婚約者は女の敵?
前後編ですが、前編だけでかなり長くなってしまいました。
雨足が激しくなった。ジェインはストールを頭から被り直して雨から逃れるように、目についたカフェに逃げ込んだ。
婚約者と出かける予定が、都合が悪くなったと延期されたのは既に3度目。その度に花束や贈り物と手書きのメッセージカードを送ってくる婚約者は律儀ではあるが、随分と頻繁に悪くなる都合だこと、とジェインはため息をついて紅茶とケーキを頼んだ。
普段は訪れない下町の方まで足を伸ばしたのは偶々で、狭い路地には入れない馬車を置いて護衛を連れて侍女と2人で散策をしていたら雨が降ってきたのだった。護衛は外で待たせて、侍女と2人時間潰しのつもりで入ったカフェは、思いのほか居心地が良かった。
広い店内はまあまあの混み具合だったが、ジェイン達は背の高い観葉植物で仕切られて死角になっている席に通された。予約がキャンセルになったそうで、その特等席が空いていたのは幸運だった。ちなみに隣もまた予約席で視線を遮るように薄い衝立があった。
知り合いがいたら嫌だなと思っていたジェインは、ここなら見えないわとほっと一息ついた。少しだけ心がささくれだっているところを見られたくはない。
注文した品が運ばれるのを待っている間、何気なく眺めた衝立からちらちらと金色の頭が見えた。隣の席に客が案内された来たらしい。どうやら背の高い男性のようで目隠しの衝立が役に立っていない。金髪の男性はあたりを警戒するように見渡すと席についた。
ジェインは今しがた目にした人物に驚いていた。
自分の良く知る人間にとても良く似ていた。いやあれは本人ではないだろうか。申し訳なさそうに遠征が入ったと告げた婚約者と瓜二つだ。
気になったジェインはあちら側からは見えないが声が漏れ聞こえる位置までこっそりと席を移動して聞き耳を立てた。何しろ衝立は薄いのでその気になれば会話が聞き取れるのではないだろうか。あまり意味のない衝立である。そもそも秘めなければならない逢引きなら、こんなカフェに来るべきではないと思う。
緊急事態だから仕方ないとばかりに、仕切りの衝立に空のコップをあてて耳を寄せれば、会話が漏れ聞こえた。淑女らしからぬ間諜のような行動だが、父から仕込まれた技を活かすのは今しかない。
侍女は諌めるのを諦めた。お嬢様が頑固なのはお父様譲りなのだ。
「あたしの立場はどうなるの?」
「悪いようにはしない。ちゃんと考えている」
「別に貴方でもいいのよ。貴方だってあんな地味な女と結婚なんて嫌なんじゃないの?」
「……自分には継ぐべき家はない」
「ねぇ、贅沢させてくれるなら愛人で良いのよ。その方がお互いに責任が無くて気楽じゃない?とにかくバレなきゃいいのよ。
それに貴方の婚約者のおうちって金持ちなのでしょう?その女はお飾りの妻にしてしまえばどう?好きでもない女なのでしょう?我慢する事はないわよ」
ジェインは握りしめていた手に力をこめた。
「滅多な事を言うな。……俺だってこの状況を我慢しているんだ」
「貴方みたいないい男に我慢させるなんてつまらない女ね、貴方の婚約者は。とても地味で不細工だという噂を聞いたわ。お金しか取り柄がないなんて哀れよね」
ジェインの心臓はばくばくと早打ちしている。聞きたくない、だけど気になる。
「俺が愛しているのはただひとり。だから、必死で我慢している」
「あら素敵だわホールデン、あたしも愛しているわよ。エディは単なる遊びだから嫉妬なんてしないでちょうだいね。だから貴方も我慢なんてしなくていいのよ」
婚約者によく似た金髪の、よく似た声の男が喋っているだけだと思い込もうとしたが、名前が出た事が決定打となった。隣の特等席にいる男女2人の男の方は、婚約者のホールデン・アドラーに間違いない。
5年も婚約していて、ホールデンとはそれなりにうまくやっていると、ジェインは思っていた。
