七話 飼主様の聖女事情
「どこまでお話しましたっけ。私が全国に支店を持つエミューゼル商会の一人娘と言うのはお話しましたよね?」
豪商の娘とは聞いた気がするが商会の名前までは聞いた覚えはない。
だが俺は連れて来られたテーラーで、まともな服に着替えるのに集中しているフリをして返事をしなかった。聖女は気にする様子も無くカーテンの向こうから変わらず話しかけてくる。
「エミューゼル商会は食料から日用品はもちろん、わたしが生まれてからは古美術品なんかも扱ったりする、独自の流通網まで備えたそれはそれは大きな企業なんですよ。流石にそれはご存知ですよね? 占い師さんって、浮世離れし過ぎな感じで世間知らずそうですけど」
「そっすね……」
生返事をしてシャツのボタンを留める。
聖女の声を聞きながら、俺はずっと選択を誤ったのではないかと思っていた。
あの時、一度死を受け入れようとしたのだから、逃げて警官でもなんでも呼んで貰えば良かった。それでタコ殴りにされて死ぬなら、それもそれで仕方ない事だった筈だ。
だが、静かに死のうとしていた所へ無理矢理に窒息死させられそうになったあの出来事が、俺の中の浅ましくも生きたいという思いを密かに焚き付けた。
更に手荒い警官というワードがそれを助長し、過去何度も勇者だ聖女だに狩られかけた記憶、手下仲間の筈のチンピラに絡まれて震えながら小箱を差し出し難を逃れた記憶、魔界の死因ほぼ暴力という事実。
それらがブワッと立ち上った黒煙の様に急速に脳内に広がって、穏やかに死を受け入れていた心まで塗り潰した。
今、死ぬのむっちゃ怖い。
聖女なら、いつものふわふわ真っ白な世界の様な優しい最期を迎えさせてくれそうだと期待もあって頼んだのに、警官にタコ殴りとか必死こいて逃げて苦しんで死ぬとかはやっぱりヤダ。
ヘタレと呼ばれても構わない。鼻くそみたいな命でもやっぱり惜しい。聖女の下で命を繋ぎ、隙を見て何とかこの世界から生きて脱出する術を見つけよう。
やはり間違いではない、これは戦略だ、と漸く己を納得させて正面の鏡を睨んだ所で背後のカーテンがシャッと勝手に開けられた。鏡越しに小柄な聖女が笑いかけて来る。
「終わりました?」
「……勝手に開けるな」
「お返事も無かったので着替えに苦戦しているのかと思いまして。うん、そっちの方が断然良いですよ! 黒い羽織も従者っぽくて素敵です!」
そう言うと聖女は麻袋の処分を店主に頼んで何やら紙をピロッと渡して店を出た。そして俺を連れて市場の出ているらしい港の方へと向かう。
「どこまで聞いてました? 私が商会の積み荷に紛れて船に乗り込みこの街まで来たことは?」
「……聞いた」
「じゃあ、突然現れた婚約者が目の覚めるイケメンだった事は?」
「……聞いた」
機械的に答える俺を先導する様に、前を歩いていた聖女が急に立ち止まって振り向いた。ぶつかりかけて慌てて止まると、聖女が頬を膨らませて真下から見上げてきた。
小柄だとは思っていたが、並ぶと俺の胸下辺りまでしか背丈がなく随分と小さい事が分かる。
「そこはまだお話してません! 全然聞いて無いじゃないですか!」
「……何で聞かなきゃいけないんだ」
「情報を共有しておかなければいけない事も含まれているからです。それに旅は楽しく続ける物ですもの、楽しいお喋りは必要でしょう?」
俺は楽しくないんだよ、と心の中でした反論が聞こえていない聖女は、ニコッと笑うとまた前を向いて市場の品を手に取りながら先へと進んでいく。俺も仕方なく付いていく。
「私はこの街へ商会の船にこっそり乗り込んでやって来ました。それは偏に、跡取りである一人娘の私に縁談が持ち上がってしまったからです」
「……それが目の覚めるイケメンか?」
「そうです。びっくりしました。こんな綺麗で優しい上に父に引けを取らないやり手の商売人がいるのかと。別のお話が始まるのかと思っちゃったくらいのキラキラとドキドキ……」
「始めれば良かったじゃないか」
「そういう訳には行きません。私は聖女で、魔王様とのラブストーリーがまだ途中なんですから」
「途中も何も始まってもねーよ、俺とお前の間には何も」
「また! 魔王を自称しましたね」
聖女は再び頬を膨らませて振り向くと、手にしていた丸く小さな果物を素晴らしいコントロールとスピードで俺の口にスコンッと一直線に投げ入れた。
「——こっ……! かっ——!」
ギリギリ丸呑み出来るか出来ないかのサイズの果物が喉に詰まってまたも窒息しかかり、カ行の音しか発せなくなって踠いている俺を無視して、聖女は投げた商品の会計をしていた。
「くかっ——こっほぉっ……殺す気かお前は!」
「さっき殺してくれって言ってたじゃないですか、本望なのでは? それより話を続けても良いですか?」
なんとか吐き出した果物を握り潰して俺は怒りを抑える。涼しい顔をしている聖女が非常にムカつくが、今の俺に報復の手立てはないので堪えるしかない。
「……そう、それで……縁談はとんとん拍子に進んでしまって婚約する所まで行ってしまったんです。でも結婚する訳には行きません。私には魔王様がいらっしゃいますし、何より私はその時がくればこの身を持って邪悪を排除する聖女なのですから。でも私の話を父は取り合ってはくれませんでした。だから強硬手段として一人家を出たのです」
「……親父に抗議する為の家出か」
怒りを紛らわす為に俺も市場の品を物色しながら一応会話してやる。
「形式的にはそうなりますし勿論その意味合いもあります」
「なんだ、「も」って言うのは」
聖女はスッと近寄って来ると俺が手にしていた干し肉を見て小さく首を振り、別の干し肉を渡して来た。比べると渡された方が赤身が綺麗で刺しも程良く美味しそうなので、なるほど豪商の娘らしく瞬時に見抜ける良い目を持っているようだ。
「それは——あ!」
聖女は急に叫ぶと蹲んで俺の足下に身を隠した。
「……何してる?」
「錨のマークが入った服を着てる方がいますよね? あれうちの商会の従業員なんです。私を知っている者も多いですから今見つかる訳には……」
だから不自然にショールを頭から被っているのか、と俺は納得した。確かにすれ違う人間共の中に銀髪は見ないので目立つのだろう。
「ふぅ」
従業員をやり過ごした聖女は立ち上がった。
大声でここに居ると叫んでやれば良かった、失敗した。
「ここで連れ戻される訳には行きません。私はこの異常事態を打破すべく旅に出る決意をしたのですから」
「異常事態?」
仰々しい言葉を使う聖女に目をやると、聖女も真剣な目で俺を見ていて、こくんと頷いた。
「はい。こんな事は何度も生まれて来て初めてです。タイムラグと思っていましたが一向に迎えが来ないので、こちらから出向くことにしました」
「出向く? 何の話をしてるんだ」
聖女は俺を見つめる目に力を込めて言った。
「教会にこちらから出向くのです。そして私が聖女であると知らしめる。それこそが旅の最大の目的。何故なら教会は……世界はまだ、私が聖女だと気付いていないようだからです」
やっと聖女と合流。一人だとどうしても独白で状況説明になっちゃってダラッとしてたね
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