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月はまだ、終わらない

月光を眺めて

作者: 飛 雪兎
掲載日:2026/01/27

「焼き払え」1度そう命じた帝は、その勅令を成そうと富士の山で使者が燃やそうとする直前、これを取り下げ薬を引き戻した。「姫が、吾の身を思い残したこの薬を、よもや世から消し去ろうとは。」かぐや姫が天に昇り、帝は失意の中を彷徨っていた。かぐや姫のいた日々を忘れさせようとする程に。ただ、たった一筋のか細い声が、帝を動かした。「もし、吾が不死の身とならば、永遠の命、時の中でいつか、いつの日か再び姫に逢う術を見つけられるのではないだろうか。」通りに出れば誰にも聞こえず掻き消されるような小さな言葉、希望は帝の色褪せた世界を色鮮やかに照らした。帝は、少し欠けた月が降る中、夜明けを待たずに富士の山の頂でそれを飲み干された。かぐや姫が月に昇り、7日後のことだった。



かぐや姫の昇天から400と10年後。

富士の山頂から立ち昇っていた「不死の煙」がいつしか絶え、人々の記憶から「竹取の翁」の物語は伝説へと形を変え始めた。

京の優雅な文化は色褪せ、東国・鎌倉に武士の府が置かれた。今は名を伏せ、山深い庵や古刹を渡り歩く「漂泊の貴人」として生きる帝は、相模の国の波打ち際に立っていた。

かつて、かぐや姫との別れに涙した瞳は、今や幾多の戦乱と、愛した者たちの死を見届け、底知れぬ深淵を携えている。彼にとって、数百年という月日は瞬きに等しい。しかし、その「瞬き」の積み重ねが、彼の心を少しずつ摩耗させていた。


建保の頃。鎌倉幕府の重鎮であり、策謀家として知られる三浦(平六)義村は、由比ヶ浜の夜を一人歩いていた。

その折、月明かりの下で波を見つめる一人の男を見つける。男は古風な直衣のような装いだが、その佇まいは現世の者とは思えぬほどに透き通っていた。

「……何者だ。この地で夜歩きは禁じられているはずだが。」

義村が声をかけると、男はゆっくりと振り返った。その顔は二十代半ばの青年のようでありながら、瞳の奥には森羅万象を悟った老人のような闇があった。

「月を眺めていただけだ。かつて、この月へ帰った者を、まだ忘れられぬのでな。」

義村は直感した。この男はただの浮浪の者ではない。義村は疑り深く、また同時に、この世の裏側に潜む「怪異」や「理の外」に鋭い嗅覚を持っていた。彼は腰の太刀を抜く代わりに、不敵な笑みを浮かべて隣に座り込んだ。

「月か。西行法師のようなことを言う。だが貴殿、その肌……血の気が通っているようには見えぬ。もしや、噂に聞く『死なぬ御方』か?」

帝は微かに唇を綻ばせた。

「三浦の者か。その強欲さと冷徹さ、そして隠しきれぬ義理難さ。かつて吾の側近にいた大納言によく似ている。」

義村は驚愕を隠した。何代も前の先祖を知るかのような口ぶり。この出会いが、孤独な帝にとって鎌倉という時代に繋ぎ止める「一時の縁」の始まりとなった。


義村との奇妙な交流が続く中、帝はある日、鎌倉の街角で一人の少女を見かける。

名を「なぎ」という、没落した貴族の家系に仕える下女であった。彼女の顔を見た瞬間、帝の胸に鋭い痛みが走った。

その顔立ちは、かつて帝が友と呼んだ側近の面影を色濃く残していた。その側近は、帝が薬を飲む直前まで「陛下、どうかお考え直しを」と涙ながらに訴え、帝が孤独の道を選んだ後も、その行く末を案じながら老いて死んでいった男だった。

帝は正体を隠し、なぎの主筋の屋敷に草木を届ける庭師として出入りするようになった。

「おじ様は、不思議な方ですね。いつお会いしても、お顔が変わらない。」

なぎは屈託なく笑う。彼女の家は貧しく、明日の暮らしもままならない。それでも彼女は、庭に咲く桔梗の花を愛で、懸命に生きていた。

帝はある夜、彼女に問いかけた。

「人は、いつか死ぬ。世も、変わりゆく。それが怖くはないのか?」

なぎは小首を傾げて答えた。

「怖いですよ。でも、いつか終わるからこそ、今日のこの月が綺麗だと思うのではないでしょうか。もし明日も明後日も、千年もこの月が変わらず見られるのだとしたら……私は、今日こんなに心を動かされないかもしれません。」

