってんのか。
寂しいんやな、こいつ。
いじめに晒されてんのに、思ったほど、こたえてへん。
全く、というわけでもないけど、いじめ自体のダメージは少ない。
ダメージが多いのは、いじめに付随する《寂しさ》やな。
上履き隠しとか花瓶置きとかよりも、クラス中無視とかの方が、よっぽどこたえとるな。
俺は、膝頭から、こいつを見上げる。
正確には、ズボンの裾は捲り上げられていないので、こいつの顔は見えないが。
正確には、俺の顔は天地逆なので、見下げるになるが。
俺は、腋の下と股関節の根っこに、指示を出す。
二、三日で、顔出すやろ。
どんなやつが出て来るかは、知らんけど。
まあ、楽しみにしとけ。
俺も、ちょびっと、楽しみや。
ピピピ! ピピピ!
ピピピ! ピピピ!
朝だ。
新しい朝が来た、希望の朝。
僕は、目覚し時計を止めると、右膝に向かって、挨拶をする。
「おはよう」
「おう、おはよう」
「おはよ」
「おはよう御座います」
「ん?」
返事が、三つあったような気がする。
改めて、僕は、挨拶をする。
「おはよう」
「だから、おはよう」
「もう、おはよ」
「はい、おはよう御座います」
「 ‥ え~と」
確かに、三つ、声がした。
男、女、男。
そのうち一つの声は、聞き慣れたものだったが、後の二つの声は、今まで聞いたことがない。
空耳?
いや、空耳にしては、声が、しっかりし過ぎている。
残響?
いや、残響にしては、声の揺らぎが、無さ過ぎる。
「お、やっと、出て来たか」
彼の声が、嬉しそうに跳ねる。
「出て来たわよ」
「出て来ました」
右腋の下から、空気が漏れる。
声が漏れる。
左股関節から、空気が漏れる。
声が漏れる。
「そうかそうか」
彼は、相変わらす、嬉しさを隠せない声を、漏らす。
ホクホク顔をしているに、違いない。
僕は、寝間着の右脚の裾を、捲り上げる。
膝頭まで捲り上げると、案の定、ホクホク顔の彼が、顔を出した。
彼は、僕と目が合うと、「どや」顔を満面に浮かべる。
「 ‥ えと、説明してもらえるかな」
「ああ、そうか」
彼は、一瞬、素面に戻ったが、すぐ合点した顔をする。
「俺一人が話し相手では、なんやろうから、あと二人増やしといた」
「いや、頼んでへんし」
「まあまあ」
「いや、「なんやろうから」って、どゆこと?」
「『寂しいかなー』と思って」
「僕に、断りも無く」
「まあまあ」
「一応、僕、君の宿主なんやけど」
僕が、口をとんがらすと、彼は、堂々と宣言する。
「まあ、これは、俺の影響範囲内の問題やから」
僕は、ちょっとビックリして、彼に問い質す。
「えっ。
僕の体、君の胸先三寸なん?」
『いや、こら、まいったな』という口調で、彼に問い質す。
彼からは、やけに冷静な口調で、返事が返って来る。
「いや、どっちかって言うと、一・五寸ってとこやな」
「一・五寸?」
「そうや。
お前の生命活動を、脅かすことについては、俺は一切、関われへん。
俺が、自由にできるのは、お前の生命活動に、何ら影響の無いことだけや」
「例えば?」
「お前の肌に、皺を作ることはできるけど、
お前の内臓を、どうにかすることはできひん」
「なるほど。
じゃあ、ねじ伏せるように強引に、木に例えると」
「ふん」
「枝には影響を及ぼせるけど、幹には影響を及ぼせへん感じ?」
「まあ、そんな感じ。
あくまで、《俺の影響範囲は、枝葉末節に限られる》ってとこやな」
「じゃあ、幹が根から栄養分を吸い上げるのには、影響を及ぼすことができひんと」
「まあ、そんな感じやな」
「でも、葉が光合成を行なうのには、影響を及ぼすことはできるんとちゃう?」
彼は、ポカンと、僕を見つめる。
「 ‥ お前 ‥ 光合成するんか?」
彼がそう言うと、脇の下と股関節から続けて、「ププッ」「ププッ」と空気が漏れる。
う~む。
自分でも、『詮無いことを、質問してしまった』と思い、ちょっと赤面する。
彼が、フォローしてくれるように、言葉を続けてくれる。
「で、面白いことがあってな」
僕は、飛びつくように、彼の言葉に、相槌を打つ。
「うんうん」
「飛んで来た物体を、よけるなり防ぐなり、お前にさせることはできる」
「うんうん」
「が、高い所から飛び降りるとか、車の前に飛び出すとか、
お前にさせることはできひん」
「できひんの?」
「できひん」
「おんなじ身体動作、みたいなもんやのに」
「それが、面白いとこや。
まあ、宿主と俺らは、一蓮托生みたいなもんやから、
宿主の不利益 = 俺らの不利益ってことで、 そういうふうになってるやろ」
「ふぅ~ん」
そうか、そうなのか。
僕が、感心していると、声が響いた。
「ちょっとお」
「あの~」
その声々には、『いつまで待たすねん』の念が、籠もっていた。
「あ、わりいわりい。
まだ、紹介してへんかった。
ちょっと、今から言うポーズを取ってくれ」
と、僕は、彼の言うがままに、ポーズをとる。
体育座りのまま、左脚を伸ばす。
右腕を頭上高く上げて、頭に添わして、肘を曲げる。
ちょっと、グラビアアイドルのポーズみたいだ。
彼の要求は、それに、とどまらなかった。
「ちょっと、Tシャツの右腕の袖を肩上までめくり上げて、脇を見せるようにしてくれ」
「その体勢のまま、ズボンを太ももの真ん中ぐらいまで、ズリ下げてくれ。
‥ しにくいか?
えーい。
ズボン全部、脱いじまえ」
というわけで、僕は、下半身パンツ一丁、上半身Tシャツ一枚右袖肩まくり、になった。
「やっと、まともに会話できるわね」
右脇の下から、声がする。
「はい、よろしくお願いします」
左股関節から、声がする。
僕は、グラビアセクシーポーズのまま、彼にお願いする。
「 ‥ えっと、紹介してもらえるかな」
「おお、まず右脇の奴やけど、男ばっかり四人もなんなんで、
潤いを求めて、女を一人、作っといた」
「よろしく」
僕は、右脇の下を開けた姿勢のまま、声を求めて、右を向く。
「近いわよ」
不満を表わす声が、すぐさま返って来る。
右腕を頭上に上げて、腋の下を開けた体勢のまま右を向くと、顔と腋の下が密着してしまうのだ。
顔と密着した腋の下には、また顔があった。
しなやかな、まつ毛。
なんともいい感じの、垂れ目。
すきっと鼻筋の通った、鼻。
ぽってり潤んだ、マリリン唇口。
僕は、ちょっとの間、見とれてしまう。
そして、鼻を突き合せてしまった彼女に、慌てて返事を返す。
「あっ、ごめん。
こちらこそ、よろしくお願いします」
「で ‥ 」
彼の紹介は、続く。
「左股関節の奴は、子分というかパシリというか、
そういうやつも欲しくて、一人作っといた」
「よろしくお願いします」
左股関節が、おずおずと挨拶をする。
短い、まつ毛。
伏せ目がちの、垂れ目。
胡坐をかきにかいた、団子鼻。
ぼってり膨らんだ、唇。
『君、パシリとか言われてるんだよ』と言う、心のツッコミを押し隠し、僕は、左股関節くんに、挨拶を返す。
左股関節くんは、僕と、キッチリ顔を合わせる。
左股関節くんも、膝頭の彼のように上下逆で、顔が付いている。
どうやら、下半身にできる顔は、上下逆に顔ができるようだ。
宿主である僕と、コミュニケーションが取り易いようにだろうか。
「こっちこそ、よろしくお願いします」
彼は、締める。
「というわけで、本日からこの四人でやっていくから、みんなよろしく」
改めて、彼を見る。
とんがった、まつ毛。
突き刺さるような、眼力目。
ジャンプ台のように突き上げる、鼻。
常時、余裕を感じさせる、唇。
改めて、三者三様の顔付きに感心し、僕はうなずく。
新人二人も、満足気に、うなずく顔をする(尤も、二人にも首は無いが)。
僕は、右腕が《右脇の下開け》で塞がっているので、左腕を上げる。
「提案があります」
『何や?』という顔で、彼は、僕を指名する。
「ほい、どうぞ」
「人数が増えて、「君」とか「お前」とかだけでは、呼びにくいので、
各人に、ニックネームを付けたらどうやろう?」
「お、ええな。
それ、採用」
僕の提案は、二人の意向も聞かれず、彼にアッサリと採用される。
「どういう名前が、ええもんかいな ‥ 」
彼は、腕があれば腕組みをしているであろう風に、悩む。
彼女は、『面白そうなんで、見ときましょ』とばかりに、成り行きを見守っている。
