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内海紅葉はスコープを覗いて外郎華に照準を合わせた。

作者: 戸塚静香

 陽は落ちて、錆びついたバス停の看板と光を忘れた信号機がささやかな彩りを街全体に添えていた。

 崩れては整備してツギハギになったアスファルトの道を通り、入り組んだ小道を進むとやがて目前には障害物のない大通りが現れる。

 その直前、件の女子高生二人、黒髪のセミロングをたなびかせ中腰で走り抜ける内海紅葉は茶髪のお団子を後ろで結ぶ外郎華と立ち止まり、一度見合う。

 呼吸を整えると、一気に横断する。


 ふと通りを見れば草木は散乱し街路樹の一つは皮が剥がされている。

 隠れることはなく当たり前に我が物顔で練り歩くのが容易に想像がつく。

 この街は広い。長くとどまるのが危険だからと言っても走り続けるのも限度がある。一度息を整えなければならない。

 内海は一人、前に駆け出す。

 街の地図は頭の中に入っている。

 三丁目の駄菓子屋を通り抜けた先の突き当りを左。比較的庭の広い日本家屋にたどり着いた。ここは休憩地点だ。この家は縁側の窓をすべて取り外してくれている。

 躊躇なく土足で踏み入ると、八畳ほどの和室に持っていたものを下ろし、壁を背に座り込んだ。

 未だ無音の街を覆う空気から解かれ肺に詰まったものを抜く。


 その瞬間。

 地響きが家全体を覆う。

 弛緩した空気は一気に緊張へと変わる。

 家自体を揺らしているわけではないようだ。その揺れは単調で、以降も短い間隔を持って連続する。

 徐々に、そして確かにそれが近づいてくる。

 あまりに少ない生活音ただ響くその脅威やがて外郎は耐えられなくなり、呼吸は徐々に激しさを増していく。


 過呼吸により過剰に供給される酸素に、やがて脳は音を上げる。三半規管がやられ、ふらつく。

 その様子に気づくと、内海は優しく静かに外郎の背中を擦った。

 そして一言、

「華、わかってるね」

 既に取り返しの付かない現実から逃すまいと釘を差した。


 見つめ合う二人の瞳にお互いの姿は映らない。

 確認をしながらも内海は得物を大事そうにしっかりと抱えている。一方、外郎は同様に持ってはいるが指先が震えすぐに目は泳いだ。

 直前になってまで心の準備が出来ていないのは心もとないが、綿密に立てた作戦とは言え失敗は死を意味する。緊張するなと言う方がおかしい話だ。

 内海は静かに得物の猟銃を持ち直し、安全装置を外した。

 神棚の上で役目を失ってしまった熊よけの鈴が静かにこちらを見つめていた。


 随分と離れた通りを移動していたらしい。距離が近づく瞬間は一瞬ですぐに小さくなっていった。

「確認しようか。標的に遭遇したらまずどうする?」

「その場を離れ、群れの構成を確認する」

「一匹なら?」

「……一人立ち向かい、ゼロ距離で眉間に散弾銃をぶっ放す」

 冗談なんかではない。

 群れの場合も距離を離し一匹ずつ対処をするとそういう算段担っている。

 ただ時速五十キロで迫る巨体から逃げ切ることが出来たならの話だが。

 隠しきれない震えとともに、外郎は宣誓などと程遠いか細い声で囁く。

「そうするだけで学校を奪還できるのなら安いものだよ、紅葉」


 熊は嗅覚が発達している。

 同じ経路を徘徊しているのであれば侵入経路を通った瞬間に気づかれる。ロボットではないので決まっているわけではないだろうが、わたしたちが外から持ってきた匂いを判別すれば、おそらくこちらへと突っ込んでくる。


 頭に叩き込んでいた作戦を、今一度確認し直すと私達は大まかに縄張りの主の場所を確認しつつ、目的地へと向かう。

 頭に入った地図は覚えようとなどしていない。ましてや風景など忘れようもない。

 縄張りの中央には目的地の学校があった。

 つい三週間前まで通った思い出の詰まった母校だ。

 高校生活三年間を過ごした。

 駆け抜ける校門は色褪せ錆び付いていて校内も綺麗さとは程遠い。それでも温かさがある。

 込み上げてくるものを、笑って誤魔化した。

「どしたの」

「なんでもないよ」

 緊迫感の抜けた。当たり前に教室で雑談をするような、そんな声だった。


 昇降口から校内へ入り、渡り廊下を駆け抜ける。

 やはりここは巣穴となっているみたいだ。木々の生い茂った中庭には所々に荒らした痕跡が残されていた。

「うん、やっぱり、ここね」

 内海は再確認をする。

「じゃあ、そう。私は……」

 荷物を置いて、外郎は吹っ切れたような笑顔を見せる。

「ここで死ぬわけか」

 内海は否定しなかった。ただ、淡々と準備を始める。


”なんでもないことです。”