帝は言葉を失った。

彼女の先祖――あの側近も、死の間際に同じことを言っていた。「陛下、私は先に参ります。しかし、死ぬからこそ私は陛下との思い出を『宝』として持っていけるのです」と。

皮肉なことだった。

帝は、傍にあった湯呑の縁に残った茶の染みを指でなぞった。

乾ききったそれは、拭っても落ちなかった。

かつては、湯呑を一つ使い切るほどの時間さえ、長いと感じたものだ。

今はもう、湯が冷める速さすら、覚えていない。

一方で、短命な彼女らは、その短い命を燃やして永遠に消えない記憶を刻んでいく。自らにない、輝きを放ちながら。


ある時、三浦義村は帝を自身の館に招いた。酒を酌み交わしながら、義村はいつになく真剣な面持ちで切り出した。

「貴殿を見ていると、時折反吐が出る。死ぬこともできず、ただ世の移ろいを眺めるだけ。それは『神』ではなく、ただの『置物』ではないか。」

「……左様。吾は、姫が去った後のこの世を、ただ見届けるという呪いにかかっている。」

「ならば、俺がその呪いを解いてやろうか。」

義村は冗談めかして太刀を抜いたが、その切っ先は震えていた。彼は、帝という存在の中に、人間が決して触れてはならない「絶対的な孤独」を見ていたのだ。

「義村よ。貴殿の野心も、三浦の栄華も、今の北条の世も、やがては土に還る。だが、その足掻きこそが美しいのだ。吾には、それさえも許されぬ。」

数日後、由比ヶ浜の辺りで戦があった。義村は窮地の従兄弟を裏切り、三浦一族の繁栄の道を選んだ。帝はそのすべてを陰から見守っていた。

義村が血に汚れた手で再び帝の前に現れたとき、帝はただ、静かに一献の酒を注いだ。

「汚れたな、義村。」

「ああ、汚れた。だが、これが『生きる』ということだ。貴殿のように清らかなまま、千年も立ち止まっている奴にはわかるまい。」

その言葉は、帝の胸に深く突き刺さった。孤独に耐えることが「運命」だと思っていたが、それは同時に、世界と関わることを恐れている自分の「臆病」なのではないだろうか。


やがて、なぎの家に流行り病が襲った。

帝には、彼女を救う術があった。不死の血を分ければ、あるいは……しかし、帝は動かなかった。いや、動けなかった。

なぎの枕元で、彼女が最期に望んだのは、帝が語る「月のお姫様」の物語だった。

「……おじ様、ありがとう。おじ様のおかげで、私の短い一生も、物語のように輝いて見えました……。」

彼女が息を引き取ったとき、帝は何百年ぶりかに、声を出さずに泣いた。

彼女の命は消えたが、その記憶は帝の中で「鎌倉の桔梗」として永遠に固定されるだろう。


それからもう少し経った頃。義村もまた、病には勝てなかった。

病の名は中風。急病だったのもあり一気に衰弱したという。そして、義村は枕元に立つ「変わらぬ姿」の帝を見て、鼻で笑ったという。

「……何も変わっていないとはな。難儀なことだ。俺は、一足先に……変化の向こう側へ行くとしよう……。」

その晩、義村は亡くなった。後の手記では、「頓死、大中風」と記されている。

帝は、細くも輝く月を見上げる。

かつて富士の山頂で飲み干した薬。その効力がいつか切れるその日まで。

帝は、彼らが愛したこの「変化のある美しい世界」を、その目に焼き付け続ける。

それこそが、永久の命という御恩を得た者の、唯一の、そして最も残酷な奉公なのだから。



かぐや姫の昇天から、750年後。

帝はいつしか世を廻るのをやめ、自らの庵を持ち茶を嗜むようになった。

その庵に、織田信長の茶頭として頭角を現していた千宗易――後の利休が姿を現したのは、安土城の完成を間近に控えた、湿り気のある初夏のことだった。

にじり口から入ってきた宗易は、その巨躯に似合わぬ繊細な所作で頭を下げた。彼の瞳は、かつて三浦義村が見せたギラついた野心とは対極の、すべてを呑み込んだ後の「無」を湛えている。