左股関節くんは、『僕、どうなるのかな』とばかりに、成り行きを注視している。
僕は、またもや、左腕を上げる。
「またもや、提案があります」
「ほい、どうぞ」
「僕に、各人のニックネームの案があるんやけど」
「おお、どんなんや?」
「まず、膝頭の君やけど」
「俺か?」
「そう。
膝頭で、先輩っぽいってゆうかリーダーっぽいから、
《カシラ》とかどう?」
「おっ、なんか、職人とか忍者みたいでええな」
「で、次は、腋の下の人」
「わたし?」
「そう。
腋の下で、《いつも苗字で呼ばれるような品がある》から、
《キノシタさん》なんてどう?」
「なかなか、いいんじゃない。
品格を醸し出していそうで」
「最後に、左股関節の君」
「僕ですか?」
「そう。
君は、股関節で、シャイっぽくてイジラれキャラっぽいから、
《カンくん》なんてどう?」
「いいと思います。
みんな、かまって親しんでくれそうで」
三人とも、僕の案を、好感を持って迎える。
あ、なんか、三人の扱いが、分かったような気がする。
カシラが、僕の発言が終わったのを確認して、僕に言う。
「で」
「うん?」
「お前は、どうすんねん?」
考えていなかった。
自分のことは、すっかり失念していた。
さて、どうしよう。
「俺に、案があるんやけど」
「はい、どうぞ」
僕は、カシラの案を、聞いてみることにする。
「俺らの宿主やから、《ヌッシー》とかどうや?」
キノシタさんとカンくんは、二人同時くらいに、「おっ」と口を開いて、目を輝かせる。
「いいんじゃない。
《湖に住んでる太古からの恐竜》みたいで」
「いいとおもいます。
《アイドルグループのメンバーの愛称》みたいで」
カシラは、僕の意見も訊かず、高らかに宣言する。
「では、改めて。
じゃあ今日から、カシラ、ヌッシー、キノシタ、カンの四人でやっていくから、
各人とも、よろしく」
「あ、お願いします」
「こちらこそ、お願いするわ」
「はい、お願いします」
そして、その日から、四人の共同生活 ‥ 一つ身体の下の生活が、始まった。
基本の生活スタイルは、カシラと、新人二人 ‥ キノシタさんとカンくんは、変わりがなかった。
ただ、各人の性別、性格で、少しアレンジが必要だった。
キノシタさんは、カシラのように、チキン骨を、丸ごとバリバリ食わない。
一口ごと、骨を噛み砕き取っては、咀嚼し、骨を噛み砕き取っては、咀嚼する。
カシラは、一口で骨一本を、口の中に入れ、噛み砕いて食べる。
キノシタさんは、骨一本を、大体三口くらいで、噛み砕き切り取って食べる。
でも、その音は、カシラと変わらす、《バリッガキッゴキッゴリッ》だった。
そのことを本人に言うと、本人は、「カシラと一緒にしないでよ」と言う。
本人は、「カシラよりも私の方が、品があるに決まってるじゃない」、と言いたいのだろう。
でも、咀嚼音や食事の様を見る限り、二人はあまり変わりがない。
その点で、変わりがあるのは、カンくんだった。
カンくんは、『食事中に音を立てるのは、畏れ多い』とでも言うように、咀嚼音をなるべく抑えて、骨を噛み砕く。
骨一本を一口で、口の中に放り込むのは、カシラと変わりがない。
が、カンくんは、放り込んだ骨を、ゆっくりジワジワと、音がしないように噛み砕く。
バリッ ‥ ガキッ ‥ ゴキッ ‥ ゴリッ ‥
そのことを本人に言うと、本人は、「だって、はしたないですし、聞いててみなさん、気持ちいい音じゃないですからね」と言う。
この発言から、『キノシタさんよりもカンくんの方が、品がある』と思うのは、僕だけだろうか?
そんなわけで、結局、食べる速度は、キノシタさんもカンくんも、おんなじようなもんだった。
週に一回、今日も、健やかな音が響く。
ワシワシクチャクチャ
バリッガキッゴキッゴリッ
バリッガキッゴキッゴリッ
バリッ ‥ ガキッ ‥ ゴキッ ‥ ゴリッ ‥
また ‥ じゃない。
またか ‥ じゃない。
上履きがある。
え、上履きがある。
喜ばしいことだけど、なんとなく釈然としない気持ちで、僕は、上履きを床に落とす。
履こう、とする。
「おっ、と」
身体の動きを、止める。
『その手には、乗らへんぞ』と、身体の動きを止める。
油断させといて、上履きの中に、何か入れとくって寸法やろ。
さあ、画鋲かカビの生えたパンか、はたまた、ミミズとか蜘蛛か。
僕は上履きを逆さにして、降る。
フリフリ フリフリ
フリフリ フリフリ
何も、出て来ない。
恐る恐る、中を覗き込む。
何も無い。
ありゃ。
なんとなく物足りない思いを抱え、僕は、上履きを履く。
僕は、教室に向かいながら、つらつら考える。
う~む、う~む。
教室のドアを開けても、空気は、そのままだった。
一部、こわばった空気が流れたが、それもすぐに消え去る。
ここにおいて、僕は、やっと悟る。
いつもと、何かが、決定的に違う。
一見、教室内の風景は、いつもと変わらない。
雑談しているグループ、ゲームをしているグループ。
個々人で漫画を読んでいるやつ、個々人で勉強をしているやつ。
一見、教室内は、いつもと何ら変わらない。
が、いつもと、何かが明らかに違う。
教室内の空気が、入れ替わらない。
教室内の空間が、異次元に飛ばされない。
誰も彼もが、「おはよう」とか「おっす」とか、挨拶をしてくれる。
『なんだ、これは』
僕は、喜びや戸惑いを超え、薄気味悪い居心地を覚える。
僕は、小声で挨拶を返し、自分の机に向かう。
また ‥ じゃない。
またか ‥ じゃない。
やっぱり、やはり。
机の上には、花瓶が無かった。
僕の机の上には無かったが、僕から見て、右斜め前の机に、花瓶は置かれていた。
確かあの席は、クラスでも成績優秀な、品行方正っぽい女子の席。
顔は、それなりに整って(腋の下が、チャチャを入れるように蠢く ‥ 『あ、キノシタさんの方がきれいです』)いる女子。
身体も、小作りだが、それなりに整って(腋の下は静かだ ‥ 『キノシタさんには、身体は関係無いからな』)いる女子。
確か名前は ‥ 吉田さん。
ガラッ
教室の戸が開く音が、する。
教室の空気が、固まる。
教室の空間が、こわばる。
教室内の空気が、入れ替わる。
教室内の空間が、飛ばされる。
教室中、あらゆるグループの、個々人の、みんなの視線が、注がれる。
顔を向けず、そちらを見ない意識の視線が、ビシバシ突き刺さる。
視線が突き刺さった先には、教室に入って来た生徒がいた。
品行方正っぽい、フツーにかわいい、小作りの女生徒がいた。
吉田さん、だった。
吉田さんは、教室に入って、固まる。
いつもなら、どこからともなく、「おはよう」の挨拶が飛び交う。
でも、今日は一切、挨拶は無い。
あるのは、各グループの、上滑りの雑談声だけ。
『吉田さんの動きに、むっちゃ注目してるけど、そんな素振りは見せたくもない』の、雑談声だけ。
声は飛び交っているものの、吉田さんにとっては、ある意味、残酷過ぎる沈黙。
既に、上履きの洗礼を受けて、薄々覚悟していたのか、吉田さんは、まもなく動き出す。
机の上には、花瓶。
吉田さんは、花瓶を見て、深呼吸をゆっくり一回すると、僕の方を見る。
『予想してたとはいえ、現実になると、かなりキツイものやね』
吉田さんの目は、そう語りかけているように思えた。
吉田さんは、花瓶を、教室の後ろの棚に、持って行く。
取り乱すこともなく。
「どうして!!」と、キレることもなく。
必要以上に、木で鼻をくくったような対応になることもなく、粛々と、花瓶を移動する。
そして、粛々と、授業の準備をする。
参ったな。
僕は、吉田さんに見つめられ、ドギマギしてしまう。
吉田さんの視線は、《ターゲットが、僕から吉田さんに変わったことを、恨む》ものではなかった。
ただ単に、《今度は、自分がいじめ対象になっちゃった》と、僕に報告する視線だった。
その視線の投げ受けは、僕と吉田さんに、深い共感を結ぶ。。
《飄々》と《粛々》と、対応は違うが、僕らの対応は、似通っている。
僕らは、通じ合っている。
弱者の共感と、思うなら思えばいい。
笑わば、笑え。
『ワハハハハ』
『アハハハハ』
『笑うのは、ちょっと失礼ですよ』
『はあ?
