invisible-brain memory
invisible-brain memory
prologue 市原
飴のように柔らかく湾曲した金属の塊が横たわっていた。黒い空から舞い散る雪が薄く積もっている。かろうじて原型を留めているタイヤとヘッドライトで、それが車だと分かった。その車の中に市原はいた。手も足も動かすことができない。呼吸をするたびに鉄臭い血の味がする。ああ、やっちまった。トラックが横転し、市原の車を押し潰したのだ。聞こえるのは誰かの声。トラックの運転手、それとも、警察官。市原を助けようとしていることが何となく分かる。でも、もう無理だよ。諦めるしかない。仕方がないんだ。手足の感覚がすでになく、体の3分の2が死体になっているみたいだ。ああ、あの日も仕方がない。そう思った。消えていく彼女を追いかけることもできなかった。彼女との約束を思い出すが、痛みに解けて、消えていく。もし願いが叶うならと神様に祈った。仕方がないものばかりで諦めてばかりで本当に大事なものが分からなくなっていたんだ。だから、彼女との約束をどうか叶えてほしい。ガソリンの匂いと金属の擦れた音、真っ赤な血に滲む世界で誰かが市原の後頭部に触れる。温かい手の感触が痛みを和らげていく。ああ、ありがとう。市原は神様であろう、その存在に呟いた。
invisible-brain memory
21xx年、ある脳科学者が脳内の記憶を構成する電気信号の解読に成功した。その結果、記憶の電気信号を解読すれば、その人間の行動が全て明らかになってしまい、嘘がつけなくなった。電気信号の解読結果は裁判の証拠としても有効と認められることとなり、記憶にございませんと吐く政治家も、やってませんと嘯く犯罪者もいなくなった。都合の悪いことを隠すことができなくなり、世界は清浄化されていく。それはbrain-connector systemと呼ばれ、全人類を管理する根幹システムとなった。
人間は生まれた時に脳内にbrain-connectorを埋め込むことが義務となり、brain-connectorが生まれてから死ぬまでを全て記録し、嘘の存在しない世界で我々は生きている。
brain-connectorとは大脳辺縁系にある海馬の電気信号を読み取るconnectorだ。体内電気で持ち主が死ぬまで稼働する。しかし、記憶の電気信号には希に解読できないものがあった。海馬の一部が暗号化され、現存する科学技術を駆使しても、解読ができないのだ。1000万人に1人の確率であるが、そんな症例が発見され、解読できない記憶の電気信号をinvisible-brain memoryと呼んだ。現在、世界中の脳科学者がinvisible-brain memory の解読の努力をしている。
脳科学者である佐藤もinvisible-brain memoryの研究をしている。被験者は自分だった。たまたま、自分のbrain-connectorに接続した時、自らの海馬にあるinvisible-brain memoryの存在に気が付いた。1000万人に1人の症例の持ち主であることに佐藤は運命を感じた。脳科学者である自分に invisible-brain memoryが存在するなんて。神様が invisible-brain memoryを解読せよと言っているようなものだ。
brain-connectorで自分の脳内をスキャンし、なんとかinvisible -memoryを解読しようとするが、うまくいかない。不眠不休の研究生活でbrain-connectorが身体的な危険を関知し、強制的に研究を中断させられる。brain-connectorは人間の健康管理も行っている。研究施設から病院に強制入院させられて、健康で人間的な生活を余儀なく送る日々が数週間続く。研究を再開したいという欲求がおさまらない。しかし、病院から抜け出そうものなら、法的に罰せられてしまう。自己責任という言い訳など効かない。自身の行為が社会全体に不利益を生じさせるため、そのような行為はbrain-connector systemにおける社会不適応罪となり、禁固刑も在りうるのだ。
