誰かと向き合う決意の跡
始めに
備考として、アリンは現在16歳でございます。
まるで踵を鳴らすかの如く石畳に打ち付けられ続けるブーツは今にも火花を散らしそうで、触れてはいけないものを感じさせる。
そうして少し前屈みになって、腕をピンと伸ばしつつ振りながら早歩きするアリンの姿は、凛とした顔立ちにそぐわない相変わらずの感情的そのもの。
その裏側には言うまでもなくやり場のない苛立ちがあるが、それはたとえ血の繋がりがなくとも兄妹であるからこその感情であり、そこには親しい間柄が見え隠れしていた。
家族に求めるものと、他人に求めるものが違うことぐらいサルバにだってわかる。
義兄だからこそ怒っている。
親しいはずなのに、いつのまにか置いてけぼりにされてしまって、気がつけば何も知らないうちに何もかもが終わらされている──
相手がどんなに想ってくれていても、それに寄り添うことのできないくやしさと、何もできない自分が嫌で仕方がない。
それがアリンを駆り立てていた。
「義兄さんって本っ当に不器用なの!
さっきの言葉もね、多分あなたが信頼に値する、ってことが言いたかったんだと思う。
それに、何かはあるんだってこと隠せてないし……聞いても……聞いたら、困らせるだけなんだろうな、って思うし……」
腰に手を当てて不満げに声を上げたかと思えば、思考がめぐっていくうちに腕の力を抜いて、声を細らせる。やがて再び歯痒いように唇を強張らせて、アリンはすとんと灰色の石畳へ目を落とした。
あんなに高らかに響いていた足音も今や見る影もなく、言いながら気がつけば、これから義兄とどうすればよいのか、先が見えなくなったのだろう。
わからない。たったそれだけのことで、人はどんなにも傷付く。
いや、中途半端にわかっているから迷って、つまずいて──それに答えなど誰も教えてはくれない。
こんなにも答えに近付こうとするたび苦しむならばいっそ、縮こまって全てを知らないままに終わらせてしまえば、アリンは幸せなのかもしれない。
けれど、だから嘘で塗り固めてしまえばそれは間違いだった。
一度ついてしまえばそれにすがることをやめられない、人を歪めさせる正しさ。
今こうして話せているのに、苦しみを恐れてわかり合うことを最初から諦めるなど、サルバにとっては間違いだと言う他にない。
その果てが人間と獣人の争い──まだその怨念がこびりついた、何もかもが人間の造り上げたものとは思えない、人のいるべき場所ではないものであるのなら。
だがそれが間違いだとしても、犯す人間まで間違っているとは言えなかった。向き合うアリンに対して、何かを隠しつづけるレオンが許せない訳ではない。
真実だけが人を救うとは限らない……たとえサルバの記憶が戻っても、ルーク街を、そこに住む人々を跡形もなく焼き付くしたのが他ならぬサルバであるならば?
もし人間と獣人が手を取り合うのを、変化を拒んで──サルバは、わからないことに恐怖を覚えた。額ににじむ汗はリネーラとレギンに囲まれながら初めて起きたとき、何もわからなかったときの怖さに似ている。
あの場所を造り上げた人間はそれを知っていた。
きっと、レオンもアリンの言う"姉さん"が彼女を救わないと知っていたから何も告げずに行ってしまった。だから、それを隠す嘘と言うのは生まれ続ける。
人間の結束が崩れることを恐れたのに、まるで悪を浄化するように獣人たちを貶めて、争いの跡を残したように。
間違っているのなら、真実に耐えることのできないこの人の弱さなのだろうか──
答えはまだ出せずにいる。いいや、出せなくてもいいんだ。
アリンが苦しんでいるのなら、俺は助けたい。それだけでいい。
サルバは胸に暖かな光が差し込むのを感じて、それを言葉にした。
「何も知らないまま終わるより、知って受け止めた方がいい。
それから目を背けないことを、優しいと言ってくれたのはアリンだ。
俺も自分が誰だったのかを知りたい。だからアリンも、その……
