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妊娠の夢

作者: 雉白書屋

 ――あっ、うふふ。ほら、触って。お腹を蹴ってるわ……。


「うおっ……夢……か……夢だあ……」


 目を覚ましたおれは、そう呟き、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら安堵の息を吐いた。


「まただ……またあの夢だ。あの女……」


 このところ、毎晩のようにあの夢に悩まされている。すべての始まりは、あの夜だった。

 夢の中で、おれは一人の女を抱いた。透き通るような白く滑らかな肌、艶やかな黒髪、吸い込まれそうな深い瞳――。現実なら誰もが振り返るような完璧な美女だった。匂いも、肌の温もりも、息遣いまでもが妙に生々しく、目覚めたあとには夢だったことを本気で残念に思い、しばらくはその余韻に浸ったものだ。

 夢というのは、脳の奥底に沈んでいた記憶や意識がかき混ぜられ、表面に浮かび上がってきたものだ。だが、あんな美女と会った覚えはなく、不思議に思った。そして、もう二度と会えないのだろうとも。

 しかし、それから数週間後、あの女は再び夢に現れた。


『あたし、妊娠したの。うふふ』


 満ち足りた笑みを浮かべながら、彼女は自分の腹をそっと撫でた。自己陶酔に満ちた、気持ちの悪い手つきだった。

 おれは動揺しながらも、どうにか取り繕った。口先だけの相槌と愛想笑いでその場をしのぎ、目が覚めたときには全身が汗でびっしょりだった。あのときは「夢でよかった」と、心の底から安堵した。

 だが、それ以降も彼女は夜な夜な夢に現れるようになった。しかも、日を追うごとにその腹は大きくなり、態度も妙に妻らしくなってきた。

 エプロン姿で台所に立ち、にこやかに微笑む彼女。食卓には朝食が並び、わざとらしく「つわりが……」とこぼし、こちらの反応をじっと伺ってくる。

 いったいなんだってこんなおぞましい悪夢を見るようになったのか、自分でもさっぱりわからなかった。

 おれは結婚なんて一度も真剣に考えたことがない。三十代に入ったことで、無意識のうちに結婚や出産に対する焦りがあるのだろうか。世間の目、親からの期待、家庭を持てという見えない圧力。あの女は、そうしたものの象徴なのだろうか。

 そういった抑圧に抗うように、おれはむしろ現実で女と積極的に関係を持とうとした。恋人未満の関係をいくつも重ねれば、その不安も薄れていくはずだと、自分に言い聞かせた。

 だが、さすがというか当然というべきか――彼女にはおれの行動がすべて見透かされていた。そして、それを許さなかった。


『ねえ、最近、夜遅いじゃないの。まさか、他の女と会ってるんじゃないでしょうね?』


『いや、そんなことないよ……』


『どうかしらね。すぐいなくなっちゃうし、本当は私と一緒にいたくないんじゃない? ねえ、そうなんでしょ? ねえ!』


 夢の中で彼女は声を荒げ、涙を浮かべておれを責め立てた。彼女にはすべてわかっていた。だが、彼女はそれを認めたくなかった。また、おれに認めさせたかった。謝らせ、服従させようとしていたのだ。

 彼女の言うとおり、最近は夜更かしが増え、睡眠時間も短くなっていた。それはおれの狙いではあったのだが、うたた寝程度の浅い眠りでも、彼女は必ず夢の中に現れた。

 これはもう、おれの潜在意識がどうこうという話ではない。彼女は本当に生きているのではないか。そう思わざるを得なかった。



「ねえ、大丈夫? なんか、うなされてたよ」


「……あ、ああ、大丈夫だよ。ほら、このとおり元気だろ」


「あ、もう、うふふ、ちょっと、くすぐったい。もーう、甘えん坊ね」


「はははっ、ふふははは! ぶー!」


 現実で女の胸にいくら顔をうずめても、そのぬくもりが不安を消してくれることはなかった。彼女の腹が大きくなるにつれ、おれの不安も比例するように膨れ上がっていく。

 そして、夢の中の風景は次第におぞましく変貌していった。

 通りを歩いていると、どこからともなく赤ん坊の泣き声が響き渡る。一つ、また一つと無数の泣き声が折り重なって、おれの鼓膜を引っ掻き回す。おれはたまらず耳を塞ぎ、その場にうずくまった。

