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26.

雨脚が弱まったと言っても、依然として雨は私たちを濡らしていた。

呼吸は熱く荒れ、雨で冷やされても胸の奥は焼けつくように痛んだ。歩けば歩くほどに衣服は濡れ、ずっしりとした重みが背中から伝って、その足取りさえ重くしてくる。


それに、視界をまばらに覆う雨粒の帳が目的地までの距離をなおも遠く感じさせていた。街道はぬかるみ、靴の底に重くまとわりつく。このまま、雨と泥と一体になってしまうのではないか、とさえ思う。


急がねば、と焦りが出て胸の鼓動が一層早く、強くなった。それでも、背中から伝わるエルンの鼓動は弱く、私の早くなった鼓動を分け与えられたら良いのに、と思ってしまう。

それは一番現実的ではないはずなのに、今では一番彼を助けられる案に思えてしまうのは、私が心の奥底で微かに、恐れてしまっているせいだろうか。


雨粒の先に見える問診所はほのかな灯りを漏らしていた。ダイゼンも居ないはずなのに、誰がいるのだろうと思う。

その灯りにつられるように部屋に入れば、セリンが暖かいお茶を淹れ、待っていた。


「エリシア嬢、随分と遅く……」


小言を言おうとした彼女の口はすぐに結ばれ、声を呑み込んだ。

どうやら、エルンを背負った私と彼の姿を交互に見て、会話をするような状況ではないと察したらしい。

彼女の不安は言葉を紡がなくても、眉を寄せたままの表情がそう雄弁に語っていた。


エルンをベッドに横たわらせ、ぐっしょりと濡れた衣服を脱がす。彼の体は心配になるくらいに痩せていて、こんな体では薬すらまともに飲めそうになかった。


「セリン様、粥の材料を持ってこれますか。薬草入りの粥を食べさせたいのです」


「承知致しました。ただ今持ってきます」


セリンが足早に材料を取りに行ってから、私はもう一度彼の身体に触れた。

雨水も汗も混じった体は熱く、布で拭っても拭っても、止めどとなく汗が吹き出ては痩せた体に沿って、滴っていく。


明らかに、これは街の流行り風邪とは違う病気だった。現実になってしまった不安に、思わず目を背けたくなってしまう。

それに、試作品も効きはしないだろうし、助ける秘術を持ち合わせている訳でもなかった。

ただ、あるのは彼を助けたいという、淡く儚い願いのみであった。


セリンが戻ってきてから、セリオン草やガンダリ草、ソムノラ草など沢山の薬草を粥に落とした。鍋からは湯気とともにほろ苦い香りが立ちのぼり、焦る気持ちをよりいっそう煽る。

一匙でいい、一口でいい。どうか彼がそれを受け入れてくれれば——。


「エルン様、起きられますか。粥を準備致しましたよ」


冷ました粥を唇に近づけると、エルンはかすかに眉をひそめながらも喉を震わせていた。

口に出したいのに言葉が出てこないもどかしさの中で、彼は何度も喉を震わせては何かを伝えようとしている。


「ゆっくりでいいですからね」


エルンの弱々しい姿を見るのは胸が痛んだ。それ以上に、何も出来ない自分にも、酷く嫌気がする。

私は彼の額を撫で宥めながら、冷めた匙を口に運んだ。そして、ようやく彼の口に一つ粥が落ちていったかと思えば、その瞬間、激しい咳と同時に粥が床に散る。


「……無理はしなくていいですから」


私の言葉にエルンは弱々しくも頷きを返した。

そして、粥を小さく一口、二口と飲み込む。ようやく、食事が喉を通れるようになったのかと安堵したが、三口目を飲み込もうとした瞬間、苦しそうに吐き出してしまった。


私は彼の額をもう一度撫で、粥の椀を机の上に置く。

幾分か粥は喉を通るようになった。それでも、吐いてしまう以上は彼の体力を消耗させてしまうだけで、得策ではないのは確かだった。

それでは、何が出来るのだろうか、と考える。


もう薬は飲めるのだろうか。液体にしたら飲めるかもしれない。ただ、与える薬があるのか分からない。

そんな浅い考えをブツブツと唱えては捨ててを繰り返していると、ふと。


「……ない、……シア……」


エルンの喉から微かに声が漏れた。

それは喉の奥で擦れ、途切れ途切れにしか響かず、言葉にできないもどかしさをなおも残しているようだった。

私は駆け寄り、音にならない声を必死に紡いでいるようで、私は一語一語を逃すまいと唇を凝視した。

その唇は血の気を失って青白く、呼吸のたびに胸が不規則に上下する。

それでも、弱々しい声で。彼は言う。


「すまない、エリシア……。もう….…」


と。

そして、また目を瞑る。苦しげに息を荒らげながらもその表情は夢の中が心地よいかのように、安らかに優しくて。

その表情に、ポツリと胸の奥で冷たい何かが固まり始めるのを感じた。

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