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ねこじゃらしと秋の風

作者: 愛森とき

ある晴れた9月の学校の帰り道、小学生の(はるか)は、道端にある1本のねこじゃらしに目を奪われた。

長く伸びた雑草に混じり、たくさんのねこじゃらしが風に吹かれゆらゆらと揺れていたが、その中の1本だけが、黄金色に輝いているように見えた。

遥は目を擦った。

夕方の太陽の眩しさのせいで、目が少し変になったのかもしれないと思ったからだ。

ゆっくりとゆっくりと瞼を動かし、薄目で様子を窺った。

黄金色が揺れているのがわかった。

遥は今度は自慢のぱっちり二重の目を見開いて、ねこじゃらしを見つめた。

ぼんやりと色を纏ったねこじゃらしは、他のねこじゃらしと同じように風に揺られ気持ち良さそうだ。

遥は黄金色のねこじゃらしに手を伸ばした。

チリン…チリン…

遥の指が触れるか触れないかの瞬間、鈴の()ような音が聞こえた。

それと同時に急に強い風が吹き、遥は反射的に目を瞑った。

被っていた帽子が飛ばされそうになり、両手で頭を押さえた。

すると、空と地面が逆さまになったような、逆上がりで回転する瞬間のような、そんなフワッとした気分になった。

フワッフワッとした時間が何秒、何十秒続いただろうか、遥は恐る恐るを目を開いた。

「わぁっ!!」

遥は目の前の物体に驚き大声を上げた。

「わぁっ!!アハハー!」

目の前の物体が遥の真似をし声を上げ、そして笑った。

目の前に現れたのは、黄金色に光る尻尾を持ったキツネの姿をした生き物だった。

大人の手なら両手で包み込めそうなくらいの小さなキツネ。

図鑑で見たキツネよりふっくらしている、と遥は思った。

周りに何があるかわからない薄暗い空間で、光を発するのは小さいキツネの尻尾だけ。

浮いたままの身体がどうやってバランスを取っているのか、遥はそんな事を考えた。

試しに腕を動かすと、思うように動かせた。

「キツネさん、キツネさんの尻尾はねこじゃらしなの?」

そう言いながら、光る尻尾に手を伸ばした。

「アハハー!ボクの全部が、人間が呼ぶところのねこじゃらしさ。キミでもわかるように言えば、ねこじゃらしの精ってとこかな」

ねこじゃらしの精は優しく笑った。

「ねこじゃらしの精?本当に?」

遥はフサフサの温もりのある尻尾を撫でながら聞いた。

「信じられないかな?んー、他にうまい例えが思い浮かばないからね。キミが好きなように思ってくれて良いさ」

光る尻尾がフワリと遥の頬をくすぐった。

少し眩しく感じて遥は一瞬目を瞑ってすぐに開けた。

そして尋ねた。

「キツネさんのお名前は?私は河野(かわの)遥」

「ボクの名前?みんなからはヒカリって呼ばれているよ」

「ヒカリ…ヒカリ君…ヒー君だね」

「ヒー君?その呼び名は初めてだけど、良いね!」

ヒカリはフワリと2回転して喜びを表現した。

「ハルカ、ボクと一緒に遊ぶかい?」

「ヒー君、寄り道しないで帰りなさいって学校の先生に言われてるんだ。だから、お家に帰らないと。宿題もあるし」

ヒカリは困った顔をして遥を見つめた。

そして、仕方ないねというように口元だけ笑いフワリとまた1回転した。

「じゃあさ、ハルカのお家に遊びに行っても良いかな?遊ぶよりも楽しいらしい宿題というものに興味があるんだ」

「遊ぶより楽しいなんて言ってないよ。宿題は勉強だもん」

「へへー、楽しくない方を選ぶなんて人間って面白いな」

今度は遥が困った顔をしてヒカリを見つめた。

チリン…チリン…

鈴の()が聞こえ、この空間に来た時と同じように急に強い風が吹き始めた。

そしてまたしても目を瞑り帽子を押さえていると、ひっくり返るような感覚が襲ってきた。

フワッフワッとした感覚の中で、さっきの場所はヒカリのお家なのかなぁ…なんて事を考えていた。

ストン。

目を開けると、両足が静かに着地していた。

学校の帰り道のいつもの道、元の場所に戻っていた。

ただ、黄金色のねこじゃらしの姿はもう無かった。

「ヒー君…」

遥は小声で呟いた。

不思議なキツネの姿が見えなくて不安になった。

周りを見渡しても、毎日毎日飽きるくらい見ているいつもの風景と同じだ。

ふと、手のひらに温もりを感じて視線を手元に落とした。

軽く握りしめていた右の手がねこじゃらしを掴まえていた。

「ヒー君!」

ぎゅっと抱きしめるように胸元で強く握った。

『いーたーい!!』

遥の頭の中でヒカリの叫び声が響いた。

ハッとしてごめんねと言って手のひらのねこじゃらしを見つめた。

『ハルカ以外には本当の姿を見せられないからさ。驚かせて悪かったな。それにしてもあちこち折れるかと思ったぜ』

「ごめん、ごめんね」

何度も謝りながら家に向かって歩いた。

遥は母親と2人暮らしだ。

父親は遥が2歳になる頃に離婚し、それ以来会っていない。

今3年生の遥は、母親が仕事が終わるのが遅いため、学校が終わった後は毎日1人で留守番をしている。

自宅の鍵が必需品だ。

習い事や児童館へ向かう友達と別れた後は、1人でとぼとぼと歩いて帰る毎日で、寂しさを紛らわすため、遥は道端のねこじゃらしを毎日1本から3本、抜いて家に持ち帰っていた。

「ヒー君はどうして私に会いにきたの?」

ねこじゃらしに話しかけた。

『ハルカ、質問に答える前に言っておくけど、ボクの声はハルカにしか届いていないからな。話しかけてくれるのは良いが、ハルカは周りの人間から見たら、ひとり言をブツブツ言ってる変わった子に見えると思うぞ』

