探偵はハーブボイルド ―そして探偵は狂う―
犬の男である師匠の体にいくつもの穴が開く。そして、そこから噴き出す真っ赤な血。
銃撃を受けて師匠は仰向けに倒れた。すぐに体を中心に真っ赤な血だまりができる。
「師匠!師匠ぉぉぉぉぉ!」
野兎の青年、ヘイヤは師匠のそばに駆け寄り、体を揺する。
「ヘイヤ……後は任せたぞ……」
師匠は最後の力で、落としたシルクハットを手に取ると、ヘイヤに手渡した。
「そんな……無理です!僕はまだ半人前……いや、それ以下です!」
「だったら……なってみろ……一人前に……そしてこの街を守って……くれ……」
そう言い残し、師匠は息を引き取った。
「師匠ぉぉぉぉぉ!」
ヘイヤは力の限り叫んだ。
一年後。市内の共同墓地。
トレンチコートを着たヘイヤが、一つの墓の前に立っていた。墓は彼の師匠のもの。彼は墓参りに来たのであった。
「師匠、お久しぶりです」
墓に花束を供えると、ヘイヤは墓石に話しかけた。
「僕、今日は色々とお知らせしたい事があるんです」
ヘイヤは笑顔で言った。
「僕、連続殺人事件を解決したんです。それに怪人が出没するっていうのも解決しました」
ヘイヤはしゃがみ込んだ。
「今、僕の事、何って呼ばれているか分かります?『ハーブボイルド』です。『ハーブをキメてるようだけど、強くて優しい』って意味です」
ヘイヤは微笑んだ。
「僕、通り名がつくほど有名になりました。街を歩いていると、よく呼びかけられたりするんです。そろそろ、師匠の背中が見えてきたような気がします。……でも」
ヘイヤは俯いた。
「僕、今のままでいいんでしょうか?確かに僕は強くなりました。でもそのために、大きな代償を払わないといけなくなりました。それが今になって、時々後悔するようになったんです。本当に良かったのかなって……」
ヘイヤは頭を抱えた。
「僕、迷ってます。本当に今のままでいいのか。それとも変わるべきなのか……教えてください!」
「いいんじゃないかな。今のままでさ」
ヘイヤは立ち上がって声がした方を向いた。そこにはスーツ姿の黒猫の男が立っていた。相棒のチェッシャーだ。
「チェッシャー……」
「そういえば、今日は彼の命日だったね。僕ちん、すっかり忘れていたよ。友達だったのに、薄情な話だよねぇ」
チェッシャーは花の代わりに、棒付きのアメをいくつか供えた。
「それにしても驚いたよ。君がそんな小さな事で悩んでただなんて」
チェッシャーはヘイヤを見た。
「『小さな事』だって?これが?」
ヘイヤは声を荒げた。そして、おもむろにトレンチコートを脱いだ。
コートの中から現れたのは、筋肉質な裸体、そしてそれを包むスリングショット。誰がどう見ても変質者であった。
「確かに僕は強くなった。でも、同時に変質者になった。おかげで有名になっても、僕を避ける人は多いし、職務質問される事なんてしょっちゅうさ」
「それは仕方のない事さ、強くなるためなんだから。それとも……変質者じゃないけど、弱くて無名の方が良かったかな?」
「そういう事じゃない!それにそもそも、君が言い始めた事じゃないか!」
「おや?そんな事言ったかな?」
チェッシャーは首を傾げた。
「僕ちんが言ったのは、『強くなりたいなら狂気を纏え』さ。そして君はそのために、今の姿になった。強くなるための手段を選んだのは君さ、ヘイヤ君」
「そ、それは……」
ヘイヤは言い返す事ができなかった。確かに、狂うために変質者の恰好をするようになったのは自分の意思だ。他に手段があったかもしれないが、その時はそれしか思い浮かばなかった。
「さて、君が言いたい事は分かるよ。確かに君は探偵として街を守っている。でも君は変質者だ。それは守っていると言えるのか。まあ、そういう事だろう?」
「……うん」
「結論から言うと、答えは『イエス』さ。君は変質者だからこそ、この街を守っているんだよ。今まで君は変質者の力で戦ってきたんだ。だからこそ守れた。そうだろう?」
