旅立ちの朝と、ひとり目の“難関”
夜明け前。村外れの空はまだ群青色で、星がいくつか瞬いていた。鳥の声が微かにあがる中、ハルトは荷物を肩にかけ、村を離れる道へと向かっていた。
前夜はよく眠れなかった。興奮と不安が混じり合い、胸がざわつき続けたからだ。導きの書を読めば読むほど、この世界の広さに圧倒された。魔王討伐という目標が、途方もなく遠く感じた。
だが、それでも進まなければ、何も始まらない。
村の外れに着いた時、すでにそこにはひとりの少女が立っていた。
「……リリア?」
「……行くと思って」
朝霧の中でも分かる。目が少し赤い。寝不足なのか、泣いたのかはわからない。
「最後に……ちゃんと見送りたかったんです」
ハルトは胸が少し締めつけられるのを感じた。
「ありがとう。ここまで来てくれて」
リリアは首を横に振った。
「……昨日、言いそびれたことがあるんです」
「え?」
リリアはぎゅっと手を握りしめ、深呼吸をしてから言った。
「私、ハルトさんに助けられて……すごく、すごく幸せでした。本当に、ありがとうございました」
その言葉は風に溶けるように静かで、まっすぐだった。
胸の奥が柔らかく、あたたかく光った。
《愛情反応:増。経験値+20》
「……僕も、リリアの言葉に助けられたよ」
「……帰ってきてくれますか?」
「絶対に」
リリアは少し微笑み、そっとハルトの手を握った。
「ハルトさんが、誰かにいっぱい優しくして、いっぱい愛されて……強くなって、魔王を倒せますように」
別れの言葉にしては不思議だった。
他の誰かに愛されることを願うなんて、普通なら言えない。
けれどリリアは、ハルトの旅立ちを真剣に応援してくれている。それだけで胸がいっぱいになった。
「ありがとう。また来るよ」
「はい。ずっと……とは言えないけど、できるだけ、待っています」
最後の言葉を聞き、ハルトは深く頷いて村から歩き出した。
背を向けても、すぐ後ろで彼女が見守っている気がした。
前へ進まなければならない。
ここで立ち止まれば、決意が揺らいでしまう気がした。
ゆっくりと歩き、村が遠ざかる。
東から太陽が昇り始め、世界が明るく照らされていく。
ハルトの冒険が、ついに始まった。
◆
最初に向かうのは、村から半日の距離にある中規模の街〈アルメス〉。冒険者ギルドがあり、旅をするなら必ず通る街だ。
初めての長い道のり。森が広がり、小川を越え、小さな丘を越える。
朝の空気はひんやりして気持ちがいい。
ただ、歩き始めて一時間ほどで、ハルトはすでに少し疲れていた。
「……体力、ないなあ……」
日本のサラリーマン時代は、デスクワークばかり。運動不足は自覚していたが、まさかここまでとは。
それでも進んでいると、突然――
「止まりなさい!」
澄んだ、鋭い女の声がした。
慌てて顔を上げると、森の中の道の先に、鎧姿の女性が立っていた。
陽光を反射する銀の軽鎧。腰まで届く黒髪を高く結っている。背筋を伸ばした堂々とした立ち姿。剣を携え、鋭い眼差しがこちらを射抜く。
その迫力に思わず足が止まる。
(……すごい美人だ。でも、怖い)
近づくと、彼女は剣に手をかけたまま問いかけた。
「あなた、何者? この付近では魔物が多発している。一般人が一人で歩ける場所ではない」
「えっと、僕は旅の冒険者で……アルメスを目指しているだけなんですが……」
女性騎士はじっとハルトを観察するように目を細めた。
「……本当に冒険者?」
「い、いや、これから……」
「登録もまだ、装備も乏しい。どう見ても素人」
ストレートすぎて胸に突き刺さる。
女性はため息をつき、剣を腰に戻してから名乗った。
「私はアリシア。アルメスの騎士団に所属している」
「騎士団……!」
その言葉にハルトは思わず背筋が伸びた。
凛とした雰囲気は、ただの冒険者ではないことを示していた。
「最近、魔物が増えている。このあたりで一般人が歩くのは危険。……仕方ない。街まで護衛してあげる」
「え? いいんですか?」
「放っておけば危険だから言っているだけ」
アリシアの声は冷たく聞こえるが、その奥には確かな責任感があった。
だが――
(この人、絶対に攻略難易度高いタイプだ……!)