「えー、別に変わった子でも良いもん。ヒー君とお話するの楽しいから」

にこやかに遥は答えた。いつもの寂しい帰り道じゃない事が遥にとってはとても嬉しかった。

遥の家は2階建てアパートの2階の一室だ。家に着いて、首からぶら下げていた鍵でガチャガチャと鍵を開けた。

扉を開けながら、ただいま!と大きい声で言った。

『誰かいるのか?』

「誰もいないよ。誰かいるように振る舞えって学校で言われたから」

『なんか大変だな、人間って』

遥が手洗いとうがいをしている後ろで、ヒカリはパッと姿を変えた。

「わぁ、ヒー君お帰りなさい」

くるっと振り返った遥に思いがけない言葉を言われ、ヒカリはただいまと照れくさそうに答えた。

「私はこれから宿題するから、ヒー君はのんびりしててね」

「んー、ハルカの宿題ってのを見たいぞ」

「えー、見られてると何か恥ずかしいな。でも、まぁ良いか」

遥の家は2LDKの間取りで一部屋が遥の部屋に充てられていた。

部屋の学習机に座り、ランドセルから宿題やら筆箱やらを出し机に広げた。

最初は、遥の行動を興味深く見つめていたヒカリだが、遥が構ってくれないのでしばらくすると飽きてきた。

あとどのくらいで終わるのかを予知する能力は持ち合わせていなかったヒカリは、せっかくなので家の中を探索することに決めた。

羽も持たないキツネの姿ではあるが、尻尾でバランスをとりながらフワフワゆっくりと漂うように飛んだ。

「人間の家、人間の家」

歌うように呟きながら、部屋を移動した。

リビングに入ると左側に冷蔵庫とカウンターキッチンがあった。

正面にはテーブルとその奥にはテレビ。

右側には衣装ケースと食器棚。

リビングと寝室はスライドする2枚の戸で仕切れるようだが、戸は常に開きっぱなしにしているようだった。

簡単にぐるっと見渡して、カウンターキッチンに目を戻した。

そしてカウンターにあるモノに目を止めた。

「オォー!仲間達!」

小さな小瓶に入った20本近いねこじゃらし達に向かってヒカリは喜びの声をかけた。

ねこじゃらし達は返事をするようにそれぞれが上に下にゆっくりと揺れた。

ヒカリはカウンターに腰掛けて仲間達との会話を楽しんだ。

ヒカリの尻尾はぼんやりと黄金色を纏っていた。

眩しいほどに輝いているわけではなく、それはまるで収穫を目前に控えた稲穂のように優しく、そして温かく光を放っていた。

「ヒー君?」

遥がリビングに入ってきた。

電気を付けず薄暗いままのリビングで、ぼんやりとした光がゆらゆらとゆっくり漂っていた。

カチッと電気のスイッチを押して、光があった方へ近付いた。

「ヒー君、宿題終わったよ。何してたの?」

「んー仲間達とおしゃべりさ」

言ってフワリと身体を浮かせた。

「仲間達?」

「遥が毎日集めているこいつらだよ」

花束のように集まっているねこじゃらしを指差した。

「えー、この子達もヒー君と同じねこじゃらしの精なの?」

「アハハー!この子達かー。ずいぶんと大切にしてくれてるみたいだな。ありがとなー」

笑いながらくるんくるんと空中を2回転した。

「この仲間達は精ではないよ。ボクは特別なんだ。アハハー!」

先ほどよりも大きな声で笑いながら、自慢気に遥の周りをぐるぐるっと2周した。

「精ではないけど、生きている。遥に捕まって何処に捨てられちまうかドキドキしたって仲間が言ってたぞ」

「え?」

「何でこんなに仲間を集めてるんだ?」

ヒカリは遥の目の前にピタッと止まり、じっと遥の瞳を見つめた。ヒカリの瞳の色は綺麗な緑色だね、と思いながら遥は見つめ返した。お互いににこりと笑った。

「お母さんにね、見せたかったから。フワフワで可愛いねこじゃらし。最初は1本、次の日も1本って増やしていったら、お母さんが喜んでくれた。今日も幸せが増えたねって」

「幸せかー。なんか嬉しいなー」

「ヒー君のこと、お母さんに紹介したい。きっと喜ぶよ」

「あー、それはごめんなー。ボクは遥にしか見えないんだ」

遥は残念そうに笑いながらヒカリの尻尾を撫でた。

「なんてったって特別な精だからなー。誰にでも見えたら特別じゃないだろ?遥は運が良かったんだ」

励ますようにヒカリが言うと、遥はうんうんと頷いて、でもやっぱり残念そうな顔のままだった。

「遥、宿題終わったんだろ?遊べるか?」

「宿題終わった後は、シャワー浴びて待っててってお母さんに言われてる」

「シャワー?水浴びのことか?」

ヒカリは首を傾げて遥に聞いた。