「……三十年ぶりか。あるいは、もっとか。この国の土の色が変わったな、宗易」

帝が、手折った一輪の朝顔を竹筒に挿しながら声をかけると、宗易は眉一つ動かさずに答えた。

「世は変われど、茶の味は変わりませぬ。……もっとも、貴方様のお姿も、我が師のさらに師が拝見したという絵姿から、露ほども変わっておりませぬが」

宗易は茶を点てた。その所作は、永遠という停滞の中にいる帝にとって、恐ろしいほどの速度で「今」という瞬間を削り出していく儀式のように見えた。

「貴殿の茶には、死の匂いがする。それも、ただの死ではない。自ら選び取る死だ」

帝が差し出された黒楽茶碗を手に取り、独白する。

「左様でございますか」

宗易は静かに微笑んだ。

「私は、死なぬものに美は宿らぬと考えております。この茶碗も、いずれ割れるからこそ愛おしい。この一服も、二度と同じ味にはならぬからこそ、一期一会の宝となる。

……今、信長公が進めておられる天下布武も、明日をも知れぬ命を燃やす者たちの狂騒に過ぎませぬ。なればこそ、その一瞬を切り取る茶にこそ、真理が宿るのです」

帝の胸に、かつて死際でなぎが語った言葉が蘇る。――「いつか終わるからこそ、今日の月が綺麗だと思う」

何故か、少しだけ寂寥感を覚えた。

「宗易よ。吾は、その『終わり』を失った。この幾百年、数多の鮮やかな朝顔が枯れるのを見たが、吾の心には一滴の露も残らぬ。吾という器は、満ちることも割れることもできぬ、ただの虚無だ」

宗易はその言葉を受け、帝の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「ならば、貴方様は『背景』になればよろしい。我らのような人間が、一瞬の火花を散らして死んでいくための、永遠という名の広大な背景に。我らがどれほど足掻き、汚れ、そして美しく散っていくか。それを見届けることだけが、器ではない、貴方様という『場』の役目かと。……貴方様が生き続ける限り、我らの刹那は、貴方様という記憶の中で永遠に完成せぬまま、輝き続けるのです」

「背景、か……」

帝は自嘲気味に笑った。鎌倉で義村が言った「置物」という言葉が、宗易の口からは「場」という哲学に昇華されている。

「信長公は、不老不死を夢想する男ではありませぬ。むしろ、自らが神になろうとしておられる。滑稽なことだ。貴方様のその深い孤独を見れば、あの御方とて己の矮小さに震えるでしょうな」

宗易はそう言うと、持参した茶入れから、一筋の光も通さぬような漆黒の粉を掬った。

「近々、播磨で荒木村重なる者が謀反を起こしたとか。世はまた濁ります。私は、その濁りの中に、極上の『黒』を見出すつもりです。貴方様は、ただそれを見ておられればよい」

その後、安土城は灰燼に帰し、宗易もまた利休の名を得たのち、自らの腹を切って生涯を閉じた。

帝は、本能寺の空が赤く染まった夜も、利休が最後に点てた茶の苦味を思い出していた。

利休は死ぬことで「永遠」を手に入れ、帝は生きることで「刹那」を失い続けている。

黄金の茶室で狂い咲く権力者の栄華も、茶人が求めた寂滅の美も、帝にとっては等しく「一瞬の瞬き」に過ぎない。しかし、その瞬きが網膜に焼き付くたび、帝の魂は少しずつ、確実に削り取られていった。

それは、不死の肉体を持つ彼に許された、唯一の摩耗。「心の死」への緩やかで、確かな歩みであった。

帝は、宗易が遺した、歪み、欠けた茶碗を手に取り、独りごちた。

「……また一人、吾を背景にして、先へ行ったか」

時が経つのは、あまりにも早い。

神に成ろうとした男は、月の隠れた夜に儚く消えた。

桃山の華は、刹那の瞬きを残して散った。



かぐや姫の昇天から、800年後。

寛永の世。かつての血生臭い美学は姿を消し、代わりに京の優雅さと江戸の力強さが混ざり合う、爛漫たる「寛永文化」が花開いていた。

帝にとって、この平和はかつてない試練であった。戦乱の世であれば、否応なしに押し寄せる「死」の波動が、不死の身である彼にさえ、外部からの刺激として生の実感を与えていた。しかし、この穏やかな日々は、帝の魂を真綿で締めるように、ゆっくりと、しかし確実に摩耗させていった。