誕生日にはプレゼントを贈りあっているし、パーティにはきちんとエスコートしてくれる。お喋りではないところも気に入っている。2人で過ごす穏やかで静かな時間は嫌ではなかった。
主に話すのはジェインで、ホールデンは学院のことやモリア家が経営する商会のことなど身振り手振りを交えて話すジェインに、微笑みながら相槌を打つ。騎士団での様子を尋ね怪我の心配をすると、これまた微笑みながら、心配してくれてありがとうと答えるのだ。
燃えるような恋愛感情ではなくとも2人の間には確かな絆はある、とさっきまでは信じていた。しかし実のところは、裏切られていたのかもしれない。
自分の事はお飾りの妻にするつもりなのだろうか。婚約を我慢してるとはっきりと口にしたのを聞いてしまったからには、信じられない気持ちの方が信じる気持ちを上回ってしまった。
ホールデンには愛する人がいるらしい。しかし、ジェインはただの一度も愛していると言われた事はない。
いたたまれない思いに運ばれてきた紅茶もケーキも喉を通らない。おまけに手が震えて、紅茶のカップを床に落としてしまった。カップが割れる音は思いのほか大きく響いた。
「お嬢様!」侍女は慌てて近寄り、ジェインは小さく悲鳴を上げてしまった。
その声に隣の席のホールデンが何事かと立ち上がる。背の高い彼には衝立は役に立っていない。
ジェインは、見下ろす婚約者と目が合った。
ストールを巻き直して頭から被ると、侍女をほったらかして逃げるように店から出た。護衛が慌てて付いてきた。外はまだ雨が降っているので、馬車を待たせている場所まで走らねばと焦る。
「ジェイン!待って、違うんだ!」
ホールデンの声が聞こえたが、後ろは振り向かなかった。
あ、お金払ってない、アンがちゃんと後始末してくれているかしら、ああもしかしたらホールデンが払ってくれるかもしれないわね、一応まだ婚約者ですものね。
修羅場の筈なのに、代金の事を考えている自分がおかしくて笑いがこみあげてきた。あははと声を出して笑ったら息が上がって足が縺れて倒れそうになる。
ああ、やる事成す事みっともないわねと思ったが、その体は倒れることなくたくましい腕に抱き止められていた。
ホールデンは付かず離れずついてきて、ジェインの手を掴んだ方が良いのかどうかと迷っていた時に、彼女が転びそうになって咄嗟に抱き止めたのだった。
「ジェイン、怪我はないか?」
強く抱きしめられて、真剣な眼差しのホールデンと目が合ったが、ジェインは咄嗟にその視線から逃げた。貴方がそれを言う?わたしとの婚約を我慢してる貴方が?もう嘘はいらないわ……
「離して」と震える声で告げてホールデンの手を払った。2人の様子を側で控えて見ていた護衛がすっとジェインに自分の上着を掛けて、無言で彼女を抱えると馬車まで運んで行った。
雨は降り続いている。ホールデンは濡れるのも構わず雨の中に立ち尽くしていた。
*
ジェイン・モリア伯爵令嬢は19歳。5年前にアドラー侯爵家の次男ホールデンと婚約した。ホールデンは4歳上で、貴族学院卒業後は騎士団に所属しており、現在23歳だ。すらりと背が高くて、金髪のゆるい巻き毛に琥珀色の瞳をした美男子である。
対してジェインは栗色の髪に淡いグレーの瞳、背丈も体型も普通で平凡な形をしている。そのせいか、舞踏会やお茶会で、美しい婚約者に憧れる女性達から『地味で冴えないからホールデン様に似合わないわ』と嫌味を言われる事があった。この婚約は家同士で決めた事なのだから仕方ないではないか、文句があるならあちらに言って欲しいものだと、全く意に介してしなかった。
ジェインの気の強さは父譲りだ。モリア商会を国内有数の大手にまで育て上げた手腕の持ち主でもある。
幼い頃から父の仕事に付いてまわったジェインは、着飾って外見を誤魔化しても、中身が肝心と言い切る合理的でしっかりした娘に育った。
