あなたといっしょに
この東桜高校の敷地内で惨殺死体が発見されてからまだ一週間と経過していない。
被害者は半澤達彦、この学校の数学教師だった。授業のわかり難さ、生徒の理解度を無視した授業や時折の潤滑油でも塗りたくっていそうな滑り具合の振る舞いで他クラスからの受けは非常に悪かったが、自身の受け持つ晃介の所属するクラスでもある2年四組からは何故かそれなりの支持を得ていた。
達彦教諭の遺体が発見されたのは5日前の夜、学年末考査の添削作業をほとんど終えた彼は残りを自宅でしようと他の職員に挨拶をして帰宅した。
しかし彼の車がいつまでも残っていることを不審に思った教員が車内を確認したところ、血の詰まった肉袋と化した達彦教諭の無惨な姿が発見されのだった。
肩口と足の付け根で切断された両腕両脚は骨ごと切り刻まれ血塗れで散乱し、車内を地獄絵図と化していた。
胴体の方のずたずたの切断面は直径15㎜程の黒いゴムチューブで止血され、一応の止血がなされていた、といってもその用途というのは決して達彦教諭ののためになるものではなかった…口にはくしゃくしゃのプリントが詰め込まれていて、それに留まらず胃の中をぎっしりと満たしていた。血と粘液で汚れた紙屑が縦に切り裂かれた腹部から腸とともに大量に溢れていた。苦悶に満ちたはずの表情は読み取れない、というのも眼窩本来あったはずのものは何処にもなくそこには脳に達せんばかりに彼自身の挽き肉がねじ込まれていたからである。
検死の結果これらの行為は、達彦教諭の意識があったときに行われたという……
そこまでの情熱を持ち合わせた犯人は何故か逃走及び証拠隠滅にはその片鱗すら発揮させず、翌朝には市内の警察に検挙されてしまった。
驚くべきことに、という程でも無いだろうが、犯人はこの学校の女生徒であった。
彼女は秋村一葉。達彦が数学を担当する一人であった。共犯の有無、損壊した死体の一部の在処、動機などの警察の取調べに対し単独で行ったという事以外は頑なに黙秘を貫いている。
凶器や器具などの証拠が彼女の自宅から発見されたことや、犯行時刻の合致などの観点から、共犯者はいないとして捜査は一旦の決着を見せた。
しかし、
「うーん…」
折笠晃介は不満に思っていた。
それは以下の理由である。
これほどの衝撃的かつ猟奇的な事件が起こったというのだ。何らかの特別な事…もっと言えば長期休暇及び授業の混乱など…があっても良さそうである。
たとえ事件はほぼ解決という形で終結、空きのできた数学教師の席には臨時講師が来年度までの期間招かれ、様々な事件の爪痕を残しているにせよ、学校機関を問題なく運営できるのだとしても、である。
といっても具体的に何らかの代替案を有している訳ではない。
その心理は何の努力もなく棚からぼた餅的なものであり、そしてこの上なく不謹慎なものであったが晃介はそれに大した思考を巡らすこともなく打ち切る。
平日の早朝、家の外で待ち兼ねた人間が自転車をきびきびと漕いでくるのが目に入ったからである。
待ち兼ねた、というのは言葉のあやでどちらかといえば楽しい一時であったくらいだった。
付き合い始めて最初の頃は喜びに入り交じった、いや緊張に希釈された喜びで胃に穴が開きそうだったが。
そんなこともあったなぁと一年ほど前のその日を想い起こしながら声を掛けた。
「おはよう白峰さん」
「おぅおはよう晃介、って何度言えばわかるんだよ…。あたしを呼ぶときは下の名前にさんを付けろと」
「だって言いにくいじゃないか、イアイサンなんて。白峰さんの方がずっと綺麗で呼びやすい」
「今巧みに妙な言葉を混ぜて羞恥心を煽ろうとしただろう…。まぁいい、まずは呼び方だ。大体あたしにこんな軟弱そうな苗字は似合わない。もっとこう禍々しいやつが欲しかった。たとえばそうだな……そこいらじゅうを皆殺しと書いて『鏖ヶ原』なんてどうだ」
「そこにいるだけで国の全土を死の荒野にしそうな勢いだね。どんな由来だよ」
折笠家の前にやって来たのは少し攻撃的なつり目をした少女であった。
肩甲骨の辺りまで艶やかなダークブラウンのポニーテールを垂らしている。学校指定のクリーム色のベストの上に茶色のチェック柄の制服を着ていて、ベストの下に着た白いワイシャツの襟元を、これもまた学校指定の赤いリボンで留めている。
もっとも東桜高校の制服は地味で人気がなく、正式な場でなければどんなに寒かろうと、カーディガンやコートで済ませてしまう生徒が大半だった。
少女こと白峰遺愛はその点に置いても異端であった。
「まぁいいや。さっさと行こう」
「うん」
毎朝気の抜けたやり取りを経て晃介は彼女と共に登校する。
自転車のスタンドを足で外して跨がると、遺愛はすぐに漕ぎ出した。彼も続く。
普通の、いやここでは選ばれし者達と呼ばせてもらおう…彼らの心情としてはいくら気心の知れた仲であるとはいえ、彼女に毎朝家まで迎えに来させるなど言語道断、厚顔無恥にして傍若無人な愚行であると糾弾する者が少なくないかもしれない。
しかし折笠宅が両者の通学経路に存在し、なおかつ白峰宅よりも学校に近いということ、そして何よりも白峰遺愛の合理性追究により、彼の心遣いは最終的に無視される次第になったのだ。
当初罪悪感のようなものに突き動かされ決まりを破り遺愛の住む家に迎えにいったことがあったが、その後三日ほど口を訊いて貰えず、彼女の頑固さを身に染みて味わっているのだった。
