1. 不足のない島
遠浅のその海の砂浜は、どこまで行っても果てと言うものを感じなかった。青い海岸線まで視界には何も引っ掛からない。手前は白砂のビーチだ。
遠雷のような凪ぎの潮騒が、いつでも穏やかにどよめいている。後はほんのり、海鳥が鳴きかわす声だけが、たまに聞こえるくらい。
自宅はこのすぐ近く。途中まで舗装がされているだけの散歩道から先は道あとをはっきりさせるために作ったのか、柵の跡だと思われる丸太が草むらの中に立っているだけだ。
その麓まで盛り上がった砂は、上白糖みたいに不純物もなく、ひたすら細やかでいくら踏みしめても、ほとんど抵抗がなかった。
こんな静かな砂浜が、この島には無数に存在している。住民たちそれぞれが、プライベートビーチを持っていると言っても、言いすぎではないかも知れない。もっとも、ここに住む人たちはもれなく、心が広い。自分の縄張りや権利を求めて、声高に他人をののしったりしないのだ。
ここでは、何一つ衝突の火花が散ることがない。それが『秘密の島』の売りらしい。もちろん、誰でもたどり着けるわけではない。とても厳しく、細やかな審査がある。
過ぎてみれば何でもないことだが、そのときはそれなりに大変ではあった。しかしとりあえずそこで諦めなかったことが良かったのか、僕たちはこのストレスフリーを絵に描いたような『秘密の島』へ住み移れたのだった。
簡易テーブルには、冷たい飲み物が置いてある。ほんのり汗を掻いたグラスに注がれた銀色の液体を、君は静かにかき混ぜている。今日は決して暑くはないが、照り返しの強いビーチでほんのり汗ばんだ身体には、これが一番だ。
「少しライム入れる?」
君が尋ねてくる。
「うん、自分でやるよ」
僕はスプーンを受けとる。
ここは加減が難しい。ライムジュースを少しでも入れすぎると、すべてがライム味になってしまうから大変だ。
ここはほんのり、ひと匙。ライムグリーンのジュースは、透けるような銀色の中へすっかり溶けてしまったけど、もちろんこれくらいがちょうどいい。
僕はライムの酸味を確かめて、きりりと引き締められた冷たいドリンクを飲み干した。
ライムジュースの配合。
今日、悩むことはこれくらいだろう。
ここにいると一日が、どこまでも静かにこうして更けていく。
仕事は、自宅のパソコンで済む。
報酬は必要にして十分な額。人に誇れるほどでもないが、別に困ることもない。そもそもこの島では誰も、年収の高さを競ったりはしないのだ。
買い物だって、カタログから選んだものを何でも配送してもらえる。余計なものは買わないし、要らない。無駄に大きい私有地や多すぎる資産など、ここでは持っているものは誰もいない。
その代わり自由な時間はいくらでもある。お陰でここへ来る前、買うだけで読まなかった本はほとんど、読み終えてしまった。
「この島にないものはないね」
と、君が言う。考えるまでもなく、確かに不足しているものは、何も思いつかなかった。
この『秘密の島』を作ったのは、ある社会心理学者の学説に共感を覚えた人たちだと言われる。
「わたしたち人間の社会から、争いや衝突をなくすにはどうすればいいだろう?」
それは人類史上、誰もが結論を出せずにいた命題だ。
「答えは簡単です。わたしたちの生活からたった一つのものを取り除きましょう」
しかしその学者は、ごくシンプルな一つの結論に達していたのだった。
「それは『火』です」
『火』こそ、人類の争いの種である。
と、その学者は言う。なるほどこの『火』を使うことを覚えることによって、人間は他の動物から抜きん出て、社会や文明と言った高度な生活文化を手に入れたのかもしれない。
しかし『火』によって喪われたものは余りにも大きい。今日、世界のどの歴史を振り返ってみても、『火』によって喪われた人の命はおびただしく、根絶された街や絶滅させられた動物などを数え上げてもきりがないほどだ。
テクノロジーがこれだけ発展した今、人類は試しに『火』を手離してみてはどうだろう。
その学説が社会システムとして採用されているのが、この秘密の島というわけだ。
この島の僕たちの生活に全くの不足はない。だがたった一点の不足を僕たちは、受け入れてこの島に来ている。
ガスコンロも石油ヒーターも薪ストーブもアルコールランプも僕たちには必要ない。
換気はエアコンがやってくれるし、調理はこの島で開発された特殊な電磁料理器がすべて賄ってくれる。それらは故障したとしても、絶対に火を吹くことはない。
パチパチとはぜる炎を、暗闇で揺らめく光を、僕たちは一生見ることは出来ないだろう。それでも良ければ、あなたはすぐにこの島の住民になれることだろう。