 狩猟届けの理由の欄にはそう書いておいた。

 バカにされてしまう、それでも私達にとっては大切なこと、間を取ってなんでもないこと。

 本当は向かう理由などどうでも良かったのかもしれない。そんな雑なものでも受理されたのだから。


 熊によって居住不可能となる期間は十二月からの三ヶ月間。

 普段は人里に降りてこない熊が、飢餓状態となりなりふり構わずやってくる。

 仮住まいは用意されているし、自分たちが生まれたときからこの地域はずっとそんな感じだから、今更思うことはない。受験のための引っ越しも、少し早くに済ませるだけだ。

 でも、この期間は何が何でもこの地域を取り戻したかった。

 あの学校で卒業式をしたい、理由としてはただそれだけだ。


 この区域を牛耳る主はどうやら一匹しか居ないらしい。

 現に十数年前はそうして討伐したらしいのだ。

 だから、まるっきり不可能というわけではない、と思う。

 ただ二十人の討伐隊を編成し十五名の死者を出したという情報がなければ、もっと希望はあったのだけれど。


 この時期に徘徊している熊はほとんど体に食べ物を入れていない飢餓状態にある。気づかれた時点で一巻の終わりだ。あの大きさなら障害物は問題じゃない。どこに隠れていようが数トンの巨体で突進されればひとたまりもない。

 月明かりに二人並んだ姿が映えていた。

 外郎は内海に話しかける。

「冷静になればさ、自殺行為だよね」

 内海は自嘲気味に笑って。

「今更でしょ」

 飢餓状態の熊は痛覚が遮断され、ただ本能のまま肉を貪る。これが駆逐なら、空砲を一面から何発か打てば良いのかもしれないが。今、この状況では違う。

 確実に、一発で、仕留めなければならない。

 だからこその囮作戦だった。

「外郎が言い出しっぺなんだからね。頑張ろ」

「まぁ、ね。でも、なんかさ、こう、あれじゃない?」

 外郎は恥ずかしそうに頭を掻く。

「何一つ具体的なものがなかったね、何?」

「きっとこれが、年齢的にもわたしたちができる大人への最期の反抗、だね」

 時間は平等にやってきて、少ししたら私達は大学生となる。これまでよりもずっと成長は緩やかになって、私達はすぐに成人を迎え、大人になっていく。

 きっとこれはすぐに懐かしむ類の、馬鹿なことをした記憶として保存されていくわけで。

 だからこの瞬間が子供と大人の境目なんだって、そう思った。

「そうかもね」

 外郎がどれだけのことを考えているのかなんか知らないけれど。

 私はしみじみと、外郎に向けた独り言を呟いた。

「そっか、もう卒業なんだよね」

 一気に、この瞬間が自分の人生にとって大切なものに思えた。



 地響き。

 たった一回のそれは私達を現実へ連れ戻し、人生なんか関係のない死者へ片足を突っ込んでいる状況を認識させた。

 何も言わず、内海は持ち場につく。

 その場には、外郎一人だけが残された。

 匂いだけを追ってくるのなら、植物の影に隠れている今の状況なら突進されることはない。ただ、私は目の前に現れる巨大な生物目掛けて、猟銃を放せば良い。

 だけど見てしまった。草葉の陰から頭を少しだけ出して、位置だけ確認したかった。


 めまいがした。

 体高だけで私と同じくらいの大きさ。

 これ、まずい。

 両足で立たれたら私の銃口が眉間にまで届かない。

 限りなくゼロに近い生存の可能性が、しっかりとゼロに変わっていく。

(どうするどうするどうするどうする!!)

 完全にパニックだ。そんな事考えている合間も、標的は待ってはくれない。

 横幅がギリギリな渡り廊下を通り、確かに、中庭へと侵入してくる。

 荒い息と強すぎる生命の存在感はその場一体を埋め尽くし、私の匂いを追って進んで来る。


 幸運だったのは外郎の存在に気が付いていないらしいということ。

(となれば)

 四足歩行で歩く今の体勢の状態で、タイミングを見計らい。

 飛び出した。


「あっ……」

 その声は熊でもなく、内海のものでもなく。

 私のものだった。

 即座に判断をくださなければならないほど逼迫しているこの状況。眉間へ銃口を向けるための腕の筋肉を動かす、脳の信号でさえ急かすような一瞬に、私は理解した。

(失敗したっ!)


