27.
エルンの荒く不整な呼吸と静寂に包まれた問診所にポツリ、と水桶に水滴が落ちる音がやけに響いた。
彼の胸に触れれば、火照った彼の体から立つ熱気が嫌に指先にまとわりつき、その先で不規則に打つ鼓動が彼の弱々しい姿を綺麗に際立たせていた。
生きている。が、それはもう長くない。
彼も教会で見た、疫病の成れの果ての無機質な何かのようになるのだろうか。そして、最期には——。
そういうのを想像して、彼の安らかな表情を見れば、胸が締めつけられた。それに何も為せない自分が酷く惨めに、そして滑稽にも思える。
久しく会っていなかった彼にようやく会えたと思ったら、こうだ。結局は民を救おうと積み重ねた薬の知識も、身近な人一人守れやしない。そんな役立たずな知識で何ができるというのだ。
枕元に置かれた一冊の薬学の本を手に取った。
……思えば、最初からだ。最初から薬学に触れてさえいなければ良かったのだ。そしたら、私はカリスに会うこともなく、エルンと会うこともなく、こんな衰弱し切った彼の傍らで、無力を嘆くこともなかった。
こんな、無駄な知識ばかりを積み重ねなければ良かったのだ。
こんな、お遊びに興味を持たなければ良かったのだ。
視界は滲み、よく分からない。しかし、本を持った手が震えながら、振りかぶっていることだけは理解できた。それはひとえに憎みからで、息が荒れ、喉の奥から嗚咽とも怒声ともつかない音が漏れる。
「——こんな、ものなんて……!」と。
「エリシア嬢、落ち着いて下さい!」
逃げ場のない自分に対する怒りを本にぶつけようとした瞬間、セリンが制止の声を上げた。そして、彼女の冷たい手が肩を強く掴み、私の火照った体を押さえ込む。
それから抜け出そうと必死にもがくが、火照った体はやけに力が入らず、手からは抜けるように本が落ちた。それはやがて、水桶の水を派手に跳ねさせる。
「エルン様も安らかに眠っておられます。症状が少し和らいだだけでも、今はそれで十分ではないですか」
「十分じゃない!」
セリンの言葉を塞ぎたくて、体も声も荒らげた。声は震え、涙のせいか掠れていたが、それでも、私の声だけは強く響く。
「十分じゃないんです……」
最後の力を振り絞って、か細い声を漏らす。体の力は抜け、尻は床にぺたりと着いた。その床にはこぼれ落ちる涙の跡がじわりと広がり、自分の無力さをいやなほど痛感した。
結局はセレーネからの王命も、薬学がお遊びではないという証明もエルンと交した約束さえも果たせない始末で、医師としても貴族としても、何もかもが十分ではなかった。
そんな自分が不甲斐ない。それどころか、彼が差し出した手も、膝に感じた温もりも、横顔も全てを蔑ろにしてしまっている事実に恐怖すら感じる。
それに——。
「エリシア嬢……」
泣く理由ばかりが頭の中を駆け巡れば、ふと、目の前が暗くなった。暖かい感触に包まれながらもそれを理解出来ずにいると、セリンは子供をあやすかのように優しい声音と共に、私の頭に指を這わせる。
どうやら慰められているらしい。
涙がとめどなく溢れるというのに、安心に包まれているこの状況が嫌だった。子供が駄々をこねるように、離して、とせがむが、力の抜けた腕では上手く抵抗することは出来なかった。
「十分頑張っておられますよ、エリシア嬢は。今は願うだけです。エルン様が回復するその時まで」
セリンの優しい声も言葉もいやに、それでも、心地よく耳に残る。
彼女の優しさが分からなかった、受け止めたくなかった。
聖女のように願うことしかできないのなら、むしろいっそ突き放してくれ、とさえ思う。
薬草になれない雑草ごときの私なんて——。
「——っ」
セリンの胸元に抱かれながら、その衣服を涙で濡らしていると、ふと、セリンは私の震えを抱きしめたまま、驚きの声を飲み込むように、かすかな吐息を漏らした。
「エリシア嬢、あちらを見てください」
胸の鼓動は早く脈打っているが、それでも、声は落ち着きを払っている。
そして、セリンに促されて、彼女の指さす方を滲んだ視界のその先を見た。
その光景を見た瞬間、目を見開いた。それはあまりにも、神秘的で、幻想的で、それでいて非現実的だった。
薬学の本のページの隙間から仄かに明るい蔦が伸びていたのだ。それは生き物のように蠢き、瞬く間に成長し、本を飲み込むように覆い尽くした。そして、それはやがて、青白く仄かに明るい綺麗な花を咲かせた。
——その花の名前を私は知らない。




