29.Side:エルン
「——死ぬのが、怖くなかったのだろうか」
風がどこからともなく吹き抜け、池の水面が小さく揺れる。その揺らぎに遠い記憶が滲んでいくような気がした。
「……君はどうだろう?」
ふと呟いた疑問に彼は小さく唸り、少し考えてから言った。それは答えから逃げてるようにも思えたが、彼は私の答えを待ちわびているかのようにこちらを眺めている。
「私は、怖いと思っている。お父様にも、それ以上に民にも迷惑をかけてしまうし、死んだ後は何も残せないから」
「それは違うんじゃない?」
と、彼は否定し、言葉を続けた。
「こう、思うのはどうだろうか。自分が遺したものは沢山あって、それを誰かが見つけて、引き継いで、語り継いで、十年、二十年……終いには、百年、千年と自分は生きられる!って。そしたら、自然と遺したものも大切に思えやしないかい?」
彼はにこやかな笑みで言った。
それでも、彼がそう自信ありげに言えるのは何かを残したからで、余計なことばかりを残してしまった私には到底、理解のできないことのように思えた。
「もし、私が何かを成し遂げていたら共感できたのかもしれないな。けれど、今の私は何も成し遂げていない」
ただの事実を言葉に並べただけで、胸が締め付けられた気分だった。
王命も果たせず、疫病に苦しむ民を救えず、それどころか疫病に呑まれる始末。そんな愚な自分が酷く腹立たしく、王命を果たすだとか、民を救うだとか、そういう豪な未練を残そうとするのも甚だしい立場のように思えた。
「いずれ報われるさ。君は自分が思うよりずっと聡明でいて、頑張っているからね」
口先だけの慰めの言葉は必要以上に胸を抉った。それだけで、涙をこぼしてしまう自分に嫌気が差してきてしまう。
「分からないだろ」と、誰に向かってなのか、それすらも分からず呟いた。
「いいや、分かるさ。君が不器用でいて頑張り屋なところも、無愛想でいて正義感が強いところも、何もかも全部。私は君のすぐ側で見てきたから」
彼はおどけてみせ、純粋そうな笑みを見せた。
「すぐ側で見ている」なんて、冗談だとは分かり切っているはずなのに、本当に側にいてくれたら心強いのに、とも思ってしまう。
「冗談なんか言うなよ……」
彼と話せば話すほど惹かれていき、惹かれれば惹かれるほど、冗談を冗談として受け止めたくなくなる。
そのくせ、口からは認めたくないようにでまかせを吐いてしまって、そんな自分が酷く惨めに映った。
「冗談なんかじゃないさ」
しかし、彼は真剣な眼差しで、ふと。
懐から一輪の枯れた花を取り出した。それは随分と見慣れていた花だった。彼からもらった薬学の本の栞の。
そして、彼は枯れた花を池の水面に落とす。
ヒラヒラと舞い落ちた花は水に触れると、瞬く間にその本当の姿を見せた。
蔦が生き物のように蠢き、地面を這い、やがて生気に満ちたように花開く。それはずっと眺めていたくなるほど幻想的でいて、儚い美しさを誇らしげに持っていた。
——ずっと側にいたのだ。彼が遺した願いは。
「そういえば、君の問いにまだ答えていなかったね」
その美しさに見蕩れていれば、ふいに彼は呟きを声にした。
「僕はもう死んでいるし、現実とは直接には関われない。けれど、新しい花が咲くように僕の願いを遺していくことはできるでしょ?」
その言葉に合わせるように、池の水面の光がふわりと広がり、先ほど咲いた花々の間から細かな芽が次々と顔を出した。淡い光がその一つ一つに宿り、まるで彼の願いが形になって芽吹いているかのようだった。
「遺した願いを引き継いでくれる人は必ず訪れる。だから、死ぬのは怖くなかった。その日が一年十年……、何年先になるかは分からないけど、僕の場合はけっこう早かったみたいだ。君が随分と良い医師を見つけてくれたからね」
彼はその指先で咲き誇る青白い花弁をそっと撫でるように触れた。花は揺れ、鱗粉は淡い光を落とし、彼の周りを自由にたゆたっている。その光景は現実ではありえないほど、神秘的な幻で。
だからこそ、夢の彼は言えるのだろう。
「エルン、僕と約束して欲しい。僕が遺した願いの花に光を。そして、良い医師と共に歩むことを。薬学は一人っきりでは大成しないからね」
と。
彼はいたずらな笑みを浮かべながら、また、花に触れた。
花は彼の思いに答えるように、淡い光を強くしていき、目を覆いたくなるほどの光が辺りを包み込む。
次第に彼の姿を、風も水面も蝶も、何もかもがうやむやと、遠のいていく。
まだ話したいことがあるのに、と彼に触れようとした瞬間——
目が覚めた。起きた体から伸びた手は何かをつかもうとしたまま宙ぶらりんになっている。
風の音も、水面が靡く音も、蝶の羽音も、何もかもが消え、代わりに雨が地面を打ち付ける音と激しい胸の鼓動の音が耳に届いた。
夢だったのか、と思いながら肩を落とし、その手を降ろせば、ふいに何かに当たる。エリシアだった。
彼女はベッドの傍らに膝をつき、頭をたれていて、その目は何度も泣いたように腫れていた。それを見れば、いやでも自分が迷惑ばかりをかけているらしい、と憔悴してしまう。
彼女の頬に指を添える。彼女は惨めな私に嫌がる素振りも見せず、それをただ優しく受け止めてくれた。
彼女はとうに、私と同じ方を向いていたというのに、私はそれすら気付かずに、馬鹿みたいに急ぎ足で、歩幅も合わせずにいたらしい。
独り善がりな自分自身を変えなければならない。彼女と歩幅を合わせて歩くために。