こいつが、『笑わば、笑え』って、言ったんやぞ』
『そうよ』
『でも ‥ 』
頑張れ、カンくん。
でも、カンくんは、黙ったまま、二の句が継げない。
僕は、カンくんに、助け舟を出す。
『いやいや、もめんといてや」
『なんやねん。
元はと言えば、お前が『笑わば、笑え』って言ったせいやろ』
『そうよ』
『いや、でも、ホンマに笑うことないやんか』
『ウジウジ思い詰めて、自分だけ盛り上がって、心の中で独白してたから、
《気分転換させてやろうとした、親心》やないか』
『いや、君、僕の親やないし』
『言葉の綾や。
ツッコむなや』
『キノシタさんも、笑ってたよね』
『親心』
『いや、キノシタさんも親やないし』
『細かい男は、嫌われるわよ』
『え ‥ 』
僕は、キノシタさんの論点すり替えに、言葉を詰まらせる。
二人と話してても、埒が明かないので、カンくんに礼を言う。
『カンくん、なんか、ありがとう』
『いえいえ、こちらこそ、お役に立てませんで』
カンくんに首があれば、お互い、「あ、すみません」「あ、すみません」とか言いながら、首をペコペコ動かしていたことだろう。
僕は、急に浮かんだ疑問を、カシラにぶつける。
『以前』
『おお』
『頭の中での会話は、「むっちゃ疲れる」って言ってたやんな』
『言ってたな』
『今、むっちゃ会話してるやん。
疲れへんの?』
『疲れへんな』
『なんで?』
『分からん。
三人になったから、疲れ方も、分散されてんのと違うか』
分かったような、分からないような。
都合よ過ぎるような、無責任のような。
まあ、僕にとっても、都合いいことなので、それは不問にしよう。
『まあ、とにかく、いじめられんようになったんやから、めでたいことやないか』
『ヌッシー、よかったわね』
『おめでとう御座います』
三人の祝福を受け取れず、僕は、言葉を返す。
『よくない』
三人の『へっ』と言う雰囲気が、顔は見えねども、頭の中に伝わって来る。
カシラが代表して、疑問を発する。
『なんでや?』
『僕の代わりに、吉田さんが、いじめの標的になってしもてる』
『こう言っちゃ残酷かもしれんけど、シーソーに例えると、
こっちが下がればあっちが上がる、こっちが上がればあっちが下がるで、
生きていく上で、しゃーないこと、自然なことなんとちゃうか?』
『でも、誰かを犠牲にして、自分が利益を得るのは、嫌や』
『そういうもん、ちゃうんかい?』
『ちゃんと言うと、僕も自分が、一〇〇%不利益を被るのは、嫌や。
でも、五〇%利益で五〇%不利益なら、多分、耐えられると思う。
その僕の五〇%不利益は、他の人にとっては、五〇%利益になるはず』
『ふんふん』
『その五〇%利益は、別に、一人が受け取るんじゃなくって、
五〇人が一%ずつ、受け取って欲しい。
で、様々な人が、様々な五〇人から、五〇%分の利益を受け取って欲しい』
『ふんふん』
『受け取った人は、その五〇%の利益で満足して、
残り五〇%を、自分にとっては不利益になるけれど、他の人々にあげて欲しい。
そんなふうにして、様々な人が損得半々でいったら、
みんなええ風になって、ええんちゃうかなと思う』
『確かに、損得半々でも、死ぬわけちゃうし、路頭に迷うわけでもないしな』
『いいこと言うわね』
『現実的に、日本人が日本で暮らしている限り、見栄さえ張らなかったら、
生きていけますからね』
キノシタさんもカンくんも、同意してくれる。
キノシタさんに至っては、『ちょっと見くびっていたけど、案外いいこと言うわね、この子』の気が、ビシバシ伝わる物言いだった。
『で、お前の言う通りにすれば、みんな、ほどほど仲良く生きていけるのに、
欲こいて、半分以上の利益求めるから、犠牲もそれに伴って大きく多くなると』
『うん』
『その現象の一つが、今回のいじめ、やと』
『うん。
だから、《花瓶置き》は吉田さん担当で、《上履き隠し》は僕担当にして、
苦労を分け合えばえええんちゃうかな、と思ってる』
『いや、違うやろ』
カシラは、一刀両断に、僕の発言を、斬る。
『それとこれとは、別問題やろ』
『なんで?』
僕は、カシラの言うことが理解できずに、疑問を発する。
『お前が言ってんのは、みんな仲良くする為に、普段から心掛けることや。
それは、今回のいじめの対応策には、ならんやろ』
『どうして?』
『う~ん、強引に、虫歯に例えるとやな、お前が言うてんのは、虫歯にならない為に、
「歯磨きとか、歯のケアをちゃんとしましょう」
「適度に硬いものを食べるなど、虫歯の予防になる生活スタイルをしましょう」
ってことや』
『うんうん』
『でもその方法は、虫歯になってしもたら、役に立たへん。
虫歯になってしもたら、抜くなり、詰め物するなり、被せるなり、
対処療法を取らんとあかん』
『うんうん』
『いじめを予防する意味では、お前の言ってることもええと思うけど、
今回のいじめは、もう起こってしもてることやから、虫歯のように、
対処療法しなあかんやろ』
『なるほど』
『なるほどね』
『なるほどです』
僕、及びキノシタさん、及びカンくんは、カシラの考えに感心する。
感心ついでに、更にカシラの知恵を、借りようとする。
『なら、どうしたらええと思う?』
『うんうん』
『俺の考えるところでは』
『うんうん』
『いじめの首謀者を、懲らしめたらええんちゃうか』
そうなのか、カシラ!
ええー!カシラ!
その方法を、聞きたいねん。
その方法が分からへんから、訊いてんねん。
『そうね。
首謀者って言うか、リーダーみたいなやつがいるに決まってるから、
そいつを、やっちまったらいいわね』
ええー!キノシタさん!