「んー、お湯浴びかな。一緒に入ってみる?」

ヒカリと同じように首を傾げて聞いた。

「アハハー!お湯浴び!お湯浴び!」

植物の精は水じゃなくても大丈夫なのかな、なんてちょっと不安になったが、ヒカリの喜ぶ様子を見て頭の中は楽しみな気持ちでいっぱいになった。

遥は着替えを用意するため、バタバタと自分の部屋に戻った。

その間、ヒカリは仲間達にじゃれついてちょっとしたお喋りを始めた。

ヒカリの話に頷くように上下にゆったり揺れたり、笑うように小刻みに震えたり、仲間達は多彩な表現でヒカリとお喋りを楽しんだ。

「むー、楽しそうに何をお話してたの?」

着替えを抱えて遥が戻ってきた。

自分の居ない所で盛り上がってたのがちょっと面白くなくて、でも楽しそうなヒカリを見るのが嬉しくて、どっちの気持ちが勝つでもなく、泣き笑いしているような顔で尋ねた。

「仲間達とただの雑談さー」

本当は、遥と遥の母親とのコントみたいな会話とか遥が留守番中に冷蔵庫をガサゴソ漁ってることとか、そんな話で盛り上がっていた。

ヒカリは仲間達に向かって可愛らしくウィンクして、空中をクルックルッと軽やかに2回転した。

内緒な!とでも言っているように見えた。

「もう、ヒー君ってば誤魔化した」

黄金色の尻尾をヒラヒラさせて笑っているヒカリに、遥は笑って誤魔化されてあげた。

笑顔のまま遥はリビングの物干しに掛けてあったバスタオルを引っ張り取り、風呂場へと向かった。

着ていた学校指定ジャージやら靴下やら全部脱いで洗濯機のそばに置いてあるかごに放り投げた。

ヒカリは遥の後ろについてスイスイと風呂場へ着いた。

「ホッホーここでお湯浴びするんだなー」

ウキウキルンルンな気分でヒカリは風呂場へ入った。

そして楽しいお湯浴びタイムが始まったとさ。

シャワーヘッドから出るお湯にヒカリは感動したし、石鹸の泡で遊ぶヒカリの無邪気さに遥は心が洗われるようだった。

風呂場には普段遊んでいる遥の好きなキャラクターの指人形が何十体もあったが、指人形達は今日は出番はなさそうだと悟っていた。

いつもはシャーシャーとシャワーの出る音しか聞こえない風呂場が、賑やかなパーティー会場に化けた。

いつもは洗い終わったらさっさと出る遥が、時間を忘れてお湯浴びを楽しんだ。

長いお湯浴びタイムを満喫して風呂場を出た。

遥は先に自分の身体をタオルで拭いて、その次にヒカリの身体を拭いてあげた。

タオルをヒカリに預けて、遥はお気に入りのパジャマ姿に変身した。

パステルカラーの飴玉が上にも下にも撒かれたパジャマ。

だんだんに涼しくなってきて、ほんの数日前に冬物の衣装ケースから出してもらったパジャマ。

何年も着ているから毛玉がついているし、背が伸びているから元は長袖長ズボンなのに今は七分丈のパジャマ。(これなら夏でも着れるね!)

それでも、遥にとってお気に入りに変わりはなかった。

ホンノリ赤くなった遥とヒカリはちょっと疲れて遥の布団にバタンと倒れこんだ。

見ようと思ったわけではないが、枕元に置いてある時計に目をやると、時計の短針は間もなく8を指そうとしているところだった。

遥の隣で寝転んでいたヒカリは、遥の横顔が寂しげになったことに気付きフワーッと浮き上がった。

「遥!遊ぼーぜ!」

「…うん。何して遊ぼーか」

ヒカリの方を見上げた遥は泣きそうな笑い顔で答えた。

するとヒカリは自慢の黄金色に光る尻尾で遥の頬をフワリと撫でた。

遥は驚いたのとくすぐったいのでクスクスと笑い起き上がった。

その様子にヒカリは満足したのか、より高く飛び上がり天井に近い所でクルクルと軽やかに回転した。

そして、ぎゅんと急降下して来たと思ったら、またしても遥の頬やら額やらをくすぐるのであった。

「ヒー君、くすぐったいよ」

言いながら遥は立ち上がり、学習机の本棚に置いている漫画本を何冊か手に取った。

並んで布団に入って遥が読んで聞かせた。ドンッとかバンッとかそんな効果音も全部、感情を込めて読み上げた。

ヒカリはハーとかへーとかホーとかハ行でうるさいくらいに相槌を打ちまくった。

その漫画本には、ヒカリと似たような不思議な生き物が登場した。動物で言えば虎に似ていて、ヒカリと同じく陽気でよく笑っていた。ただ、身体の大きさはヒカリよりずっとずっと大きかった。人間よりも大きくて両手足に鋭く長い爪を持っていた。ヒカリが自分の指先をじーっと見つめて、漫画本の中の虎のような生き物と見比べているのが、遥には面白く思えた。

