24.Side:エルン
結局、一晩考えてもそれへの明瞭な答えは得られず、私は一人で教会に向かった。
その教会の敷地に足を踏み入れれば、まるでそこだけが異世界を切り取ったような、妙な雰囲気を感じる。
しかし、嗅覚だけは現実的に働き、その腐敗臭のようなものだけを否応なく、鼻に取り込んだ。吐き気を抑えながら進むが、不意に見えた腐敗した肉塊のせいで吐く。吐き続け、ついには吐くものが無くなった。
「そんなところで何をしているのですかな。エルン様」
それを何度も繰り返して、出るものも無くなれば、ふいに老いた男の声がした。ダイゼンであった。
「そちらこそ、何をしている。こんな山奥で……」
警戒心を募らせながら聞けば、ダイゼンたちはフォルセイン領に来た当日に、お父様からこの教会のことを教えられた、と言う。そして、疫病を無くすように、命を預かったらしい。
私とエリシアとは違う責務を与えられたということだ。そんな事実に嫌気がさしたが、それと同時に安堵した。こんなところで一人で居ては、胃の中をひっくり返すことくらいしかできないからだ。
とかく、私は教会の診療所まで彼の背中に着いていくことしか出なかった。
そして、そこには病人というより、生と死の狭間に縛られた影の群れがいた。
それらはかすかな咳に混じって、血の混じった赤黒い痰を吐き出している。その様子は街の病とは違う惨さを帯びていて、ただ生きながらえているだけの姿も、この世のものとは到底思うことができなかった。
それでも、前よりかは幾分か衛生的になり、今では患者の容態を個室で丁寧に診られるくらいには改善されたらしい。今でも十分に荒れ果てているというのに、前まではどんなに悲惨だったのだろうか、と想像する。
それを想像すればするほど、こうして私が数日の間、手伝いに徹していられるのも彼のおかげなのだろう、と深く感激した。
「エルン様、少し休憩致しましょうか」
診察に一つの区切りをつけると、ダイゼンがふいに立ち上がり、セリオン草のお茶を淹れた。その薬草の香りは嗅ぎ慣れた匂いで、一度飲めば一杯に胃を満たした。
そして、ダイゼンは笑みを見せながら言う。
「エルン様が来て数日、診察のスピードが格段に上がりましたな。今までは老いぼれ四人で回しておりましたから」
「いやいや、私はほんの小さな手伝いしかやっていない。それに、私よりエリシアがいた方がよっぽど効率が良いだろう」
「エリシア嬢ですか……。彼女はまだまだ若いですし、将来がありますからな。愛弟子をこんな所に誘えるほど、私たちも無責任ではないのでね」
私が返した言葉に彼は一瞬、困ったように言葉を詰まらせていたが、彼はすぐに取り繕ったように笑みを見せた。
その言葉に一つ思案する。
「……お父様もそう思っていたのだろうか」
ふと、口から言葉が零れた。
単に私の能力を疑ったのか、認められていないのか。そういう貴族の跡取りとしての評価ばかり気にしていたが、お父様はもっと私的で、親としての優しい感情で、黙っていただけなのかもしれない。
そう思えば、苛立ちを隠せなかった自分が情けなく、幼稚に思えた。
「ここに居ない方が良い、とそう思うかもしれません。ただ、エルン様は少し正義感が強く見えます。私たちが追い払おうにも、拒むでしょう。困ったものですが、若者の行動力も我々にとっては大事ですから、強くは言わないでおきましょう。……ですが、一つだけ。医師として忠告をしておきましょう」
老いた瞳がふっと細められる。そこには、厳しさよりもむしろ、親のような温もりが滲んでいた。
「エルン様はここ数日、休む暇もなく、根を詰めすぎているように見える。行動力があるのはいいことですが、少しばかり休憩を挟んでも良いと思いますよ」
彼の優しい声に導かれるようにふと肩の力を抜けば、自分の胸の奥に鈍い疲労が溜まっていることに、ようやく気づいた。
ただ、その疲労は枷ではなく、むしろ心を満たす糧のように温かく感じられた。
セリオン草のお茶を一口飲めば、幾分か疲労は軽くなった、そんな気がした。
そして、早朝に教会に向かっては夜遅くに帰るという日々が続いた。その中でも疫病に対する明確な答えは一向に出ず、疲労感だけが積もっていた。
今日の作業は薬草が無くなって少し早く終わり、その疲労感も少しは回復しそうだった。
雨さえ降っていなかったら、今日にでも薬草を取りに行けたのに、とも思うが、ダイゼンなりの優しさなのだろう。彼はいつも、遠回しに私を休憩させようとしてくるから。それなら甘えるのが筋なものだろう。
「……そろそろ帰るとするか」
外を見れば、雨空のせいで薄ら暗くなってはいるが、思ったよりも明るく感じる。
思えば、こんな早い時間に帰るのは久しかった。
帰ったら、エリシアのところに顔を出すのも悪くない。
ここ数日、会話すらしていないから、彼女の声を聞くだけで、懐かしいと感じるかもしれないし、枕元に置きっぱなしになった薬学の本も読みたい。最近は何かと薬草の知識が求められるし、それを読みながら、薬草の懐かしい匂いに触れ、少しばかりの休息を得たかった。
そんなことを画策しながら、消毒液を手に取る。その指先がなぜだか、かすかに震えているのに気づいた。
そして、消毒液の匂いはいつもより強く鼻を刺し、身体がその刺激を拒み、ぐらりと視界が揺れた。咳が喉を裂くようにこみ上げ、膝が折れた。口からなにかが吐き出される。血だ。
疫病——と、その言葉に頭が拒絶する。
しかし、耳の奥で遠い鐘の音のような響きがいやに広がり、力を入れたはずの腕からは消毒液の瓶が滑り落ちた。
瓶が割れる甲高い音が聞こえるはずだというのに、耳はまだ鐘の音のような響きを残し、まぶたは重くなる。
視界が、世界が静かに遠のいていった。
その最中、微かに遠くから声が響く。
その声はこの場所にはいないはずの、優しく、懐かしい声であった。