 ふと顔を上げると、通行人がおれを訝しがるような顔で見ていた。

 その顔が徐々に赤ん坊のようにつるりと滑らかなものへと変わっていく。気味の悪い笑みを浮かべ、両手を広げてゆっくりとおれににじり寄ってくる。

 たまらず走って逃げ出すと、今度は空から彼女の声が降ってきた。


『逃げないで。これはあなたの責任なのよ』


 目が覚めても、その声は耳の奥にこびりつき、何度も反響して頭の中をぐるぐる回り続けた。



「頭……」


「君、おい、君。ちゃんと話を聞いているのか?」


「え……はい」


「さ、さっきからずっと私の頭を見て、そ、そんなに気になるのかね?」


「いえ……その……赤ちゃんの……」


「あ、赤ちゃんみたいな頭だと言いたいのかね!」


「あ、あ、い、いえっ! すみません!」


「最近たるんでるぞ君! もういい、下がりたまえ!」


 夢の影響は、とうとう現実にまで滲み出てきた。寝不足でぼんやりとする意識の中、上司のつるりとした頭に、うっすらと赤ん坊の手形が見えてしまったのだ。

 さらに耳元で「きゃは!」と甲高い笑い声が聞こえ、おれは思わず「ひあっ!」と悲鳴を上げ、虫を払うように手を振り回してしまった。

 逃げても隠れても無駄だった。彼女は夢の中で待ち、必ずおれを見つけ出した。


 ――もう耐えられない。


 夢と現実の境目が曖昧になり、日常がじわじわと侵食されている。追い詰められたおれは、とうとう腹を括った。


『……もう無理だ。君とはやっていけない。頼む、もう現れないでくれ!』


 その夜、おれは夢の中で彼女と対峙し、はっきりと別れを告げた。寝る前に何度も言葉を確認し、覚悟を固めたのがよかったようだ。力がみなぎっている――そう思っていた。

 だが、彼女と目があったその瞬間、その自信は蝋燭の火が吹き消されるように、あっさりと消え失せた。


『え、何を言ってるの……? は? ねえ、ねえ、何を言ってるの!? 責任は!? この子は!? どうするつもりなのよ! ねえ!』


 金属を擦り合わせるような耳障りな声を上げながら、彼女はどんどん膨れ上がっていった。肌はどろりと溶け、口元はねじれるように裂け、腹にはぼこん、ぼこ、ぼこ……とまるで吹き出物のように、いくつもの赤ん坊の顔が浮かび上がった。

 おれは立っていられず、その場に崩れ落ちた。何か言おうとしても声にならず、体が震えた。そして、こらえきれずに泣き出してしまった。 


『僕には無理だ、無理なんだよう……まだ結婚なんてできない……父親になんてなれないよ。嫌だ、嫌だ、嫌だ……』


 言い訳のような言葉が口をついて出た。涙がとめどなく頬を伝う。彼女は無言でおれを見下ろし、じっと聞いていた。やがて、ゆっくりと膝をついて、目線を合わせてきた。そして、静かに微笑んだ。


『子供でいたいなら、そうすればいいわ』


 その瞬間、世界がふっと暗闇に包まれた。

 音が消え、光が消え、重力すら感じられない。

 闇に視界を奪われ、浮いているのか沈んでいるのかもわからず、おれはただ虚空に漂い続けた。

 どれだけそうしていたのかはわからない。やがて、空気の流れが変わった気がした。おれの体は何かに引き寄せられ、そして、眩しい光が一気に視界を満たした。複数の声が重なり合い、耳に押し寄せてきた。


 ――おめでとうございます!

 ――まあ、かわいい。

 ――元気な男の子ですよ。


 その優しい声の波に包まれ、おれはどこかほっとした。誰かがおれを祝福している。誰かがおれを待っていた。

 ああ、そうか。あれは全部、夢だったんだ――よかった……のか? 


 よくわからない。おれはとりあえず泣いておくことにした。

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