3.秘密の島の秘密
そうして僕たちが呼び出されたのは、ある晩だった。
そこは島にいくつもある原生林の入り口。未開地なので、とても危険だからと立ち入り禁止になっている場所だ。
その厳重にフェンスで囲ってある一角に、僕たちは呼び込まれたのだ。
「くれぐれも秘密にしてください」
担当医は、フェンスの鍵を開けた。
「見つかったら、退去処分になってしまいますから」
一体なんのことかと、僕たちは首をすくめたが、中へ入ってみてすぐ、その理由が分かった。
「あ、何か焦げ臭い……」
と、声を上げたのは君だ。僕が何ヵ月ぶりかに聞く、明るいトーンの声だ。そこに立ち込めていたのは、柴が燃える匂いだった。
もちろんそれは、決していい匂いとは言えない。しかし久しぶりに触れる『火』の気配だ。僕たちは心なしか、お互いの表情が和らいできたことに気づいた。
「山火事があった後のエリアなんですよ」
と、担当医が言った。なるほど、いくら『火』のない島でも自然災害だけは、コントロールできない。
「火はすっかり消えてますから、誰にも見つかることはありません」
他に誰もいないのに、担当医は囁くように言う。見つからない、と言うのはどうやら、焼け跡の匂いを嗅ぎ回ることではないみたいだ。
「ここら辺がいいでしょう。ほら、早く。準備を始めますよ」
いそいそと言う担当医の口調が、何故か今までに無く、弾んでいる。
担当医が車から運び出してきたのは、アウトドア用品だった。適度な角度で切り揃えられた薪、熱くなった薪を掴むステンレス製のトング、緊急消火のための消火器、燃え残りをしまう消火バケツなどだった。
「火を焚くんですか?」
思わず尋ねると、答えた担当医の口調はうきうきしたものに変わっていた。
「キャンプとかでやったことありませんか?それほど難しくないんです。手順さえしっかりやれば、焚き火は誰にでも楽しめるんですよ」
そう言いざま担当医は、薪を適度な形に並べ、そこに乾いた松の葉や小枝を添えた。
「大きな薪はこうして、燃えやすいものを燃やしてじっくりと火をつけていくんですよ」
チューブの着火剤を絞りだし、担当医はあっという間に火を起こしてしまった。
「大丈夫なんですか、こんなことをして」
さすがに僕たちは不安になった。
「問題ありませんよ。実は、私たちはグループなので協力者がそこかしこにいます。アウトドア用品や食料も共同で調達するんですよ。秘密の島のさらに秘密のグループと言えばいいでしょうか」
軽口を叩きながらも、担当医は細長い火吹き棒を使って炎に空気を送り、大きな薪をみるみるうちに焦がしてしまった。
「火は育てていくものなんですよ。あなたたちもやってみますか?」
言われるまま僕は火吹き棒を、使わされた。焚き火の前へしゃがみこむと、火の気配が息苦しい熱と共に、顔を覆ってくる。煙は、燃える木の香を孕んで、ひどく焦げ臭い。恐らく火事に巻き込まれたら、こんな感じなのだろう。
「その火吹き棒で、決して煙は吸わないでください。ゆっくりと少しずつ、丹念に空気の薄い場所へ息を送り込んでください」
(そんなに長く、このままでいられるか)
最初は反感すら覚えたものの、やってみると夢中になっていることに僕は気づいていた。
「どうです楽しいでしょう?」
と、言われて返事をしなかったのは、もう夢中になりすぎていたからだ。
美しいのだ。
黒こげの薪の下で、真っ赤な宝石のように盛る炎が。一度、魅了されると目を離せなくなる。煙くて涙が出るのに。パチパチと火の粉がはぜる音も、耳障りとも思わない。
自分の中に安らげる静寂が、むしろ立ち戻ってきたようだ。無関心で冷たい沈黙と、それが全く違うように。
「ねえ、煙いんだけど」
君は訝しげに僕をのぞきこんでいた。
「君もやってみたらいい。すごく楽しいから」
「そうかな。煙いだけだと思うけど」
君は半信半疑だったが、僕はもう分かっていた。
これだ。
僕たちの生活に決定的に不足していたものは。
「いい具合になりましたね」
と、担当医は僕の火加減に満足したように言った。
「自家製ベーコンを焼きましょう。熱々のをパンで挟んで食べると美味しいですよ」
「え、それは食べたい」
焚き火には否定的だった君も、火で炙った食べ物には大喜びだった。
脂が金網を滴った分、身が締まった厚切りのベーコンを挟んだパンは、実際、本当に最高だった。
そして、何より熱々の肉を頬張りながら飲むビールは、もう何も言えることがない。
僕たちはあっという間にベーコンを平らげた。
「デザートはマシュマロを焼きましょう。上手く焦げ目がつくと本当に美味しいんです」
何もかもが、担当医の言う通りだった。食品加工ですでにつけられた焦げ目よりも、直火が嘗めて今、作られた焦げ目の香ばしさ、ほろ苦さは、胸がすくようだった。
気がつくと、あの寒さは消えていた。君もすっかり顔色が良くなっていた。あの氷の牢獄のような適応障害は、去ったのだ。
「火は、生き物の命そのものなのですよ。私たち人間と同じ命そのものに触れているんです。だから安心するんではないでしょうか」
と、担当医は言った。
「火はオンオフのスイッチでコントロール出来るものではありません。だからいつも、扱い方を考えて接しなくてはならない。絶対的な安全だけが、人間の心のバランスを保障しているとは限らないんです。それとは反対の危険と向き合う気持ちが、時には必要なのです。この島に住む人たちが適応障害を抱えがちなのは、この点に気づかないからなんです」