Side:ダイゼン
それは昼下がりのこと。薬草をじっくりと煎じている間の待ち時間のことだった。
いつもこの時間、エリシアは本を読んだり、薬草の様子を見たりと静かに過ごしているというのに、今日は一段と違っていた。
彼女は薬草を手に取るどころか、ソワソワとした様子で私の周りを行ったり来たりしている。
……嫌な予感がする。
この落ち着きのなさは十中八九、私を巻き込む気だ。
厄介ごとに巻き込まれなければ良いのだが、とそう思いながらも、口を挟まずにはいられなかった。隠し事はしないと、互いにそういう約束をしたから。
「どうしたのでしょうか、エリシア嬢」
「数日後に、王都で祝賀会に出ますよね。そこで表彰されるのですが……。その役、ダイゼン様にして欲しいのです」
私が聞けば、エリシアは目を輝かせて言う。まるで見え透いた罠のようだった。
「……エリシア嬢の功績なのですから、私の出る幕などないでしょうに」
面倒くさい。
そう出かかった言葉を飲み込む。私はそういうタチだ。それはエリシアも十分に理解しているはずだが、今回はそれを差し置いているらしい。どうにも、今のエリシアには後に引かなさそうな頑固さがあった。
「愛弟子の頼みなのです。どうか、お願いします……」
「愛弟子にした覚えは無いのですがな」
そればかりか、打算的に懇願してくる。
それにキツく言葉をかければ、目に見えて彼女はしょぼくれた。それは、私の諦めを求めているように。
それはあまりにも見え透いた罠だ。——見え透いた罠のはずだった。
「——まさかこの歳で白衣以外に袖を通すことになるとは、複雑ですな」
「お似合いですよ、ダイゼン様」
結局、私は彼女の頼みを断れなかった。
決して、エリシアが可哀想に見えたとか、エリシアを騙していたことの赦しとかではないのだが、やはり、彼女には抗えない何かがあって、自分が折れてしまったことに、皮肉めいたため息がこぼれる。
重い腰を下ろし、鏡に映った自分の姿を見る。それは新鮮で、まるで自分とは違う誰かのように見えた。
……医師という立場はこの先、どうなるのだろうか、と想像する。
今の聖女のような重要な役割を担うようになるのだろうか。そうしたら、この功績が始まりにもなるはずで、当然、国王の名のように歴史に名を刻むことになる。それが誰かに譲られた席だとしても。
そう思えば、自分の立場は酷く曖昧で、滑稽で、鏡の中の自分さえ、私を嘲笑しているような気がした。
「それ……行きま……か」
「……どう……した……」
「実は……ういう場には慣れ……だ」
エリシアの話し声も、それに返す自分の声も、途切れ途切れに聞こえて曖昧に耳に残って、恐怖やら緊張やらで体が上手に動かせない。
そればかりか、それらに支配されて、自分の存在すらも曖昧になるような気がした。
動揺からか視界は掠れて、呼吸は忙しなく、鼓動の音だけが嫌に耳に残った。
そんな曖昧な世界の中で、ふいに名前を呼ぶ声がする。
「大丈夫ですよ、ダイゼン様。私が、愛弟子が着いていますから」
それは、励ましにしては簡単な言葉だった。誰にでも言えるような、そんな軽く、浅い言葉だ。
だから、これも見え透いた罠だ。そのはずだ。
けれど、張りつめていた糸がふっと解けて、呼吸が整う。
……結局、見え透いた罠であろうが、彼女にはいつだって敵わないらしい。
「……愛弟子がそう言うなら仕方ないですな」
そう笑みを見せた途端、エリシアも勝ち誇ったように笑った。どうやら老医師の尊厳とやら失われてしまったらしい。まあ、それでも悪くはない。——弟子の笑みが見られるなら。
———
「ふう、ようやく終わったか……」
拍手の余韻がまだ耳に残っていた。
どうやら、緊張のせいで表彰台にいた時間をまるごと記憶から飛ばしてしまったらしい。
……いや、思い出したくもなかった。数々の視線にギラつくシャンデリア、鳴り止まない音楽——。そう言った華やかさよりかは断然、薬草と向かっている静かな時間の方が好きだった。
まあ、そういう自覚が出来た点では良かったのかもしれない。けれど、次に同じ機会があれば、今度こそエリシアに譲ろうとも思う。
彼女は大広間のその華やかさを眺めていた。その視線を辿れば、令嬢に囲まれたエルンがいて、彼は赤くなった頬を晒している。
エリシアの笑みの端がほんの僅かに引き攣った。……嫌な予感がした。
エリシアの気持ちはもう十分に知っているつもりだ。だから、彼女のその嫉妬心も分かるが、これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは御免だった。
彼女の嫉妬心に目を瞑って、会話をしていれば、不意に落ち着ういた調子の男の声が割り込んだ。
……名をユリウスといったか。彼は最初こそ、私と薬学の話をしたそうにしていたが、今ではすっかりエリシアとの会話に夢中らしい。