ある春の夕暮れ、帝の元を訪ねてきた男があった。

名を、小堀遠州という。

将軍家の作事奉行であり、当代随一の茶人、建築家。利休が「死」を点てたのに対し、遠州は「美という名の秩序」を設計し、徳川の世を視覚的に固定しようとする男であった。

「これは、……なんとも清閑な。まさに『きれい寂び』の極致にございますな」

遠州は、帝が手入れをしている小さな庭を一目見るなり、深々と頭を下げた。遠州は帝の正体を知らない。だが、その天賦の審美眼で帝の真理を見抜いたのである。

帝は、手元の桔梗の苗に土を被せながら、振り返ることなく応じた。

「遠州か。貴殿の造る庭は、あまりに完璧すぎる。隅々まで理が行き届き、風の一吹き、木漏れ日の一片さえも貴殿の計算通りに動いているようだ。それはもはや、自然への敬意ではなく、自然に対する『支配』ではないのか」

遠州は茶を点てる準備をしながら、柔和な、しかし一切の隙のない笑みを浮かべた。

まるで、全てわかっていたかのように。


「お見通しでございます。私は、世の『移ろい』を恐れているのかもしれません。故に、最も美しい一瞬を固定し、永遠に変わらぬ秩序の中に閉じ込めたいと願う。それが、不遜にも神の領域に触れることとは知りながら。此度の江戸城の普請も、二条城の行幸のしつらえも、すべては『永遠なる徳川の春』を現世に繋ぎ止めるための呪いにございます」

帝の心に、鋭い痛みが走った。

「永遠、か。遠州よ。貴殿が美しいと愛でるその秩序も、百年経てば木は枯れ、石は苔むす。形あるものは、必ず崩れる。それを強引に止めることが、真に美しいと言えるのか?」

遠州は、帝に茶を差し出しながら、静かに独白した。

「左様。なればこそ、私は『虚構』を愛でるのです。ご覧ください。今の江戸を。人々は飢えを忘れ、昨日と同じ明日が来ると信じ、終わりを忘れて浮かれ歩く。すべては一時の夢に過ぎませぬが、その夢を『永遠に続く本物』だと信じて疑わぬ。その健気な姿に、私は美を見出すのです。崩れぬものを造るのではなく、崩れることを忘れるほどの『美しい夢』を見せる。それが私の仕事にございます」

帝は遠州が点てた茶を口に含んだ。


利休の茶が、喉を焼くような峻厳な「無」であったのに対し、遠州の茶は、どこまでも澄み渡り、洗練された「有」の味がした。そこには、死への恐怖を美しさで塗り固めた、高度な精神的虚構が宿っていた。

「吾は、長く生きすぎた」

遠州は少し疑問の顔を見せた。

「にしては若い容貌ですな」

帝は、茶碗の中に揺れる月を見つめ、声を落とした。

「かつて出会った武人は、泥にまみれ、汚れた手で生を掴み取っていた。茶人は、自らの死を賭して、刹那の美を完成させた。だが、この寛永の民はどうだ。死を忘れ、ただ長く、穏やかに、昨日と同じ明日を繰り返すことを望んでいる。それは、吾という停滞に、世が近づいてきているようで……恐ろしいのだ」

遠州は、帝の瞳の奥にある、底知れぬ孤独の深淵を覗き込んだ。

「……それは贅沢な恐怖にございますな。我ら一瞬を生きる者にとって、その『停滞』こそが、何物にも代えがたい救いなのです。『停滞』は己が今どこに立っているかを知ることができる。貴方様が不滅ならば、貴方様はこの国の北極星であらせられる」

「北極星、か。動かぬ星は、旅人には道標となるが、星自身にとっては、ただの幽閉に過ぎぬな」

帝は自嘲した。

遠州が提唱する「きれい寂び」は、不完全なものの中に美を見出すのではなく、不完全なものを完璧な秩序で飾り立てる美学だ。それは、死を忘れたい江戸の人々の願いそのものであった。しかし、それは同時に、帝が最も忌むべき「変化の否定」に他ならない。


