はじまりを繰り返す場所【後編】
サルバは次に目を開けると、もう辺りは水底でも暗闇でもない、晴れやかな景色だった。
雲ひとつない大空。眩しいほどの日差し。蒼穹のもと、芝生で紡がれた黄緑色の絨毯が広がっていていた。それを綺麗に仕切るよう、いくつもの木々が並べられている。少し角ばった円を描くよう、綺麗に切り揃えられた背の低い木。そのせいで辺りは迷路そのものだった。
両側を木で阻まれながらも、入り組んだ自然を探検したり、または、一人になりたかったり、二人きりになりたかったり──サルバは、まるで思い出を振り返るように、"きっとその為の場所だったんだ"と思った。
そんな庭にあるもののどれもが、中心に円を描いて咲き誇る、白と黄色が入り乱れた花を引き立てている。サルバは見ているとなぜか、リネーラやリーシャの金の髪と、アリンの銀の髪が脳裏にちらつく。
そこまで色が似ているわけでもない。けれど、無意識のうちについつい彼女らの髪色に見立ててしまう。
先入観を振りほどいて、サルバは改めて辺りを見る。入念に手入れがされているさまは、誰が見ても人間の手が加えられた庭なのだろうと思わせる。
どこまでも澄み渡った空気を妨げるものはなく、かぐわしき花の香りがほのかに鼻を伝っては、風に吹かれて消えていくのを繰り返し、思わず眠ってしまいそうな安らかさを庭園にもたらしている。
見たこともない、思わず見入ってしまいそうな光景なのに、不思議と切なさが涌き出てくる。なんと言ったらいいのかサルバは戸惑った。一番近いのは、諦め。自らに先はないと、運命を受け入れているような心。
揺れ動くことのない絶望が強くサルバの胸に突き刺さっていく。今この光景を見つめているのは、きっと辛く苦しい気持ちをほんの少しでも忘れたいからだと思うほどだった。安らかさに身を任せて、全てが消えてしまえばいいと。
すぐに、それは違うと感じた。どんなに忘れようとしても、いつかは現実として自分の前に立ちはだかる。それまでに自分の心がぶれないよう、必死に諦めを飲み込もうとしているのだ。こんなにも切ないのは、きっとそのせいだと考えることにした。
ふけっていると、後ろからひときわ強い風が襲いかかってくる。草や葉が飛ばされ、体が思わず二、三歩前へ出てしまうほどの。
振り返ると「こんにちは」と、元気のいい声が聞こえた。目の前には、あどけなさが残るが、大人の穏やかさを持つ少女がいる。整った前髪、まだ小さな三つ編み。白いワンピースに、貴族のようなスカーフ。髪の色と同じ、銀色の六角形がはまったペンダント。
アリン、なのか……? と思わず言いかけるも、サルバの意思に反して「姫様……?」という自分の声と共に、唇が勝手に動く感触を覚えた。まただ、また誰かにとっての一場面を見せられている。きっとこれは、高原で見たものの続き。
「居ちゃいけない?」
彼女は隣に立って、微笑みを絶やさずにこちらを見つめる。当然、見ているのはサルバではない誰か。そしてそれは、まるで距離を置くかのような敬語で返した。
「あなたは王国の象徴、民草の希望です。もし姫様に万が一のことがあれば──」
「突き放すような敬語、やめてほしい。……会えるの、きっと最後になるから」
仮面が外れたかのように、彼女の顔から微笑みは消える。始めてみるけれど、これは俺の記憶なのだ、とサルバは感じざるを得なかった。
似たような場面を見たことがある。どう接していいのかわからなくて……リーシャに思わず敬語を使ってしまって……雰囲気が、悪くなって……
サルバの動揺など知ったことではないと、目の前にうつる記憶は回り続けてしまう。
「だからこそ……だった。すまない、傷付いたのなら謝る……」
目をそらしたのか、アリンに似た少女は視界から外れる。近くにいるけれど、心はとても遠くてさみしい。辛く、苦しく、どこまでも落としどころなんてものはない。それほどまでに、二人の気持ちはすれ違い続けているから。
「本当に、今日行くの……?」
「ああ。魔物どもは、もう王国の喉元まで迫ってる。……時間がない」
「……決意は、変わらない?」
問いに対して、こくりと頷くのを感じる。
二人とも、視線を合わせることはない。彼女はただ寂しげな顔をしてうつむき、ちらりと相手の顔を気にするばかり。異をとなえるわけでもなくただ前だけを見据えて、サルバに近しき者は続けた。