折衷案として少し先にあるコンビニエンスストアを待ち合わせ場所にするという案もあったがそれは思い付いても口には出さなかった。
稽古に勉強に忙しい遺愛と少しでも一緒にいたかったからである。
それについての言及が無いのは、彼女も同じことを考えていると思い込むことにしているのだった。
彼らは人通りの少ない午前5時頃を目安に学校に登校している。言わずもがな、鬱陶しい野次馬や目撃者を避けるためである。といっても付き合って丸一年にもなり知られるべき場においては周知の事実となっているため、その場凌ぎの手段になっているが。
しかし副産物として、もともと人の少ない路地には彼らしかいないため、ひんやりとした静謐な空気を二人は独占することができていた。
「遺愛さん。昨日の学年主任の演説、どうだった?」
重大な事件の後には必ず全校や学年全体での会が開かれるもので、当然今回も例外ではなかった。
「なんつーか無理矢理あたしたちを納得させようって感じだったな、いつもの熱血ぶりはさすがになかったけど。意気消沈で自分のなかでも整理できてねーのに何がしたいんだか。たかだか50年そこらの人生で手前の領分越すことをわかったよーに言われると苛々する。多分この先ずっとぐだぐだ語り続けられるんだろうぜ。あたしたちが卒業した後も、したり顔でな」
「そんな不謹慎な教師はあんまりいないと思うよ…。相変わらず先生に対して辛辣だねぇ、激辛だよ」
晃介は笑って応えた。つまりは同意である。
「あたしらと同じくらいなーんにも考えないでだらだら人生やってるってのに、偉そうにしてるのが気に食わないんだよ。つってもあたしらとの違いはこれまでしてきたのか、これからするのか、ぐらいしかないだろうけど」
「あーあ、僕らは何も考えずに自分で考えたと思い込んで、その実流される以外の何者でもなく生きていくんだね。折角だから、適当に楽してだらだらしたい」
「死んでもいいから、楽していきたいってか?」
「そうそう。その為に、死に物狂いで働かなくちゃ」
「ははッ。実際に死ぬ奴もいるんだから笑えない。……何の為に生きてるのかわからねぇ、か」
「ん、どうしたの?」
後半は隣にいても聞き取れないほどの声量で呟いたため、不審に感じて横を見て話しかけた。
並行走行の脇見運転であり傍目から見ればかなり危なっかしいが、生憎とそれを注意する者も被害をこうむる者もまだ寒い季節の早朝にはいなかった。
「いーや何でもない、いちいち気にすんな。……たださぁ」
しっしっ、とうざったそうに片手で払う仕草をする。そして薄暗い空を見上げて訥々と語り出した。
「このまま積み重ねていけるなら、きっとどこかには行けるかもしれない。何者かになって、何かを成し遂げて、何かを世界に残せるかもしれない。けど」
眉根を寄せて、虚空を睨んだ。
「それだけで、そんなどうでもいいことだけで終わっちまうのかなぁ。そうなんだとしたら、あたしは要らない。あたしの持っている全てを台無しにしても、投げ打ってもいい。だから」
乾いたような虚ろな瞳をして
「死んでもいいから、死にたくない」
一瞬、晃介の表情が強張った。だがすぐにやわらかい笑みを浮かべる。
「何矛盾しまくったこと言ってんのさ。現実的にいこうよ。りありすてぃっく、だよ。指し当たっては次のデートの日取りとかを決めよー」
「はぁ!?こんな往来で何口走ってんだよ!!…って誰もいねーか…」
「流石にまた家デートはやだなぁ。今度はゲームセンターとかがいい。こうも毎回おうちで勉強だと僕もほら、我慢の限界になっちゃうかもしれない」
「その点に関しては大丈夫だ。どっかで見張ってる親父やら門下の連中が飛んできて、お前を膾に微塵切る用意が出来てるだろうからな」
「あは、それはもう膾じゃないよ。というか膾って野菜料理じゃなかったっけ」
「あぁそもそも膾切りってのは……」
遺愛は言いかけて止めた。晃介は苦労して戻した空気が先程とは別種の嫌なものに侵されるのを幻視した。
もう100メートル以内までに近づいた校門の前にいつもはない、奇妙な色彩が加わっているのがわかった。
それは赤色だった。
段々と距離が縮まっていく。
50メートル、25メートル、5メートル。
最早目と鼻の先まで近づいた『それ』は大体は人の形をしていた。
おとなしい茶色のコンクリートを赤色に滲ませる『それ』は東桜高校の女生徒の制服を纏っている。
土下座をするように校舎側に突っ伏している『それ』の背中からは刃物、脇差のようなものが突き出て血脂で濡れた光をこぼしていて、いかにも切腹、といった風体であった。
自転車から降りた遺愛は血で靴が汚れるのも構わず、『それ』の切断面を食い入るように凝視していた。
恐ろしいまでに滑らかな、首の断面を、である。
『それ』の片割れ、離ればなれの頭部の方は敷地内に入って、その新しくできた平面をのお陰できっちりと立ち、胴体と向かいあっていた。
濁った目で自分自身の体を見ていた。それはまるで人間でないかのように無表情で。
「……今日は良い天気だなぁ」
あまりの状況に軽い現実逃避に走ってしまった。
深呼吸をすると急に突風が吹いて、風上にあるものの臭いを運ぶ。
鮮度の良い血の香りを胸一杯に吸い込んだ晃介は、
盛大に嘔吐した。