20.Side:エルン
朝の霧が静かな街を薄く包み、湿った石畳の上で二つの小さな靴音が響く。
やがて、一つの民家の前まで足を運べば、私は深呼吸をした。吐く息は白く揺れ、まるで緊張の震えを映すようだった。
この家は疫病が流行る前、何度か訪れたことがある。その記憶を辿れば確か、子どもの騒がしい声が絶えない家という印象だったはずだ。ただ、今はそれが嘘のように静まり返っていて、その記憶も夢だったのかと思ってしまうほどだった。
「おお、お二人さん。来てくれたのか!」
しかし、窓の奥から弾むような声が響き、緊張で強ばった身体がふっと緩んだような気がした。なんだ、と安堵する。
「——行きましょうか」
エリシアの声に促され、私は扉に手をかけた。扉に触れると、湿り気を含んだ木の手触りが指先に伝わった。
「おふた方!朝早くから済まないな!」
家に入ると早々、この家の主人マルフが声を張り上げ、言った。口元の皺が深くなり、目尻まで笑みが広がっていて、その表情からは嬉しさが込み上げているように見えた。
「患者様はどちらに?」
「娘ですか?娘なら自分の部屋で寝ておりますよ。薬を飲む前はギャーギャー喚いていたのですが、今は薬が効いて、ぐっすり眠れるようになったんです。医師さんには感謝しかありませんな!」
エリシアが問えば、マルフは待っていたかのように、息継ぎを忘れ、言葉を溢れさせた。それに、彼女は困った表情を見せつつも、嬉しさを噛み締めたような笑みを零す。医師として、誇らしいのだろう。彼女の横顔はやけに眩しく見えた。
思えば、私はただ、エリシアの後ろ背にいるばかりだった。それに対して、彼女は民に慕われ、感謝の言葉を貰っている。
その輪の中に私はおらず、ただ、疎外感とも羨望ともつかぬ感情が胸を締めつけた。
……もし彼女の隣に立つなら、ただ見守るだけで良いのだろうか?
「それでは、私はお子さんの様子を見てきますね。……エルン様はどうなさいましょうか」
「ついて行っては駄目なのか」
「ダメですよ。エルン様は貴族なのですから、病が移ったりしたら、大変です」
きっぱりと告げる彼女の声音は私情を差し挟まぬ、医師としての厳しさをまとっていた。それでも、と食い下がろうとすれば、マルフがとっさに声を上げた。
「それなら私と話でもして、待ってましょうか。大したもんは無いが、付き合ってくれ!」
マルフは豪快に笑うと、卓上に木椀を置いた。擦り切れた器に注がれた温かいお茶から、薬草の匂いがふわりと立ち上る。
「医師さん。娘を任せましたよ!」
そう言う彼の声は、家の中の静けさに不思議な安心を混ぜ込んでいた。その響きに、私自身も救われるような気がした。