数日後、江戸の街に大きな火災があった。完璧に整えられた屋敷も、遠州が心血を注いだ庭園も、一晩にして灰燼に帰した。

帝は、焼け野原に立つ遠州の姿を見つけた。

遠州は、かつての完璧な秩序が崩れ去った光景を前に、涙を流すどころか、陶酔したような眼差しでその灰を見つめていた。

「美しい……。壊れるからこそ、私はまた、新たな虚構を築くことができる。帝よ、ご覧ください。これが『生きる』という変化の力にございます。私は死ぬまで、この灰の上に花を咲かせ続けましょう」

帝はその時、悟った。

鎌倉の男は「生」を奪い合い、桃山の男は「死」を見つめた。だが、寛永の男は「忘却」を愛でているのだ。壊れても、また壊れる前の形を再構築しようとするその執念。それは、命を燃やすのではなく、命を循環させることで死を欺こうとする足掻きであった。


対して自分はどうだ。

壊れることも、再構築することもできず、ただ千年、同じ器のままそこに在る。

江戸の民が「昨日と同じ明日」を願うとき、帝は「今日とは違う終わり」を夢見る。

変化を愛でる文化が極まった寛永の世で、帝は、自らがその「変化」という輪廻から最も遠い場所にいることを、かつてないほど痛烈に実感していた。

美意識が洗練されればされるほど、帝という存在は「鑑賞者」としての純度を高めていく。それは、世界と関わる術を失い、透明な壁越しに万物を眺めるような、窒息しそうな日々であった。

「姫よ。吾はまだ、貴女が愛したこの世の『背景』であり続けている。だが、この泰平が千年も続けば、吾の魂は、この美しい虚構に呑まれて消えてしまうかもしれない」

帝の灯は、消えそうなまでに揺らいでいた。


その僅か数週間後のことだった。

幕府による回し者により、帝は捕えられた。

「面を上げよ」

将軍の言葉に促され、帝はゆっくりと顔を上げた。三十代半ばの壮年に見える家光は、鋭い眼光で帝を射抜く。その視線は、帝がこれまで出会ったどの人間よりも、直接的で、そして恐ろしいほどに「欲」に満ちていた。

「聞くところによれば、貴殿は千年以上を生きるという。真か」

帝は、何も答えなかった。答える必要がなかった。家光は、帝の沈黙と、変わらぬ青年のような顔を見て、確信した。

「……ならば、その秘術、この大樹の君に献上せよ」

翌日、帝は江戸城内奥深くに幽閉された。


豪華絢爛な大奥の一角、しかし窓は高く、庭は閉じられた空間。帝は「仙人」として丁重に扱われたが、その実、あらゆる自由を奪われていた。家光は毎日のように帝の元を訪れ、不死の秘薬について問い詰めた。

「なぜ、その術を隠す。この天下太平を盤石にするため、この身が永久に生き長らえることこそ、天命ではないか」

家光は焦っていた。自らの死を恐れ、築き上げた徳川の世が瓦解することを何よりも恐れていたのだ。

帝は、ただ静かに庭の石を眺めていた。その石は、遠州がかつて「秩序」を求めて配置したであろう石とは異なり、無造作に転がっていた。

「将軍よ。形あるものは、必ず朽ちる。それを強引に止めようとすれば、かえって脆くなる」

帝の言葉は、家光には届かなかった。彼は帝の身体から不死の秘密を探るため、医者や陰陽師、果ては異国の術師までを呼び寄せ、帝に触れさせた。しかし、彼らの試みは全て無駄に終わる。帝の肉体は、どんな刃も毒も通さず、どんな術も効かなかった。


幽閉されて一年が過ぎた頃、帝は一つの違和感に気づいた。城壁に囲まれたこの空間では、「変化」が起こらない。季節は巡れど、外の風は届かず、人々の営みの音も遠い。外界との接触を絶たれた帝の精神は、これまでの旅で得た「刻まれた記憶」さえも霞んでいくのを感じた。

「ここは……無の時間だ」

帝は悟った。戦乱の世の「死」の波動も、寛永の世の「忘却」の美学も、まだ彼に刺激を与えていた。だが、この城の奥では、ただ「停滞」だけが無限に繰り返される。それは、あらゆる美意識が剥ぎ取られた、生の否定であった。

そして、その「停滞」こそが、家光が求めた「永遠」の姿であった。

帝は初めて、自らの不死という運命が、本当に残酷な「罰」であると、肌で感じた。

「姫よ……吾は、初めて死を願うかもしれぬ。このままでは、吾という魂が、この城の壁と同化してしまう」

家光は、不死の術が手に入らないと悟ると、次第に帝への興味を失っていった。将軍の関心が薄れるにつれ、帝への監視も緩やかになった。ある夜、ふと開け放たれた窓から、帝は夜空を見上げた。そこには、幽閉される前と変わらぬ、満月が浮かんでいた。