向き合おう、一緒に」
暗がりばかり広がる道が、いつのまにか明るく照らされている。
もう終わりが近いのか、そこから差し込む光が力強い声と共に闇に浮かんでいるようだった。
石の壁は進むうちにいつしか苔むして灰色ではなくなり、様々な色が辺りを塗りあげ始めていた。
「どうして、そこまで言い切れるの?」
うつむいてばかりいた顔がサルバをとらえる。
光を透き通らせたような黒い真珠の瞳は、その奥に悲哀が写しだしながら、サルバの言葉に震えていた。
悲しみとそれを隠すような明るい振るまい。けれど人への優しさが自らを追い込んで迷わせる。
それらをあわせ持つのがアリンであった。自分は、強く在らなければならないと。
「私はあなたになにもしてあげられない、何も返せない……
ただこうしてあなたに、言葉で寄り添うことしかできないよ……」
「それは違う、一緒に分かち合うだけでいいんだ……!」
自分を圧し殺すように言葉を紡いで、揺れ動く瞳を隠して再び下を向くアリンに、サルバは唇とまぶたに力が入るのを感じた。
哀しい目も、それを隠すまいとするアリンを見るのはもういやだ。
そう思えば、気がつけば力んだ声が出たのを、感じ取った哀しさが和らげて、サルバの胸のうちに秘めた必死さが声を通して浮き彫りになる。
「悲しんだり、苦しんでいる人を見ていると俺も苦しい。
それを分かち合えるんだったら、苦しみも喜びに変えられると思うんだ。
だから……教えてくれないか。何が君にそうさせるのかを」
「……ありがとう」
こぼれ落ちた雨粒のように呟かれた言葉は、やがて降りしきるのを告げるかのようだった。
直後、顔をぱあっと明るくしつつも、昔を懐かしむようだとも、自分に冷ややかな笑みをこぼすようにも見える頬の緩みはどうしても消えなかった。
初めて聞いたときのような声で、しかし見せかけの元気だとすぐにわかるようにアリンは語り始める。
「私ね、なんにも知らないんだ。
物心ついたときからお母さんもお父さんもいなくって、姉さんだけが唯一の肉親だった。
姉さんは立派な聖術士でね、いつも優しくて、私より苦しいはずなのに明るくて……そのお陰で、たとえ二人でもロードライトで楽しく暮らせたんだ」
何も知らないことは罪かのような物言いだった。自分の引き受けなければならないものを知ろうともせず、のうのうと暮らしている。
そんな遠い日の後悔が混じった声は、到底一人では抱いて引きずってはいけない哀傷。
「けれど、そんな時もずっとは続かなくて……私が8歳のとき、姉さんはレオン義兄さんに私を預けて、どこかへ連れていかれるように行ってしまった。
幸せに生きてね、と言い残して。二度と会えないような気がして、『どうして』と何度叫んでも、だれも答えてはくれなかった。
何度夜を明かしても、泣きじゃくっても私は姉さんのことを忘れられなくて……どうして誰も教えてくれないのか、姉さんが何を背負ったのか……何も知らない自分が嫌で、聖術士を目指したの」
聖術はなにも知らないアリンに残された、姉への唯一の手がかり。
なぞっていけば、いつか会えると信じたに違いなかった。
「なってからは、西大陸中を探して回った。もしかしたら、私が重く受け止め過ぎてただけで、旅でもしてるのかなって。
……ううん、ほんとはそんなのじゃないって、分かってた。そうして自分に嘘をつき続けているうちに、とうとうここ以外に場所がなくなってしまった。
もしかしたら、コルトの地で魔物と一生懸命戦ってるんじゃないかって。でも、どこにもいなくて……」
顔に張り付いたような明るさがくしゃくしゃになって、ふいに涙がこぼれ落ちた。
今まで耐えてきたものが崩れ落ちるように。だが、目はもう揺れ動いてなどいない。
「今も生きているなら、姉さんに会いたい……!
でも、また昔みたいに笑いあいたいって、どんなに手を伸ばしても届かない。
たとえ会えなくたって……姉さんの背負っていたものを、少しでも知りたい……!