『いや、「具体的に、どうすればいいのか」を訊いたはるんやと思いますよ。
お二人の返答では、不充分ちゃいますか?』
いいぞ、カンくん。
ありがとう、カンくん。
『うるさいわねえ。
ウジウジ考えずに、黒幕探して、ガーンとやってやったらいいじゃない』
カンくんは、黙る。
キノシタさんの言葉に、すっかり黙る。
カシラがカンくんに、助け舟を出す。
『ま、それもそうか。
ヌッシー、なんか、心当たりないんか?』
『心当たり?』
『そうや。
吉田さんへのいじめが始まったのは、今日。
ということは、昨日なんかあったから、今日始まったってことやろ。
昨日、なんか、なかったか?』
『なんか、と言われても』
『ヌッシーへのいじめが、吉田さんへのいじめに変わったんやから、
ヌッシーへのいじめが始まった時と、おんなじようなことが、
昨日のうちに吉田さん絡みであったはずや』
『う~ん。
これといって ‥ 』
『休憩時間や部活、登下校だけに限るんやなく、
授業中とかホームルームとかも含んで、学生生活全体で考えてみい』
『 ‥ う~ん ‥ 』
僕は、カシラの助言を受けて、学生生活全体で、考えてみる。
休憩時間やろ、部活やろ、登校中やろ、下校中やろ、授業中やろ、ホームルーム中やろ ‥ 。
『そういえば ‥ 』
『なんか、思い当たったか?』
『昨日のホームルーム中に、哲学的なテーマになって、
吉田さんの独壇場みたいになった』
『どういうことや?』
『そのホームルームの間じゅう、その哲学的なテーマで、
吉田さんと担任、二人だけの質疑応答に終始した。
他のクラスメイトは、置いてけぼりやった』
『それが、匂うな。
そのテーマは、何やってん?』
『“生きる目的とは何か?”』
キノシタさんの、「ゲーッ」とした気分が、ビンビン伝わって来る。
『ヌッシーへのいじめが始まった時も、似たようなことがあったんか?』
『うん。
前日のホームルームで、やっぱり、僕と担任の質疑応答独壇場、になった』
『ちなみに、その時のテーマは、何やったんや?』
『“人間とは何か?”』
やはり、キノシタさんの、「ウゲーッ」とした気分が、ビンビン伝わって来る。
『ほぼ確実に、それやな。
ヌッシーと吉田さんが目立ったことを、快く思わんやつが、
いじめを思い付いたんやろう。
で、ヌッシーを除くクラス全員、それに同意したんやな』
『そうか。
誰やろ?』
『誰やろな?』
僕とカシラ、そしてキノシタさんも(尤も、キノシタさんは、ポーズだけだったが)、思い悩む。
腕があれば二人とも、腕を組んで、考え込んでいたに違いない。
そこに、カンくんが、おずおずと口を挟む。
『あの~』
『なんや?』
『なに』
カシラとキノシタさんの、冷たい即座の返答に怯むも、カンくんは、言葉を続ける。
『 ‥ 僕、思うんですけど ‥ 』
『だから、なんや?』
『いじめた経験のある人に直接聞いたら、早いんやないですか?』
『そんな奴で、こいつ(僕のこと)に味方するやつおるんか?』
『はあ』
『じれったいわねー。
早く言いなさいよ』
『はあ』
『だから、誰やねん?!』
『吉田さん』
『あっ』
『あっ』
『あっ』
僕とカシラとキノシタさんは、揃って(頭の中の)声を上げる。
しばし、時が止まる。
一瞬の、エアポケット。
盲点だった。
盲点も、盲点だった。
僕は、いじめられる側だけの立場しか経験していない。
けど、吉田さんは、いじめる側もいじめられる側も、どっちの立場も経験している。
ということは、誰がいじめの指示を出したか ‥ 誰がいじめの黒幕か、知っていることに他ならない。
そして、同じ立場に陥った人間同士として、それを僕に教えてくれる可能性が、めっちゃ高い。
『カン、たまに、ええこと言うな』
『ホントね』
カシラとキノシタさんに褒められ、カンくんの『いやー、それほどでも』の気が、ビンビン伝わって来る。、
僕は、早速、吉田さんに訊こうと、決心する。
今は、朝のホームルーム中だった。
みんなとの会話に没頭して、すっかり忘れていた。
僕の机の横に、いつのまにか、担任が立っている。
傍目には、僕は、ホームルームに参加せず、ボーッ考え込んでいるように見えたのだろう。
そんなホームルーム無視の僕を、担任は、注意しに来たのだろう。
担任が僕の机の横に来てからも、僕は、ずーっと気付かずに、会話に没頭していたらしい。
教室内の空気は、『うわっ、あいつ、何かやられるぞ』の空気で、張り詰めていた。
が、担任は、僕が我に帰ると、何も言わず教壇に戻る。
一言、言い残して。
トラウマになりそうな一言を、言い残して。
「いつも、見てるぞ」
僕は、担任の背中が語りかける心情を想像して、背筋に冷気がすり抜ける。
でも、歩き去る担任の後ろ姿を見て、ムカつきも、駆け抜ける。
僕の目には、僕含めみんなは、カラーの世界に生きている。
けど、吉田さんだけ、グレーの世界に生きている感じする。
昨日までの僕と同じで、昨日までの吉田さんと真逆だ。
みんなの声が、吉田さんに、突き刺さる。
違うんやな、お前とは。
違うんやね、君とは。
悪いけど、今日一日は、吉田さんに《いじめられっ子の立場》 ‥ 《昨日までの僕の立場》を、しっかり味わってもらうことにする。
その方がより、僕に協力してくれると思う。
実は、《思い知ってもらいたい》気持ちも、ちょっとある。
下校の際、吉田さんに話し掛けることにして、僕はホームルームに集中する。
起立
礼
「「「「「「「「「「「「「「「さよなら」」」」」」」」」」」」」」」
一日が終わる。
学校での、一日が終わる。
今日一日は、昨日までと、まったく違った。
なんと、穏やかな一日。
なんと、平穏な一日。
昨日までの緊張感が、嘘のよう。
まったりとした雰囲気に浸り、僕は、心に余裕さえ持つ。
その余裕を突いて、クラスメイトが声を掛けて来る。
「今日帰りに、何か食ってかへん?」
ああ、昨日までなら、絶対起こり得ないであろう、お誘い。
僕は危うく、OKしそうになる。
刹那、右膝と右脇の下と左股関節に、ピリッとした痛みが走る。
三人とも、顔を思いっきり歪め、僕の皮膚を、引き攣らせているらしい。
はっ。
いかんいかん。
「今、金無いから、今日は素直に帰るわ。
ごめんな」
誘ってくれたクラスメイトは、『ふ~ん』という顔をして、案外スッと引き下がる。
僕は、もうちょっと粘ってくれるものと思っていたので、ちょっぴり拍子抜けする。
三人も、拍子抜けしている。
いや、どちらかと言えば、驚いている。
『最近の子は、スゴイな』
カシラが、真っ先に口を開く。
『ホントね』
『ホンマですね』
キノシタさんとカンくんが、同意する。
僕は、イマイチ、三人の驚きが分からすに質問する。
『何が?』
『昨日まで、いじめられてたわけやろ?』
『うん』
『でも、今日は、《長年仲のええ、クラスメイトの一人》みたいに、
すっかり普通に扱われてるやろ』
『うん』
『一日で ‥ 昨日今日で、そんなに頭をバッと切り換えて、対応できるもんなんか、
最近の子は?』
『ああ、できると思うよ』
僕は、アッサリと答える。
『すげ』
『スゴイわね』
『スゴイですね』
『まあ、それが、《最近の子のクオリティ》やから』
『なんで、そんなことできるんやろうなー。
俺には、できん』
『う~ん、自分含め世の中のこと ‥ 社会全体が、
イマイチ、リアルじゃないんやと思うで。
明らかに、リアル感 ‥ 現実感は、僕らの世代は親の世代より、
あらゆることに対して、薄まってるから』
『ふんふん』
『カシラやキノシタさん、カンくんの感覚は、僕の親の世代に近いんやと思う。
だから、僕らの感覚に、違和感があるんとちゃうかな』
『ほお』
『だから、《現実感が無い》ということは、
《エモーショナルやない》ことに近いからやから、
感情的な事柄に、スイッチを切り換えるように、対応できるんやと思う』
『お前、自分のことでもあるのに、よー分析できとるな』
『まあ、いじめられっ子は、《自己対話の嵐》のようなもんやからね』
僕は、校門脇の死角に、身を潜める。
校門そばでグズグズしていると、クラスメイトに、また声を掛けられるかもしれない。
正直、ウザい。
ウザいだけなら、まだいい。
下手したら、『やっぱ、ヤバいやつ』とか思われて、いじめられっ子に逆戻りするかもしれない。
それも正直、困る。
だから、死角に潜んで、吉田さんを待つことにする。
校門のところでは、上下のジャージに、ホイッスルをぶら下げた生活指導の先生が、行き交う生徒に、目を光らせている。
たまに、呼び止められる生徒もいる。
なんか、生活指導の先生が、関所の番人みたく思えて来る。
吉田さんは、なかなか校舎から出て来ない。
《連れ立って帰る相手がいない》ということも、その理由の一つ。
《みんなが賑やかに下校する中、ひとりトボトボと帰るのはツラい》ということも、その理由のひとつ。
でも一番の理由は、《なるべく目立ちたくない、自分の存在感を消したい》から。『みんなが帰るまで校舎内に残って、最後に帰る』つもりだと、僕は思う。
痛々しいその思いを表わすかのように、吉田さんは、校舎から姿を現す。
みんながひと通り帰って、静寂が訪れた数十分後、吉田さんは、校門から出て来る。
「吉田さん」
「ヒッ!」
吉田さんは、死角から声を掛けられ、予想以上に引きつった声を上げる。
『いじめっ子が、待ち伏せしていた』とでも思ったらしく、その顔は、恐怖に歪んでいる。
僕が死角から姿を現すと、吉田さんは、それこそ声を上げて「ほっ」とする。
そして、今日一日で、初めて笑みをこぼす。
「やだ、驚かさんといてよ」
でも、すぐに笑みを、キョトンとした表情に変え、僕に尋ねる。
「どうしたん?」
僕は、吉田さんと話しているところを見られたら、いじめられっ子に逆戻りするのが怖くて、吉田さんを死角に招く。
吉田さんは、「何か、ヘンなことするんちゅうやろね」とか笑って言いながら、僕の招きに乗る。
吉田さんは、拍子抜けするほどすんなりと、死角に入り、僕の前に来る。
どうやら僕は、吉田さんにとって、かなり確実な安全パイらしい。
いや、これも、《同じ経験を持つ者同士の信頼関係》かもしれない。
僕も、《同じ経験を持つ者の信頼関係》から、吉田さんに声を掛けることに、さほど躊躇しなかった。
正直に言おう。
僕は、吉田さんに対して優越感があったから、声を掛けることに戸惑いがなかった。