ヒカリの手足の爪は短くて丸みを帯びている。

「私はヒー君の手の方が好きだよ」

「ボクよりこいつの方が強そうだしカッコいいんだろ?」

「遊ぶ時に引っ掻かれそうで嫌だよー」

おどけた顔をしながらヒカリの手をつまんでみた。

柔らかく温かかった。

「ヒー君の手が良いの。こんなに可愛いもん」

つまんだまま握手をするように軽めにブンブンと動かした。

まんざらでもなさそうな顔でヒカリは遥に手を預けていた。

じゃれ合いながら漫画を読み進めていると…

ガチャ、ガチャン

玄関の方から音がした。

「お母さんだっ!」

遥は布団から飛び出し玄関へ向かった。

「お母さん、お帰りなさい」

「ただいま、遥。今日も遅くなってごめんね。すぐにご飯の用意するからね」

毎日同じ台詞を言う母に遥は、寂しいけど大丈夫だよ、とだけ返した。

すると母は手にしていた買い物袋とバッグを床に置き、遥を強く強く抱きしめて、ごめんね、ごめんね、と繰り返し言い続けた。

途中から少し涙声に聞こえた。

「お母さん、今日のご飯はなーに?」

「あー、お腹空いたよね、ごめんね。今日はお刺身買ってきたよ」

抱きしめていた手を緩め、靴を脱ぎながら笑顔で母が言った。

「わぁーい、お刺身、食べたーい」

「すぐに用意するから、座って待ってて」

母は先ほど床に置いた荷物を持ち、そして台所へ向かった。

遥はヒカリのことを思い出し、自分の部屋へと向かった。

声に出しては呼べず、キョロキョロと部屋の中を見回した。

床の方へ目を向けると、ぼんやり黄金色に光るねこじゃらしが落ちていた。

急いで拾い上げて、ヒー君、と囁いた。

『ひとり言を言わないように気をつけなよ』

ヒカリの声が遥の頭の中に静かに響いた。

わかってるよ、と囁いた。

「ご飯食べてくるね。食べたら一緒に寝ようね」

小声で言って、ねこじゃらしを枕の上にそっと置き布団をフワッと掛けた。

そしてバタバタと母の居るリビングへかけて行った。

先ほどまで遥と一緒に入っていた布団には、温もりが残っていた。枕にはシャンプーの香りが残っていた。

ヒカリは漫画本の面白かったページを思い出して声には出さず笑った。

テーブルには、ご飯、お刺身、胡瓜とトマトのサラダが並べられていた。お刺身は、遥の好きなマグロだ。それとサーモンとイカが並んで皿に盛り付けられていた。

テレビがついていて、スーツを着た男の人が明日の天気のことを話しているようだった。

「インスタントのお味噌汁もこれから出すから、先に他のを食べてて良いよ」

台所から母がそう声をかけた。小皿に醤油を入れながら。

小皿と箸をテーブルに置き、お箸が無いと食べられないよね、ごめんごめんとまた謝った。

「いただきまーす」

遥は手を合わせて言った。喉が渇いていたから、お茶が無いことにすぐに気付いた。

「喉が乾いたなぁ」

ひとり言のように呟いた。ひとり言のつもりだけど、母に聞こえるように、それなりに大きい声で。

「あらあら、ごめんねー」

冷蔵庫から2リットルのペットボトルのお茶を出し、急いでコップに注いだ。チャポチャポチャポとお茶がかけ足しているような音がした。

コトンとテーブルに置いて、よく噛んで食べるんだよとお決まりの台詞を言ってすぐに台所に向かってしまった。

母が最近特に忙しいのはわかっていたが、構って欲しかった。お茶だって、冷蔵庫には遥でも取り出せるようにと母が買っておいた500ミリリットルの小さなペットボトルが何本か入っているから、本当は自分で用意できた。

テレビをぼーっと見ながらモグモグご飯を食べていると、どうぞとお味噌汁が置かれた。それと剥かれた柿も。

ありがとうと言った。

母はすぐに台所に帰って、洗い物を始めたようだった。

遥の学校は毎日給食が出る。その給食で使った箸と、水筒をきっと洗っている。水筒は、夏は熱中症、冬は風邪対策として、それ以外の季節も水分補給の意味で通年持って行くことになっていた。

最初は水筒を洗うのを面倒くさがっていた母だが、慣れたのかいつの間にかそんな風には見えなくなっていた。

テレビではクイズ番組が始まっていたが、ジャージャーと流れる水道の水音がうるさくてよく聞こえなかった。

母はよく洗い物をしながら遥に話しかけた。でも、そういう時は遥が返事をすると決まって、今、水を出しててちゃんと聞こえなかった。大きい声でもう1回言ってと言う。そして、面倒だなぁって思いながらも、大きい声で母に伝える。

静かな時に話しかけてくれたら良いのにって思っても、そのお決まりのやり取りが遥にとっては楽しくもあった。

だけど、好きなアニメを見ている時は、静かにしてほしいと切に願っているのも事実だ。

「今日は何本連れて帰って来たの?」

ジャージャーと洗い流しながら、母は尋ねた。

「1本」

単純な答えなので聞き取れたらしく、いつものもう1回という懇願はなく、そっかぁという呟きだけが聞こえてきた。

水の音でかき消されそうなくらい小さなそっかぁだったが、嬉しそうなその声に遥も嬉しくなった。

心の中で仲間達にありがとうと呟いた。

洗い物が終わった後、母はシャワーを浴びるために風呂場へ向かった。

遥は1人でご飯を食べ続けた。テレビの音ははっきり聞こえるようになったが、あまり面白いとは思わなかった。

母が忙しくなる前は、母が帰って来てから一緒にシャワーを浴びて一緒にご飯を食べていた。母が慌ただしく動くものだから、あまりゆっくりおしゃべりなんて出来なかったけど、それでも一緒に居られるから良かったと遥は思っていた。

今は今で幸せだけど、ちょっと大人っぽいことを付け足して思ってみた。

洗濯機が回る音、母がシャワーを浴びる音、テレビから聞こえてくる大人達の笑い声、ぼーっと聞きながら手を口を動かした。マグロのお刺身はやっぱり美味しいなぁと思った。

母がシャワーから上がる前に果物まで食べ終わった遥は、ご馳走さまでしたと言って座っていたソファーに寝転がった。

ねこじゃらしの精と言うヒカリと出会って、たくさんお話してたくさん笑っていつもより長くお湯浴びをして疲れたようだ。

お母さんにも見えたら良かったのにねと、寝転がった姿勢では見えていなかったが仲間達に向けて言った。

この時の遥には見えていなかったが、仲間達はそうだねと言うようにユラユラと揺れていた。

仰向けになったまま口を開けて寝転がっていたら、母の足音がペタペタと近づいてきた。

サッパリした顔の母が、頭をゴシゴシ拭きながら遥の近くにしゃがみこんだ。

「遅くなったお母さんが悪いんだけど、もう寝る時間だから準備してくださいな」

「はーい」

もう少し母の傍に居たいなと思った遥だか、眠気には勝てそうになかったので、ゆっくりと起き上がりゆっくりと洗面台に向かった。そして、シャカシャカと丁寧に歯みがきを始めた。

ふと、ヒカリは何も食べないのかなとか歯みがきはしなくていいのかなとか疑問がプカプカと浮かんできた。しかし、その疑問達は眠気のせいですぐに沈んでいった。

歯みがきを終えトイレを済ませ布団にもぐり込んだ。フワフワのねこじゃらしが遥の頬をスリスリとくすぐった。

ふふふと笑ってねこじゃらしを優しく撫でた。

「おかぁーさぁーん、電気消してくれるー?」

遥は布団に入ったまま母に呼びかけた。食事中だった母は口をモゴモゴ動かしながら部屋に入ってきて、眠そうな顔の遥を愛おしむように見て微笑んだ。

「おやすみなさい」母が言った。

「おやすみなさい」遥が言った。

パチンと母が電気を消すと当たり前に部屋の中は暗くなった。

ただ遥の顔の辺りがほんのり明るいような気がしたが、早く食事を済ませたいという気持ちがあり、そのまま部屋を出た。

遥はねこじゃらしの姿のヒカリを抱きしめて、おやすみなさいと言った。

『遥、おやすみ』

ヒカリの声が遥の頭の中に響いた。静かに囁くヒカリの声は優しくて心地よくて癒しの魔法をかけられたようだった。遥はその日、綺麗な星空を自由自在に飛び回り散歩をする夢を見た。

