八話 イーヴォ・トッリアーニ
……私の中には、もう種はあるんでね。お前の種は、引き受けられないよ。
何も見えない、動けない中で、最近聞き慣れた友の声が響く。
何をしたのか、されたのか。目が見えず、声も遠い今の状況で、思い浮かぶのはたったひとつ。あの、大切な人達が倒れる原因となった、「巻き戻し」だ。
……ずっと、君の幸せを祈っているよ。
やめてくれ。わかっているはずなのに。
もう、誰かが自分のせいで消えてなくなるのは、嫌なんだ。
一番嫌いな別れの言葉を、友の声で、口調で、聞かせないでくれ。
何もかもが遠く、真っ白な中にあって、何かが離れていったことはわかる。今まで自身を覆っていた、分厚い何かが剥がれ落ちたのだ。
体を動かすために必要なものすべてが、一緒にごっそり剥ぎ取られたように、まぶたも重く四肢は鋼のように動かない。
イーヴォは、足掻きたくとも足掻けない状況で、分厚い何かと共に、今まで触れていた暖かい何かも離れていったことを自覚した。
目を開ければ、いつも見慣れた天井の模様が見える。
だが、あの花模様は、あんな色合いだっただろうか。
まだ、白いもやに覆われたような思考の中で、イーヴォはそんなことを考えていた。
周囲ですすり泣くような声が聞こえる。
また、誰かが死んだのだろうか。
――そう考えた瞬間、イーヴォは己の寝台の上で跳ね起きた。
誰かが死んだとしたなら、その一番の候補は、当然ながら自分の呪いに触れたものだ。
この場合――。
周囲に急いで視線を巡らせれば、そこにいるのはすべて見慣れた顔の使用人達だった。
全員が、目を充血させてイーヴォを見守っていた。
「あの人は!?」
一番近くにいた執事のカルロに、ベッドから落ちかねない勢いで身を乗り出して問いただす。
「落ち着いてください、旦那様。あの方は、ご無事です。……どんな手段だったのかは存じ上げませんが、旦那様の解呪に、成功したようです」
言葉の意味がわからず、ぽかんと口を開けたイーヴォに、使用人達がつぎつぎ祝いの言葉をかけてくる。
戸惑い、視線を落とした先に、白い手があった。
そこにあると思っていた、いつもの自分の手ではない、白い肌の、人間の手だった。爪の出し入れなどできない、平らな爪が指の先にはついている。おそるおそる持ち上げてみれば、ちゃんとその手が持ち上がる。
――手とは、こんなに重いものだったのか?
戸惑っているイーヴォの隣で、年配の侍女達が、あの人のことを話している。
「まさか、男性でも治せるなんて……」
「いや、もしかしたら、女性が近くに隠れていらしたんじゃないのかしら」
違う、と瞬間的に思った。あの時、あの人は、ひとりだった。
あの瞬間、何かを口に含み、そしてあの人自身が口付けた。
それを思い出し、胸騒ぎを覚えながら、改めてカルロに問う。
「カルロ。あの人は、どこだ?」
「旦那様。旦那様があの方とご一緒にいて、倒れられたあの日から、二日経過しています」
「……は?」
「あの方は、旦那様が倒れられたあと、体調が悪いようだからそっとしておいた方が良いと仰ったあと、普通にお帰りになりました。傍についていたいが、どうしても急ぐ用があると、そう仰っておられましたのでお引き留めすることも叶いませんでした」
「二日?」
「私どもが、旦那様の変化に気がついたのはあの日の夜のことでしたが、なかなかお目覚めにならず……そろそろ医者をと、みなと相談していたところでございました」
イーヴォは、混乱していた頭の中をねじ伏せ、とにかく今、真っ先にしなければならないことをはじき出す。
「カルロ! 貴族年鑑をここへ! イルマ、ロレッタ、私の服の仕度を!」
「だ、旦那様?」
「急げ!」
声を荒らげるイーヴォに、年長の侍女イルマが、戸惑ったように告げた。
「旦那様。旦那様のお衣装は、その……お尻尾のための穴が空いておりますので、すぐに直すのは難しいかと」
「外に出られるなら穴を適当に塞いだだけでも構わない。とにかく見繕ってくれ! 一刻を争うんだ」
「そ、そのような……わかりました。急いで探してまいります」
主人の剣幕に驚き、慌てたように部屋を出ていくイルマとロレッタを見送り、イーヴォは重い四肢をぎこちなく動かしながら、一番近い板硝子へと歩み寄る。窓辺で、その板硝子にみずからの姿を写し、そして愕然とした。
はじめて見る顔なのに、見覚えがある。
ずっと昔、ひたすら見上げていた肖像画。椅子に座り、ぎこちないながらも笑みを浮かべた、少女の頃の母の姿。いつも、自分を見ると恐怖で引き攣り、泣き叫びながら手近なものを投げつけていた母の、イーヴォが知る唯一笑顔の母の姿。その面影が、そこかしこにある。
泣きそうに顔をゆがめた、髭も生えていない男の顔。
嫌が応にも、これが自分の顔なのだと理解した。
伸び放題の黒髪と、水色の眼。白い肌も相まって、幽鬼のようにも見える。
「……猫の化け物の次は、幽鬼か……笑えない」
硝子に映るその顔は、自嘲したように顔をゆがめていた。