酷な状況の渦中にいる身と、抜け出た身。
過去の自分みたいな人と、現在の自分。
吉田さんの話を聞くことで、酷な状況から脱出した自分を確認したかったことは、否定できない。
よしんばそれが、結果的に、吉田さんの支えになることがあっても。
『それが分かっとんのやったら、ええんとちゃうか』
『そうね』
『僕も、そう思います』
三人の声が頭の中に響き、自己嫌悪に陥りそうだった僕の、尻を叩いてくれる。
心を踏ん張り、深呼吸をして、吉田さんに要件を切り出す。
「いや、実は ‥ 」
「マジで!」
『マジか!』
『マジなの!』
『マジですか!』
僕+三人(カシラ、キノシタさん、カンくん)は、一斉に驚く。
吉田さんは、困ったような途方に暮れたような表情をして、『マジなのよ』という思いを表わす。
吉田さんの返答を受けて、驚いた。
盲点だった。
予想外も予想外だった。
そして、驚きが通り過ぎると、怒りが湧き上がって来た。
ふつふつ ふつふつ
ふつふつ ふつふつ
ふつふつ ふつふつ
ふつふつ ふつふつ
『トンデモないな』
『なによ、これ』
『あかんですよ』
僕の怒りは、三人にも波及しているようだった。
いや、四人で静かに粛々と、怒り感情のキャッチボールをしているようだった。
「いや、実は ‥ 」に続いて、《かくかくしかじか》と、僕は、自分のの予想を吉田さんに話した。
吉田さんは、すぐに小さくつぶやいた。
「やっぱり ‥ 」
吉田さんは、即座に合点した。
しばらく顔を伏せていた吉田さんは、キッと音がするかのように、突然、顔を上げた。
そして、挑むような試すような視線を、僕に投げ掛けた。
「今から私が言うこと、絶対に内緒にしてくれへん?」
僕は、吉田さんの視線に怯みつつも、なんとか返事を返した。
「う、うん」
吉田さんは、つっかえつっかえながらも、少しずつ話してくれた。
辛そうに痛そうに、話してくれた。
話すことイコール自分の傷を触ること、なのだろう。
しかも、ガッツリまさぐり触らないと、離せないのだろう。
その傷は、いじめられっ子になってしまった自分。
いじめっ子でもあった自分。
《裏表、陰陽、正負》が、メビウスの輪みたいになった傷なのだろう。
で、僕らは驚き怒った、というわけだった。
吉田さんの話が、終わる。
途中から、驚きと怒りに囚われた僕らは、その感情を保ったまま、エアポケットに入る。
吉田さんも、口を噤む。
一瞬の静寂。
天使が駆け抜ける。
僕はまず、吉田さんに言う。
「ありがとう」
『ありがとな』
『ありがとね』
『ありがとう御座います』
三人も、同じ思いだったようだ。
触れたくもない傷に、あえて触れてくれて、話してくれたことに感謝する。
同じ経験を持つ者として、それがどれだけキツいことか、クッキリ分かっている。
話した後の心境も、話した事実が漏れないかという不安も、重々承知している。
だから、心を込めることができる「ありがとう」を、言う。
吉田さんも、言う。
「いえ、そんな。
こっちこそ、ごめん」
吉田さんは、謝ってくれる。
吉田さんは、いじめっ子として僕をいじめた立場から、いじめられっ子として僕に対する立場に、逆転している。
そうして初めて、僕の心境 ‥ いじめられっ子の心境が、分かったのだろう。
以前の自分に ‥ いじめっ子だった自分に、恥じ入っているのだろう。
だからの、「ごめん」。
そして、吉田さんは、次の言葉も付け加える。
「で、ありがとう」
今までいじめていたのに、立場逆転したのに、報復のいじめをしない。
どころか、再びいじめっ子に陥る危険を省みず、自分に話しかけてくれた僕に、吉田さんは感謝しているようだった。
だからの、「ありがとう」。
いっぺんでも、いじめられたことがあるならば、次からは人をいじめることは、有り得ない。
いじめられている人の心境が、ビシバシ分かるから、できっこない。
もし、できるやつがいるとすれば、相手の気持ちを考える余裕が無いか、相手のことを考える想像力が、決定的に欠如しているか。
あるいは、何も考えすに思考停止して、ホケーッと日々過ごしているやつに違いない。
吉田さんは、僕に、謝罪とお礼を言うと、そそくさそそくさと、その場を立ち去る。
立ち去り際、吉田さんは、悲しみ労わりの笑みを、浮かべる。
『分かってるって。
私と一緒にいるとこ見られたら、マズいもんね』
吉田さんの笑みは、そう語っていた。
なにしているんだ、自分。
情けないぞ、自分。
そう思いつつも、吉田さんが先に去ってくれたことに、ホッとする自分もいる。
なにやってんだ、僕。
『まあ、いきなり《ええ男になる》のは無理だから、徐々にやっていけばいいわよ』
『そうや』
『そうです』
キノシタさんの言葉に、カシラとカンくんも同調して、僕をフォローしてくれる。
女の人に対する自己嫌悪を、女の人にフォローしてもらい、僕は心を落ち着かせることができた。
昨日までいじめられっ子だったのに、今日急に、聖人君子になれるわけがない。
精神的にタフな探偵にもなれるわけがないし、公明正大慈悲深い僧侶になれるわけもない。
キノシタさんの言うように、ちょびっとずつちょびっとずつ精進して、あるがままに向上していくしかない。
とりあえず今は、これ以上、クラス内の理不尽な状況 ‥ 誰かがいじめられ、その人を除く全員がいじめる状況を、なんとかしたいと思う。
吉田さんの為にも、過去の自分の為にも、未来の誰かの為にも、なんとかしたい。
吉田さんの話は、衝撃的だった。
盲点も盲点、予想外も予想外だった。
それだけに、信頼が裏切られただけに、怒りが込み上げて来る。
しかし、脳味噌は、全部がhotになっているわけではなかった。
一部分は、痛いほどcoolになっており、僕にささやく。
『ウラ取らんで、ええの?』
取らなきゃいけないよな。
冷静に考えたら、吉田さんの証言だけしか、証拠はないんやから。
でも、どうしよう?
「う~ん」
『う~む』
『そうねえ~』
僕の自己対話思考を聞いていたらしく、カシラとキノシタさんも、僕と同じように考え込む。
吉田さん以外のクラスメイトに聞いても教えてくれっこないし、下手をすれば、僕はいじめられっ子に逆戻りとなる。
かといって、クラスメイト以外に、事実を知る人間はいないだろうし。
本人に、直接訊くわけにもいかないし。
僕たちの思考は、堂々巡りの袋小路に陥る。
『あの~ ‥ 』
カンくんが、おずおずと、おそらく手があれば手を上げたであろうように、切り出す。
『なによ』
キノシタさんのスパッとした返答に、怯みながらも、カンくんは言葉を続ける。
『クラスメイトがダメなら、先輩に効いたらええんやないですか?』
『なんで、先輩に訊くのよ』
『《下級生の時に、クラスの状況が今回のようになった先輩》もいると思うんです』
僕は、思わず、声を漏らす。
「あ、それいい」
『おお、それええな』
先輩ならば、上級生としてワンクッション置いているから、話してくれる可能性は高い。
ズバリ話してくれなくても、ヒントはもらえるはずだ。
近所に、三年生の先輩が一人いる。
一年の時、ちょうど担任も同じ、一組だったはずだ。
『さっきといい、なかなかやるわね』
僕とカシラの感心を捕らえ、キノシタさんはカンくんを褒める。
『いやあ、それほどでも ‥ 』
カンくんは、おそらく手があれば、頭を掻き掻きしていたに違いない。
「そうなんか ‥ 」
先輩は、僕の話を聞き、沈黙する。
先輩とは小学校も同じで、家も近所だから、各学年に跨がる下校チームも一緒だった。
その縁もあって、小学校では、たまに遊んだ。
各々の家も、数回行き来した。
まんざら知らない仲ではないし、どちらかというと、僕の中では親しい方だ。
僕は、一切合切、先輩に話す。
僕が、いじめられていたこと。
吉田さんが、いじめられるようになったこと。
吉田さんから、聞いたこと。
吉田さんから聞いた話のウラを取りたいこと、などなど。
先輩は、沈黙を続ける。
何かと何かを天秤にかけ、何かを吹っ切ろうとしているように、黙り込む。
吹っ切ったように、アクションを少し起こそうとするが、また元の姿勢に戻り黙り込む。
その一連のムーブを数回繰り返し、先輩は、腹を括ったように口を開く。
「その子の言ったことは ‥ 」
「はい」
「ホンマや」
やはり、本当だった。
吉田さんの言ったことは、本当だった。
ごめん、吉田さん。
ちょびっとだけだけど、疑ってました。
先輩は、自分の経験 ‥ 一年一組の時の経験を、語り出す。
苦しそうに、絞り出すように、語り出す。
先輩の記憶の中でも、触れたくない傷跡になっているのだろう。
どのようにして、いじめは始まったか。
ターゲットをいじめるにあたって、ターゲットへの一方的なキャラクター(いわゆる、チビ、デブ、バカ、ブスなど)の設定。
いじめ方法の様々な種類と、その施行展開の仕方。
いじめの指示体系及び伝達手順、などなど。
反吐が出そうな話だった。
キノシタさんは、『ゲーゲー』と叫んでいるし、カンくんも『ウエーウエー』と叫んでいる。
カシラは、眉間に皺を寄せて、青き炎のように、怒りを燻ぶらせている。
僕の《反吐が出そうなほどの気持ち悪さ》を抑えたのは、先輩の顔と口調だった。
先輩は、それは苦しそうに顔を歪め、それは絞り出すかのように語っている。
図らずとはいえ、自分自身の身を守る為とはいえ、いじめに加担してしまった自分に、内心忸怩たる思いがあるのだろう。
それこそ、触れたくもない傷跡を、掻き回すかのようにして、話してくれているはずだ。
僕から、今の一年一組の現状を聞いて、《先輩としてできること ‥ 自分が経験した事実を、しっかり伝えること》を強く決心して、話してくれているはずだ。
頻繁に歪む先輩の顔を見て、僕は何度、「もういいです」と、止めようとしたか分からない。
でも、《先輩のツラそうだけど真摯な眼差し》に晒され、何度も言葉を飲み込む。
先輩の話が、終わる。
見るからにゼイゼイと、しゃべっただけなのに、肩で息をしている。
この話をするのに、よほど、体力と気力を使ったらしい。
先輩の話に、僕もどう返事していいのか分からす、口を開くことができない。
辺りは、先輩の呼吸音だけが響く、静寂と化す。
ゼイゼイ ゼイゼイ
ゼイゼイ ゼイゼイ
僕が『とにかくお礼を言おう』と口を開こうとした時、一足早く、先輩が沈黙を破る。
「 ‥ それと ‥ 」
えっ、まだなんかあるんですか?