星達と月が優しく歌い、遥の散歩を見守っていた。散歩の途中に森で見かけた大きな大きな木では、黄金色に輝くふくろうが鳴いていた。ホーホーホーホーと誰に語りかけるでもなく美しい姿で美しい声で鳴いていた。

ホーホーホーホーと森に響く声にまたねと手を振って、夜の散歩を続けた。

重量を無視して浮く身体は軽く、飛び回っていると、風が優しく顔や身体を撫でるようにどんどんと通り過ぎていった。

狼の遠吠えや木々のざわめきが夜の静けさを邪魔しない程度に聞こえてきて、星達や月の歌と合わさるとちょっとした演奏会のようだった。

夢のような世界で、見える風景、聞こえる音を思いきり楽しんだ。そのうちに、夢の中でも疲れきって眠ってしまうくらいに深い眠りについた。

遥におやすみなさいと言った後、母はテレビを見ながら食事を再開した。チャンネルをポチポチ変えて、最終的にはニュース番組を選んだ。明るい気持ちの時はバラエティー番組を見たくなるし落ち込んでいる時は歌番組を選びがちだ。疲れてくるとニュースを選ぶことが多かった。冷静にニュースを読み上げるアナウンサーの声を聞くと落ち着くからなのか、ニュースで取り上げられる様々な出来事に励まされたいからなのか、理由はよくわからなかった。

ここ数か月仕事が忙しく残業続きのため、心身ともに疲れているのだけははっきり自覚していた。

それでも、遥の顔を見ると安心する。今日も無事に帰って来てくれてありがとうと感謝の気持ちでいっぱいになる。

頑張る力をくれる存在が居てくれるのは有り難いと心から思う毎日を送っている。

遥が毎日毎日連れて帰って来るねこじゃらし達も母の日常に欠かせない存在になっていた。

ねこじゃらしが入った小さな小瓶の水は遥が換えていた。自主的にそういうことをするのは珍しくて母としては嬉しかった。

何となくねこじゃらし達も嬉しそうに見えて、そのせいか、もう増やすのは止めなさいと遥に言う気持ちにはならなかった。

何本まで増えるんだろうなと考えてみたら楽しくて、思わずにやけてしまった。季節が冬に進むにつれて、だんだんと冬色になっていく姿が少し寂しげではあるが、ねこじゃらし達の衣替えと考えればなかなかお洒落だなと思うこともできた。

母は振り向き、カウンターに置かれたねこじゃらし達を見た。

緑と薄緑と茶色と黄色っぽいのとなかなかのバリエーションだ。良く見るとフサフサの部分の大きさも長さもまちまちなことがわかる。ねこじゃらしにも個性というか特徴があるんだなと思える。

誰が1番最初に来たのか誰が1番の新入りかまでは見極めることは出来ないけどね。ごめんね。

ひと言謝って、食べかけの食事に目を戻しまた箸を動かし始めた。

食べている途中、洗濯が終わった合図のメロディが流れ食事を中断した。洗濯物を干し終える頃には母の茶碗の中のご飯は冷めきっていた。時間が経って冷えたご飯でも自分の分だとどうでも良かった。遥にいつも温かいご飯を食べさせられればそれで良いと思っていたからだ。

中断しながら食べ進めた食事が終わる頃には、ニュース番組も終わる時間のようだった。

リビングの掛け時計は、もう寝る時間ですよと言いながらチクタク容赦なく動き続けていた。

遥が眠った後の家の中はやっぱり、テレビの音が聞こえているにも関わらずとても静かだ、母はそう思いながらご馳走さまでしたと手を合わせた。

洗い物は明日の朝にすることにし、流しに置いて水に浸けておいた。

テレビを消して歯みがきをした。

少しお腹を休めた後、電気を消して布団に寝転がった。思わずあぁーっとうめき声のような声が出た。やっと落ち着く時間だぁーそんな心の声がうめき声として出たのだった。

目覚まし代わりのスマホが枕元にあるのを確認し、布団をかぶり瞼を閉じた。

遥のことを考えていたら、宿題のチェックを忘れていたのを思い出したがこれも明日の朝にすることにした。

仕事のことも考えたが、明日は金曜日で週末は休みのため少し気持ちが楽だった。

布団に入ってから5分もしないうちに母は眠りの世界へと旅立っていった。

朝5時40分、アラームの音で慌ただしいいつもの朝が始まった。

母はあと少し眠りたい気持ちに負けないようさっさと布団から出た。すっかり朝が涼しくなって、布団から出るのが惜しくなってくる季節だが、寝坊すればするほど後々に自分の首を締めることになると母は既に何度となく学んでいた。

カーテンを開けると天気は良いようだった。

朝のシャワーをサッと済ませ、流し台の洗い物をザッと済ませ、ゴミ出しをダダッと済ませた。

遥の部屋にコソッと入り机の上に広がったままの宿題のチェックをコソッと済ませた。

宿題をしまうのに合わせて、給食で使うランチマットと箸も袋に入れてランドセルに。

遥はみのむしのように布団にスッポリくるまってスヤスヤ眠っていた。ソーッと寝顔を覗きこみ、可愛い寝顔に癒され元気を貰った。思わず笑顔になった。

ふと遥の頬の辺りがぼんやり明るく見えて、昨晩のことを思い出した。昨晩も顔の辺りが明るく見えていた。

母が注意して見たが、そこにはねこじゃらしが1本あるだけだった。他のねこじゃらし達よりフサフサ部分が長く大きく、色は明るい黄色だった。

ぼんやり明るく見えたのはこの子かと原因がわかってホッとした母は、朝ご飯の準備に向かった。

6時20分、遥の目覚ましが鳴った。リリリリリリと突然鳴った目覚ましに真っ先に反応したのはヒカリだった。

『ワワワワワー!何だ!何だ!?』

「えっ、えっ、何!何!?」

ヒカリの叫び声が頭の中に大音響で鳴り響き、遥は思わず声を出し起き上がった。

『は、遥、な、何の音だよこれはー!?』

リリリリリリと鳴り続ける目覚ましを遥は冷静に止めた。

そしてねこじゃらしを拾い上げ、ヒー君の声の方がビックリするくらいうるさいよーと言いながら睨みつけた。

「これは目覚まし時計。朝、起きるためのものだよ」

『フーン、好きなだけ眠った方が元気になるぞ』

「学校に遅刻しちゃうもん」

『学校?勉強するところだよな?子どもなのに大変だなー』

「私が学校に行っている間、お利口さんに待っているんだよ」

いつも遥が母に言われていることを真似して、ヒカリに言ってみた。言いながら頭を撫でる真似で、フワフワの頂点をチョンチョンと触ってみた。ちょっと大人になった気分で気持ち良かった。

