表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

倦怠期の

作者: くまごろー

 日曜の午後、買い物に出たのか妻の姿は見えなかった。

 僕は安楽イスに背をもたせてゴルフ番組を見るでもなく見ながら2本めのビールの缶を開けた。そのときテレビの前一メートルほどのところに小さな黒いものが動いた。尻尾まで入れても指一本に乗ってしまうほどの小さなトカゲだった。トカゲは青と黒のたて縞で、安楽イスの僕に向かって匍匐前進してきた。青縞に金属光沢があり、ヒンヤリと冷たそうな生き物だった。僕はガラス戸をいっぱいに開けて追い出そうとした。……どっから入って来たかなぁ、こんなのが……。


 僕はそばの新聞を丸めて「しっ、しっ」と追い立てた。しかし、そいつは犬猫のように敏感な反応は見せなかった。空気の振動も床の振動も感じないのか、無表情で無頓着なやつだった。僕は部屋の中央に立って素足の爪先をトカゲの目の前に置いてみた。そいつは爪先ぎりぎりの所でいったん動きを止め、逆「く」の字だった身体をさらに折り曲げて左折した。そして、小さいくせに生意気なほどゆっくりと床の端まで這って行った。

 トカゲは追い立てられているとも邪魔されているとも思わないらしい。ベランダに弾き出そうとして振り払った新聞が空をきった。トカゲはアルミの敷居の手前で止まり、首を少しもたげて左に向きを変えると、そのまま敷居沿いに走ってテレビの裏側に潜りこんでしまった。……あいつめ、こっちの思いを察知したか……。


 重たいテレビを移動するわけにも行かず、僕はテレビ本体と台のキャビネットをあちこちトントン・パタパタと叩いてみた。一分ほどすると、トカゲはテレビの左脇から、また茶の間の中央に向かって這い出してきた。

「あッ! えッ? な、なんだよッ!」 僕は眼を疑った。さっきのより大きいじゃないかッ。こんなバカなことが……。

 色も形もまったく同じなのに大きさが倍ほどになっている。よく見かける「大人のトカゲ」だ。わずか1分かそこいらで成長するわけはない。手品でモノを急に大きくするには、小さなモノと大きなモノのふたつを用意する。モノを瞬時に大きくすることなどできない。ではトカゲは小さいのと大きいのが二匹いるのか? 僕はテレビの後に複数のトカゲを想像して、すぐにそれを打ち消した。二匹もいられてはたまらない。しかし、そうなると同じ一匹が急成長した方を認めなければならない。どちらにしても茶の間にトカゲなどいて欲しくない。ベランダへ追い出そうと、僕はまた床をドンドン・バタバタと叩きだした。しかし、そいつはベランダへは逃げなかった。全長二十センチほどに「成長した」トカゲは、もう僕の足はそこにないのに、部屋の中央で体をひねると、前とまったく同じコースをまったく同じしぐさでたどり、そこが古巣ででもあるかのように、青縞の光る体をテレビの右側から裏へと潜りこませた。


 さらに一分後。トカゲはまたテレビの左側から茶の間の中央へ這い出して来た。体も大きく倍になっていた。全長四十センチ。そうは言っても半分はシッポだ。キラッと小さく輝いていた青縞はギラリと無気味に重みをましていた。ふつうのトカゲの倍はあり、組織のきれいに整った青光りに威圧感があった。同じ手品に繰返し出て来るこの変温動物に僕は、親しみとまでは言えないが何か自分の領域にあって不自然ともいいきれないものを感じていた。……こんな大きいのが出入りできるスキ間なんかないはずだがな……。僕は首を左右に振った。

 今度もトカゲは外へは逃げてはくれず、またまた同じ仕草を繰り返した。部屋の中央で進行方向を開いたガラス戸の方に向ける。敷居まぎわで左折してテレビの陰にもぐりこむ。……これは手品ではない、いよいよ同一個体だ。僕はこのトカゲがまたテレビの左側から出てくるだろうと予測しないわけに行かなくなった。……あいつがテレビの背後で大きくなっているのは確かだ……。確信が強まれば強まるほど、僕は落着きを失っていった。トカゲの世界に僕のほうが吸い込まれていくようだ。


 ……チキショウ、出て来やがったな……。トカゲの胴は大根ほどの太さになり、前回ツマ楊枝くらいしかなかった舌も今ではハンガーの針金くらいで、それが閉じたままの口先をせわしなく出入りする。全長八十センチ。茶の間から排除しようにも新聞紙や空のペットボトルではもう打撃効果は望めない。僕はドンドンと床を踏み鳴らして情けなく威嚇した。この爬虫類は相変わらず哺乳類には無関心で、僕を敵とも何とも思ってないのだろう。……それにしてもテレビの後の狭い三角スペースになんであんなデカイやつが出入りできるのか不思議でならない。僕の見えないところでいったい何が起っているのか。大トカゲは堂々とテレビの後ろに消えていった。


 ……夢であれ現実であれ、この次はきっと一メートル六十センチになって現れる。僕はもう気が狂いそうだ。運の悪さ嘆いている間などない。今のうちなら何とかなるかもしれない。戦えるうちに戦うしかない。何がなんでも片づけなきゃならない……。僕は落着かぬ気持ちのまま決意を固めなくてはならなかった。


 予測通りに現れた一メートル半の、表情を変えない大トカゲと僕は向き合った。……一メートル半でも半分は尻尾だ。このチャンスを逃したら、これ以上になられたらもう僕の手には負えない。