「なんですか、それ」
『なんやねん、それ』
『ちょっとお、いいかげんにしてよ』
『許せませんね』
怒りも怒り、憤りも憤り、僕ら四人は、一瞬にして沸点に達す。
部屋の空気の質が、穏やかな静寂から、膨れ上がったザワつく静寂へと、変わる。
先輩に、罪は無い。
先輩へ、詰問口調をしても仕方ない。
どころか、話してくれたことに、感謝の言葉もない。
が、この事実は、なんだ。
どういうことだ。
カシラが、やけに冷静につぶやく。
『黒幕の奥に、ラスボスがいたってことか』
僕は、《顔を伏せ気味にして項垂れるも、清々しくなったオーラを醸し出す先輩》の家から帰途につく。
家に帰り、部屋に戻ると、僕は早速ジーンズを下ろし、上着を脱ぐ。
Tシャツも脱ぎ、体育座りをして、左足を伸ばす。
パンツ(トランクス)一丁。
トランクスの左裾を、ちょいと捲り上げる。
右腕を高々と頭上に上げ、頭頂に沿わせて、右腕の肘を曲げる。
セクシーグラビアポーズ ‥ 俗に言う《四人の会議体制》の出来上がり。
僕、右膝頭のカシラ、右脇の下のキノシタさん、左股関節のカンくん。
みんなが一斉に、視線を交わす(尤も、僕からキノシタさんは、目を合わせにくいけれど)。
カシラが、まず、口火を切る。
「懲らしめるのは、黒幕とラスボス、ちゅうことやな」
カシラは、「どや?」顔で、三人を見回す。
僕、キノシタさん、カンくんは、黙り込む。
同意を示さない僕らを見て、カシラの顔に、?マークが浮かぶ。
僕は、三人を代表して、右腕は塞がっているので、左腕を上げて発言する。
「ほい、どうぞ」
「黒幕はいいとして、ラスボスは、先輩の話しか証拠がないから、
懲らしめ対象にするのは、どうやろう?」
「おお。
また、ウラ取らなあかんわな」
カシラも、気付いたようで、僕らの沈黙の意味を理解する。
「どうやって、ウラ取ろ?」
カシラの問いかけに、カンくんが口を開こうとする。
それを遮るかのように、キノシタさんが、素早く口を出す。
「いじめの指示を受けたやつに、直接聞いたら、いいじゃない』
「いじめの指示を受けたやつ?」
「ラスボスから、いじめの指示をうけたやつ」
「ラスボスから、いじめの指示をうけたやつ?」
「黒幕」
「あっ」
『もう、気付かないんだから』とばかりに、返答したキノシタさんに、カシラは感心の面持ちを向ける。
「おお、よう思い付いたな」
「いつもいつも、オイシイとこ持って行かれるわけにはいかないわよ」
キノシタさんは、カンくんに、『してやったり』の面持ちを向ける。
カンくんは、キノシタさんに、『してやられたり』の面持ちを向ける。
僕は、再び、左腕を上げる。
「ほい、どうぞ」
もう一つの疑問を、投げ掛ける。
「どうやって、懲らしめんの?」
カシラはニヤリと笑って、三人の顔を見回す。
「それについては、俺に作戦がある。
ちょっと、耳貸せ」
僕以外、耳は無いけれど、カシラは躊躇なく発言する。
そして、カシラは、愉快そうに、作戦内容を説明し始める。
「ようは、『メンタル、ズタズタにしてやろう』っていう作戦や ‥ 」
僕らは、物陰に隠れている。
黒幕は、部活後の下校中、駅までのこの道を、連日通る。
下校路の中でも、特にこの辺りは、人の気配がほとんどない、うってつけの場所だった。
まして、この時間では、日もすっかり暮れて、辺りを暗闇が覆い始めている。
コツコツコツコツ コツコツコツコツ
コツコツコツコツ コツコツコツコツ
革靴の音が、暗闇に響く。
来た。
あのリズム、あの音階、あの間。
黒幕に違いない。
毎日、無意識とはいえ聞いているから、間違えようがない。
「いくぞ」
カシラが、小さく、突撃指令を出す。
「OK」
「いいわよ」
「はい」
僕、キノシタさん、カンくんが、素早く返事をする。
僕は、身構える。
僕の額の右側から左側にかけて、細長い棒が、音がするかのように飛び出す。
ジャキンジャキン ジャキンジャキン
ジャキンジャキン ジャキンジャキン
額から飛び出した細長棒は、全部で八本。
額の右側から左側へ、順に前方へ飛び出す。
一見は、額から八本の角が生えたように、見える。
細長棒は、音がするかのように、折れて下方へ動き出す。
ガチャンガチャン ガチャンガチャン
ガチャンガチャン ガチャンガチャン
動いた細長棒の先は、顔全面を縦断し、顎のラインの到達する。
顎に到達した細長棒の先は、顎の皮膚に溶け込む。
一見は、肌色をした剣道の面に、見える。
細長棒は、剣道の面の縦棒よりは太いので、僕の表情を覆い隠している。
ガチャンガチャン ガチャンガチャン
ガチャンガチャン ガチャンガチャン
前日、僕は、この変身(マスクドフォーム?)を試していた。
鏡の前で、変身後の自分を、マンダムポーズを取って眺める。
「どや?」
「仮面ライダーなんとか、とか、中世の騎士の兜みたいで、
なかなかええんとちゃう」
「そやろ」
「この細長い棒みたいなやつは、何なん?」
「皮膚を硬角化したもんやな。
まあ、爪みたいなもんや。
ちょっと太くして、お前の顔が分からんようにしといた」
「おっ、グッジョブ」
「そやろ」
僕は、満足そうなカシラを横目に、おそるおそる尋ねてみる。
「 ‥ あと ‥ 」
「なんや?」
「色は、変えられへんの?」
「色か~」
「それこそ、シルバーとかゴールドとか」
「う~ん」
カシラは、考え込む。
カシラの頭の中(尤も、僕の頭の中の一部だろうけど)では、色を変える方法についての、カオスが巻き起こっているに違いない。
細胞膜とかミトコンドリアとか、エンドルフィンとかレセプターとか、化学式とかエナジーイコールエムシースクエアとか、混沌としているに違いない。
カシラは、目を上げると、あっけらかんと言う。
「ま、考えとくわ」
あ、こいつ、考えるの諦めたな。
色変える気、無いな。
僕は、咄嗟に思ってしまう。
カシラは、僕の思いをよそに、目をそらし、口笛を吹くように口を尖らす。
キノシタさんとカンくんは、クスクス笑う。
まあ、ええか。
肌色の方が気色悪いし、相手にダメージ与えるやろ。
僕は、思いを立て直す。
カシラは、歯を剥いて、ニッコリ笑って言う。
「そやろ」
肌色の剣道面をして、僕は、黒幕の前に、ゆっくりゆっくり歩み出る。
僕は、立ち止まる。
黒幕に対して、左半身を見せて、横向きに歩み出た僕は、黒幕の前方で、立ち止まる。
黒幕も、立ち止まる。
無言のまま、横向きで立ち止まっている僕に、黒幕は尋ねる。
「なんですか?」
僕は、黒幕の発言を無視して、沈黙したまま、その姿勢を維持する。
「なんなんですか?」
黒幕の憤り発言から、ひと呼吸置いて、僕は、体を動かす。
ゆっくりゆっくりと、黒幕と相対するように、横向きの体を前向きに動かす。
「どちら様ですか?」
黒幕は、《ビビる気持ちと、不可思議な気持ちを混ぜ込んだ》問いを発する。