かぐや姫の昇天から、1000年後。

江戸城の奥深く、「生ける書物」として徳川の檻に閉じ込められていた帝が再び表舞台の、それも最も過酷な熱風の中に引きずり出されたのは、慶応の頃のことであった。

徳川家光から数代、帝は「不老の神」としてではなく、徳川の天下を永劫に保つための「禁忌の計算機」として扱われた。幕府の重鎮たちは、国の危急存亡の折、あるいは政権の正当性を担保するために、その庵を訪れた。帝が授けるのは知識ではない。数百年、数千年の興亡を見てきた者だけが持つ「飽和した静寂」であった。だが、幕府はその静寂を、体制維持のための「重し」として利用した。

しかし、黒船の来航、そして倒幕の足音は、その偽りの泰平を粉々に砕いた。

「陛下、……いえ、徳川の守護神たる御方よ。江戸を去り、北へ向かわねばなりませぬ」

徳川慶喜の使者がそう告げたとき、帝の瞳には暗い炎が宿った。


明治十年代。帝は、新政府の「指南役」という、名ばかりの、しかし権力の核心に近い奇妙な立場に置かれていた。

かつて江戸城と呼ばれた場所が「皇居」と改められ、周囲には煉瓦造りの建物が並び、蒸気機関の煤煙が空を汚す。帝はその中心にありながら、古風な直衣を脱ぎ捨て、黒いフロックコートに身を包まされていた。

「これよりの日本には、神の奇跡ではなく、鉄と火の理が必要にございます」

若き政治家、大久保利通は帝にそう言い放った。彼は帝の正体を知りながら、その存在を「旧時代の遺物」として冷徹に処理しようとしていた。新政府にとって、帝は国の正当性を示す「玉」の影武者であり、同時に西洋列強に対抗するための「千年の知恵袋」であった。

帝は、自身の意思に関係なく、憲法の草案や近代軍制の構築に意見を求められた。

かつては「背景」として、あるいは「場」として世を見守ることを誇りとした帝だったが、明治という時代は、彼の存在を強引に「部品」として組み込んだのである。


ある晩、帝は政府の高官たちが集う鹿鳴館の喧騒を離れ、建設途中の日比谷の街角に立っていた。

かつてなぎと愛でた桔梗も、遠州が美を見出した秩序も、今はもうない。あるのは、ただ効率と力のみを追求する、血の通わぬ「近代」という怪物であった。

その時、一人の老婆が帝の足元に縋り付いた。

「お助けください……息子が、徴兵で連れて行かれました……。先祖代々の土地も、新しい税で取り上げられ……」

老婆の顔は、かつての側近や、なぎの面影をどこか宿していた。だが、帝には彼女を救う権限などなかった。彼は、新政府が「富国強兵」という大義名分のもと、民の命を等価交換の資材として消費していく様を、内側から手伝わされていたのだ。

「……吾は、何のために生きている?」

その瞬間、蓄積が一気に臨界点を超えた。

帝は、かつてないほどの憤怒に身を焦がした。それは、かぐや姫を失った時の悲しみとは違う。

自らが、愛したはずのこの世界の「破壊」に、その不老の知恵を貸しているという自己嫌悪。そして、人を、文化を、ただの数字に変えていくこの時代への、根源的な拒絶であった。

「黙れ」

帝が口を開くと、周囲の空気が一変した。

物理的な衝撃波ではない。しかし、その場にいた政府の護衛たちは、数千年の質量が一度にのしかかったような重圧に膝をついた。

帝の瞳は黒く染まっていた。

「吾が薬を飲んだのは、いつの日か姫に逢うため……この世の変化を愛でるためであった!断じて、貴様らのような、命をただの灰に変える機械の歯車になるためではない」

帝は、傍らにあった洋風の街灯を、素手で握り潰した。

熱い。鉄の熱さではない。内側から湧き上がる、行き場のない生命の奔流だ。

死ねぬことが、これほどまでに醜悪で、これほどまでに残酷なことだとは。

「利休も、遠州も、この世の美しさを死の中に見た。……だが吾には、その死さえも許されぬ。貴様らは吾を『神』と呼ぶが、その実は、自分たちの罪を肩代わりさせるための、言葉を喋る偶像に過ぎぬではないか」