「遥ー?起きたのー?」

母の声が聞いてきた。

「うん!起きてたよー」

遥は返事をして、布団から出た。

「ヒー君、またね」

ねこじゃらしを机の上にソッと置いて、部屋のカーテンを開けて母の所へ向かった。

外は天気が良いようでカーテンが開けられた部屋の中は一気に明るくなった。

『本当、母さんのこと大好きだなー、遥は』

ちょっと拗ねたようにちょっと嬉しそうに言ったヒカリのひとり言は、遥には届かなかった。

届かないようにわざと小声で言ったから、それで良かった。

外からの光が部屋の中を明るくしてくれているのを見て、ヒカリも遥を明るくしたい笑顔にしたいと思った。

遥はテーブルに置かれたバタートーストをパクパクと食べ、コップに半分くらい注がれた牛乳をゴクゴクッと飲んだ。

甘酸っぱいヨーグルトと剥かれた林檎もペロリと食べて着替え始めた。

母は着替えと化粧が済んだようで、立ったまま朝ご飯を食べ始めた。母はチーズトーストのようだった。

食べながら、遥の水筒にお茶をそそいでいた。

「遥、パッパッて食べれて偉いね。お母さんの林檎、食べる?」

「うん!食べる」

母はいつも自分の分の果物を遥に譲ってくれた。

全部もらうと母が少し寂しそうな顔になるから、少し遠慮する真似をして、全部はもらわないようにしていた。今回は小さな林檎半分を皮を剥いて4等分にしたものを、2つ譲り受けた。既に遥の分の半分を食べていたから、結果、林檎4分の3個を遥は食べたことなるのだった。

美味しそうに食べる遥の顔を見るのが、母は大好きだ。癒しの寝顔と元気の源の笑顔に並ぶくらい良い顔だと思っていた。

2人でご馳走さまをして歯みがきをして順番にトイレを済ませて、母は遥の髪を結った。肩より少し長いくらいの真っ直ぐでサラサラの少し茶色がかった髪を耳の下の辺りで2つに結った。小さい頃は膝の上に座らせて結っていたが、今はもう大きいし重いしで床に座らせていた。時々ふざけて膝の上にドーンッと乗ってくるが、冗談ではなく重いし痛いしで、そんな時は遥をエイッと突き飛ばしてペンッと尻もちをつかせて2人で顔を合わせて笑うのだった。

髪を結い終わるとポンと遥の両肩に母は手を置いて、さぁ行こうと声をかけた。

遥はランドセルを背負ってお茶の入った水筒を首からぶら下げ玄関に向かった。途中、遥の部屋に寄りハンカチとポケットティッシュを取りポケットに突っ込んだ。机の上でお利口さんにしていたヒカリに向かって行ってきますと小声で伝えて、今度こそ玄関に向かった。そして靴を履いて母を待った。

母はガスの元栓や電気の消し忘れがないか指差し点検を行っていた。

昔、夏場に冷蔵庫を閉め忘れて中の物を台無しにしてしまったことがある母は、冷蔵庫が閉まっているかの指差し点検も忘れなかった。

確認が全て終わり満足すると、よしっと言ってバッグを持った。

「みんなー行ってきます!」

「行ってきます!」

母に続けていた遥も言った。

みんなとは、小瓶いっぱいのねこじゃらし達や、部屋にいる大小さまざまな大きさのさまざまな動物やらキャラクターやらのぬいぐるみ達のことだ。

2人とも、みんなのことを大切な家族と思っているのだ。

そしてこれからは遥の行ってきますはヒカリへも向けられる。

お母さんには内緒だけどね。ちらりと母の方を見て、眉間に少し皺を寄せるようにし、ごめんねという表情を作った。

母はそんな遥の仕草に気付かないまま、部屋の鍵をガチャリと閉め鍵をバッグに仕舞い込んだ。

顔を見合わせ笑い合い、手を繋いで歩き出した。

遥の表情はすっかりニコニコ笑顔になっていた。

2人一緒に階段をかけ下りアパートの駐車場を抜けて通学路へ出た。

外はひんやりとし涼しいというより寒いくらいで、空には秋の雲がたくさん浮かんでいた。

遥は寒い寒いと言いながら母の着ていたカーディガンの袖の中に、繋いでいた自分の手を隠すようにして歩いた。

母は袖が伸びると言いながらも楽しそうに笑った。

母の勤める会社はアパートの近く歩いて行ける範囲にあり、毎朝、遥と一緒にアパートを出てそのまま会社へ向かっていた。

自宅から数分、小学校へ続く道と会社へ続く道の分かれ道で繋いでいた手を離し、お互いに手を振り合ってそれぞれの道を今日も進むのだった。

遥と母が出ていった後、ヒカリはポンッと精の姿になった。

んーって両腕を上げて伸びーのポーズをした。

そしてフワフワと浮いてリビングへ向かった。カウンターにいる仲間達の傍にスッと着地してそのままペタンと座って長い長ーいお喋りタイムをスタートさせた。

仲間達は嬉しそうにヒラヒラと揺れていた。

夕方、小学校の帰りの会が終わり、遥は同じ方向へ帰る友達とお喋りをしながら歩いた。

1人、2人とバイバイをして、途中から1人になった。道端のねこじゃらし達や咲いている花達を見ながら、テクテクと歩き続けた。

そして、今日も1本、連れて帰るねこじゃらしを選び、ユラユラ揺らしながら少し早足で歩いた。

早足になったのは、早くヒカリに会いたかったこと夕方の風が冷たく寒かったことトイレに行きたかったこと、様々な理由からだった。

玄関前に着くと急いで鍵を開け、ただいま!と挨拶をしランドセルを放り投げた。ねこじゃらしもランドセルと一緒に放り投げられていた。遥はヒカリの声を聞く前にドタドタドタッとトイレに駆け込んだ。