「俺が嫌だと言って、逃げ出しても……代わりの奴が"闇"に捧げられるだけだ。人間同士で争ってる暇もない……逃げることは、できないんだ」
「死ぬかも、知れないんだよ……? 生き残ったとしても、あなたは一生良いように使われて、影で生きることになってしまう……」
「……違う。そんなんじゃない。これは、償いなんだ」
「なら尚更、行かないで! 命で償えるものなんて、何一つない……」
はっきりとこちらを見据えて、彼女は訴えかけた。その黒い瞳は今にも泣き出しそうで、彼は思わず目を背けかける。なんとか踏みとどまって「それでも俺は……」と重々しく呟くが、次に出す言葉が溶けてなくなり、ばつが悪いような顔で口をつぐんだ。
彼女だってその様子を見ている。ますます哀しみは広がっていくばかり。それでもなんとかしようと、アリンに似た少女は声を震わせて、すがるように引き止める。
「どうしても、行かなきゃいけないの……?」
「誰かが受け皿にならなきゃ、終わらない。みんなで明日を迎える為にも。だから……」
「そのみんなに貴方はいないじゃない! そんなの、酷すぎる……」
「……いいや。必ずここへ戻ってくる。どんな運命も乗り越えて、生きて見せる」
変わらぬ、決意のこもった声。彼女はそれを聞いて、遂にはぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
「私じゃ、止められないって……分かってた……せめて……笑って、送ろうって、思った、のに……馬鹿……」
「すまない……でも、ありがとう。悲しむ人がいるってこと、俺は忘れない」
彼は目を細めたのか、視界が少し狭まった。恐らくは、哀しみながら微笑んでいるのだろう。
そして、うなずきながらも、何度も涙を拭う彼女に後ろ髪も引かれず、ただ振り返っては歩き出す。だが目元が熱くなるのと、頬に伝う涙の感触を、サルバは感じる。
風は、憎らしいほど爽やかで、草木は涼しげに葉を擦り合わせる。全てを忘れさせるような景色、安らかな時間、泣きながらも止めてくれる人。それらを振り切って、彼はただ前へ進んだ。胸の決意が変わらぬうちに。
手の甲で涙をぬぐい、庭園を後にする。出口は大理石で目の前の四方を囲んでいて、まるで城の中のように上品だった。まるで当たり前かのように気にも止めず、彼は回廊へ踏み込み、歩き続ける。
大理石の支柱から漏れでる日差し──ブーツが床を打ち付ける、低くも高くもない、響く音──広い通路の中ですれ違う、鎧を着こんだ兵隊たち──そのどれもに目線や意識は向かない。恐らく興味もないのだろう。
一方サルバは、アリンのように白い修道服を着た者や、レギン隊のように胸鎧と小具足だけの、軽装の獣人──いや、獣人そのものがいないのを気にして声をかけようとするも、体はぴくりとも動かない。
全ての出来事がサルバの意志に関わらない。しかし、ただ眺めているだけなのに、本当に体験したかのような錯覚に囚われる。これが、本当に記憶なのだと思い知らされる。
しかしここはいったい、どこなのだろうか? 魔物が攻めてきているのは今と変わらない。喉元まで迫っているといっても、エイン東城壁はエイン王国を守る砦なのだから、そういう言い方をしても何ら違和感もない……
だが、エイン王国は獣人の国。姫と呼ばれていた、アリンに似た少女は明らかに人間。獣人らしき者は一人も見当たらない……なら、ここはロードライト? だとすれば、サルバが生きている時間に当てはめると喉元という言い方はおかしくて……
これがサルバの記憶なら少なくとも、過去にも魔物の侵攻があって、軍勢の侵入を許してしまったということなのだろう。なら、数十年遡ってたっておかしくはない。そう何度も攻めてくるなら、魔物が攻めてくる東にエイン王国なんてものを立てようとは思わないはず……
……にしたって、目線に違和感が無さすぎるとサルバは思った。もう少し身長が縮んでいれば酌量の余地はあったのだろうが、一体何年前なのか検討もつかない。
そもそも、自分は一体何歳なのだろうか……と思うが、アリンは気さくに話しかけてくるから、少なくとも同年代には見られているはずで、触れ幅はあれど同い年くらいと考えることにした。
だったら、なおさらおかしいと感じた。サルバは、アリンを自分のちょっと歳上くらい──具体的には、十九位だと感じているから、記憶のなかにおいて少しも身長が縮んでないのは……しかし、記憶喪失の人間の物差しなど信頼できるだろうか、と思考にブレーキがかかりはじめる。