 出るタイミングが早すぎた。散弾銃の弾を全弾命中させるため、銃口を急所の眉間に密着させて発泡するためには、あと半歩分距離がある。

 標的は私の存在を認識する。そして同時に私が縄張りへ侵入してきたそれと一致させる。標的が二足歩行で立ち上がるまでに、私はその半歩分を埋めることすら出来なかった。

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 咆哮、その場の全てが崩壊するような、死の重低音。


 震える手、噛みしめる奥歯、目の前に相対するは四メートルは優にあろうかと言うほどの巨体。

 気を奮い立たせるため、叫ぶ。

「うわあああああああああああああ!!」

 叫びながらも、思考は極めて冷静だった。

 右腕とその先の鋭利な爪。標的はそれを勢いよく振りかざし、少しだけ体勢を崩す。

 スコープなど覗く必要はない。半歩後ろへ下がり効率的に、的確にそれを避けると、今度は逆に一歩前へ出る。焦らず左手で支えた銃をやつの眉間に押し当てると、冷静に淡々と引き金を引いた。

 爆発音にも似た射出の音は一時的に聴覚を潰す。

 音はなくとも、目の前の標的は、途端ぐったりとしているのが分かる。

 これは、と精一杯思考を進めようとして、少し時間がかかって、ようやく一言だけ頭に流れる。

(成功だ)

 歓声を上げ、隠れているはずの内海と抱き合うはずだったが


 未だ治らない聴覚の不調。

 極度の緊張と高揚感からか、アドレナリンは過剰に分泌されている。

 思考は未だ不明瞭で晴れない。

 何かが変だ、と感じるのには十分だった。


 加え、外郎は聞いていた。その場で響く銃声が一つではなかったことを。

 おかしい。内海は近くにいるはず。ならその銃声は内海の持つそれだったはずだ。内海の持つそれは散弾銃というよりはスナイパーライフルに近く、一発の威力が格段に大きい物だ。

 なのに、熊の図体はピクリとも横に動かなかった。


 体に力は入らない。脳内物質の分泌のせいだけではないことは確かだった。

 信じたくない可能性を否定するため、腕を首元に回そうとして、気がついた。

 体が動かない。

 頭に流れるその思考を理解すると同時に、外郎の体は頽れる。


 二月から三月へとようやく変わった季節。寒冬気味だった今年は今の時期になっても温度は低いままだった。肌に染み入る中途半端な寒さは身を震えさせるだけなら適当だ。

「あぁ……」

 卒業式まで、あと一週間もない。

 練習をしよう。好きでもない歌を歌おう。慕ってくれるような後輩、可愛がってくれる先生に覚えはないけれど、高らかに後輩、先生、そしてこの校舎に別れを告げよう。門出を祝われながら、高校生の自分と決別するんだ。