無理もない。
夜の道で、変な奴が出て来て、正体を現すのかと思いきや、顔がハッキリと見えないのだから。
「どなたですか?」
さすが、イラついても、言葉使いはあくまで丁寧だ。
僕は、身構える。
顔の右輪廓ラインから、太長い棒が、音がするかのように、飛び出す。
ジャキン ジャキン ジャキン
上から下にかけて、三本の太長棒が、順に前方へ飛び出す。
「ヒッ!」
黒幕 ‥ 僕のクラスの担任は、さすがに声を上げる。
さあ、本番は、ここからだ。
一見、顔の右側から、三本の角が生えたように、見える。
こめかみ・鼻の位置・口の位置、に生えた太長棒は、音がするかのように、折れて左方へ動き出す。
ガチャン ガチャン ガチャン
動いた太長棒の先は、顔を横断し、左輪廓ラインまで到達する。
左に到達した太長棒の先は、左側の珍客の皮膚に溶け込む。
一見は、剣道の面に上・中・下、三本の肌色鉢巻きが、巻かれたように見える。
上の太長棒の中心辺りが、薄く渦を巻いてくる。
真ん中の太長棒の中心辺りも、下の太長棒の中心辺りも、薄く渦を巻いてくる。
各渦巻きは、徐々に濃くなってゆく。
上の渦巻きは、途中から二つに分かれ、ますます濃くなってゆく。
渦巻きの回転が、止まる。
上の渦巻きは、横皺に、上向きの毛を備えた、二つの楕円形を形作り、止まる。
真ん中の渦巻きは、ちょっと上部が申し訳程度にトンガった、大きな楕円形を形作り、止まる。
下の渦巻きは、横皺の上下に薄目のタラコを備えた、これまた大きな楕円形を形作り、止まる。
バチッ
音を立てるかのように、上の太長棒の、二つ並んだ楕円形皺が、上下に開く。
クワッ
音を立てるかのように、開いた楕円形皺から、視線が担任に突き刺さる。
二つ並んだ楕円形皺は、目だった。
それも、非常に強い、眼力目だった。
フー フー
音を立てて、真ん中の太長棒の、上部がちょっとトンガった楕円形が、空気を吹き出す。
上部がトンガった楕円形の、下部の左右には、それぞれ穴が空いており、そこから空気が出ている。
上部がトンガった楕円形は、鼻だった。
それも、胡座をかきにかいた、団子鼻だった。
チュバ ‥ デロン
音を立てるかのように、下の太長棒の上下のタラコが、薄く開く。
その薄く開いた中から、ナメクジのようなものを、はみ出させる。
ピロベロ ピロベロ
ナメクジのようなものは、小刻みに蠢いて、タラコを舐める。
上下に薄目のタラコを備えた楕円形皺は、口だった。
それも、しっとり潤んだ、ぽってり艶めかしい、マリリン唇口。
「ヒィーーー」
担任は、ヘンな声を上げて、叫ぶ。
無理もない。
肌色の剣道面をしたやつが現れたと思ったら、その剣道面に鉢巻きが三つ巻かれ、鉢巻きから顔が浮かび上がって来たのだから。
「ヒィーーー ヒィーーー ヒィーーーーーーーーーー」
担任は、眼力目に囚われたのか、ヘンな声は上げるものの、身動きがとれない。
マリリン唇口は、キノシタさんの声でしゃべる。
「いじめは、ダ・メ」
担任は、ヘンな声を上げるのをやめ、目を見開く。
キノシタさんは、続ける。
「なぜ、自分のクラスに、いじめを起こさせたの?」
担任は、目を見開いて、フリーズする。
フリーズしたまま、口を開こうとしない。
「黙ってんと、ちゃんと返事せえ!」
カシラが、キレる。
マリリン唇口から、カシラの声が放たれる。
担任は、アワアワという感じで、ようやっと口を開く。
「 ‥ 先生に、教えてもらいました ‥ 」
小さく、余りにも小さい声で、担任は囁く。
「聞こえへん」
カシラは、情け容赦無く、断定する。
「 ‥ 先生に、教えてもらいました ‥ 」
担任は、ピッと《気を付け》の姿勢を取り、速やかに丁寧に答える。
「お前も、先生やないか」
「 ‥ 教えてくれたのは、先輩の先生です ‥ 」
「どういう風に、教えてもろたんや?」
「 ‥ 手っ取り早くクラスをまとめるには、誰かをスケープゴートにして、
いじめで、クラスの意識を一体化するのがいいと、教えてもらいました ‥ 」
僕は、ムカツき呆れる。
カシラは、ムカツき怒る。
キノシタさんは、ムカツき軽蔑する。
カンくんも、ムカツき軽蔑する。
「誰が、教えてくれたんや?」
「それは ‥ 」
この期に及んで、担任は言い淀む。
「誰や?」
「それは ‥ 」
「「「誰なんや?!」」」
カシラ、キノシタさん、カンくんのユニゾン問い掛けに、担任は、目玉が飛び出すくらい、目を見開く。
「ヒィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
自分の部屋で、僕は、セクシーグラビアポーズの体勢を取っている。
四人の、セクシーグラビアポーズ会議が、始まっている。
ラスボスの名前は、分かった。
担任は、ラスボスの名前を吐いた後、膝から砕け、路上にへたり込んだ。
カシラが、トドメの一撃を放ったからだ。
カシラは、ラスボスの名前を聞くと、一旦、目を閉じた。
数秒、目を閉じて、再度、目を開く。
開かれたのは、スーパー眼力目。
最初の眼力目も凄かったが、今度の眼力目は、最初のものが比べ物にならないくらい、凄かった。
担任は、スーパー眼力目に晒され、痴呆けたように、顔を崩し口を開けた。
で、路上にへたり込んだ、というわけだ。
おそらく、精神的に、多大なダメージを負ったに違いない。
メンタルがズタズタになった、ことだろう。
狂ったり、廃人になってなけりゃいいが。
でも、少なくとも、担任は変わるに違いない。
セクシーグラビアポーズ会議は、最初も議題を終了し、次の議題に入っていた。
ラスボスの懲らしめ方法は決定し、全員の意思統一が図られた。
詳細な役割分担、打ち合わせが終了するやいなや、次の議題に移った。
キッカケは、僕の一言だった。
「あのさ、カッコいい掛け声とか技名とか、欲しくない?」
三人は、一瞬素面に戻ったが、まずカンくんが食い付く。
「それ、いいですね」
「一言で、みんなの意思疎通できるから、便利やと思うねん」
「そうですね。
迅速に行動もできるし、いいと思います」
「どんなんにしよう?」
「まず、何に付けるか、決めましょう」
僕とカンくんが黙考に入ると、キノシタさんがアッサリ言う。
「とりあえず必要なのは、剣道のお面になる時の掛け声と、
私達の顔(の一部)が出る時の掛け声と、カシラのスーパー眼力目の技名、
ぐらいじゃない?」
「そんだけですか?」
「なんにでもかんにでも名前を付けたら、めんどくさくて、やりにくいわよ。
それに、ウザいし」
「でも」
「今後、『付けた方がええな』ってことが出て来たら、追々付ければいいのよ」
「でも」
「でもも、へったくれもないの」
カンくんは、キノシタさんに強引に言いくるめられ、シュンと引き下がる。
カシラは、自分の眼力目が、特別に扱われて、まんざらでもない。
「なんか、案あるか?
