傷だらけのリファ【前編】
「俺たちは東城壁にいるから、用事が終わったら声かけてくれ」
ぺこりとリファが頭を下げると、見張りをしていた二人は気さくに笑いながら「じゃ」と、その場を後にした。
やがて見張りたちの姿がなくなって、リファは辺りに誰もいないことを確認したあと、はぁ、とため息をついた。
人払いは済んだ。何故こんな回りくどいことをしているのかと言うと、訓練兵が団長の子どもを連れて外へ出たのが知られれば、後々厄介だからだ。
しかも、特にサルバは追求されると、最悪コルト騎士団の密偵だと思われかねない。彼はまだ入団したばかりで、ルーク街にいたこと以外分からずじまいな謎だらけの男。
「サルバさんたち、遅いなあ……」
ごうごう、と吹き荒れる風はそんな小さな呟きを簡単に消していく。
飛ばないよう、魔女帽に左手を乗せている様は、帽子がそれでなければ貴婦人を思わせただろう。
左肩にまとめておいた白い髪は、今にも飛びそうなくらい後ろへなびいており、魔女帽もそれに同じく。
そんな大人に見られるよう頑張っている彼女、フェンリー・ファレンシウスことリファは今、コルト山脈の中でも比較的緩やかな傾斜を持つ高原へ足を運んでいた。
雑草が土を包み隠すようぎっしりと詰められていて、ところどころにはそびえ立つ老いた木が光を遮る。
その端、再びきつい傾斜がそびえ立つところには、コルト街を通る下水道の出口。アリンがいつもこっそり薬草を取りに行くときに使う場所。
厳密にはコルト山脈から川が流れているので入り口ではあるが、そのアーチ上の天上に足を行儀よく傾かせて座っている。
実を言うと、リファは男二人の口を砂利まるけにしたあと、教会の屋根の上で密かにサルバを監視していた。
すぐに退屈になるだろうとコルト山脈についての本──具体的には、昔鉱山として掘り進められた際の副産物。
結果的には途中で水源を掘り当てて、それは途中でおじゃんになってしまったが。
下水道にも、その時の名残がところどころに残っている。
その続きをじっくり読めるであろうと思っていたが、現実はそう楽ではなかった。
心底使い魔をあの時つけておいて良かった、とリファは目をつむり安堵のため息をつく。
いや、でもその使い魔のせいで自分の存在をアリンに感付かれた結果がこれか、と思うと胃がきりきりと痛くなった。
その痛みと、強烈なまでにひきつった笑顔がまぶたをものすごく重くする。他人事ではないのだから、せめて見てくれだけでもしゃんとしようと心がけるも、これから自分に降りかかるものがなんであるかを考えるとやはりそうせざるを得ない。
これ、というのはリーシャがコルト街の外に出るという事態。
ひとえに、今日この日まで魔物と戦うための前線が成り立っているのも、彼女に宿った"ある力"のお陰であるといっても過言ではありません。
居なければどうなっていたかなど考えたくないほどに、コルト騎士団の根本を支えている。まだ幼い身であるにも関わらずリーシャは、自分ではない誰かを守るためにそうしてくれた。
私たちにできたことと言えば、リーシャの"力の存在"を隠して、まだ世界に蔓延っている正しさや憎しみなどから遠ざけることぐらい。
そうして彼女に残ったものは? 同じ年頃の友達はいない、肉親と呼べるのはリネーラだけ。そのリネーラも、付きっきりという訳にはいくはずもない。
あの家でいくつ孤独を過ごしたか、リーシャにも恐らく分からないほどに時は過ぎてしまっていて。
この世界を守るために、誰もが持つべきであり、持たなければならない思い出──誰かと笑いあったり、兄弟と何気ない会話をしたり、両親に囲まれて過ごす。リーシャはそんなふつうの人生を投げ出してくれている。今も。
ていのいい犠牲。そんな彼女のわがままを、誰が咎められるでしょうか?