ジェインはひとり娘なのでホールデンがモリア伯爵家へ婿入りする事になっていた。騎士としての仕事は今関わっている任務で終了し、退職後に結婚式が予定されている。婚礼衣装は着々と準備されているし、モリア邸の若夫婦の部屋の改装も終わっている。つまりはホールデンの退職を待つばかりなのだった。
そのホールデンからデートの予定を三度続けて延期にされたのは、最後の任務を滞りなく完遂したいという理由からだった。それは極秘任務で、任期3ヶ月にわたる遠征に出るらしい。
申し訳なさそうな顔で謝る婚約者はそのまま出発すると言うので、無事のお帰りをお待ちしていますわと、ジェインは笑顔で送り出した。遠征先は聞いていないが、まさか王都で女性に会うのが任務だとは思ってもみなかった。
実はこの婚約はアドラー侯爵の方から申し込まれたものなのだが、商会を営むモリア家が高位貴族と縁付く為に、金の力で婿にしようとしていると心無い噂をされた事もある。半分当たってはいるが、金の力を使ったわけではない。アドラー家は金には全く困ってはいない。
モリア伯爵家側は噂通りに高位貴族と縁付く事によって経営する商会の格が上がるし、アドラー侯爵家は資産家のモリア伯爵に次男を婿入りさせゆくゆくは伯爵家と商会を継ぐのだから、次男の婿入り先としては願ってもない好条件だった。
何よりホールデン自身がジェインに一目惚れしてしまい、どうしても彼女と結婚したいと、初めての我儘を言い出したので、父侯爵としてもその希望を叶えてやりたいと思ったのだった。
金の力で侯爵家の息子を買ったなどという馬鹿げた噂は全く失礼な話で、アドラー侯爵家の財政は黒字安泰であるから、それらの噂は単なる妬みに過ぎなかった。
そんな訳で以前からアドラー商会で見かけていた利発な少女に心惹かれていたホールデンが、父に頼んで婚約を申し込んだのが真相だ。自分は次男だから婿入りするのに障害はないし、寧ろ都合が良い話でもある。
男だらけの環境にあって女性慣れしていなかったが、彼女に愛想を尽かされないようにとホールデンは本当に頑張っていた。
穏やかな愛情で結ばれてお互いを思いやれる夫婦になろうと言ったのは、不器用なホールデンの精一杯の愛情表現だった。
『愛している』と口に出すのも照れくさくて、熱い視線と態度で愛を伝えているつもりでいたが、合理的なジェインには伝わる筈もなく、モテ男のホールデンと自分の婚約が整ったのは、政略的な何かだと思い込んでいた。それでもホールデンに対する拒否感は無かった。なんだかんだ言って、ジェインはホールデンに惹かれていたのだ。それなのに。
『俺だって我慢しているんだ』
それは格下伯爵家の地味な婚約者に対しての我慢なのか、騎士を辞めねばならない事への我慢なのか。ジェインはきっと両方なのだろうと思った。
だからと言って、何も聞かなかった事にして結婚を受け入れるのは少々辛い。真意を聞いてしまったからには、拗れた感情のまま一緒になっても不幸になるだけだろう。
確かに特別感はなかったけれど大切にされていると感じていたホールデンの言動が、全て演技だったのかもしれないと思うと、馬鹿らしくて笑いがこみあげてきた。なんという茶番劇なのだろう。
帰宅したジェインは父親の執務室に駆け込んで婚約を解消して欲しいと願い出た。驚く父に先程見聞きした事を伝えて部屋に戻るとベッドに飛び込む。令嬢にはあるまじき行動だが、今日だけは許して欲しい。止まらない涙に驚いているのは自分自身。確かにあの人の事が好きだった。
美しい婚約者に秘密の恋人がいるかもしれないと考えないわけではなかったけれど、誠実な人だと思っていたのはジェインのただの希望に過ぎなかったと悟った。
男なんて付き合った女の数が勲章だとでも思っているんだわ。ジェインは枕をポスポスと叩いた。ホールデン許すまじ、である。失恋の痛みは相手への怒りに変わりつつあった。