 そうすればまた新しく、人生が。

 首元から流れる大量の血の中で、徐々に近寄ってくる内海の姿を認め、そのまま意識は遠のいた。


 立ちすくむ内海のもとには、横たわる2つの体があった。

 眉間を撃ち抜かれ、徐々に熱を失っていく熊と、言葉はなくとも心中を誓った友。

 事実だけを見れば熊との相打ち。

 しかしこの銃痕は説明がつかない。

 冷え込んでいく夜の中で、手元の震えは徐々に増していった。


「ごめんね」

 小さく呟いたその言葉は外郎に届くことはない。

 それは外郎にとって不幸中の幸いといって然るべきものだった。


「卒業かぁ」

 中原仁は仮住まいのプレハブ小屋の中でしみじみと声を漏らした。

 三月ともなればほとんどの学生は受験を終えている。

 早々と受験を終えていた俺たちはこの三ヶ月近くを少し早めの春休みとして過ごしていた。

 しんしんと降る雪を窓の外に認め、物思いに耽る。

 この短くも長いモラトリアムは、楽しかった。

 だけど、いやだからこそ。

「俺たちはなんにも変わってないのにな」

 友人の上城は鍋を突きながら、そう話すので思考は途切れてしまった。

 上城は続ける。

「つまりこの街からも出ていくわけじゃん? 感慨深いものがあるよな」

「三人共東京だろ、変わんねぇって」

 辟易したみたいに言う下村と上城、そして俺は十数年来の友人だった。

 この街で生まれ育ち、酸いも甘いも共にした。

 一抹の不安、期待は矛盾しているようで両立していて、浮足立った心は支えを無くして不安定だ。

 だからどうせ大学でも一緒にいるというのに集まっているのはそのせいかもしれない。


「こんな生活も終わりか」

 下村の何でもないつぶやき。その声音はいつもよりもずっと低く冷たさすら覚えた。

 それに少しだけ気をもみながらも、言葉の意味だけを咀嚼する。

 この地域の奇妙なしきたりとも別れを告げるのだ。

 当たり前のように、一年に一回の引っ越しも別の場所では行われていない。

「それもそっか」

 俺は相槌を打つことにした。

「カルチャーショック受けたりするのかな」

「年末になるとみんなで部屋交換しような……」

 上城は嘘泣きを交えながらそんなことをのたまう。

「いや、それは良いかな」

「うん、俺も大丈夫」

「あれぇ!?」

 上城は掃除ができない。見え透いた罠に引っかかるほど短い関係性ではない。


 下村は「それはそれとして」と話題を修正しようとする。

「なんかさ、あと二ヶ月は帰れないわけだろ」

 二ヶ月もすれば大学が始まっている。その頃には多分この街のことなんか忘れているのだろう。薄情、といえば薄情だけれどどうせ四年は離れるわけだ。

「引っ越しは終えてるからな」

 年末恒例の仮住まいへの引っ越しの際にどうせならと大学で借りる部屋への引っ越しは済ませていた。

「今度あの街に行くときは成人式……もここでしないのか」

 一二月からの三ヶ月間、というのは大きなイベントが多い。市の公共施設を使えない以上、別のところで代用するしか無いのは仕方のないことだ。

 例年、隣の市と合同で成人式なんかは執り行うと聞かされている。

「そう考えれば用事なんて無いな」

 上城は天を仰いでそう言う。

「だろ? だから、その前に今このタイミングで……」

 下村は言いよどむ。

 相談するかどうかでさえ悩んでいるような様子だった。

「いいよ、言ってみ。バカにしないから」

 上城は助け船を出すと、「じゃあ、」と渋々話す。

「俺たちだけであの街に戻らないか」

 しばらく、下村の目を見つめていた。冗談は、言ってないようだった。


 夜半、俺たち三人は故郷へと帰還する。

 住宅街を分ける壁は、三人もいれば乗り越えることなど容易かった。

「危なくなったら帰ろう」

 上城はビクビクとしながら路地を歩く。

「クラスの女子、ああいや、内海と外郎か。狩りに行ったのは」

 知らない中ではない。付き合いで言えば二人と同じくらいのものだった。

「毎年、市全体で何人かこの時期に狩猟に行く人はいるみたいだけど、どう思う?」

「……まぁ、無理だろ。それをなんで許したのかね。強要されているわけでもないだろうし」

「いや、あいつらは書類でっち上げたんだ。今日の朝聞いた」

「それはもうどうしようもないな」


 なんのつもりかは知らないけれど、本人たちが良ければそれで良いんじゃないか。

「あーあ、本当に卒業か」

「なんだ、話題ぶり返して」

「いや、こう歩いてると、登校してるみたいでさ」

 満月が照らす世界は、思ったよりも明るくて、二人の姿がしっかりと見えた。

 だから少し思い出した。

「どう、不安とかある? これからの明るい東京の暮らしにさ」

 話題をぶつけると、上城は少し考えるふうに指を顎において。

「無いかな」

 といったのもつかの間、かぶりを振って、「やっぱなし」と前置きをすると。

「強がりか。不安ばかりだよ」

「珍しい」

 下村は間を置かずこう話す。

「俺はこの休みの期間で不安になったかな」

「その心は?」

 腕を組んで、前だけを見つめて、二人に下村は話す。

「思い返してみれば、小学校中学校高校はやはり教育の場であったと思うんだ。それは目には見えなくとも、たしかに俺たちは成長をしていた。」

 少し考えて、間を置いて。

「ただ現状は変わらずに時間だけが過ぎていくということが初めてだったからかもしれない。勉強だけをしていれば良い、というわけでも無いしな。お前らもそうなんじゃないか?」