私は……どうしたらいいかな、サルバ……」
必死に言うまいとしてきた、本当の心からの声。吐き出してしまえば、もう二度と一人で抱えることなどできないとわかっていたから。
けれど、アリンは今、自分自身を嘘で塗り固めることをやめて、向き合いはじめる強かさを手に入れた。
それに向き合わなくて、どうする? ただ哀しみを広げるだけではなにも始まらない。ぎゅうっと拳を握りしめて、サルバは結んだ唇を開いた。
「全部が全部、むだな訳じゃない。
アリンが今の今まで手を伸ばし続けてくれたお陰で、こうして俺と君は話し合えて、君の弱さを知れた。
諦めなければ今も確かに、答えへ突き進んでるんだ。だから、きっと機会は来る」
まただ。自分が自分でなくなるような、だけれど不思議と受け入れられる。感じるざわつきと、胸に火が灯ったようなこの感触がサルバを突き動かす。
言葉にすることもできなくて、考えてわかるようなものではない。感じることしかできないそれは、しかし何をすべきかを命じてくれる。
今もこうして、自分の背中を押している。大切なものであるはずなのに、なんと言うのだろうか。
「俺も一緒に、君の姉さんを探す。一人で抱え込むんじゃなくて、俺を頼ってほしいんだ」
「……でも、もう探すところなんて……ない」
「いや、まだだ。まだ……東がある。危険だけど……いつか行ければ、少しでもなにかが分かるかもしれない。
君が行くっていうんだったら、ついてくよ。俺も知りたい、この世界を。記憶を取り戻すために」
アリンは言葉を失った。自分のために、この青年は身を投げ出すと言う。利害の一致だとことわっても、それは自分を第一には考えていない。
気がつけば「もし死んだら、二度と思い出せないんだよ……?」と口に出していた。軽い気持ちで言っているのではないことぐらい、アリンには分かっていた。
サルバの顔はとても真剣で、どこまでもぶれることがない。でも、サルバのことを思うと言わざるを得なかった。
「ああ。それでも、行くよ」
馬鹿正直な覚悟が返ってきて、思わずアリンはくすっ、と笑う。心から嬉しかった。サルバはまるで、おとぎ話のように優しい。アリンにとっての、光の勇者様。
「バカだなあ……だったら、まずは西大陸からだよ。知ってるんだ、色んなとこ。
ドワーフ・ロットの花火とか。凄いんだよ? 人形の口から火が出るの。
……私が、案内してあげる。それが終わったら、一緒に行こう? 東大陸へ」
悲しみから決別するように、アリンは涙を手で拭う。そして、微笑みかけてくれた。
人は、強くなくていい。弱さも、強さも、分かち合って一緒に歩み出せる。
まだ見ぬ明日へ向かって突き進める。
「俺のことなんか、気にかけなくても──」
「私のことは、気にかけてくれたのに? いいんだよ。もう一度探せば、姉さんにも会えるかもしれないから」
それはずるい、とアリンは不満げに顔を歪めた。引き下がる気は毛頭ない。念のためサルバは「本当に、いいのか」と言う。
アリンはこくりとうなずくと、ほこらしげな顔で口を開いた。
「……決めた、私もルーク街に行く。あなたの心を、今度は私が背負ってみたい。
私も向き合うよ。本当のサルバを、きっと見つけてみせる!」
「……ああ。これからよろしく!」
サルバのまっすぐな瞳に、初めて会ったとき、教会にいたときのようないつもの様子でアリンは微笑んだ。
それもつかの間、「ほら、もうすぐ出口だよ」とすぐに振り向いて、再び早歩きで光に向かって突き進む。
それはやはり感情的で、だがしかし今度は闇雲に突き進むわけではなく、進むべき先をしっかりと見据えていた。
人をどこまでも引っ張っていきそうな足取りは、芯の通ったものを感じさせる。
やがてアリンそのものがまばゆい光のようにサルバの目に映った。
サルバは少しでも、真珠に宿る闇を取り除けたのだろうか──
「サルバは、外ってどうなってると思う?」
ふと言いながら、リーシャが顔をほころばせる。
もうほとんど響かないその声は透き通っていて、サルバの耳にすっと入ってきた。
「きっと、まだまだこれからだって景色をしていると思う」
そうして、サルバたちはまだ見ぬ光射す大地に包まれた。