貴族の結婚は義務だから相手が誰でも受け入れるわと、わかった風な顔で取り繕っていたジェインの恋はこの日終わった。
*
しかし、結果的にジェインとホールデンの婚約は解消されなかった。アドラー侯爵がモリア家を訪れて頭を下げて婚約の継続を懇願したのだ。ただ、遠征している事になっているホールデンは現れなかった。
「アドラー侯爵、頭をお上げください。侯爵家ならば、私どものようなしがない伯爵家でなくとも、婿入り先は選び放題でしょう。何しろ、騎士団でも優秀なご子息ですからな。ジェインのような地味な娘に拘る必要はありますまい」
モリア伯爵は怒っていた。何しろあちらから懇願されて5年も婚約していたのに、若造に裏切られたのだから当然である。いくら地味でも可愛いひとり娘を貶めるとは、随分と舐められたものだと怒っていたのだが。
「行き違いがあったのだ。どうか私の話を聞いてはくれないだろうか」
アドラー侯爵は、真面目で我儘を言わない次男が初めて自ら望んだ婚約者を逃すまじと必死だった。自分のせいではないのに、不可抗力で誤解されたまま婚約解消など、ホールデンが不憫すぎる。
侯爵の捨て身の懇願が功を奏したのか、侯爵はホッとした顔で、モリア伯爵は苦虫を噛み潰したような顔で話し合いは終わった。
なんだか釈然としないが、あの侯爵の、土下座しそうな勢いを思い出して、少しだけ溜飲を下げる。それにしても国に仕える騎士とは、なんと難儀な仕事だろうか。
モリア伯爵はほんの少しだけホールデンに同情したが、5年もあったのにきちんと愛を伝えて育んで来なかった奴が悪いよなあと苦笑した。
父親から婚約の継続を聞かされたジェインは、ホールデンとアドラー侯爵が自分達に都合良くモリア家を利用しているのだと憤慨した。モリア商会は確かに国内でも有数の最大手の商会で資産家ではあるが、所詮伯爵家である。格上侯爵家からの入婿が愛人を囲っても、文句は言えないだろうと見下されているのだと感じた。
いいわ、そっちがその気なら結婚は義務として受け入れるけど、わたしだってあの人を愛することなんてしない。信頼関係も築かない。お飾りの夫にしてやるわ。
悲しみが怒りに変わったジェインは決意した。
「お父様お願いがあります。ホールデン様が戻ってくるまで時間がありません。たとえ偽りの任務でも3ヶ月後には辻褄合わせの為に戻ってくるでしょう。もう既に半月が経過いたしました。
あの方との結婚が避けられないのなら、少しでもわたしに有利な状況を作りたい。だから旅に出たいのです」
「有利な状況と旅がどう繋がると言うのだ?それに旅になど出て、結婚前に事故にでもあったらどうするつもりだ」
父の心配は当然だがジェインは引き下がらない。
「結婚式なんて延期すれば良いのです。そうですわね、わたしは気鬱で体調を崩して病気療養中とでも伝えてください。
我が商会の支店の視察に行きたいのです。いずれはわたしが全て管理するつもりですから」
「しかしだな、ホールデン君が商会の仕事をするのだからジェインはそんな必要は無、「ありますわ!だって、所詮はあの方は名ばかりのお飾りの夫になるのです。あんな男、愛人を囲うつもりの男に、大切な商会を任せられませんわ。わたしがモリア家を守ります!」
父の言葉を遮ったジェインに、モリア伯爵は何も言えなかった。傷ついた娘の心が少しでも癒されるならそれもまた良いかと考えた。
*
そして1週間後、ジェインは護衛のパーシーと侍女のアンを連れて、王侯貴族の保養地で名高い町へとやってきた。そこには保養地の別荘の住人達を上客としているモリア商会の支店があった。視察と勉強のために支店を訪ねたいというジェインに対して、ここならばと父親の許しが出たのだ。
病気療養という名目にもうってつけで、伯爵家が所有する別荘に滞在し、ジェインはほぼ毎日商会へ顔を出し、支店長から経営についての指導を受けた。