だから、止めなかったアリンを、連れ出そうとしたサルバを責める気は起きるはずも。悪いのはきっと、うまく寄り添うことのできなかった私のほうだ。
何も知らなくても、彼らには分かってしまうのでしょう。リーシャが、傷付いていることくらい。
それにしても……薬草を取りに行きたい、と訓練兵の待機命令を無視して外に出たアリンにもリファは驚いたが、それを止めないどころか乗り気なサルバには驚かされた。
いや、乗り気ではないけれど──なんというか、急いているような気がした。
空っぽの自分を埋めるために。
それともう一つ、みんながルーク街の出来事を知りたがっているからだ、とリファは微かに感じ取っていた。
自分一人だけ生き残ったことに、責任でも感じているのだろうか。
どちらにしても、リファはサルバを止める立場にあった。そんな無駄な重荷を背負う必要なんてない。自分で自分を縛る道理なんてないのだから。
「すぐにそんな考え、捨てさせなきゃ」
そのみんなのなかには、自分も入っている。自分のせいで誰かが苦しむのは、今でも大嫌いだった。
今思えばずっとそうだったなあ、と人との繋がりの重さをしみじみと噛み締める。
ここまで来れたのも、その繋がりのおかげなのだから。
「昔は魔術が、大っ嫌いだったっけ……」
しみじみと思い出にふけるのもつかの間、自分の大嫌いなものの一つが、人の来訪を告げていた。
心を読めてしまう力。他人の心をいや応なしに全て盗み見てしまう。
サルバの場合は彼の為にもなるから、消えたルーク街の人々を見つけるために、と言い訳を並べてなんとか使える機会を見いだせてはいる。
しかし、平和なだけのところでは、人間との繋がりをよりきしませるだけのものでしかなかった。
人が誰しも必死に隠そうとしている醜さを見たときは、それを拒絶しつつも隠すことに戒めを見出だしてしまう。
どうしていいのか、分からない。
逆に人の優しさは、それに溺れて腐ってしまう自分が怖くて、どうしても好きになれない。
そんなときは、恥ずかしいふりをして逃げてしまう。
戦いの場所では、敵に情が沸いてしまうことが怖くて必死に心を閉ざした。
たとえもの言わぬ獣であっても、それが私たちの成れの果てであるならば、という臆病者の私がささやいて、人の心でぐちゃぐちゃにかき混ざった心の"安寧"を求めたから。
ただ、そうしてまるで歯車になったかのように跡形もなく焼きつくすだけだった。
"あれが、闇に怯える子供?"
ふと頭に降りてきた他人の心。それが指し示すものが、すぐにリファにはわかった。
子供扱いされるのは不本意ではあったが、今はどうでもいい。
そんなことを思うやつは、敵だ。コルト街でリーシャを知らないものはもういない。
戦場を目の前にして、いたいけな少女はどうしても浮いてしまうからだ。
そしてここにいる理由だけを知って、彼女を知らないなんていうのは不自然極まった。
ふつう、順序が逆だ。まるで、噂話でも聞いてここに来たかのよう。
少なくともコルト街にいるものではないし、もしかしたらいつの日かコルトに紛れ込んだロードライトの聖教狂いども──
15年ほど前だっただろうか、獣人を薪にして焼いた奴等が、今でもへばりついているのではないかと思ったとたん、リファの背筋が凍りついた。
さっきまでその名残があった教会にいたせいか、発想がどうしてもそれてしまう。
いや、それを見たサルバの心が、リファに長く残りすぎたからかもしれない。
彼はどうして、あんなにも"見えた"のだろうか。
感受性が高い──それだけじゃ説明がつかないような、人の心を知る力。
それがこの心を読めてしまう力と同じであるならば、この地獄に残り続けていてはいつか私と同じ果てへと突き当たる。
けれど、それでもサルバは知らなければならないとうやむやにすることはなかった。
それが、アリンの言う"優しさ"?