その光景を見ながら、紅茶を啜り、目を細めた。
そして、一息吐いて、思う。どうやら、また厄介な火の粉が飛んできそうだ。
「二人で話す会話もあるだろう。私は少々席を外すとするか」
その火の粉を嫌って、建前を言って、そそくさと去る。瞳に陰りを落としながら。
エリシアたちから逃げるように、大広間へと向かっていた。
もっとも、来たところですることなんてなく、ただ壁によりかかって大広間のその景色を眺めるばかりだった。
そして、景色を眺めていると、大広間の中心で
は、いまだ令嬢たちに囲まれているエルンの姿があった。けれど、その顔には一抹の嫌気があって、今にでも抜け出したいような表情を見せている。
……エリシアはきっと気づかないだろうな。
それでも、自分で声をかけに行くのは面倒くさく、それよりももっと静かな場所を求めていた。
「こんばんは、ダイゼン」
この場から去ろうとして、不意に声がした。それはどうやら私を呼んでいるらしく、その声を聞いた瞬間、胸の奥で嫌な予感がした。
「……セレーネ嬢ですか」
逃げ損ねたらしい、と心の中でぼやく。
「あら。ただ、優秀な医師に挨拶しに来ただけなのに、そんな嫌そうな顔しなくても良いでしょう」
顔に出ていたらしい。
「申し訳ない。少々、厄介ごとが続いていて……」
「私のことを"厄介ごと"呼ばわりかしら」
「まさか、そんな失礼な真似は。……ほんの少ししか思っておりませんよ」
「少し、ね?」
セレーネは唇の端を上げ、ワイングラスを軽く揺らした。透ける紅が灯りに反射して、彼女の瞳にも熱を移す。
その動作は令息に向ければ、視線を逸らせないほど釘付けにするものだろう。
ただ、残念ながら、あいにく私は老人だ。
「……結局、あなたが王命を果たしたのね」
「……それはどうでしょうかな」
視線を合わせず、言葉を返す。
煌めく大広間の喧騒が、遠く水の底で響くようにぼやけて聞こえた。
胸の奥に、ほんの僅かなざらつきが残っていた。そのザラつきは単に、この秘密のせいだろう。それを一人で抱えるには少し荷が重かったのかもしれない。
「……本当はエリシア嬢が王命を果たしたのだ。私はそれを譲られただけで、あなたが言うような『優秀な医師』ではない」
言葉にしてしまえば、それはあまりにも容易く、そして取り返しのつかないことのように思えた。
セレーネは一瞬、驚いたように瞬きをして、それから小さく笑う。
それは——嘲りでも同情でもなく、どこか見抜いていたような静かな笑みだった。
「そう。あの子も随分と大人になったのね」
「笑わないのか。私は優秀な医師でもなんでもないんだぞ」
「笑ってほしいの?……私にはそうは見えないのだけれど」
グラスの縁に映る灯りが彼女のまつ毛に揺れた。
どこまでも見透かしたようなその眼差しに、私は言葉を探して——結局、沈黙を返すことしかできなかった。
沈黙の間、音楽の残響が遠くから流れ込み、ガラスのように割れた心の底を撫でていく。
セレーネはそのまま視線を外さず、ゆるやかにワイングラスを傾けた。
「……あなたは十分、優秀な医師よ」
彼女の指先がグラスの縁をなぞる。その仕草に合わせて、深紅のワインが小さく揺れた。
ほのかに甘い香りが立ちのぼり、その香りの奥に、静かな声が滲む。
「あなたが居なかったら、エリシアは医師としての才能を開花させることは出来なかった。精々、そういう知識がある都合のいい令嬢くらいのままで、自分の思うままの人生を歩むことも出来なかったと思うわ。だから、これは全部、あなたのおかげよ」
その言葉は意外なほど穏やかに、まっすぐ胸に届いた。
ワインの香りとともに残る声が妙に心に染みて離れない。
「……そうか」
それだけがようやく絞り出せた返事だった。
グラスの中で灯りが揺れ、セレーネの瞳の奥に小さな笑みが浮かぶ。
「それじゃあ、そろそろ戻ろうかしらね」
その瞳がふと、こちらに向けられた。夜会のざわめきの中で、彼女の視線だけが妙に静かだった。
「それはそうと、ダイゼン」
彼女は柔らかく微笑む。その笑みは柔らかいのに、どこか試すようでもあった。
「かしこまった話し方より、そういう砕けた口調の方が、私は好きよ」
——静寂。
一瞬、返す言葉を探したが、彼女はそれ以上何も求めず、ただ微笑を残して人混みの中へと消えていった。
僅かなワインの香りと彼女の甘い香水の匂いが残り、胸の奥をかすめた。
やはり、どうにも彼女は苦手らしい——。そう肩を竦めたところで、不意に声がした。
「ダイゼン、やっと見つけた……」
いつの間にか、令嬢たちの輪から抜け出したエルンがいた。どうやら休む暇はないようだ。
「どうしたんだ、エルン」
「……そんなぶっきらぼうな口調だったか?」