「でも……」
「変質者でいるのはもう嫌かい?なら、別の方法で狂いなよ。でも君にそれはできるかな?君は真っ先に変質者になる事を思いついた。すぐに思いついたという事は、それがベストだという事じゃないかな?」
「それは……」
「まあまあ、君は考え過ぎなんだよ。医者の立場で言うなら、君は鬱状態になっている。これでは狂気の力を活かせないよ。いつもの君に戻りなよ。自分一人じゃ無理かい?なら、僕ちんが力を貸そう。良い薬を処方してあげるから」
チェッシャーは精神科医でもある。つまり精神的な事について、彼が言う事には間違いはないだろう。
考え過ぎ。今までのように変質者となって街を守る。それでいいのかもしれない。ヘイヤはそう思ったが、頭のどこかで受け入れを拒否している自分もいた。
「さて、それなら僕ちんは処方箋を書くとしようか。ヘイヤ君、事務所に戻ろう」
チェッシャーは声をかけた。彼の病院の一部は探偵事務所として使われている。つまり『事務所に戻る』というのは、時に『病院へ行こう』という意味でもある。
「うん……強烈な薬を頼むよ、チェッシャー」
「任せておきたまえ。僕ちん、鬱病の人を躁の状態にするのは得意なんでね」
二人は墓地を後にしようとした。すると、さっきまで晴れていたのに、急に霧が出てきた。
「おやおや、霧が出てきたよ。何も問題が起きないといいけどねぇ」
チェッシャーはやれやれと言いたそうな仕草をした。
ここ、ランドン市は『霧の都』として有名であり、このように霧が急に出てくる事は珍しくない。
しかし、この霧を利用して悪事を働く者が少なくなく、特に濃霧の時は警戒しなくてはいけない。
「ちょっとマズいんじゃない?なんだか濃くなってきたよ」
ヘイヤは警戒した。何か事件が起こりそうな気がしてきた。妙に胸騒ぎがする。
と、突然、女性の悲鳴が聞こえてきた。それも、ここから遠くない所からだ。
「チェッシャー!」
「そうだねぇ、行くとしようか」
二人は声のした方へ走った。
現場は、本当に遠くない所であった。二人はあっという間に到着した。
鹿の女性が腹部を押さえて倒れていた。そこからは血が流れている。
彼女のすぐそばには狼の男が立っていた。その右手には血の付いたナイフが握られていて、彼が刺したのは明らかであった。
「ヘイヤ君!僕ちんが彼女の手当てをする!君は彼を頼むよ!」
「分かった!」
ヘイヤは狼の男の方へ走っていった。
狼の男はナイフを構えた。ヘイヤは素早く自身の股布に右手を入れると、そこからプランジャーを取り出した。互いに武器を振るい、ぶつかり合う。
「何故彼女にこんな事を!」
競り合いながらヘイヤは聞いた。
「『切り裂きジャック』。次の襲名は、この俺だ!」
狼の男は邪悪な笑みを浮かべて答えた。
切り裂きジャック。100年以上前に実在した殺人鬼。ここ最近、その二代目と呼ばれる者が現れ、倒されたばかりだ。どうやら彼は三代目の座を狙っているらしい。
「そんな事はさせない。僕がここで止める!」
ヘイヤは左手を股布に入れ、プランジャーをもう一本取り出した。そして狼の男の横腹を叩いた。
「グオッ!」
彼は痛みに姿勢を崩す。ヘイヤの持つプランジャーは特別な物だ。魔法を使って強化してあり、棍棒と同じくらいの破壊力を持つ。
「もう一丁!」
ヘイヤは右手に持ったプランジャーで狼の男を殴ろうとした。
すると、彼は左腕を前に出して、この攻撃を防ぐ。普通だったら骨が折れても不思議ではない。しかし、彼の腕は鋼鉄のように硬く、金属音さえした。
ヘイヤはすぐに理解した。相手は魔法を使う事ができ、腕を魔法で強化したのだと。
少し考えてみれば、彼がそのくらい簡単にできる事は明らかだった。なにしろ『棍棒』の破壊力を受けてもナイフは折れていない、つまりはナイフを魔法で強化しているのだから。