リリアとは真逆。
ツンとした態度で人を寄せつけないが、根は優しい。
典型的な「クール系ヒロイン」。
愛の力が経験値になるこの世界。
彼女のようなタイプからの好意は、きっと成長に大きく繋がる。
とはいえ――
(どう見ても簡単には落ちない……!)
ハルトは軽くため息をつきつつ、アリシアと並んで歩き始めた。
◆
歩いていると、アリシアはちらりとハルトの荷物や服装を見てくる。
「その装備……村の人間?」
「ええ、まだ旅に出たばかりで。お金も装備も最低限で……」
「なるほど。鍛えられているようにも見えないし、魔法の心得もなさそう」
「……す、すみません」
悪意はないが、言葉がいちいち鋭い。
「謝らなくていい。事実だもの」
サバサバした声。
しかし次の瞬間――
「ただ、怖がらずに村を出て、一人で旅に出ようとしたのは評価する」
「……え?」
「勇気だけは、悪くない」
ほんのわずかに、柔らかい声だった。
(あ、今少しだけ好感度上がった……気がする)
胸の奥に微かな光が生まれる。
《愛情反応:極微。経験値+3》
彼女の感情はわずかしか揺れていない。
だが、それでも嬉しかった。
ハルトは話題を広げようとするが、アリシアは基本的に無口。必要以上に喋らない。
「……あの、アリシアさんって、いつも一人で見回りしてるんですか?」
「仕事だから」
「危なくないですか?」
「危なくてもやる。騎士だから」
会話が続かない。
(きびしい……)
しかし、その時だった。
森の奥からガサッと音がした。
「下がって!」
アリシアの声が鋭く響く。
木々の間から飛び出してきたのは――
灰色の毛並み、鋭い牙。
狼型の魔物、グレイウルフだ。
二匹。
アリシアは剣を抜き、迷いなく踏み込む。
動きが速い。
無駄のない剣筋で一匹の脇腹を薙ぎ払い、そのままくるりと身体を回転させて、もう一匹の喉元に刃を突き立てた。
一瞬で戦闘が終わる。
血の飛沫が地面に落ち、狼たちが崩れ落ちた。
ハルトは驚きすぎて声も出なかった。
「……大丈夫?」
「は、はい! すごい……」
アリシアは軽く剣を振って血を払うと、鞘に納めた。
「あなたが怪我しても面倒だから。気をつけて」
そっぽを向いて歩き出す。
その背中が信じられないほど頼もしく見えた。
(かっこいい……)
その瞬間、胸がわずかに光る。
《尊敬による愛情反応:微。経験値+7》
(この人の好感度を上げるには、勇気とか行動とか……外見じゃなく内面を見てくれるタイプだ)
リリアとは違い、甘さのないまっすぐさ。
接し方にも気を使う必要がある。
ハルトは内心で深く頷いた。
(よし。次の街で彼女を仲間にするために……まずは人として認めてもらおう)
◆
そして昼過ぎ。
丘を越えた先に、街の城壁が見えてくる。
アルメスの街。
冒険者と商人が集まる活気ある都市。
「到着ね。あなたはまずギルドで登録すること。……しばらく街にいるなら、困ったことがあれば相談して」
「ありがとうございます」
アリシアは振り向き、ほんの少しだけ柔らかい目をした。
「……無茶はしないこと。あなたはまだ弱いんだから」
「はい」
言われて悔しいはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、この人の役に立ちたいと思ってしまう。
アリシアは軽く顎を引き、くるりと踵を返して街へ向かった。
その背中を見つめながら、ハルトは握り拳を作った。
(よし……次の攻略対象はアリシアさんだ)
簡単には落ちない。
だが、それがいい。
難しい相手ほど、本気で向き合う価値がある。
「まずは強くならないと……ギルド登録、行くか!」
ハルトは街へ歩き出した。
新たな出会いと、新たな冒険が、静かに彼を待っている。