病院で健康的な生活を送り、ひたすら我慢の日々の中、佐藤は夢を見た。鮮明な夢だった。見慣れた世界であるはずなのに、見慣れた世界ではない。矛盾しているが、そう感じた。佐藤の見慣れた世界にはエアカーが空を走り、会社まで自動運転で連れていってくれる。寝坊しても、エアカーの中で髭を剃って、歯を磨くことができる。そもそもエアカーが時間通りに家の前で待っており、brain-connectorにより強制的に起こされるから、寝坊などしようがないのだが。当たり前の4D広告が街を飾り、オートマチックな清掃マシンが道路を器用に走り回っている。それが佐藤の見慣れた世界だ。しかし、今、夢に見ている世界にはエアカーなどない。大量の排気ガスを排出するガソリン式のエンジンを積んだ自動車だ。人間がハンドルを操作することでようやく目的地まで行くことができる。旧世紀の遺物だ。エアカーではあり得ない渋滞が起こって、クラクションの音がけたたましい。2Dの画像の荒い広告が灰色のビルに貼り付けられ、古い映画でしか見れないファッションに身を包んだ若者達が携帯電話を片手に歩きながらしゃべっている。全然見慣れた世界ではないのに、見慣れている。そう感じた時にポケットの携帯電話が鳴った。
携帯電話など触ったこともないが、佐藤は器用に携帯電話を開いた。操作方法など知るはずもないのに、通話ボタンを押した。携帯電話を耳に当てると、聞き慣れた声が聞こえるが、もちろん聞き慣れていない。受話器の向こうにいるのは桜井だった。桜井博子、彼女の名前だ。待ち合わせに少し遅れるから、とそう早口で言って、電話が切れる。このビルの、2Dの広告の下で彼女と待ち合わせをしている。彼女を知らないはずなのに、知っている。佐藤は携帯電話の待ち受けに映る写真を見た。佐藤ではない男と彼女。男の名は市原正。そう、俺の名前だ。佐藤は市原正。彼女は桜井博子。2Dの広告の下で待ち合わせ。携帯電話の待ち受け写真。渋滞する旧世紀時代の自動車。パズルのピースを整理できなかった。しかし、分かっていることが一つだけあった。佐藤は、俺は、市原は桜井と今日大事な話をする。そのためにここにいるのだ。
ほどなく彼女はやってきた。電話での早口と同じで、慌てて早足でかけてくる。ごめん。ちょっと寝坊しちゃって。brain-connectorがあれば、寝坊などあり得ないという現実が薄れていく。じゃあ行こうかと俺の手を握り、連れていく。どこへ。聞くまでもない。あの場所だ。二人が初めてデートをした場所だ。
遊園地以外で見ると、ちょっと怖いピエロが笑う。おどけた仕草で風船を配り、俺達にもくれた。貰っちゃったね。彼女は嬉しそうに風船を見上げる。その先には晴れた空があった。晴れた空の下には観覧車やらコーヒーカップが並んでいる。射的の前で彼女は立ち止まる。あれほしいと子供のようにクマのぬいぐるみを指差す。射的のおっちゃんがお兄さん、彼女にいいとこ見せないと歯を見せて笑う。俺はおもちゃの銃でクマのぬいぐるみを狙う。引き金を引くと、あっさりクマのぬいぐるみは棚から落ちて、射的のおっちゃんが鐘を鳴らした。彼女の笑顔とクマのぬいぐるみを見比べて、似てるねと俺が言い、彼女はありがとうと笑う。時間が過ぎていく。観覧車、ジェットコースター、コーヒーカップ、メリーゴーランド、たくさん乗って、たくさん悲鳴を上げて、たくさん笑った。そして、日が暮れる。
遊園地ももう終わりだった。彼女の足取りは重い。まるで家に帰りたくない子供のよう。彼女は俺の手を握る。強く。強く。痛いよ。俺が言っても、彼女は手をふりほどかない。これが最後だと知っているから。微かに彼女の唇が歪む。泣いてもいけない。笑ってもいけない。そんな決意で彼女は感情が鉄砲水のように流れでないよう堪えていた。彼女の最後の願いを果たすことにしよう。俺は頷くしかなかった。仕方がないのだ。俺には未来など見えないのだから、彼女の未来を見も知らぬ男に託す。俺よりもずっと幸福な未来を見ることができる男に。馬鹿げた希望と深い絶望を感じていた。仕方がない。そう諦めるしかないのだ。俺には彼女の未来を背負ってあげられない。こんな俺には。だから、手をふりほどいた。彼女の幸福な未来のために。