もし、自分の感覚や推量が正しいのなら、この記憶は前世というのがしっくり来てしまうのも、思考の放棄を後押しした。
サルバが考えている間にも歩む足は止まらない。やがていくつ白い支柱を越えただろうか、人の気配はすっかり消えてなくなり、一つの扉のない門が目の前に現れる。
くぐると、地下へと続く階段があり、暗くどこまで続いているかもわからない。ただ、ゆっくりと踏みしめるよう、足は歩まれていく。
奥へと進めば進むほど、かすかな音が聞こえて、サルバは耳を傾ける。最初は吹き抜けていく風切り音かと思っていたが、次第にはっきりと、それは言葉なのだと分かった。
生きていたい、帰りたい、大切な人に会いたい──ありふれた人々の願いという名の言葉。だが、決してありふれてはいけない、当たり前に叶えられるはずだった願い。そんなことを願うのは、間違っている。どれも、きっと、魔物さえ居なければ……
やがて言葉はいくつも重なりあい、頭のなかで響き始める。この記憶を見せている"闇"と触れたときの、ざらざらと鋭い音に似ていた。この先には、"闇"があるのか……? とサルバは戦慄する。
ずっと声が、はっきりと聞こえる。誰かの無念を知らしめるように。どうして"闇"はそんなことをする? わからなかった。人の心をそこまで分かっているのに、どうして、生きる者を物言わぬ魔物へと変える──?
階段を下りきると暗闇のなか、目の前に一つの扉が現れる。手が当てられ、ゆっくりとそれは開かれた。直後、"闇"が溢れんばかりに飛び出し、吹き荒れる風のように視界を覆い尽くす。
願いを謳う声は、張り裂けそうなほど大きく響く。それはまるで世界を呪う叫び。受け止めてはダメだ、共感してはいけないと、胸に手が当てられては、ぐっと布を握りしめる。
たゆたう無数の願いが、体を通ってはすり抜けていく。その感覚はまるで少しずつ身体をつままれ、ちぎられているかのよう。
サルバではない誰かは、ただ自らの願いを浮かべた。それで心を貫くように、ただはっきりと。
前を見据える。周りは黒く塗りつぶされて、足元もわからない。けれども一歩一歩と踏み出す。
「俺は……この国を、姫の国を救いたい! だから、力を貸せッ!」
呼応するよう、闇は周りを取り囲んだかと思うと、全てが暗闇に塗りつぶされて、何も見えず、何も聞こえず、何も感じられなくなっていく。
まるで劇場が終わったかのような静寂を、サルバは感じていた。
「こんな呪いは、俺で終わらせる……そんなことばかりを考えていた。今のお前のように、まだ何も知らなかったから」
昔を憐れみ、独り言ちるような声が響く。自分の言葉ではない。だけど、自分の声。自分の顔、自分と同じ目線……同じ、琥珀色の瞳。サルバと瓜二つな人間が、目の前に立っていた。
同時に、静寂が嘘だったかのように周りは明るくなり、サルバとサルバに似た誰かの横に、それぞれ一つずつ背丈と同じくらいの小さい木が現れる。どちらも枝はなく、葉は黒い幹に直接生えているかのようだった。
サルバの木ははっきりとした丸い葉がついていて、同じような赤い実がいくつもなっている。ただ幹にはぽっかりと穴空いていて、そこには木の枝で作られた、何もいない鳥の巣が寂しくあった。
目の前にいる彼の木もはっきりとした丸い葉があるが、なっていた赤い実は一つずつぷつりと地面へ落ちていく。彼の足元には落ち葉がいくつもあり、赤い実は落ち葉をくしゃっと踏みながらはち切れ、血のような命を辺りに広げた。
そして突如、"もうひとりの自分"にだけ雨が降る。血は洗い流されていき、彼の世界は暗雲が立ち込めては、ただサルバのいるところとは隔絶されていた。
一対の木を境に、それぞれの世界は何かを暗示しているかのよう作られている。サルバは、ただ不可思議な光景に物も言えず、肝心の目の前にいる存在に問いかけた。
──貴方は……
「俺は、お前だ。他でもない。だけどお前は、まだ俺じゃない」
──……それは、俺に貴方の記憶がないから?
「違う。今ならまだ、引き返せる。……そういう意味だ」
サルバの木を、何か思い詰めたような瞳で見つめながら言う。彼の表情は堅く険しく、唇は開きたくないのがわかるほど閉ざされていて、まっすぐと下へ伸びた腕の先には、握り拳を覗かせていた。
──貴方は、何か取り返しのつかないことをしたのか? これから俺に、一体何が起きる?