 そう言われてみればそうなのかもしれない。

「まぁ、そうかもね」

「誰かが導いてくれる、ということはもう無い。勝手に育って、勝手に卒業していく。大学生活の話を聞いていると、そんなものらしい」

「まぁ、成人するわけだからな」

 下村は「そうそう」と相槌を挟んで、

「つまるところ、新しいところへと飛び込んでいくんだ。だからきっと俺たちは不安なんだ」

 そう纏めた。


「自分次第ってことだろ。そう考えれば、俺はずっと楽しみだけどね」

 上城は対抗するように胸を張った。

「嘘つけ、上京できるからってだけだろ。」

「バレた?」

 そんな事を言いながらも、俺は下村が曇ったままの表情だったのを見逃さなかった。

「……でも、俺はさ」

 続けようとしたとき、


 警報が鳴り響く。

 聞き慣れないけたたましい二つの音に、一抹の恐怖が理解を妨げる。

 だが、上城はなんでも無いかのように事態を理解したようだった。

 数キロおきに在る公民館の町内放送用のメガホンは、その中間に置いてあるスイッチを感知し、警告を知らせる事になっている。

 下村は、言葉に出すことを恐れた上城を置いて、言う。

「熊が来たんだ」


 長年狩りを生業とする猟師は居ない。

 そのためか、熊が人を恐れる道理もない。

 酸素が多分に含まれた食料を取ることでその体は巨大化する。

 だから、今の私達が勝てる道理はない。

 生まれたときから口酸っぱく言われてきたその情報が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 俺たち三人は、民家の外壁に回って、隠れていた。