来世で会おうね。
彼女は小さく呟く。とても小さな声は遊園地の閉園の合図である花火の音にかきけされてしまう。もう戻ることはできない。俺達は道を違えて、歩き続ける。これからは重なることのない未来が待っているんだ。
ああ。
俺は頷く。本当は俺が泣きそうだった。我慢して、強い男を、かっこいい男を演じた。彼女は背を向ける。待ち合わせに遅れた時の早足ではない。ゆっくりと歩を進める。彼女の選択した未来へと。いや、俺が選択させた未来か。俺は彼女が見えなくなるまでそこに留まり続けた。見えなくなっても留まり続けた。彼女の姿が消えてしまった時、我慢していた一筋の涙が零れ落ちた。花火が永遠のように上がり続けていた。
来世で会おう。
俺もそう祈るしかなかった。
映画のワンシーンのように夢が終わり、目が覚めた。見慣れた景色が佐藤を包んでいた。窓の向こうにはエアカーが流れていく。4Dの広告がリアルに微笑んでいた。見慣れた景色に安心する。夢だったんだ。一筋の涙が零れ、渇いた跡に気付く。泣いていたらしい。夢の中で市原正が流した一筋の涙の跡と同じだった。退院したらbrain-connectorで記憶をスキャンし、確認しよう。brain-connectorは夢も同じように記録しているのだから。
退院した佐藤は研究施設に直行し、網膜認証でパソコンを起動させ、brain-connectorから記録を探す。あの日、見た夢の記録だ。2Dの広告、ガソリン式のエンジンを積んだ自動車、折り畳み式の携帯電話、それらは1990年頃の文化で、博物館でしか見ることができない旧世紀の遺物だ。佐藤も子供の頃、遠足で見たくらいの記憶しかない。そして、市原正と桜井博子、この2人のこと。しかし、記録が見つからない。おかしい。brain-connectorの記録は完璧なはず。空白の時間ができるわけがない。佐藤は空白の時間のデータソースを追う。どこの記憶領域を解読しているのか。佐藤は結果に愕然とする。なんと空白の時間はあのinvisible-brain memoryを読み込んでいたのだ。
脳科学者として目の前にあるデータを組み合わせて、理論的な答えを探す。まずbrain-connectorの破損を疑うが、正常に稼働している。それ以外の記録は完璧だのだ。空白に欠落しているのは夢の時間だけ。病院で食べた病院食のメニューも完璧に残っている。では、空白の時間が存在した理由はなぜか。あのinvisible-brain memoryの記憶を解読しているからに違いない。あれは佐藤の記憶、それとも、市原正の記憶か。夢の中、市原正を、俺と言い、同一人格として景色を見て、行動し、感じていた。夢で記憶している感情も、桜井博子の手の感触も残っている。あれは夢じゃない。invisible-brain memoryにある記憶で間違いない。そして、2Dの広告も、ガソリン式のエンジンを積んだ自動車も1990年代に存在している。あまりにも馬鹿げている。この21xx年に存在する佐藤が1990年代のことを見慣れた景色と認識しているなんて。脳科学者として理論的な証明はできないが、あの夢は佐藤のinvisible-brain memoryで現実に繋がっているのだ。
invisible-brain memoryについての考察
brain-connector systmが導入され、現在、人間の記憶は全て記録されている。あらゆる記憶、20年前の朝食でも記録を解読すれば、思い出せなくても知ることはできる。brain-connector systmは完璧なのだ。だが、1000万人に1人の確率でinvisible-brain memoryと呼ばれる記憶領域を持つものがいる。invisible-brain-memoryの解読は現在研究が続けられているが、未だに解読する糸口は見つけられていない。