『東京都八王子市の集合住宅の一角に、コンクリートを突き破って突如、巨大トカゲ出現!』

そんなニュースが全国に流れるとき、こいつはどれほどでかくなっているのだろう。大きさはわからないが、犠牲者第一号として圧死した僕の名前も出るにちがいない。悪夢の大トカゲの青と黒の縞模様が僕の頭なかいっぱいに広がった。……怯えてはいけない。問題は時間なのだ。一秒でも早く始末しないと……。


 不安のまた一方で、僕はトカゲの一般的性質を思い出して自分を奮い立たせていた。……ふん。なんでワニのように怖がるんだ。こいつはトカゲだぞ。図体はでかくてもワニの獰猛さなんてあるまい。取っ組み合いになってもコイツにどんな攻撃ができるというのだ。この大きさなら危険という危険でもあるまい。なじみがないせいで不気味に思えているだけなんだ。トカゲを捕まえるにはシッポじゃだめだぞ。横四方で固めよう。


 僕は息を殺し摺り足でトカゲの斜め前へ進んだ。粘るような気持ちの悪い冷や汗が細かい泡になって噴いてきた。トカゲはスキだらけにも、スキがまったくないようにも見えた。俺を見ていたあいつの首をベランダの方に向き、それにつき従うように体が一直線になろうとしたときだ。……いまだッ。

 僕はあいつの青黒い背中めがけて上体を投げ出した。僕の胸の下で二度ばかりあいつが必死に前に出ようと力むのがわかった。しかしそれは大した力ではなかった。僕はあいつの下顎に左腕でフックをかけ、右手で左後ろ足を探ってつかんだ。僕は上体をかぶせたまま左腕を慎重に外してあいつの前足もつかんだ。やった。


 ……ヌルヌルしてるかと思っていたが、案外そうでもない。僕は両手にいっそう力をこめて動物の両足つかんで立ち上がった。トカゲは何度か体を捩って「く」の字になったり、逆の「く」の字なったりして抵抗したが、僕はさらに力をこめて手を放さなかった。あっけない勝利だった。恐怖に打ち勝って捕えたトカゲだが、自慢する前に始末を考えなければならない。どうしよう。僕はベランダに出た。


 ……これだけデカイのをどうしたもんかな……。遺棄されたペットのワニのような危険はないにしても、ベランダに放置はできない。ここから放り出すしかないだろな……。五メートルくらい先から植え込みになっている。僕はトカゲを見下ろして言った。……いいか、あの植え込みに投げてやるからな。これからは人さまを驚かしたりしないで静かに生きろ。おまえが僕んちに闖入したからこんなことになったんだぞ。おまえが自分で招いた運命だ、僕を恨むなよ……。


 しかし、いざ投げるとなると少し勇気が要った。……こいつにだって生命というものがあるし、コンクリートと植え込みの距離がなんとも微妙だ。五階のベランダから手前のコンクリートに落ちれば自重で全身打撲の即死だ。おまえが小さいままだったらな、つまみ出してどこへでも逃がしてやれたんだがな。これだけデカくちゃ、見つかりゃ処分される。いいか、僕は放り出すだけで、殺すわけじゃないんだぞ……。

 僕はサッカーのスローインのように頭の上でトカゲを前後に振って勢いをつけた。こいつの生死は考えまい。


 僕は両手を差しあげた時、トカゲが急にムクムクと大きく重たくなりだした。つかんでいる僕の手を内側から押し広げるように圧力が加わって脚が太くなってくる。僕の両手もトカゲの両足に左と右に引っぱられて間隔が広がってしまった。うまく力が入らない。重い。

「うわッ、な、なんてことだッ! 」 


 倍々ゲームは続いていたのだ。長さが正直に倍々になれば、体重は倍々どころではない。もう支えるだけでもやっとで、放り出せる重量を超えていた。僕は握りきれなくなった両手を動物の足から足の付け根へ筈にかけた。体重を一気にました大きな黄色いうろこの並んだ腹の下に頭を突っ込んで首で支えた。トカゲの腹は何かを主張するような弾力を僕の頭に感じさせた。僕はつんのめるようにして大トカゲをベランダの手すりの外へ押し出した。トカゲは重力に逆らえないモノになってコンクリートへと落ちていった。


 きゃあああああぁぁぁぁぁ〜ッ……


 一、二、三……何秒だったか。わずかな時間が僕にはとてつもなく長かった。僕はふるえていた。全身が鳥肌だっていた。僕は何をしたんだ。こんなつもりじゃなかった。あいつは咬みつきもしない温和しいやつだった。青黒い舌を出し入れしていたのも、あいつなりに何かを僕に知らせたかったのか。でも僕はトカゲに部屋を明け渡す気にはなれなかった。なぜか部屋を逃げ出したくはなかったし、守らなければならない場所のように思っていた。なぜかはわからない。僕は自問し、答を見つけようとした。


 ……仕方ないさ、あいつの方で急に重たくなったんだから。

 「君が〈排除〉しようとしなければ、あいつは大きくはならなかったんじゃないか?」

 ……そんな。倍々に大きくなったじゃないか。

 「君はあいつの存在そのものを〈敵意〉としたろう。あいつが本当に君の敵だったとでも?」

 ……僕が嫌ってただけで、あいつの方じゃ僕を嫌っちゃいなかった、そう言いたいのか?

 「そうではなかったのか?」

 ……そんなことどうでもいいじゃないか、たかがトカゲ一匹のことだ。

 「爬虫類が声を出すかよ、悲鳴をあげるかよ」

 ……あ。

 僕の頭からスゥーッと血が引くのがわかった。僕の耳に聞こえた悲鳴は聞き覚えのある人間の女のものではなかったか……   (了)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