「好奇心で踏み込んでいいものじゃない。知ってしまえば、お前はひとつの因果に縛られ……俺と同じ道を辿ることになる」
──もしかしてそれが、貴方の言う"呪い"……
「そうなる。引き返すのなら、俺という存在は忘れろ。人の幸せなどというのは、それからいくらでも拾える」
自分のことをひた隠しして、ただそうしろと勧めてくる。身勝手な物言いだけれど、その言葉には責任が伴っている。きっと、嘘偽りない言葉なのだとサルバは感じた。けれども、答えは決まっている。
──逃げ出したら……きっと、後悔する。逃げ出した先に幸せが待っているとも思えない。
──コルトの人達は、何も言わずに受け入れてくれた。俺の居場所はここだけなんだ
彼は「そうか」と困ったように微笑むと、まっすぐとサルバを見つめて、言う。
「お前は自ら囚われようとしている。生きる意味を見いだすために。それは、自己満足でしかない。
他人を考えすぎるのも、きっとそのせいなのだろう?」
──……ああ、俺にはきっと、まだ何もないから
「それが、お前を生かす強さになると祈ってる」
突然、夢の終わりを告げるかのよう世界がやぶれる。地面は砕けては互いに離れていき、やがて目の前の、もう一人のサルバの体は、黒い炎を身にまとっては薪のように足元から燃え尽きていく。
「俺のようには、なるな」
──待て、まだ終わっては──
やがて燃え切ると、炎はやぶれた世界にほとばしる。
一対の木も、落ち葉も、赤い実も、明かりも、雲も雨も──この場所を作っていた何もかもが、一枚の紙切れかのように破れては、黒い炎となり消え落ちてゆく。
次々に綻びが生まれるさまは、まるで悲鳴を上げているかのようだった。そしてついには自分の踏みしめていた地面が燃え尽きると、サルバはまばたいても気が付かないほどの暗闇に落ちた。
黒ばかりが埋め尽くす虚無のなかへと落ちていく。落ちているのだという感覚も薄れ、やがて差す光も消え、自分の手足も見えなくなって──自分も暗闇の一つになるのだと思ったとき、どんな色をも飲み込む深淵よりも濃い闇──黒鎧が、サルバを見下ろしていた。
「ここは、全てを繰り返す。あどけない日々も、色褪せた契りも、悲劇も、そして……願いという名の"呪い"も」
「貴様は、どうなのだろうな」
──待て、貴方は何を知っている!? あそこで、ルーク街で一体何が!?
「答える義理もない。この程度も知り得なければ、貴様は手を下さずとものたれ死ぬ」
「因果は巡ることしか知らず、やがて自ら綻びようとしている」
「世界を知れ、サルバよ。それが記憶を求める旅路ともなる。
貴様が今まで見てきたものと言えば、全て事が済んだあと。そして、遠くから見つめているばかり……
一時の安らぎのなかにいるも同然。それでは、地獄にかすりもせぬ」
黒鎧が言い終えたかと思うと、突然サルバは背筋が冷たくなるのを覚えて目を見開く。肌をぴりぴりと伝う、張り詰めた空気。やがてそれは辺りを支配し、全てを飲み込むように未だ広がり続ける。殺気だった。
皮膚を突き刺すような敵意に満ちた気配──その先には、直立不動の黒鎧がいる。今すぐここから逃げなければ、と思っても、サルバの体は糸で縛り付けられたように言うことを聞かず、胸の鼓動ばかりが恐怖で高鳴っていくだけ。
殺気が放たれている黒い兜の奥は何も見えないほど黒く、だからこそ恐怖を感じる。わからない。顔も見えないのに、声もないのに、どうしてこんなに怯えてしまうのか。
心臓を鷲掴みにされたような顔で、サルバはそれでも黒鎧をまっすぐに見つめていると、感情の籠っていない重い声は変わらぬ口調で続けた。
「記憶を求める以上、私と貴様は相容れぬ。記憶の旅路の果てに、この"黒き器の騎士"が立ちはだかるだろう」
──だったら、どうして俺に関わる……!
「情けだ、同族の。今の貴様は敵ですらない……世界を見、何を思い、そして貴様がどんな答えを出すのか、その時まで待っている」
黒鎧──"器の騎士"と名乗った者は、言い残して消える。殺気もなりを潜めると、やがてまばゆい光がサルバの瞳を突き刺した。
悠長すぎる。かといってぶちこむ隙がここにしかない……
許してほしい。後三話ほどでダークファンタジーするから。