ある被験者Aについての資料がある。Aは夢を見た。夢は現在の世界ではない。1990年代の旧世紀の遺物が残る過去の世界の夢だ。Aは夢の世界が現実であるかのような感覚を抱いた。また、Aは夢の中でBという人格で行動し、Bと同一人格であるかの感覚を抱いた。Bという人格でCという他者との接触があったことも報告されている。まず、brain-connector systemでAの見た夢の記録の調査を行った。
brain-connector systemからは夢を見た時間の記録が空白であったため、追跡することはできなかった。だが、その空白の時間にinvisible-brain memoryの活動が活性化された記録が残っている。brain-connector systemの記録は空白であるが、データソースがinvisible-brain memoryにあることは確認できた。
invisible-brain memoryが現在の科学技術では解読不能であるため、現実にBとCという人物が1990年代に存在するかを調査した。その結果、Bという人格は1998年に確かに存在が認められた。そして、Bに関連するCという人物も同時間軸に存在が認められた。BとCは夢の中、恋愛関係であったが、brain-connectorが存在しない時代であるため、その事実の確認までは至らなかった。
検証の結果、到達した仮説である。非常に科学者らしくないが、invisible-brain memoryは魂の記憶であり、前世の記憶ではないかということだ。宗教学的に輪廻転生は語られており、遠い昔から生まれ変わりという症例は発見されている。もちろん全てが真実というわけではない。中には詐欺まがいの輩もいるまた、被験者Aの多重人格障害である可能性も否めない。だが、深淵に眠る人格を呼び起こす催眠検査をAに行うも、Bの人格を確認できなかった。
この検証の結果が1000万人に1人の確率で発症が確認されるinvisible-brain memoryに対しての治療法の一歩になることを切に祈り、今後も研究を続けたいと考える。また、検証の結果、存在が確認されたBとCの存在に深く感謝したい。
佐藤は記録を保存した。あの夢からたどり着いた仮説は何も裏付けがなく、非理論的だ。brain-connector systmでは人格BとCは確認できなかった。旧世紀の遺物からなんとか2人の存在が確認できただけだった。そして、残ったパズルのピースは被験者Aである佐藤が自ら感じた夢の現実性だ。その現実性の証明はinvisible-brain memoryを解読できなければ、理論的な裏付けにはならない。永遠に解けない可能性も大いにある。
佐藤はエアカーに乗り込み、行き先を告げる。無振動で浮き上がるエアカーは一気に加速して、空に走る見えない道路に流れていく。ビルの間を抜け、4Dの広告を突き抜けて走るエアカー、見慣れた景色に安堵し、夢で見た景色を思い出す。エアカーの行き先はあの遊園地だ。いや、正確には遊園地跡地だ。すでにあの遊園地はつぶれてしまっている。もっとデジタルな娯楽がこの世界に溢れているから、ああいうアナログな遊園地はもう残ってはいない。しかし、そこに行ったら、invisible-brain memoryがまた何か反応を見せるかもしれない。脳科学者としての使命感もある。しかし、それだけではない。佐藤を突き動かしている行動の源は市原の衝動だろうか。この世界で2人の約束を知っているのは佐藤だけなのだから。
来世で会おう。
そんな儚い約束のために。
epilogue 桜井
夢の中、桜井は笑う。今、自分がどこにいるのかは分からない。でも、とても居心地はいい。ゆらゆらと揺れて、水に浮いているみたいだった。傍らにいるはずのない市原を感じた。あの遊園地を最後に別れた市原。来世で会おう。そう約束をした市原。ふふん。なんか幸せな気持ちだった。こんなに市原を傍らに感じることなんて。桜井が目を閉じると誰かが後頭部を撫でた。とても温かい手。神様かな。来世で会えるようにあたしに目印でもつけてくれたかな。じゃあ、市原にも目印つけてよね。来世で市原が見つけられるように。ねえ、神様、約束だからね。