「方向は?」

「南、みたいだな」

 碁盤の目のように配置されたサイレンは鳴り出す順番で方向がわかるようになっていた。

 だからこちらにアドバンテージがある、わけでもなかった。

「くっそすぐそこじゃねぇか」

 入り込んだ位置が悪かった。

 俺たちは熊に隠れながら、速やかにこの地域を脱出するしか無い。

 ここにとどまり続けることは悪手、人間の匂いを熊は何が何でも追ってくる。

 なんとかして、熊の位置を把握し、逃げなければならない。


 その時、決して小さくない爆発音が聞こえた。

「誰かいる」

 だがそれが安心材料となることはなかった。

 つまりそう遠くない位置に熊がいる、ということ。

「おい、やめとけって」

 下村は危険だとはわかっていても外壁から、頭を少しだけ出して、周りを確認する。

「っ!?」

 思わず隠れてしまった。

「どうした」

「いや、影が見えた」

 二人は戦慄していた。共通認識として、もう逃げられないということの証左でもあったから。

「何かはわからない。もしかしたら、猟師かも」

 それならただ、怒られるだけだ。それだけで済むならどれほど良かったか。

 少なくとも、ここに3人固まっていたら助かるものも助からない。

 とりあえず、反対側に移動して、と提案しようとしたとき。

 俺たちが隠れている家の、門の扉が開く。

 そこに現れたのは。

「内海!?」

 内海もここに俺たちがいることに驚愕しているようで。すぐに近づいてくる。

「お前、街に行ったんじゃ……」

「ごめん、引き連れてきちゃった。」

「はぁ!?」

 たちまち、あたりに異臭が立ち込める。

「申し訳ないけれど、分散して。一箇所にまとまってたら助かるものも助からない」

 上城と下村の二人は即座に、バラバラに逃げたようだけど、俺は少し別の行動を取っていた。


「何してるの?」

 こちらに視線だけを向ける。

「いや、銃を持ってるのはお前だろ。そっちのほうが生存率が高いかなと」

「ふぅん、まぁ。都合がいいか」

 聞き返そうとすると、猟銃を抱えた内海は腰をかがめたままで移動する。

 横に抱えた猟銃。銃口はこちら側に向いていた。

 奇妙なほどに音はなかった。

 その中で耳を澄ませているものだから、どこか夢心地だ。


 一人きりで彼女は来た。そのことに違和感があった。

 ふと、思い出す。LINEでのやり取り。見ているだけだったが、幾度となく見返したその決意。

「なぁ、たしか外郎も……」

 掛けられた声はその言葉が続くことも、また返事が来ることもなかった。


 下村と上城は家の裏手から、住宅の庭を通り逃げていた。

「上城、二手に別れよう」

「……不安だが、しゃあない。どちらかだけでも生き残れば吉か」

 外壁を乗り越え、道路に出たところで、二人は反対方向へと駆ける。少し走り、丁字路を曲がる。

 下村はそこで足を止めた。

 上城が向かったのは大通り、熊の縄張りを示す街路樹が立ち並ぶエリアだ。

 丁字路の角から上城の向かった方を見ると、ちょうど大通りに出たようで姿は見えなくなる。

 走っている間、一つの発砲音がそう遠くないところで微かに聞こえた。

 おそらく上城が喋っているのに被り、おそらく上城は気がついていない。

「しょうがないか」

 逃げるつもりはない。むしろぎゃくだった。

 道を引き返す。


 二度目の発砲。それも大通り方面から聞こえる。

 内海もこちら側へと来ていたのか。

 なら、好都合だ。


 しかし、なりふりかまっていられない。

 もう、こうなれば。

 確かな決意を固め、見つかったら逃げられない、大通りに身を投げだした。

「……え?」

 大通りの真ん中にあったのは俺たちが存在を恐れていたはずの熊の死体。

 血は既に赤黒く、時間が立っていることが推察される。


 にも関わらず、先程の発砲音。

 それが指し示すのは。

「下村」

 呼びかけられた声に振り返れば、内海は上城の喉元にハンドガンを突きつけながら立っていた。

「下村、こ、こいつが、中原を」

 上城は途切れ途切れになりながら、必死に伝えようとしてくる。


「熊は?」

「見た通り、連れてきた分は倒したよ。と言ってもスイッチを押させた直後に殺しているけどね」

 頭を二度三度掻きむしり、一度内海の目を見る。

「何がしたい」

「じゃあ、取引しよっか」

 そう言って突きつけたハンドガンの引き金を引いた。


 電池が無くなったみたいにくずおれる。

「なんで殺した? 取引なら人質ってわけじゃないのか?」

「いや、断ったら殺すって言いたかっただけ。別にこいつ生かす気もなかったしね」

 ずいぶん余裕がないのか。

 そんなことは寿命を短くするだけだから言わないけれど、それにしても意図がつかめない。

「中身を聞いてもいいか。大方断りはするけど」

「……あの学校で卒業式がしたいんだ」

 目を細めて、大事な思い出を思い出すかのような仕草を見せる。

「その後は?」

「仔細はわからないけれど、みんな熊に殺されるんじゃない?」

 なんとなく、理解した。

「悪くはないけど、断るよ」


「そう、残念だ」

 そう言うと、私は猟銃を向ける。

「……ただ、そうだな。最期に話をしないか」

「嫌だと言ったら? そんな事言える立場じゃないことくらいわからない?」

「銃の弾数もそんなに持ってはいないんだろ。殺すことが目的ではない、と見たね」

 下村は仮住まいのある方角の空を見つめていた。

「それでなくとも一つの銃弾で一人殺す、なんて割の合わないことはしないだろ。どうせすぐバレる」

 向ける猟銃を下ろした。

 それでも一応、反応できるくらいには距離を開けている。

「死ぬ覚悟はできてるの?」

「ああ、終わるのなら、この街でとは思ってたからね」

 私は頭が良くない。だからかもしれないけれど、彼の言葉には嘘がないように見えた。

「多分、俺もお前も考えていることは同じのはずだ。だから整理をしよう」

「整理?」

「俺たちがどう考えているか」

 そうして下村は、私と同じ顔をした。


 とりあえず、少し距離を離して、隣に並ぶ。

「大げさにそんな事言えるほど、下村は頭良くないでしょ」

「悪かったな。だけど、世界史でお前に負けた記憶はない」

 当たり前のように、雑談を始めていた。

 周りに広がる地獄を見ないように、見なかったことに、無かったことにして。


「私も別に頭は良くないけどさ。対して変わらない下村がなにか答えを持っているとは思えないんだよね」

「……考えていたんだ。高校生活を三年間過ごして、いやもっと前からかもだけど」

 彼は、一度顔を上げて私の目を見た。

「内海は、誰か身内が死んだ事あるか?」

「うん、小さい頃だけどね」

「俺もだ。中二の頃に父親が高一に弟が熊に殺されてる。ついでに言えば中原は両親を小五のときになくしているし、上城は物心がついた頃には母親が居なかったんだと」

「何が言いたい?」

「高校に入りたての頃さ。こう言われたんだ。『義務教育は終わったんだから、自分の人生は自分で考えるように』ってな。そこから、普通の人生ってなんだろうって考え始めて気がついた。俺たちは普通の人生を送れてないってことに」