ヌッシー、無いんか?」
僕は、急にカシラに振られて、困惑する。
「う~ん ‥ 」
「俺らの名前付ける時も、ええのバーンと付けたやないか。
なんか、無いんか?」
「う~ん ‥ 」
その時、ダンスの準備体勢を取る掛け声と、宅配ピザのお得版と、Jリーグの映像が
、頭に降りて来る。
僕が説明すると、好感を持って、僕の案は迎えられる。
「ええんやないか」
「いいんじゃない」
「 ‥ 正直に言うと、可もなく不可もなくで ‥ 」
カンくんは、カシラとキノシタさんに、睨みつけられる。
特にカシラは、自分に関わることだけに、『はあ?』と念入りに、カンくんを睨みつける。
カンくんが目を伏せると、カシラは気を取り直して告げる。
「はな、それでいこ。
みんな、明日の作戦、よろしくな」
「「「了解」」」
僕は、左肘を曲げて、左手を胸の前に持って来て、左手の親指を立てて、ラジャーポーズを取る。
キノシタさんとカンくんも、腕があれば、そうしたに違いない。
ガヤガヤ ガヤガヤ
ガヤガヤ ガヤガヤ
下校の人波が、校舎を出て行く。
僕は、校舎の出入り口の陰に、身を潜ませる。
ガヤガヤ ガヤガヤ
下校の人波は、続く。
僕は、校舎の出入り口の陰に、身を潜ませ続ける。
ガヤガヤ ‥ ガヤ ‥ ガヤ ‥
下校の人波が、途切れがちになる。
もう少しだ。
ガヤ ‥ ガヤ ‥ ‥ ‥
途切れた。
僕は、校舎の陰から姿を現す。
校門に向かって、歩を進めながら、頭の中で、掛け声を掛ける。
『SET』
ジャキンジャキン ジャキンジャキン
ジャキンジャキン ジャキンジャキン
額から細長棒が八本、前へ飛び出す。
ガチャンガチャン ガチャンガチャン
ガチャンガチャン ガチャンガチャン
細長棒が顔を覆い、肌色の剣道面のように、セットされる。
『クワトロ』
ジャキン ジャキン ジャキン
顔の右側から、三本の太長棒が、前へ飛び出す。
ガチャン ガチャン ガチャン
太長棒が顔を横断し、肌色剣道面を、肌色鉢巻きのように覆う。
上の太長棒には、渦巻きを経て、眼力目が、浮かび上がる。
真ん中の太長棒からは、渦巻きを経て、団子鼻が、浮かび上がる。
下の太長棒には、渦巻きを経て、マリリン唇口が、浮かび上がる。
僕は、ゆっくり確実に、校門へと歩みを進める。
校門では、ジャージの上下を着て、首からホイッスルをぶら下げた男が立っている。
校門から出る生徒に、男は、目を光らせている。
たまに、生徒に立ち止まらせ、チェックを入れ、注意している。
男は、生徒の通行が一段落したので、校門にもたれて、携帯を見ている。
僕が、ゆっくり確実に、地面を踏みしめて近付くと、男は携帯を慌てて隠す。
男 ‥ 生活指導の先生は、慌ててポケットに携帯を入れ、顔を上げて僕を見る。
「なんや ‥ ‥ ‥ イッ!」
生活指導 ‥ 担任の先輩先生は、驚く。
そして、担任の先輩先生 ‥ ラスボスは、フリーズする。
自分の学校の制服を着ているものの、異様な風体というか異様な顔。
剣道面っぽい顔面の上に、眼力目、団子鼻、マリリン唇口。
マリリン唇口は、デロンとした艶かしい舌を唇から、はみ出させる、
はみ出した舌を、唇に添わせて円を描くように、ピロベロピロベロ蠢かせる。
マリリン唇口は、キノシタさんの声で、しゃべる。
「いじめは、ダ・メ」
そこはさすが、コワモテの生活指導。
担任とは違い、なんとかフリーズを解いて、キノシタさんの声に応じる。
「なんや?」
そんな生活指導の言葉遣いにムカついたのか、マリリン唇口は、即座に応じる。
「なんやとは、なんや」
カシラの声で、応じる。
違う声音が、同じ一つに口から出てきたことに、生活指導は驚く。
ビクッと体を震わせ、再びフリーズした生活指導を見て取り、僕は思う。
『このままでは、長引きそうやな。
他の人に見られたくないし、早よカタつけるか』
僕はカシラと、(頭の中で)視線を交わす。
カシラの目は、『まかせとけ』と、物語る。
カシラの眼力目が、閉じられる。
僕は、掛け声を、(頭の中で)発する。
『眼力シュート!』
カシラの眼力目が、再び開かれる。
ギューーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
再び開かれた眼力目は、スーパー眼力目となる。
その視線は、蹴り込まれたシュートのように、ゴールならぬ生活指導の目に、突き刺さる。
あわあわ口になった生活指導は、その口の端から、唾液泡をはみ出させる。
ズズッ ‥
地面に内股で膝を突き、生活指導は、へたり込む。
そんな生活指導を尻目に、僕らは、生活指導に向かって、歩み出す。
生活指導に、近付く。
近付く。
目の前まで来る。
前の前まで来ると、少し歩む方向を、変える。
生活指導の、向かって右側ギリギリを、通る。
体が触れそうなぐらい、ギリギリを通る。
生活指導の横を通り過ぎさま、僕らは、少し大きな声で、ささやく。
「「「「いつも、見てるで」」」」
一つの口から、四人の声音が吐き出され、生活指導は「ヒッ!」と、ビクつく。
そのまま、ビクンビクンと体を震わせ、目を宙に彷徨わせる。
『ズタズタやな』
カシラが、言う。
『ズタズタね』
キノシタさんが、言う。
『ズタズタです』
カンくんが、言う。
これで、いじめも減るだろう。
天パーなのに、頭から蛇口の水を被らされたり、地黒なのに、夏場でも冬服を強要されたりといった、理不尽な生活指導も無くなるだろう。
ウチのクラスの担任は、変わった。
元の担任と生活指導は、休職した。
とりあえす、ウチのクラスのいじめは、無くなった。
吉田さんとは、あれ以上親しくなっていない。
クラスのみんなとも、あれ以上親しくなっていない。
まあ、ヘンに《友達友達》されるのもウザいので、『こんなもんで、ええか』と思う。
カシラは相変わらず、膝頭にいる。
キノシタさんも相変わらす、脇の下にいる。
カンくんも変わらす、股関節にいる。
週に一回のチキンの日は、四人のにこやかな交流日である。
僕の体には、あれ以降、何も起こっていない。
期待しているわけではないが、ちょっと拍子抜け。
まあ、わりと頻繁に、右膝頭と、右脇の下と、左股関節が、突っ張ることはあるが。
クアトロ仮面にも、あれ以降なっていない。
『いつか、なるんちゃうかな~』と思われる事柄は、二、三ある。
でも、今は、想定の範囲内に過ぎない。
そのうち、差し迫ったら、なんかすると思う。
クラスメイトが、鼻に皺を寄せる。
「まだそんなん、見てんの」
僕が、仮面ライダーやスーパー戦隊といった、ちっちゃい頃から慣れ親しんでいる、特撮ものを話題にした時、クラスメイトはそう言った。
『いや、出歯亀芸能ゴシップ番組や、ペラペラ薄薄バラエティーとは、
比べもんにならないほど、中身ありますけど』
と、僕は思ったが、反論されるのもウザいので、そのままにしておく。
クラスメイトは、僕が羞恥心に苛まれたと思ったのか、嵩にかかって言う。
「あれやろ。
日曜とかの、朝の早い時間にやってるやつやろ。
あんなに早く、起きられへんで」
クラスメイトは、番組をバカにするだけでなく、『朝寝坊することが、大人の証し』みたいなことを、言い出す。
「それに、夜遅くまで、ゲームしたり、テレビ見てるから、
休みに、十時前に起きるやなんて、無理無理」
おーっと。
『深夜遅くまで起きていることが、大人の証し』みたいなことも、言い出す。
ちょっと、《自分の行動を正当化》するニュアンスも入っている。
僕は、ペチャクチャくちゃべるクラスメイトを、見つめる。
クラスメイトは、くちゃべるのをやめ、僕を見つめる。
「なんや?」
僕は、目を閉じる。
僕は、頭の中で、掛け声をかける。
『ア・リトル眼力シュート』
『おお、了解』
僕は、目を開ける。
ギューーーン
クラスメイトに、僕の眼力目からの視線が、突き刺さる。
ズタズタにはならないくらいに、視線が突き刺さる。
クラスメイトは、フリーズする。
クラスメイトがフリーズしたと同時に、世界は反転する。
世界はカラーだったが、僕を残して、グレーに反転する。
周り全部、グレー、僕だけ、カラー。
僕は、カシラとキノシタさんとカンくんに苦笑して、ついでに、クラスメイトに苦笑する。
そして、言う。
「いつも、見てるで」
{了}