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第1話:転移ギャル 神獣に懐かれる

「……マズい」


 魔王を討って数百年。

 儂の目の前で、あり得ぬ光景が広がっていた。

 冥府の番犬──神獣ケルベロスが、見知らぬ小娘に腹を見せて尻尾を振っている。


「やばっ、このワンちゃん超フカフカ! 三匹分とかコスパ神じゃん! 連れ帰って散歩させたら、これ絶対バズるじゃん! フォロワー爆増確定なんだけど!」


「こら。神獣に気安く触れるな。それは一応、死を司る──」


「あはは! かわよすぎて無理~~~! 左右の子もこっち向いてー!」


 少女はそう言って、漆黒の巨体に遠慮なく顔を埋めた。毒牙を持つ首の一つが、彼女の頬を優しく舐め上げる。

 ……おかしい。

 そいつは、かつて一国を滅ぼしかけた災厄だ。儂が五百年という悠久の時を生き、そのうちの二百年をかけてようやく従えた神獣だぞ。


「戻れ、ケルベロス」


 低く命じる。だが、儂の言うことに従う気配がない。それどころか──。


「ワンちゃん、お手!」


「くーん♪」


 従った──儂ではなく、その小娘の命令に。

 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 ……契約が、消えている。

 魂を繋いでいたはずの楔が、まるで最初から無かったかのように。

 ──支配の上書き。

 あり得ない。こんな芸当、神話級の魔術師でなければ不可能だ。

 数分前、初めて彼女と話したその時から、色々と不自然な点があった。


「あのーおじさん、渋谷ってこっちであってます?」


「……シブヤ? 聞いたこともない地名だな」


「え、マジ? じゃあハチ公は?」


 と、儂の知らない単語をいくつも出しては、「嘘、知らないの?」と癪に触る表情を浮かべる。

 若い旅人だろうか。改めて少女の装備に目を向けた。

 旅装ではない。

 毒蜂が潜む森だ。吸血ヒルが這う獣道だ。

 それでも彼女は、王宮の中庭を散歩するかのように立っていた。


 彼女はふと手にしていた奇妙な板を見下ろす。

 黒い板──いや、よく見れば表面が淡く光っている。

 魔道具か? だが、魔力の気配はない。


「……あれ」


 先ほどまでの軽い声色が、わずかに揺らぐ。


「なんで……つかないんだけど」


 親指で何度も表面を叩く。が、反応はない。


「ちょ、待って……マジで圏外?」


「……何の話だ」


「え、いや、電波。ネット。え、てかほんとにここどこ?」


 少女は周囲を見回した。深い森。人の気配はない。

 風が木々を揺らし、ざわりと葉擦れの音が広がる。その音に、少女の肩がびくりと震えた。


「……ねぇ」


 声が、小さくなる。


「ここ、日本じゃないの?」


 儂は答えない。答えられるはずがない。

 それに──ニホン? またしても聞き覚えのない単語だ。

 何らかの高度な術式か、あるいは禁忌の呪言か──。

 ──詐欺か。

 釣り仲間のドワーフが、子供の笑顔に騙されて魔石を巻き上げられたと嘆いていた。


「よ、用事を思い出した。ここで失礼す──」


 彼女の手を振り払い、駆ける。

 隠居の身でも脚力はまだ残っている。


「待って!」


『待って』で待つほど、儂は甘くない。

 少女には申し訳ないが、関わるのは辞めだ。

 見知らぬ者を救えるのは、己の足元が固まっている者だけだ。儂の足元など、とうに砂になっている。

 背後から聞こえる足音が、徐々に離れていく。


「こんなの散々だよ」


 足が止まっていた。

 振り向くと、服の端を摘んで俯く少女。


「……ね、最後に聞かせてよ。近くにコンビニってある?」


「そんな名前のものは、大陸中を探してもないだろう」


「はは……そっか……」


 乾いた笑いが漏れた。


「メイク落としとか買わないと……無理なんだけど」


 ぽつり、と零れた声。


「ウチ、それないと…………」


 彼女の瞳に、幕を張るようにして涙が覆う。

 ぽろ、と一粒。

 それをきっかけに、次々と溢れてくる。


「やだ……ウチには、それしか……なかったのに…………」


 肩が小さく震える。

 慌てて口元を押さえた。声を出すまいとしたのだろう。


「……っ」