保養地独特の開放的な空気感もあってか、いつもは纏めている髪を下し、王都では着ない明るい色味の町娘のような簡素なドレスを身に纏うと、まるで別人になったかのような気分になった。地味だと言われるジェインだが決して元が悪いわけではなく、落ち着いた服装を好んでいるだけなのだ。面倒くさいと省略していた化粧も、商会員達が新しい化粧品の宣伝も兼ねて丁寧なメイクを施してくれたので、気分だけではなく外見もまるで別人のようだ。
今のジェインを見れば、ホールデンに似合わないくらい地味だと貶してきた者達も文句は言えまいと思ったが、今更どうでも良い事だった。婚約者の為に美しく着飾るなどという考えは微塵もない。これは自分自身の成長の為に必要な事なのだ。いわば護られて来た娘時代への決別とでも言おうか。
どのみちホールデンと結婚したら、地味な女に戻るつもりなので、今だけは羽目を外してやると決心した。
外見を変えると気分も高揚する。ジェインは意識的に外出を増やした。ここは保養地なのだから、心地よいと思ったことをして好きに過ごす事にした。パーシーをお供に馬に乗ったり、侍女も伴って湖でのボート遊びやピクニックなど、楽しくて夢のようだ。
侍女のアンは子どもの頃からの付き合いで気心がしれているし、パーシーは親戚の男爵家の三男で幼馴染みでもあるから、兄のような立ち位置である。ジェインは誰にも気兼ねなく伸び伸びと過ごす事が出来た。
商会での勉強にも遊びにも全力を尽くすジェインは、ひと月もすると王都にいた時よりずっと魅力的になっていた。本人が知らぬところで、モリア商会の愛らしいお嬢さんの噂は加速していったが、変な人間が近づかないようにパーシーとアンが睨みをきかせている事にジェインだけが気がついていなかった。
*
保養地というのはそもそも刺激の少ないところである。人々は心身を癒すために保養地に来るのだから当然なのだが、そんな中で娯楽といえば噂話が中心となる。
仲良くなった商会員たちが、別荘地の住人の噂話をジェインに教えてくれた。穏やかな保養地の住民は恋の噂が大好物である。どこそこのご夫人やご夫君の秘密の恋人の話に始まって、この別荘地にお忍びで来ている、ある高貴な男性とその護衛が大層目立つ美男子である事や、彼らと共にいる女性が派手で目立つからあれは高貴な人の愛人に違いないと、王都のゴシップ新聞顔負けの内容の濃さだ。
その派手な女性はこの地域の小さな社交界に顔を出す時には、モリア商会で装飾品やドレスを買い求めにやってくるらしい。ただ本人の趣味が悪く、合わせるのに適した品がなかなか見つからなくて困るのだと女性商会員は多少侮蔑を込めた言い方をした。どういう意味かと尋ねたら、見たらわかると言う。
「高級別荘のある保養地にそのような人がいるというのは、高貴な方の隠された愛人なのね。保養地なのに残念だわ」
「お嬢様は愛人になるような人とは、関わりになってはいけません」
侍女のアンはあの時カフェで一緒だった。ジェインから話を聞かされていたので、愛人という言葉には敏感になっている。
「それから、また手紙が届いております」と、すっと封筒を差し出された。裏に書かれた差出人の名前を一瞥して、ジェインは顔を顰めた。
「いらない、捨ててちょうだい」
「そうしたいのは山々でございますが、婚約者様の任務の3ヶ月まで後少しですので、大事な連絡事項かもしれません」
仕方ないわねと封筒を受け取ったものの、とても読む気になれないジェインはそのまま机の引き出しに仕舞い込んだ。重要な任務についている筈なのに、10日に一度はホールデンからの手紙が届けられていた。
王都の実家に届いたものを、商会の商品納入の時に届けてくれるのであるが、何通目かになるその手紙はいまだに読まれていない。
