第175話 いい仕事
時刻は午後1時を回っていた。それからさらに10分、暑いなー。
そしてさらに20分。ヒールポーションをもう一瓶飲んですっきりしていたら、道の角から華ちゃんが駆けてくるのが見えた。
待っててホントによかったぜ。
「岩永さん、待っててくれたんですね」
「あたりまえだろ!」
「ごめんなさい。父を説得するのに時間がかかりました」
「説得できたのならよかったじゃないか」
「いえ、結局説得できなかったので、親でもなければ娘でもない。家の権利は一切放棄すると言って飛び出てきました。
そういうことなので、これからもよろしくお願いします」
そう言って、華ちゃんが俺に軽く頭を下げた。
俺がここで待っていなかったらどうなってたのだろう。と思ったが、そのことは口にせず、
「仕方ないな」と、だけ言っておいた。
資産家の娘が全てを捨てて家を飛び出すということは、本人にとって本当にいいことだったのかは俺にはわからないが、嬉しく思っている自分がいるのは確かだ。
「ありがとう。善次郎さん」
うん? 善次郎さんだって。ちょっと、ニヤケてしまうぞ。ここで、ニヤケるわけにはいかないのでキリッと顔を引き締めた。
「ふふふ。そのタオルの頬かむり、とっても似合ってますね」
おっと、ほっかむりしたままだった。汗で濡れてしまった白いタオルをアイテムボックスに仕舞って、
「華ちゃん、昼はまだだろ?」
「はい」
「ハンバーガー食べるかい?」
「はい! エビの入ったハンバーガー下さい」
「了解。飲み物は?」
「炭酸水で」
華ちゃんのご要望に応えて、エビの入ったハンバーガーと冷たい炭酸水の入ったコーラのボトルを手渡した。
「俺のアパートにピアノがくるのは2時だから、ここから歩いていけばちょうどいいころに到着するだろう。ちょっと暑いけど歩いていこう」
「はい」
歩きながら華ちゃんはハンバーガーを食べて炭酸水を飲んでいた。その横顔を見ると、屈託など何もないように見える。俺のできることは、今日の華ちゃんの決断を後悔させないことだ。
ワーク〇ン前の歩道から、横断歩道を渡ってまっすぐ歩いていくと例の公園だ。俺のアパートはその先だ。
午後2時10分前にアパートの前に到着したので、建物の日陰に入って荷物の到着を待った。今回は調律師も一緒なので、ピアノを運んでくるトラックごと屋敷に運ぶことになる。
スマホを見ると、荷物が遅れるとかの連絡は入っていないようなので、ちゃんと2時には荷物が届くだろう。
5分ほどそうして待っていたら、大きなトラックがやってきた。バックしてもうちのアパートの駐車場には入りそうにない。
俺は、いったん止まったトラックの運転席に向かって、
「ピアノを運んできたトラックですか?」
と聞いたら、その通りだった。
「ここに止まっててくれますか。ピアノを運んでもらいたいところに案内しますから」
運転手が頷いたので、俺は屋敷の裏庭にトラックごと転移させ、すぐに華ちゃんを連れて転移させたトラックの横に転移した。
運転手とキャビンの中の数人が呆然としているところを、畳みかけるのがテクニックだ。
「荷物はわたしが屋敷の中に運び込みますから、荷台の後ろを開けてもらえますか?
華ちゃんは、調律師さんたちを居間に案内してくれる?」
「はい。
こっちにお願いします。ピアノはすぐに運びますから大丈夫ですよ」
運転手以外にキャビンに乗っていた2人は荷物を持って素直に華ちゃんについて表の方に歩いていった。
運転手は車から降りて、トラックのアウトリガーを伸ばそうと荷台との間の装置に手をかけたが、
「わたしが運ぶので、後ろの扉を開けてもらえれば十分です」
運転手は、言われるまま、後ろの扉を開けてくれた。
本当は扉を開ける必要もなかったが、何を運んでいいのか確認するため開けてもらった。
「大きな荷物一つだけですか?」
「はい。そうです」
「了解」
運転手の目の前で、荷物が消えた。運転手は目をパチクリしていたので、
「荷物は私が持ちましたから、大丈夫です。
家の中に入りましょう」
運転手も何か仕事を手伝うのだろうと思い、運転手を連れて玄関から居間に入っていった。
ピアノを置く場所は決まっていたので、そこにピアノを置いたのだが、ピアノを包んでいた厚手の布と段ボールやテープはアイテムボックスの中で外しておいた。ピアノを置いたときにはキャスターにはかせるゴム皿もくっつけている。
これで、作業は楽になったろう。ピアノを包んでいた厚手の布は運送会社の物だろうから、ピアノの脇に丸めておいた。
調律師らしいおじさんが、ピアノの周囲を回って傷のないことを確認し、それから水準器らしきものをピアノの上に置いて、
「調整しなくても水平みたいですね。珍しい」
その後、上板(屋根)を上げて、音を鳴らしながらの作業だったが、全部の弦を20分ほどで確認し終わったようだ。
「ほとんど調律の必要はありませんでした。
こういった高級ピアノは、木材は最低でも20年、ピアノ線もそれくらい寝かせたものを使っていますので、輸送時に特別大きな振動が加わったとかなければほとんど調律の必要はありません。しかも、最近の運搬車は振動が直接ピアノに届かないよう工夫されていますからね。それでも、年に一度は調律をしてくださいね、じゃないとわたしたちの仕事がなくなっちゃいますから。ハッハッハッハ」
ということで、調律作業はあっけなく終わってしまった。
「ご苦労さまでした。それじゃあ、お送りします」
「そう言えば、何も考えずに作業してましたが、ここっていったい?」
「不思議ゾーン。とでも思ってください」
「なるほど。作業は終わりましたので、こちらにサインお願いします」
俺は用意されていた受け取りにサインして、荷物を片付けた3人を連れて裏庭に戻り、3人がトラックのキャビンに入ったところで、アパートの前の道にトラックを転移させ、自分もトラックの隣りに転移した。
「今日はご苦労さまでした」
そう言ってトラックを送り出した。今日もわれながらいい仕事をした。
屋敷に戻った俺は、調律したてのピアノをコピーして、オリジナルを居間に出しておいた。これでいつでも調律したてのピアノを用意できる。