嘘で塗る固める事をしない強かさ──でもそれは、まだ何も知らないからできること。
彼がしかと見たものなど、この世界を見渡せば数えるほどのものでしかない。
もしサルバが全てを見終えた後、彼は彼のままでいられるのだろうか……
ともかく何年も守り続けた秘密もここまでか、とそれがいつの日か前の預言であること知らないリファは、身体を投げるように飛んで草原に降り立った。
考えても仕方がない。直接聞いたほうが早いから。何をしに現れたのか、なぜリーシャを狙うのか。
「そうだと言ったら、どうしますか?」
表情が圧し殺された、敵意も善意もつかみ取れない声が辺りに散らばる。
突然にひときわ風が強く吹き荒れ、草木が降りしきる雨のようにざわめく音を立てた。
やがてそれも終われば一瞬の静寂が辺りを埋め尽くして、リファは息がつまるような思いをしながら、全身に神経を張り巡らせる。
その一度張り巡らせたものをほどかせて、心は空っぽにするように、肉体と空気の境目がなくなって、ひとつに溶けていくように──そして、辺りに漂う想いを器に押し込める。
長く自分の醜いものを見てこなかったせいか、その感覚がとても久しい。
けれど、何も返ってくることはない。分かり合えない、話し合いの必要はないんだ、と心を冷たく凍らせながらリファは再び五感を尖らせ始める。
これ以上使う必要もない。この力をまた忘れられる、という少しの安堵がその冷たさを更に強くした。
どこから、来る? 開きすぎることのない紅い瞳が茂みへ、木へ、目まぐるしく景色が揺れ動く。
"バレてる、か"
心が凍りつく寸前で、諦めたかのような心情が流れ込んでくる。それにリファは目を見開いて、止める。
リファにとっては、心情とは何かの合図。
人の行動には意識、無意識に関わらず思考や感情が伴うから……そんなことはいい。相手は隠れることをやめて、攻勢に出るつもりになった。
とにかく、動かなければ──足に力を込めた刹那、目の前の少し離れた木から黒い影が弾丸のように飛び出す。
それが一瞬にして、リファに衣が触れ合うかどうかの距離へと、まるで何かに吸い込まれるかのよう近付いた。
「ッ──!?」
自らの身体を覆いつくすかのような真っ黒な影に視界を埋め尽くされて、驚愕に失った声はわずかにリファの喉元にしか響かない。
黒い衣が風に羽ばたかせる音、その足が草をくしゃくしゃに踏みしめる音はその驚愕にかき消えつつも、僅かに耳を通して脳裏に届く。
真っ黒な影──人のかたちをした黒ずくめの腕には日の光を写した、割れて尖った鏡のような歪さを持った剣が握りしめられていた。
日陰が多いせいか、ぎらりとひときわ光る短剣。それは黒い水のようなものをしたたらせていて、コルトにいるものなら魔物の血をすぐに連想させる。
すべての生きるものにとって、魔物の全ては猛毒に等しい。もし少しでも短剣にかすれば、聖術の力以外にそれを取り除く手段はない。
運悪く聖術士に巡り会えなければ確実に魔物になって、人知れずかつての仲間を襲ってはいつか、その仲間に介錯される道が待っている。誰にも、誰が魔物になったのか知られることもなく死んでゆく。
つまりそれは魔物を殺すためでもない、何かを切るためでもない。
ただ人を苦しませて殺す為の道具。それを見た瞬間、この人に容赦する必要はないとリファは決めた。
僅かに揺れ動いていた心が、完全に凍り付く。
そのとき、かちり、とリファの全身に無機質な音が駆け巡る。
それは彼女にとって扉を開ける、という程度の極めて身近で軽いもので、その先に用があるから開ける、というような一切の感情がこもらない行動でしかなかった。
もっと具体的に言い換えれば、"もう一人のリファ"を目覚めさせるときに必ず行われる儀式であり、どちらが眠って、どちらが身体に命じるのかを切り替えるための自己暗示。
必死に心を閉ざして、歯車のようになっていればいいと思っていたんです。
けれどあまりにかけ離れたそれは、普段の私には到底受け入れることなどできず、結果的に私の心は二つに割れた。
他人の心に聞こえないふりをして、そんな自分にも耐えられなかった。笑い物でしょう?
リファは身体の節々をまるで糸に吊るされるかのような感覚を覚えたあと、徐々に自分の存在を示すもの──思い出も、感情も、感覚も、臆病者の私が目の前から消えてなくなる。
やがて自分すらも消えてなくなるかのようで、消えゆく心は一瞬の恐怖を写し出しながらも、いつもそうだと思えばすぐに怖くなくなった。
そして最後にもう一人の私へ、私のなかで語りかけた。
ごめんなさい。また、頼ることになって──
自分が羽になって、風に吹かれて散っていく。
そんなどこまでも軽い気分は、他の誰かが重いものを背負っているから。
その誰かは、何も言わない。罪悪感から生まれた言葉に、何も返すことはなかった。
フェンリー・ファレンシウスは、それを最後にして眠りにつく。
次の目覚めは、戦いではないと願って。
 