「でも私は生きてきたよ。ここまで」

「いいんだ。ただ、俺に限った話かもしれないんだけど……」

 下村は視線を外す。

「死が近いとさ、あまりに長く生きることが想像できないんだ」

 ああ、たしかに。それは肌にスッと染み入るような言葉だった。

「たしかに、そうかもね」

 おそらく、この街の全員が思っていることだ。

「言葉にはしてこなかっただろ。俺も、お前も、外郎でさえも」

 学校に巣食う熊の掃討を名乗り出た彼女に、私はそんなことを感じていた。

 だから私は、彼女についていったのかもしれない。

「明日死ぬかもしれない。ならできるだけ満足のできる死に方をしようと生きる。でも、俺は少し考え始めるのが早すぎたからかな。いつしか志半ばで倒れることが、どれだけ幸せかって思うようになった」

「でも、それじゃあ」

 気がつく。

 それは私が通った道だ。

 あなたは、私達は満足に死ぬことが出来ない。

 それがわかっているから、諦める前の自分のままで死ぬことが正しいのだと、そう思っていた。

 声に出すことは憚られた。まだ、向き合うことが出来ていなかったからかもしれない。またそれは彼自身もわかっていただろう。


 彼は、少し私の言葉を待って、続ける。

「それまでの人生に意味を見出すことなんか誰にだってできる。けれど、将来に希望を持つことほど意味のあることは無いだろ?」

 でも、私たちに、そんなことは出来ないんだ。

 うまいこと今の状況を解決に持っていけるのなら済むのだけれど、希望の一つも持てないほど、逼迫しており、救いはない。

「現実を突きつけられて大人になっていくんだよ」

 私は思っても居ないことを言った。否定したいこと、でも考えざるを得ないこと。


 外郎の行っていたことを思い出す。

 まだ私達は大人じゃない。

 だけど、私はもっと救えない。

 だって私は大人になんか――

「生まれてから子供のままだった俺は、大人になんかなりたくないんだよ」

 思わず、彼の目を見てしまった。

 同じだ。


 目を見つめたまま、下村は話す。

「俺はこれから街へ行って食われていくるつもりだったよ」

 言葉を弄する暇はない、下村は続ける。

「内海はこれから、どうするんだ? 熊の駆除なんか金にもならない。廃墟と化していく街とともに心中するつもりか?」

 私は、思わず目を逸らした。

「……うん」

「それはよかった」

 下村は小さく笑う。

「できれば、お前には生きてて欲しかったから」


 卑怯だ。

 自分だけ首尾よく終わろうなんて、そんなの浅はかで、どうしようもなく自分勝手だ。

 私は、怒りに震え、下唇を噛みながら、彼に向き直る。

「私がどこかおかしくなっていることは知っている。」

 下村は相槌をして、ただ私の話を聞いている。

「でもさ。もしかするとさ。おかしいのは私以外の全てなんじゃない。」

 言葉に気持ちは乗らず、思ったことの十分の一も届けられていない。

 学がないのが恨めしい。もっと言葉はあるはず。

 自分の中でも整理はつかない。ただ靄がかった心を、少しでも綺麗にしたい。

 心の赴くまま、下村に猟銃を突きつけた。

 顔色一つ変えず、下村はまだ話す。

「やり残したことは?」

「無いように生きてきた。」

 苦笑して、彼は猟銃を掴んだ。

「そうか、お前もそうか」

「なに」

 しかめっ面をした私をたしなめるように言う。

「多分俺と同じだもうちょっと、考えていることは幼稚なんだ。別に死にたいわけじゃない。かと言ってダラダラと生きたくないだけなんだよ」


 だめだ。下村は今すぐに殺さなくてはならない。

 そうしないと、鈍る。


「俺の話をするとさ」と下村は続ける。

「俺は自分勝手だから、自分の人生は自分が主人公だと思っているんだ。」

何を言っているんだろう。

「は?」

「俺の人生の中では同級生の死でさえも、きっと舞台装置の一つでしか無いんだ」

 彼は銃口から離れ、月を背にして話し続ける。

「俺達は熊に襲われる街に生まれたんだ。事態がもうちょっと悪くなればきっと国が介入して全国からの非難とともに、この状況は改善される。」

 思ったよりも月は眩しくて、彼の顔が見えない。

「それでも俺達は熊に襲われる街で生きたんだ。俺の人生には、それでしか無いんだよ。だから、俺の人生はここでおしまいなんだ。」

 何かを言おうとして、心のなかで突っかかるものがあった。

「ほかはどうか知らないけど、私にとっては死ぬまでが人生なんだ。私は、熊に襲われる街で人生を終える。だから私はこの場所で死ぬことを選んだ。」