帝は、夜の街を彷徨った。

ガス灯の光が、彼を冷たく照らす。

かつては、この不変の肉体が、かぐや姫との唯一の繋がりだと思っていた。しかし今、この肉体は、止まらぬ時間の暴力に晒される民衆を見捨てるための、冷徹な盾でしかなかった。


暴動にも似た怒りが静まったのは、夜明け前、上野の山から昇る朝日を見た時だった。

彰義隊の戦いで焼け焦げた木々から、青々とした新芽が吹いていた。

人は死ぬ。国も滅び、形を変える。だが、この執念深いまでの「生の営み」だけは、明治という無機質な時代にさえ脈打っている。

帝は、震える手自らの顔を覆った。

「……まさか、今でもこんな感情が残っていたとはな。だが……もし、あの日、薬を捨てていれば、吾もまた、あの灰の一部として安らかに眠れたのだろうか」

だが、皮肉にもその「負の感情」こそが、摩耗しきっていた帝の魂に、歪な「生の実感」を注ぎ込んだ。

愛することに疲れたならば、憎めばいい。

美しさに飽きたならば、その醜さを呪えばいい。

そうしてでも、この世に繋ぎ止められ、見届け続けること。

「指南役など、もうやめだ。」

帝は、政府から与えられたフロックコートを脱ぎ捨て、焼け跡に残っていた粗末な羽織を羽織った。

帝は、遠く霞む富士の山を睨みつけた。

煙の絶えたその山頂には、かつて自分が捨てた「人間としての死」が、今も冷たく眠っている。


それから数十年。帝は名を捨て、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

しかし、時代は彼を放っておかなかった。

大正の爛漫たるデカダンスも、昭和の焦土も、帝はただの浮浪者として、あるいは一兵卒として、最前線で見届けた。

二・二六事件の雪の夜、近衛兵の中に混じっていた彼は、自分を「陛下」と呼んで死んでいく若き将校たちの血を浴びた。

東京大空襲の夜、業火に包まれる下町で、彼は焼けることのない皮膚を抱えたまま、幾千の「なぎ」が炭化していく様を凝視した。

広島で、長崎で、太陽が地上に降りたあの日。帝の肉体だけは崩壊を免れたが、その魂は放射線の嵐の中で、修復不可能なほどに細分化され、霧散した。

「……もう、何も感じぬ」

戦後、高度経済成長の喧騒が日本を包み込む頃、帝は皇居の片隅、忘れ去られた古びた蔵の中に住み着いた。

政府の要人が時折、極秘裏に教えを請いに訪れたが、帝は言葉を発することを拒んだ。

彼にとって、テレビから流れる流行歌も、街を埋め尽くすプラスチックの色彩も、すべては「ノイズ」に過ぎなかった。


かつて利休が求めた「黒」も、遠州が築いた「秩序」も、今の世にはない。あるのは、無限に増殖する消費と、死を徹底的に隠蔽し、清潔に消毒された「生」の残骸である。

そして、決定的な瞬間が訪れた。

人類が、月に降り立ったのである。

テレビの粗い画像の中で、防護服に身を包んだ男たちが、荒涼とした砂漠の上を跳ねている。

「……あれが、月の都か」

帝は、乾いた笑い声を上げた。

そこには、かぐや姫も、天人も、不死の薬を練る兎もいなかった。

あるのは、生命の欠片もない岩石と、真空の静寂だけ。

「姫よ。貴女はどこへ帰ったのだ。吾が千年生きて見守ってきたこの世界は、ただの空虚の淵に建つ砂の城だったのか」

その日、帝のなかに唯一残っていた「希望」という名の糸が切れた。


月の都が存在しないのであれば、あの日々は、あの香りは、あの涙は何だったのか。

自身が不死であるという事実さえ、何らかの高度な科学的エラーか、あるいは質の悪い冗談のように思えてきた。

帝は「不要の神」となった。

世界は彼を必要としなくなり、彼もまた世界を拒絶した。

遂に、帝は眠ることができなくなった。

瞳を閉じても、網膜には千年の戦火となぎの笑顔、利休の茶碗と義村の眼差しが、永遠のループとなって再生され続ける。

記憶は、もはや「宝」ではなく、魂を削り続ける「ヤスリ」へと変貌していた。



かぐや姫の昇天から、1200年後。

今より少しだけ未来の世界。

高層ビルが立ち並ぶ都心の片隅に、奇跡的に取り残された庭園があった。

帝は、古びたベンチに座り、濁った夜空を見上げていた。