 だが、息がうまく吸えない。

 ひゅ、と細い音が喉から漏れる。

 こみ上げてくるものを押し返そうとして、何度も何度も息を整えようとするが、うまくいかない。

 ……儂は、しばし黙っていた。何を言うべきか、わからなかったからだ。


 彼女の嗚咽が、森の静寂に響く。

 ケルベロスが心配そうに彼女の肩に頭を預けた。

 儂は深く溜息をつく。

 せっかくの隠居生活だ。日光浴をして、釣りを楽しみ、穏やかに余生を過ごすはずだった。毎朝の結界の維持さえなければ、完璧だったのだが。

 この泣きじゃくる迷い子を放置して、元の平穏に戻れるほど、儂の心は腐ってはいない。


「……ほら、日が落ちる。赤月が昇り切る前に村へ着かねば、面倒な魔物が湧き出るぞ。悲しみにくれるのはそれからだ」


「え……?」


「何度も言わせるでない。ここにいても腹は減るだろ? ……儂の住む村へ来い。寝床と食事くらいは用意してやろう」


 彼女は涙を拭い、呆然と儂を見上げた。


「……いいの?」


「神獣に好かれた時点で、君はもうこの森の客だ。……もっとも、儂とコイツの契約を奪った罪は、いずれ労働で返してもらうがな」


 背後で、「待って、おじさん!」という声と、巨大な四足獣が地を蹴る音が聞こえる。

 ──こうして、儂の静かな隠居生活は、一人の女子高生によって永遠に失われた。

 騒がしい未来の予感に顔を顰めながら、赤月が見守る空の下を、一歩ずつ進んでいく。


「……あ、おじさん。あそこに見えるボロい集落、まさか村じゃないよね?」


「ボロい集落で悪かったな」


「……なんか、悲しくない? ウチ、こういうの放っておけないんだよね」


 儂はしばし村を眺めた。

 確かに、と思う。

 朽ちかけた門。色褪せた壁。生気のない石畳──どれも、長い間目を逸らしていた。


「……だったら、君のセンスで洒落た村にしてくれ」


 少女は大きく目を見開いた。

 全てが吹っ切れたかのように、息をたっぷりと吸い込むと、彼女の口角が少しだけ吊り上がる。


「そうだ……ないものは、自分の手で作っちゃえばいいんだ!」


「簡単に言うでない。物を作るということは、君が想像する以上に──」


「大丈夫! ウチ、天才だから!」


「なんの説明にもなってないんだが……」


「ここは、こうやってぇー♪」


「話を……聞け」


 彼女の指先が、何もない空中で複雑な動きを繰り返した。宙を払い、何かをタップし、スライドさせるような不可解な挙動。

 刹那、彼女の爪に色鮮やかな、紋章のようなものが現れる。魔力の流れを感じるが、羽虫の羽ばたきにも満たない微かなものだ──気にするようなことではない。

 油断した矢先、虚空から現れた光が彼女が履いている靴へと吸い込まれていく。

 

「……なっ!?」


 泥に塗れた布靴が──消えた、と思った。

 次の瞬間、そこにあったのは──

 純白。

 宝石。

 見たこともない輝き。


「やった! チュートリアル通りやったら成功した!」


「……チュートリアル」


 また聞き覚えのない言葉だ。だが今は、それどころではない。

 儂は五百年生きて、あらゆる魔法を見てきた。

 ──あんな魔法は、見たことがない。

 大きく見開かれた彼女の瞳には、青白く光るボードのようなものが映っている。

 その存在や、未知の魔法について言及するよりも先に、遠くで魔物の咆哮が響く。


「困ったな。少し急ぐぞ」


「はーい!」


 駆け出した彼女の足元で、宝石をあしらわれた純白の靴が、赤月の光を浴びて不気味なほどに美しく輝いていた。

 遠くに見える村の門に、一人の青年が、仁王立ちでそこにいた。

 儂は小さくため息をつくが、数歩前を歩く少女が気づくことはなかった。

 その青年の手にある槍の先が、今にも折れそうなほど錆びついていること。

 そしてその槍が、彼女の『センス』によって、この世界の常識を粉々に砕く、最初の犠牲者になることも──。


 五百年の静寂が、今、音を立てて崩れ去る。

 煌びやかな伝説の幕開けに、老いた儂はただ、重い頭痛の予感に眉をひそめるしかなかった。

この作品を読んでくださり、ありがとうございます!

初日は3話まで投稿予定です。

2話はお昼頃にお届けします。

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