「お帰り、遥!」

トイレの扉の向こうからヒカリの声がした。

「ただいま!」

もう1度元気に挨拶をした。

スッキリした後は手洗いうがいをしてランドセルとねこじゃらしを拾ってそのまま机に向かった。

ヒカリは机のライトの上にチョコンと座っていた。

「ヒー君はお部屋で何してたの?」

机に座った遥はヒカリの方に顔を向けて聞いた。

同時に、持っていたねこじゃらしをヒカリに差し出した。

「仲間達とお喋りさー。後はいろいろ」

ねこじゃらしを受け取りアハハー!といつものように笑った。

相当楽しかったらしいと思うと遥も楽しい気持ちになった。

「これから宿題するから、終わったら今日はお風呂に入ろうか?」

「今日もお湯浴びかー。良いぞー!」

「お湯浴びよりも暖まるお風呂だよ」

「お、ふ、ろ?よくわからんが楽しみだなー」

ヒカリはフワンと浮き上がってクルンクルンと回った。

その後はスィーッと遥の部屋を出てリビングに向かったようだった。

遥は宿題のプリントを広げ鉛筆を握った。

A3のプリント2枚、しかも両面!

週末があるためだろうか、金曜日の宿題はいつも多い気がするのだった。

今日の敵は漢字と図形。

得意な漢字からやっつけることにした。

負けないぞ!と気合いを入れて鉛筆を動かし始めた。

遥の宿題が終わるのをヒカリはリビングで待っていた。

遥から預かった新入りは小瓶に仲間入りさせておいた。

待っている間、新入りを含めた仲間達とお喋りをしたり、あちこちに置かれたぬいぐるみに抱き付いてフワフワ感を楽しんだりした。

ヒカリのお気に入りは、リビングに置かれたヒカリよりずっと大きなシロクマのぬいぐるみだ。真っ白でどのぬいぐるみよりフワフワした毛がぎゅーって抱きつくと気持ち良かった。

それに絶対怒らなさそうな優しい表情が気に入っていた。

仲間達の話ではこのシロクマのぬいぐるみの名前はユキさんと言うらしかった。遥や母がユキさんと呼んでいるのを聞いたそうな。

「ユーキーさーん」

呼んでから座った姿で置かれたユキさんのお腹の辺りにぎゅーって抱きついた。なんとなく仲良しになれた気がした。

もし、ぬいぐるみの精がいたらどんな姿なんだろうなとちょっと考えてみた。

可憐で可愛らしい姿、勇ましくて格好いい姿、意外と悪役キャラみたいなこわい顔をしているのかも…。

昨晩、遥と一緒に読んだ漫画本の影響か、ポッポッと色々な姿を頭の中で想像できた。

楽しいことを考えるのが大好きなヒカリは、実際には会ってもない見てもない本当にいるのかどうかもわからないのに、どんどんウキウキな気持ちになっていった。

その気持ちを表すようにフワーッと高く浮き上がり身体を回転させた。

調子に乗って何回転もしていたら、コツンと天井に頭をぶつけた。その様子を見ていた仲間達は、様々な反応を見せた。ある仲間は心配そうにある仲間は呆れたようにある仲間は面白そうに、ユラユラと揺れていた。

