5 心臓に悪い
途中から消えかけるような声で言った。うーん、どうしよう。今日一人で帰ろうかな。
ぐつぐつといまだに熱い湯気を出すビーフシチューを慎重に息を吹きかけて冷まして口に入れる。
(んん! おいしい!)
今日出た料理全部好きかも! やばい。今更ながら新しく好きな料理が増えそうだ。私のテンションはあがった。
ジンはテーブルに突っ伏したまま顔だけこちらに向けて上目遣いで私の顔を見上げている。もうすっかりできあがっているようだった。
(ああ、この男をここに置いていけたらどんなにいいことか)
酔っぱらいを介抱してあの事件のあった宿に帰るのは非常にハードルが高い。
「そろそろラストオーダーっす」
ジンがそのまま居眠りをしていたので、そっとしていたらもう時計は二十二時だった。テーブルの上は空の皿でいっぱいだ。あのあとさらにジンは呑んだ。もう会計を聞くのもおそろしい。
「ええと、全部で一万三千ゴールドっす」
(詰んだ……!)
さっきの薬草採集の代金の残りは千七百ゴールドだし、念のために実家の私の貯金からもってきていた一万ゴールドを足しても足りない。ジンの呑みすぎだ!!
私がテーブルで凍り付いていると、ジンが起きていたのか、身じろぎをして、ごそごそとポケットから何かを取り出した。
「ん」
ジャラリ、金貨だ。
「ありがとうございやす~。おつり用意してきますから少々おまちください!」
店員はささっと金貨を受け取ってびゅんと消えていった。
「はい、お釣りです! お確かめください~」
「ん」
ジンはノールックで銀貨と銅貨をポケットに突っ込んだ。
(え、ええええ~!)
お金がもったいないからダブルにしようっていってませんでしたか、あなた。
そんなに持っていたのなら最初から二人部屋、いや、違う部屋をとってください。
店を出て千鳥足のジンの背中を支えながら宿まで歩く。
もういっそこのままおとなしく即寝してくれないだろうか。
ベッドに寝かせて三秒くらいで寝てほしい。
私はもう床で寝てもいいから。
三〇一号室のドアを開けて中に入ると、生々しいベッドの乱れが目に入った。
(うん、心臓に悪い)
肩を支えているジンをゆっくりとベッドに寝かせる。
彼はもはや顔は真っ赤で目はつむっていた。うわごとのようになにごとかをつぶやいている。聞き取るつもりはもはやない。
(どうぞ静かにねむってください)
本当は掛布団の中に入れてあげたいが、ジンが重いので、ベッドの上に倒れさせるだけで精いっぱいだ。あとで目が覚めた後にでも自力で入ってもらおう。
私は窓際に歩み寄ってモスグリーンのカーテンを開けた。二十三時の夜景はほぼ家の光もなく、星空が綺麗に見えた。
(ああ、今日がおわっていく)
濃い一日だった。これからは自分の力で稼いで生きていかなくては。
失うものもあったけれど、私は今日ここから生まれ変わろう。
窓を薄く開けると夜風が頬を撫ぜた。
そのひんやりとした風に、心を鎮める。
「寝ないのか」
ふと声がかかり、私は感傷から引き戻された
絡み酒か!
みるとジンは布団の上で片膝をたてて座っている。
「ええ、眠れなくて」
苦しい言い訳だ。
ジンは今日床で寝るとか言っていたけれど、彼は一向に床に寝るそぶりもない。
というか部屋が狭すぎて床に寝れるようなスペースもない。
ジンははなから私と共寝をするつもりだ。
本当に油断も隙もないったらない。
「そうか……」
ジンはベッドを降りてこちらに歩いてくる。
これは……この確かな足取りは、酔ってないな。
千鳥足はわざとだな。
「ユリア……」
ジンがぎゅうと私の身体を包むようにして抱きしめてくる。
私の背中が窓のガラスにぶつかりひんやりとする。
「俺は……くるしいよ」
ジンの唇が私の額をかすめる。そのまま私の頭に顔をうずめるとジンは息を吐いた。
酒臭い。
酔っぱらいの絡み方だ。
私はジンの背中をさすった。早く寝るなり酒が抜けるなりしてほしい。
そのままがくんと肩に重みがかかる。
二度寝だ。最悪だ。
いや、寝てくれて助かった。
私は重い体を引きずってベッドに運ぶ。もうこれ以上手間をかかせないでほしい。
ジンを横に寝かせて、私はベッドのはしに腰かけた。
彼がちゃんと寝ているか確かめる。瞼がぴくぴくしているし大丈夫だろう。
…………
「はっ」
気がついたらすっかり朝だ! 早朝だ!
時計の針は五時を指している。
私はいつの間にかベッドの上に転がっている。
座ったまま居眠りして倒れたのか。
身体を起こそうとしてぎょっとする。
ジンに後ろから抱き留められる形で抱き枕にされている。
うそだ! だれかうそだといって!
がんじがらめになっているたくましい腕はしっかりと私の身体をホールドしていた。
ジンはまだ眠っているのだろう、規則正しい寝息が聞こえる。
首を痛いくらいにひねって後ろを確認するとジンの長いまつ毛がみえた。
(寝顔だ……)
ジンの、恐怖も感じるくらいの黄金の鋭い瞳は閉じられて、なんだかかわいらしい。邪気もいつもの半分のように感じられる。
とはいえこのまま朝をむかえるのはいささか不安だ。
昨日俺に近づくなとおどされたばかりなのだ。
こんなのもう恐怖しかない。
身をねじってどうにかジンの腕の中を緩めて体をはなそうとする。
「おきたか」
後ろから低い声が聞こえてぞっとする。
おきたか、ってなんだ。
まるでそっちが先に起きていたとでもいいたいような言い草だ。
ぎゅう、と力づよく抱きしめられる。
内臓がでそうだった。
「おはよう、ユリア」
「……おはよう」
なんだ、どういうことか。 新婚か! 新婚なのか!
ジンがぱっと腕を離したすきに脱兎のごとく飛び出す。
本当に油断も隙もなにもかもあったもんじゃない。