「婚約者は、所詮お飾りの夫になるのよ。愛人を囲いたいなんて寝ぼけた事を言い出したら、別邸に隔離ね。愛人はそうね、ご自分の財力の範囲で養って差し上げたら良いわ。
彼には商会の仕事はさせないし、対外的に夫婦で行動する時には夫らしく振る舞ってくれれば、毎月のお手当くらい出してあげるわ」
ジェインはお飾り夫にする計画をパーシーやアンに語って聞かせた。アンは、まあ!と目をぱちくりさせて驚いていた。パーシーは少し苦い顔で、
「後継はどうするつもりだ?お嬢がアドラー様を拒絶しても後継は必要だ」と核心をついてきたので、
「わたしの産む子どもなら相手が誰でも問題ないわよ。そうね、パーシーが父親でもいいのよ?」
と自棄気味に言うと、パーシーは真っ赤になって怒り出した。
「ジェイン様は主ではありますが、はっきり言わせていただきます。
これは主従としてではなく、親戚の兄貴分の発言だと思ってくれ。
その冗談は許さん。馬鹿な事を言うんじゃない!自分自身を大事にしなきゃ駄目だ。相手が誰でもいいなんて言うな。アドラー様と正面から向き合ってちゃんと話し合うべきだ。いつまで逃げているつもりなんだ」
パーシーは何をそんなに怒ってるの?とアンに目で問えば、首を横に振られた。
たとえ冗談でもパーシーには酷だろうとアンは思った。親戚として幼馴染として過ごしたのに、今は主従の関係になってしまった初恋の相手からの投げやりな言葉は、パーシーの心を砕いただろう。
何しろお嬢様は、お飾りの夫にするなどと言いつつも、心はホールデン様に囚われているのだから。
*
そうやって充実した日々を過ごしているうちに、いよいよホールデンの極秘任務の期限の3ヶ月が目前となった。
先日は遂に噂の愛人女性と高貴な男性を、商会で見かけたのだった。
確かに肌の露出が多く、薄手の生地は透けて足のラインがわかるくらいだ。豊かな胸にくびれた腰、濡れた赤い唇に艶めかしい表情をした女性なので、男性商会員は心なしか鼻の下が伸びていた気がする。ああいう女性が好まれるのかとジェインが考えていたら、側についていた護衛のパーシーが、見てはいけませんとジェインの目を覆った。
「パーシー、わたしがあの人くらい色気があったら、婚約者の心を繋ぎ止められたと思う?」
「そんなつまらない事は考えない方が良い。お嬢の魅力に気が付かないあの男が悪い、それよりも」
「ん?」
「あの男の方、あれは第四王子だ」
「え?」
「俺は第四王子殿下と同級生なんだ。変装しているがあれは確かに殿下だ」
第四王子と言えば女好きで有名で、その上色気がダダ漏れだから、貴族学院時代は彼の視線で何人かの令嬢を孕ませたとなどと馬鹿げた噂が流れた人物である。余りにも不敬なのでその噂はすぐに鎮まったが、パーシーによると若干節操がないのは本当のようだ。
あれに目をつけられると不味いから、お嬢は裏は隠れてと追いやられたジェインは、客には見えないがこちらからは客が見える事務所にて噂の愛人と第四王子を観察していた。
そんな王子達に退出を急かすように入ってきたのは背の高い人物だった。フードを被り顔は見えないが、均整のとれた体つきと隙のない身のこなしから、これまた噂の護衛だろうと推測した。
見栄えの良い男達に女性商会員達の浮き立つ心が見て取れて、ジェインは思わず微笑んだ。誰かにときめく感情が羨ましいと思った。自分はホールデンと結婚してもときめく事はないだろう。彼は女の敵なのだ。
それでも婚約者が任務から戻ってくる3ヶ月の期限が目前に迫ってきて、ジェインはいよいよ覚悟を決めなければならなくなった。待っているのは『お飾りの夫計画』だ。その始動に向けて動き出さねばならないのだった。
*
2ヶ月半も過ごしていると、それなりに荷物も増えた。ジェインはアンとパーシーと共に帰り支度を始めている。