ヒカリはぶつけた頭を手で押さえながら、少し恥ずかしそうに笑って下降しユキさんのお腹にボフッとダイブした。

遥と同じ匂いがした。

しばらく自由に遊んでいたら、遥の声が飛んできた。

「宿題終わったよー」

ドドドッと遥の本体もリビングに飛び込んできた。

と思ったらUターンして風呂場がある方へドドドッと向かって行った。

ヒカリは興味津々ウキウキルンルンな気分で遥をピューッと追いかけた。

「はーるーか!お、ふ、ろ、か?」

「そうそう、今、スイッチポンしたからすぐに沸くよ。準備しよう?」

「アハハー!ボクはいつでも準備万端さ」

ヒカリは空中で大の字を作った。準備万端のアピールのつもりらしかった。

「そっかそっか」

遥は笑いながら、洗濯機の脇に干してあったバスマットを外し、風呂場の入口に敷いた。

「ヒー君とのお風呂、楽しみ。昨日も楽しかったから」

「アハハー!ボクとこんな日々を過ごせる遥は本当にラッキーだねー!」

ヒカリはご機嫌に笑った。

「でも、土曜日と日曜日はお母さんがお仕事お休みだから、ヒー君と一緒に遊べないね」

「ボクはいつでも遥の傍に居ると思ってよ」

ヒカリは遥の頭の上に座った。

遥があちこち動くからユラユラと安定しないが、案外悪くない場所だとヒカリは思った。

「ヒー君は寂しくないの?」

思いがけない質問だったが、すぐに答えた。

「仲間達がいるから寂しくないさ。それにねこじゃらしの姿でも遥に話しかけることはできてるだろ?」

「私にも超能力があったら、学校行ってる時にもヒー君とお喋りできるのにね」

「アハハー!それだと、お喋りばっかして勉強にならんだろー」

「それもそうだね」

お喋りをしているうちに、お湯が沸きましたの合図のメロディが流れた。

ヒカリは再び浮き上がり、風呂場の入口でスタンバイをした。

遥も準備を急いだ。

そして、さぁ、入ろう!と気合いを入れて風呂場へと乗り込んだ。

風呂場の中は最初、霧の中にいるように視界が悪かったが、少しすると白いモヤモヤはおさまっていった。

「ヒー君、これがお風呂、入ると温かいし気持ち良いんだよ」

お湯をはった湯船を指差した。

「アハハー!凄いなー!」

次の瞬間、トポンッとヒカリはお湯の中に消えた。

「ヒー君!」

遥はびっくりして声を上げ、急いでお湯の中を覗いた。

すると、ヒカリがプハッと顔だけ出し気持ち良さそうに笑った。

「遥、良いなぁ、お、ふ、ろ!ボクは気に入った!」

「ねこじゃらしの精とは思えないね」

遥は風呂場の椅子に座り、笑って言った。

「人間だって1人1人好きなのも嫌いなのも違うんだろ?ねこじゃらしの精だって色々さー」

「うん、私は動物が好きだけど、私のお婆ちゃんは大嫌いなんだって。それに、私はお豆腐が苦手。それから、虫を触れるお友達と触れないお友達がいる」

遥は、とりとめのない好き嫌いの話をして更に続けて言った。

「ヒー君の他にもねこじゃらしの精はたくさんいるの?」

「たくさんかどうかはわからないけど、いると思うよ」

「ヒー君と同じなの?」

見た目が同じかを聞きたいんだろうなとヒカリは推測した。

「全く同じではないさ。まぁ、似ているヤツはいるかもしれないけど、ボクより格好いい精はいないだろうなー、アハハー!」

「ヒー君、イケメンだもんね」

遥はヒカリに顔を近付け、ジーッと見つめニコリと笑った。

冗談で言った台詞に真面目に答えられて一瞬エッてなったけど、ジワジワと嬉しい気持ちがやって来た!

「アハハー!ありがとー!ヒャッホォーィ!」

ヒカリは満面の笑みを見せ、トポンッとまたお湯の中に沈んでいった。遥がお湯の中を除きこむと、初めてとは思えないくらい上手にスインスインと大きな円を描いていた。

遥が髪の毛や身体を洗っているうちに、小さなヒカリはあっという間に全身が赤くなってのぼせてしまった。

湯船の縁に遥の方を向いて座って項垂れていた。

「大丈夫?ヒー君」

「うーだいじょーぶ」

遥の問いにヒカリは項垂れたまま答えた。

洗い終わった遥は泡を全部流して湯船にダボンと入った。

顎まで浸かるくらい深く身体を沈めた。

フーッと全身が温められていく心地よさが声になって出た。

更に深く口も沈めてフーッと息を吹くと、ブクブクブクッと大小さまざまな大きさの泡が出来ては消えていった。

ヒカリが音に反応して顔だけ振り向いた。

遥は温まってホンノリ赤くなった指先で、ポケーッとのぼせ顔をしたヒカリの小さな背中を優しく撫でた。

休んで少し元気になったヒカリは、クルリと遥の方に向き直り、ヒカリの背中を撫でていた指先を捕まえて、ありがとう!とでも言うようにぎゅっと抱きしめた。

遥はイケメンに急にそんな風にされたものだから、胸がキュンとなった。

お風呂から上がった後は、一緒に布団に寝転がりまた漫画本を読むことに決めた。遥が前回の続きのページを探していると、ヒカリが前回特に面白かったページをもう1回見たい見たい見たいと言って退かないもので、話し合いをするまでもなくヒカリの要望が通ることとなった。

「ここ、ここ、面白いんだよな!」

漫画本の前で指差しながらピョンピョコ跳び跳ねるものだから、遥はヒカリが言うここがどこか見えなかった。

「ヒー君ってば、はしゃぎ過ぎだよ」

「だって面白いもんは面白いんだからしょーがないだろ」

口をへの字にして不満顔になった。

感情表現が豊かなヒカリを見ていると、遥は自然と笑顔になれた。

「静かにしてないと読んであーげない!」

「な、な、何だとー!は、遥、静かに!」

「あはは、何で私なのよー」

「だ、か、ら、静かに!」

ヒカリは遥の頬をペシッペシッと叩いた。本気だったか手加減したかどっちなのかはわからなかったが、ぜんぜん痛くなかったし漫画本のために必死だし、そんな健気さにまたしても胸がキュンとなった。

「ほらほらヒー君、読むよ」

遥が読み始めると、ヒカリは遥の隣に陣取った。そして、ホーとかヒーとか相変わらずのハ行の相槌をうちながら、キツネそっくりの耳をピンと立て遥の声を聞き、顔全体で漫画本の絵を追った。

遥が登場人物に合わせて声色や話すテンポを少しずつ変えていたため、ヒカリは内容を理解しやすかった。また、効果音を変な声で読んだり、間違った台詞を納得いくまで何度も言い直したり、遥がそんな愉快なこともしていたので、ヒカリが途中で飽きるなんてことはちょっとの時間もなかった。

ヒカリは遥が読んでいる間、ある時は真剣にある時は瞳をキラキラさせてまた別のある時は耳を元気無さげに垂らして、喜怒哀楽の感情豊かにずっとずっと傍に寄り添って聞いていた。

ページを行ったり来たりしながら読んでいたせいで時間ばかりが進み、そのうちに母が帰って来た。

「お母さん、お帰りなさい!」

遥は布団から出て母を出迎えに行った。

遥が手を離したため漫画本は自然と閉じられた。反射的にヒカリはポシュンとねこじゃらしになった。

『遥、続きが気になるー』

ヒカリの訴えは遥には届いていないようだった。残念!


『この先のお話はまたの機会に!またね!』

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[良い点] ご愛読と気に入ってくれて嬉しいです! 感想や評価、ブックマークも大歓迎なので、 気が向いたらやってみてくれると嬉しいです! 後、質問ですが、ヒーくんの見た目はキツネぽい動物タイプですが?…
[良い点] 猫じゃらし関連のお話なので、猫かと思ったら、まさかのキツネがメインでしたね!遥ちゃんとヒーくんによる友情シーンも良かったし、ごくふつうの日常シーンはこれからも続くみたいな感じの終わり方も斬…
[良い点] 文章が読みやすく、最後まで楽しませてもらいました。変わらぬ日常の楽しさが伝わって来るお話でした。
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