 何かが腑に落ちる。

 それを忘れないようにして、隠しておこうとしていたことを話してしまう。

「私は、外郎を殺したんだ」

 下村の瞼が小さく動く。

 黙っていれば分からなかっただろう。

 外郎が一人で熊を討伐したなんて現場を見なければわからないしね。

「熊を仕留めるという目的までは一致していた。一つ違うところがあったのだとすれば、私は失敗しても良かったことくらいかな」

 彼女は、強すぎる光だった。

 ずっと考えているだけだった私に、行動でその決意を示してくれた。

「でもさ。どうやら人生はこれからのほうが長いらしいんだよね。」

 でも、その先の彼女の人生に、私が感じた今の彼女ほどの光は現れない。

「それが酷く不憫に思えた。」

 もっと幼稚で、非人道的な救いようのない身勝手。

 それをようやく理解できた。

「私は不可抗力という形で、彼女の人生を終わらせることにした。」

 下村は、思っていた通りの返答をする。

「それは、あんまりじゃないか」

「でも、いいじゃない」

 あの時、あの瞬間に私の世界は静かに息をするのを止めたんだ。

 逃げ場はない。夢の一つも見られない。

 誰にとっても、そんな世界は生きる価値は無いんだよ。

「首尾よく、完成された人生とはそういうものだと思ったんだよ。」

 下村は否定できない。

 彼の言い草だと、無理な夢を追い求めるが故の殉職、というのはきっと素晴らしい人生の落ちになる。

 やっぱり、わたしと彼の考え方は似てる。

「じゃあ、こうしよう、ロシアンルーレットでもしようか。」

 最期の取引は、私から持ちかけることにした。


 手元には上城を殺すために使用したハンドガン。

「君が死ねば、私はあの場所でみんなを殺す。私が死ねば、君の勝手だ。どうしたって良い。飲んでくれる?」

 下村は何も言わずに首肯する。

 リボルバーの中身を一つだけにして回し、私は喉元に突き立てた。


 カチッ、と失敗の合図が二人に伝わる。

 緊張なんか無かった。

 きっとどっちが死んでも何も変わらないから。

 それを他人に求めるか自分だけで終わらせるかの違いこそあれど同じような考えのやつが、一人は死んで、一人は生き残るだけだ。

 でも、本当は分かっていた。

 きっと、彼のほうが正しいのだろう。

 拳銃を渡す。

「良かったよ。君が居て」

「何、急に」

「死に際も綺麗に死ねるってのは、幸せなことなのかもしれないぜ」

 彼の人生は彼が主人公らしい。

 何を感じ取ったんだろう。何が見えたんだろう。

 彼はさも当然かのように遺言を残す。

「本当に、素晴らしい人生だった」

「あ……」

 耳を潰す、爆発音。一瞬だけ世界から音はなくなる。

 眼の前には吹き出す血と熱を失っていく死体。

 声もなく倒れる彼に向け、いつの間にか伸ばした手は行き場を失った。


 この街は新しい。

 太古から伝わる言い伝えも人々の激闘の歴史も存在しない。

 人が作り人によって存続し続ける街には、神社も寺も無い。

「そう、か……」

 それ故か、何かに祈り願うようなことは誰もしない。

 不可解なことはなく、当たり前に世界は人の手によって時間を進められていく。

 自分たちでどうにかするしか無いから。

 この結末も当たり前だ。救いはなく、信じられるのは自分だけだ。

 行動の結果は自分の実力に比例するもので、自らにしか向けようのない責任。

「……良かったよ。この行いは正しかったんだ」

 涙が溢れてきた。この感情の名前は知らない。


 校内に咲いたまばらに咲いた桜は悠然とその幹を揺らしていた。

 体育館には生徒と保護者だけが招待されている。

 危険を考慮して、静かに準備が行われていた。

「なんでここに熊が?」

 校長は体育館のそばに置かれた一体の熊に近づく。

「移動させるのは危険すぎるみたいです。死体の腐臭が遠くにいる仲間を呼び寄せるみたいで」

「冬眠間近には共食いだってするっていうしな。しょうがないか。よし、準備を始めよう」

 総勢200人前後、死にゆく街の中で、最期の式が始まる。



 時期は冬、依然として状況は好転していない。

 卒業式が始まった。中においてある熊は、死んでいない。

 幾度となく聞いてきた足跡、無数に感じるそれは、少なく見積もっても四十匹程度だろうか。

 体育館に響く空調の轟音によって足音はかき消される。

 体温の上昇によりやがてそれは起床する。

 内海は入り口にロックを掛けた。

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