狼の男は一歩後退すると、ナイフの切っ先をヘイヤへと向けた。
何かがおかしい。ヘイヤはそう思うと、その場でブリッジをした。すると、腹部を何かがかすめて体毛が舞った。真空波の魔法である事はすぐに分かった。
「そのナイフ……魔法の杖か」
起き上がりながらヘイヤは呟いた。
魔法の杖とは術者の魔法を強化するための道具だ。必ずしも杖らしい形をしているわけではなく、例え見た目が剣や指輪であっても、術者の魔法を強化する力があれば、全て『杖』と呼ばれる。
「そうとも。俺は杖でも魔法でも、人を切り裂く。なにしろ俺は三代目となる男だ。切り裂く事にレパートリーは多い方がいいだろ?」
そう言って狼の男は再びナイフの切っ先をヘイヤに向けた。
来る。
ヘイヤは避けるために、立ち止まらないように動き続けた。
たくさんの真空波が飛んでくる。なんとか直撃しないように避けるが、腕や脇腹等を軽く斬られ、そこから血が流れる。
真空波の弾幕のせいで近づけない。その上、狼の男はジリジリと後退する。このまま逃げる気かもしれない。
全身を魔法で強化するという手はあった。これなら、無傷で近づく事は出来る。しかし、魔法を使うための魔力には限度がある。ここまで激しいと魔力をたくさん使う事になり、捕まえる前に使い果たすように思え、使いたくても使えなかった。
「ヘイヤ君!何をしているんだい!」
チェッシャーの声が聞こえた。
「もっと変態的に行動するんだ」
「へ、変態的?」
ヘイヤは前を見ながら聞き返した。
「今の君は見た目以外普通だよ!もっと変質者らしく!もっと狂気を!」
そう言われても、どうすればいいか困る。ヘイヤはそう思ったが、思いつきでとりあえずやってみようと思った。
「フロント・ダブル・バイセップス!」
ヘイヤはボディビルのポーズを取った。その瞬間、右肩から左腰にかけて一直線に斬られた。どうやら違うらしい。斬られた痛みに耐えながらヘイヤは思った。
「ヘイヤ君!タンバリンだ!タンバリンを出すんだ!」
チェッシャーの言葉にヘイヤはふと思いついた。すぐに股布にプランジャーをしまうと、代わりにタンバリンを取り出した。そして鳴らしながらその場で足踏みをした。
真空波は容赦なくヘイヤに襲いかかる。しかし、彼がそれをした瞬間、攻撃は彼の手前で消滅した。
「そうだ、ヘイヤ君!この調子でもっと変質者らしく振る舞いたまえ!狂気は秩序に対する反逆さ。もっと反逆するんだ。そうすれば、あらゆる法則から解放される!」
チェッシャーの言葉を聞き、ヘイヤは自信がついてきた。
タンバリンを鳴らしながら、内股で左右にフラフラと動き、そうしながら狼の男へ近づいていく。真空波は依然として容赦なく襲いかかる。しかし、ヘイヤは傷つかない。
それどころか、さっきまでに受けた傷が消えた。右肩から左腰にかけての一直線の傷もいつの間にか無くなっている。
「クソッ!何だよコイツ!」
狼の男は混乱したらしく、もう後退しなかった。代わりに真空波はさっきよりも激しくなり、水の刃や石の刃も加わる。しかし、それでもヘイヤは無傷のままであった。
「ヘイヤ君。これを受け取りたまえ!」
チェッシャーは何かをヘイヤに投げ渡した。受け取ると、それはシルクハットだった。
「これは……師匠の!」
「それを被るんだ。君の力をより強力なものにするよ!」
ヘイヤは言われるがまま被った。すると、急に力が湧いてきた。自身の魔力が強くなっていくのを感じる。どうやら、これも魔法の杖であるらしい。
「これで君の魔法はより強くなった。その力で奴を倒すんだ」
「分かった!」
ついに至近距離まで来たヘイヤは、魔法で強化したタンバリンで狼の男に殴りかかった。彼は両腕で防御するが無駄に終わった。タンバリンは両腕の骨を砕き、変な方向へと曲げさせる。
「グアァ!」