季節は夏の終わりに近付いており保養地で過ごしていた人々もぼちぼちと帰りつつあるようだ。モリア商会でも、商会員の異動があったり季節商品の入れ替えがあったりと、秋から冬にかけての準備が進んでいた。こちらで仲良くなった女性商会員が王都の本店への異動が決まってジェインは喜んでいた。彼女はパーシーと仲が良いのだ。
いよいよパーシーにも恋人が出来たのねぇなどと揶揄っていたら、お嬢は婚約者の事をどうするつもりなんだよと逆襲されて言葉に詰まってしまった。
「どうにもこうにも結婚は避けられないからするけど、心は自由よ。あの人には愛人がいるだろうから、わたしだって他の誰かに恋してやるんだから」
「ホールデン様に対して何とも思っていないって言うなら、手紙は見るべきだ。意固地になって無視するのは、寧ろ意識しまくってる裏返しだ。それは未練って言うんだよ」
「何よ、パーシーは恋人が出来たからってわかった様な口を利くじゃない。いいわよ、今から全部読むわよ」
わたしが主人なのに、と憤慨しながらも手紙を取り出した。それらは机の引き出しに仕舞い込まれていたが、荷造りの際に忘れないようにとジェインのバッグの中に移されていた。
ホールデンからの手紙は6通。読まない上に一度も返事は出していない。極秘任務なのだから返事を書いても届かないだろうというのが理由だが、ジェインは未だに怒っているのだ。
それが、パーシーの言うところの未練だとジェイン自身も気がついているが、敢えて見て見ぬふりをしてきたのだった。
アドラー侯爵家の透かし模様の入った白い封筒をペーパーナイフで開けて便箋を取り出す。アンの期待に満ちた目に心が落ち着かない。一体何が書いてあるのだろう。
そこには、あの日のカフェの出来事には一切触れず、婚約を続けてくれてありがとう、体調が早く戻って元気な姿を見せて欲しい、というような事が書いてあった。
2通目、3通目と開封する。
ジェインの様子を気遣い、自分は元気である事を知らせていた。3通目の最後に早く君に会いたいと書かれていた。
4通目は、任務の場所には池がありボート遊びが出来るようで、その光景を描いたスケッチが入っていた。
ホールデンは絵心があるようで、なかなか上手に描けている。これは額装しても良いわねとジェインは思わず微笑みかけて、はっとして表情を引き締めた。
5通目ではその湖畔で見つけた花を押し花にした栞が入っていた。
6通目は10日前に届いたものだ。どうやらこれが最後で、いよいよ任地を離れる時が近くなったと。
君に会いたい、愛していると書かれた文面に、ジェインは顔を歪めた。
「もう、今更何だって言うのよ。愛してるって馬鹿じゃないの!信じられるわけがないわ」
この保養地に来て、ホールデンの事を思い出さなかったわけではない。
パーシーと馬に乗っている時、後ろで支えてくれるのが背の高いホールデンならばどんな感じなのかと思ったし、ボート遊びでキラキラ輝く湖面が美しくて、あの人に見せてあげたいと思った。
「ねぇ、アン。そう言えばこの手紙ってどうやって届けられたの?王都からだとばかり思っていたけれど。それにしては多くないかしら?」
アンは気まずそうな顔をした。
「お嬢様がお尋ねにならなかったので黙っておりましたが、アドラー侯爵家の使いが直接届けに参ったのです」
「それは、わたしがここにいるのがわかっているって事?」
ジェインが療養のために保養地で過ごしている事は隠しているわけではないので、アドラー侯爵家は把握しているだろうと思ったが、まさかホールデンが知っているとは思わなかった。彼は自分に興味などない筈なのに。
「それよりもお嬢様。あの、第四王子殿下から招待状が届いておりまして」
「何ですって?」
「明日の夜、保養地を引き払う前にパーティを開くそうで、お嬢様に是非お越しいただきたいとの事でございます」
お読みいただきありがとうございます。
後編に続きます。