私が不機嫌に言葉を返すと、エルンは目を細めてこちらを不思議そうに眺めていた。その視線は鋭く、その勘の良さをどうしてエリシア相手に発揮できないのだろうか、と心の中で小さく舌打ちをしてしまう。
疲労は声にも滲んでいた。
「面倒ごとが立て続けにあって、疲れているんだ」
「それは私もか?」
「ああ、もちろんそうだ」
口に出した瞬間、投げやりな響きになったのが自分でも分かった。
案の定、純粋に聞いてきたエルンは少し眉を下げ、困ったように唇を噛む。その反応がいかにも彼らしくて、余計に気まずく、ため息がこぼれた。
「……で、何の用だ」
エルンは少し息を弾ませながら、慌てて周囲を見回した。
「そうだ、エリシアを探しているんだ。少し、話をしたくて。ダイゼンの近くに居ると思ったのだが……。知らないか」
ため息を吐く。どうやら、まだ厄介ごとに巻き込まれるようだ。
「……まったく。着いてこい」
それでも断れないのは、エリシアに対する懺悔とか後ろめたさとか、そういう借りみたいなものが邪魔しているせいだろう。とかく、私は彼女の見え透いた罠にまだ囚われているらしい。
二人で大広間を抜け、静かな回廊に出た。
人の気配は遠く、窓の外では月光が揺れている。
「ここに居たはずなんだがな……」
自分が座っていた席に着けば、エリシアたちの姿は無かった。あるのは紅茶と食べ終えられた皿だけだ。
「少し席を外しただけなのだろうか」
エルンがそう吐露する。
それだけであればいいのだが、と案じながら、周囲の匂いを嗅いだ。
そうすれば、彼女の残した紅茶の匂いが鼻を掠める。
そして、その中に混じるようにある、微かな薬草の香り。それは確かに、彼女のあの地味な衣服と同じ匂いで、少し遠くの方から夜風に乗るように、香っているようだった。
「……エリシア嬢はユリウスという昔馴染みの男と一緒にいたはずだ。きっと今頃、ベランダで話を楽しんでいるかもしれないな」
言いながら、風の方を見た。薬草の匂いは淡く、火の粉で焦げている。
「昔話とか薬学の話とか——それこそ、婚約話とか」
言葉は夜風に溶けた。
エルンは小さく息を呑み、唇を噛む。
その表情を見れば、怒りだとか痛みだとかそういう感情が渦巻いているのが分かった。
「ダイゼン、案内してくれ」
彼の瞳が真剣にこちらを見る。
それでも、声は震えていて、人にものを頼むにしては恐怖に支配され過ぎているようにも思えた。彼にとっての最悪な結末が前のめりに出ているのだろう。——それは私も同じだ。
「着いてこい」
そう一度言った言葉をもう一度引き摺り出して、背を向ける。夜風はやはり火の粉で焦げた薬草の匂いを運んでいるようだった。
やがて、夜風に誘われて、ベランダへとたどり着く。そこには確かに、エリシアとユリウスが居たが、エリシアの表情は恐怖に支配されたように怯え、逆にユリウスの表情は欲に溺れたように嬉々としていた。
「……随分と無作法な真似をしているな」
エルンのその声がこの場の張り詰めた空気を裂いた。
エリシアは一瞬、怯えたように振り返り、それでも、彼の姿を見つけた途端、僅かに表情を和らげた。
誰の目にも、彼女がユリウスから離れたがっているのは明らかだった。
けれどユリウスだけは彼女の感情を無視して笑い、そればかりか、エルンに挑発するような言葉を返す。
それに応じるように、エルンの声が荒くなる。
言葉が交わされるたび、二人の間の距離が詰まり、当のエリシアはただ怯えたまま、蚊帳の外に立たされていた。
「嫌です」
エルンとユリウスの声を遮るように、エリシアが言った。その声音はゆらりとした冷たさを帯びていた。
案の定と言うべきだろうか。彼女は怒りを爆発させ、言葉を重ね連ねる。
そして、不意に言った。
「私はエルン様のことが大事ですよ」
その一言で、場の空気が変わる。
まるで、張り詰めた糸が一瞬で切れたように。
ユリウスの顔が引き攣り、エルンは何かを言いかけて言葉を失った。
私のような部外者から見ても、それは紛れもない告白の言葉に聞こえた。
「エリシア、それはどういう——」
「ユリウス」
私は小さく名を呼び、視線を向ける。
ユリウスは欲に濁ったような表情をしていた。そんな彼にはもう、エリシアに声を掛ける資格は無いと思えた。
「少々、遠くで話そうか。若造にはまだ話したいことがあるからな」
面倒ごとであることはとうに分かりきっている。それなのに、どうして手を貸そうなどと考えしまうのだろうか。
それはひとえに、エリシアに対する懺悔とか後ろめたさとか、そういう借りみたいなものが胸の奥にあって——。
いや、そうでは無いのかもしれない。胸の奥を探って、自分の思いを感じて、少し笑みがこぼれた。
背を向け、月光に影を伸ばす。
……懺悔でも、後ろめたさでもない。これはただの自己満足だ。