骨を砕かれたためか、狼の男のボディががら空きになった。ヘイヤはこの隙を逃さない。股布からティッシュの空き箱を取り出すと、右足に靴を履くように装着し、彼の腹部目掛けて魔力を込めながら回し蹴りを放った。
「グエェ!」
重々しい音と共に彼は勢いよく吹っ飛び、石畳に叩きつけられた。そして何故が爆発した。
爆発による煙はすぐに晴れた。彼はコゲただけでまだ生きているように見えたが、戦闘不能になったらしくもう動かなかった。
「……勝った!」
「よくやったよ、ヘイヤ君。こっちも手当てが終わったところさ」
ヘイヤは被害者の女性を見た。服は血塗れで穴が開いていたが、そこから見える体には一切傷が見当たらなかった。
「良かった。生きてる……んだよね?」
「もちろんだとも!僕ちん自身の狂気を使えば、このくらい余裕で治せるよん」
「そっか、それなら良いんだ」
ヘイヤはホッとした。
「それにしても、ヘイヤ君。やはり君は変質者になる事で強くなれるみたいだねぇ」
「うん……やっぱりそうみたい……」
ヘイヤはうなだれた。
認めるしかないらしい。自分は変態的な行動を取る事で強くなれる、と。変質者になる事であらゆる法則から解放される、と。
そして逆に言えば、変質者であり続けないと街を守る事はできない、という事も理解した。
「ヘイヤ君、君に聞こう。君は何故、この街を守ろうとしているのか?」
「それは……師匠がそうだったから。師匠は僕の憧れなんだ。『この街が好きだ』って胸を張って言ってくれたからさ。一生ついていこうって思ったんだ」
「なるほど。でも、もう彼はいない。君の憧れは死んだんだ。それでも守りたいかい?」
「守りたい。師匠の遺言でもあるし、僕はこの街で生まれ育ったから」
「そのために、君自身が変質者となってもかい?」
「うん。分かったんだ。それが僕にとっての使命だって。どんなに変な目で見られても、もう気にしないよ。街を守れるならそれでいいんだ」
「はい、よくできました。ご褒美にアメをあげよう」
チェッシャーはそう言って、棒付きのアメを差し出した。ヘイヤは喜んで受け取った。
「それにしても……どうして師匠の帽子を君が持っていたんだい?これは僕が一人前になる日までしまっておいたはずなのに……」
ヘイヤはアメを舐めながら訊ねた。
「簡単な話さ。君がハーブボイルドと呼ばれるようになってから、一人前になるのは時間の問題だった。だからいつでも渡せるように、僕ちんが持っていたのさ」
「僕が……一人前に?」
「そうとも。そして今日、君は自身の狂気を受け入れて、一人前になれた。だから、その帽子は君の物さ。これからはそれを身に着けて仕事をするといい」
「本当に一人前になったのかな?僕、まだ自信がないよ……」
「大丈夫。僕ちんが保証するよ」
チェッシャーはニヤけ顔でヘイヤの肩を叩いた。
「さて、後は警察に通報するだけだけど。この後どうする?」
チェッシャーが訊ねた。
「そうだな……またカレーを食べに行こうか」
「いいねぇ。でも、先に事務所に行って処方箋を書かなきゃいけないよ」
「いや。チェッシャー、いいよ。もう必要ないから」
「そうだねぇ、確かにそんなにスッキリした顔なら必要ないかもねぇ」
彼はヘイヤの顔をジッと見て言った。
「うん。僕はこれからも変質者として探偵を続けるよ。師匠が思い描いたのとは違うだろうけど、自分なりの方法で街を守るんだ」
「流石はハーブボイルドだ。言う事が違うねぇ」
「ハハッ、それほどでも」
ヘイヤはそう言いながら、警察に通報するために、股布からスマートフォンを取り出した。
番号を入力しながら思った。
ハーブボイルド。誰が言い出したのかは分からないが、自身にとっては良い名称である、と。
イカれていながらも、街を守るために動く、強くて優しい存在。そんな意味が込められた名称を誇りに思おう、と。
ヘイヤはふと、空を見た。なんとなくだが、師匠が笑っているように感じた。