ネオンの光に掻き消され、月は白っぽく、頼りなく浮かんでいる。

「また、そんなところで月を見ていらっしゃる」

懐かしい声に、帝の肩が微かに震えた。

振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。

肌は透き通るように白く、現代的なシルエットながらも、どこか古風な趣を感じさせる紫の桔梗を染め抜いた羽織を、パーカーの上から無造作に羽織っている。

その青年の顔立ちには、かつての側近の、なぎの、そして帝がかつて愛した者たちの面影が、幾重にも重なって見えた。

「……また、お前か」

帝の声は、砂を噛むように掠れていた。

この青年は、不定期に現れる。数正、数十年、あるいは百年に一度。

ある時は鎌倉の武士として、ある時は江戸の職人として、そして今は、どこにでもいる大学生のような姿で。

「なぜ、お前はいつも吾を見つける」

青年は隣に座り、自販機で買ったらしい缶入りのしるこを差し出した。

「貴方が、世界を拒絶しても、世界は貴方を覚えているからです。……というより、貴方がこの世界の『記憶』そのものだからですよ」

帝は缶を握りしめた。熱が、冷え切った掌に伝わる。

「吾はもう、十分だ。月の都もない。姫もいない。ただ、摩耗していく自分を見つめるのは、もう飽きたのだ」

「月の都なら、ありますよ」

青年は、空を指差した。

「ただし、貴方の記憶の中にだけ。貴方が死ねば、あのかぐや姫も、利休の茶も、なぎさんの笑顔も、本当にこの宇宙から消えてしまう。だから、貴方は死ねなかった。……違いますか?」

帝は言葉を失った。

自身が不死であり続けたのは、姫との約束のためだけではない。自分が消えれば、自分が愛した「あの日々の美しさ」を証明する者が、この世から一人もいなくなってしまう。その恐怖が、無意識に彼をこの世に繋ぎ止めていたのだ。

「吾は……彼らの墓標であり続けねばならぬのか」

「いいえ。」

青年は立ち上がり、懐から一本の古い、錆びついたはずなのに妖しく光る短刀を取り出した。

それは、かつて帝が富士の山頂で、薬とともに焼き払おうとした、あの時の使者の持ち物であった。

「記憶は、貴方一人が抱え込むものではありません。こうして、僕のような形で、断片となって世界に溶け出している。貴方が終わっても、桔梗は咲き、茶の味は残り、人は誰かを愛して死にます。……もう、引き継ぎは終わっていますよ」

帝の瞳に、初めて安堵の光が宿った。

「そうか……。吾がいなくても、世界は、美しくあれるか」

「ええ。貴方が見てきた千年の輝きは、もう十分にこの土に染み込んでいます」

青年がゆっくりと、短刀を構える。

帝は逃げなかった。後ずさりもしなかった。

ただ、深く、深く息を吐き、最後にもう一度だけ月を見上げた。

かつての濁った月ではない。

その瞬間、帝の視界には、いつかの富士の山頂で見た、あの清冽で、慈愛に満ちた真実の月影が広がっていた。

「……待たせたな、姫よ」

刃が帝の胸を貫いた。

痛みは、驚くほど温かかった。

千年の重圧が、重力から解き放たれるように、軽やかな粒子となって夜空へ溶けていく。

肉体が崩れ、光の塵へと変わっていくなかで、帝は聞いた。

「では、また」

青年の声は、かつての友のようであり、愛娘のようであり、そして、いつか再会するはずの、あの女性の声であった。


翌朝。

都心の庭園のベンチには、誰の姿もなかった。

ただ、コンクリートの隙間から、季節外れの桔梗が一輪、凛として咲き誇っていた。

その花びらは、朝露に濡れながら、昇り始めた太陽の光を浴びて、千年前と変わらぬ紫の輝きを放っていた。

人々は、その横を通り過ぎていく。

誰も、昨夜そこに「神」がいたことも、千年の孤独が終焉を迎えたことも知らない。

しかし、人々の胸の奥に、ふと「今日の月は綺麗だろうか」と想う、ささやかな美が芽生えた。

それが、帝が千年の奉公の果てに、こちらの世界に遺した唯一の、そして最大の奇跡であった。

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