カルロが急ぎ運んできた貴族年鑑を、とりあえず伯爵位の部分だけを急ぎめくる。
「旦那様。いったい何をお探しですか」
「……ダマート家の系図だ」
先日、あの人が話した内容から、仮名フィオリーナはあの人の血縁なのだろうと察していた。
ダマート家か、それともフィオリーナの実家のほうかと考えた末に、あの話しぶりで、彼はフィオリーナの夫側の存在なのだろうと思った。ならば、フィオリーナは、ダマート家に嫁いだ女性だと言うことになる。
そうではなければ、おそらくあの人は、もう少しフィオリーナに肩入れしていたのではないかと思う。それに、もしもあの人がフィオリーナの実家側の縁者であったとしたら、すでに彼女が亡くなっている今、情報を集めようとしていることはおかしいようにも思う。
だが、これは、すべてあの人がダマート家の次男だと言うことを前提としているのだ。
ようやくイーヴォは目的の頁を探し当て、系図を指で辿る。
家長は、伯爵本人。現在妻はなく、長男と次男の存在が、そこに記されている。
名前が書かれているのは、伯爵本人と、跡継ぎである長男。伯爵夫人の名は記されず、アリオスティ子爵家の出身であることと、死亡年が今から六年ほど前であることが書かれているだけだ。
長男は、父親である伯爵と同じ、王宮で勤めている部署と、そこで受けた勲章について書かれている。
そして、それと対照的に、次男については何も書かれていない。名前どころか、生年すら書かれていないのだ。
基本的に、貴族年鑑は、家長と跡継ぎまでは必ず記載され、それ以外の子供については、よほど地位が高い家でもない限り、存在だけが記されることが多い。基本的には名前ではなく、その家で何番目に男女どちらがいつ生まれたのかを記しているだけだ。
だが、その次男に関しては、それこそ存在だけしか書いていないのだ。
この書き方で記されるのは、多くは正妻ではなく、傍女などから生まれた子が多い。
養子であったなら、最低でもどの家からの養子なのかは書かれているはずなのだ。
だが、フィオリーナの家族構成としては、ほぼあっている。唯一違う場所は、やはり次男の箇所、ここだけだ。
「……カルロ。お前があの人を見て、ダマート家の者だと確信した理由は何だ?」
もし怪しい相手なら、カルロは少なくとも、最初の訪問の時に追い返したはずだ。
そう思っての疑問に、カルロははっきりとその理由を告げた。
「指輪です。ジョルジョ様は、右手の中指に、家紋の指輪を身につけておられました。家紋を、見える位置に身につける装飾品に使うことを許されているのは、直系の方のみのはずですから」
確かに、イーヴォにもそれは覚えがあった。
基本的に、家紋の指輪というのは、無骨なものが多い。銅や錫など、金属としてそれほど高価ではないものを使い、同時に宝石などのついた、目くらまし用の高額がつきそうな指輪をつけていることが多い。
ジョルジョの、男にしては細く長い指には、確かに無骨な指輪がついていた。右にその家紋の指輪が。そして左には、赤い宝石がついた指輪をしていたように記憶している。
ただ、それが本物かどうかは、それこそ王宮の紋章官にでも聞きに行くしかない。
「……旦那様は、あの方がダマート家の方ではないと思っていらっしゃるんですか?」
「いや、あの人は、ダマートの一族だと思う。でも、ダマート家の次男であるかは、わからないということだ」
フィオリーナが産んだ子供は二人。長男と、例の娘である長女の二人だ。その娘の年齢が、ジョルジョの話を信じるならば二十かもしくは二十一。
そして、その兄は、フィオリーナが呪われるより前、二十四以上だと言うことになる。
おそらくは、現在のダマート伯爵の妻が、フィオリーナ。ダマート家の長男は、現在二十七。まだ結婚はしておらず、貴族の跡継ぎにしては婚期が遅い。これが、呪いの詳細を調べようとしていたために遅くなったのだとすれば、つじつまも合う気がする。
わからないのはただひとつ。
あの人……ジョルジョ・ダマートについてだけだ。
年齢の話など、あの人としたことはないが、それでも会えばなんとなくだが自分より年上か年下なのかくらいはわかる。あの人は、イーヴォとほぼ同年代。それならば、あの人は本当に二十前後、高くても二十代前半となる。
「いつも、ここに来る時は、ダマート家の馬車に乗っていた?」
「……いえ。いつもあの方は、門の前で馬車から降りていらっしゃいました。その馬車には家紋はなかったように思います」
「では、帰りは。うちの馬車で送ったんじゃないのか?」
「……いいえ。あの方はいつも、寄るところがあるから辻馬車で帰ると、歩いて門を出て行かれていました。先日、資料をお持ちの時ですら、です。お送りしましょうかと何度申し上げても、それはお断りされていました」
「……やはり、確認するには直接行くしかないんだな」
イーヴォが立ち上がり、机から紙を取り出すのを見て、ペンやインク、吸い取り紙を手元に揃える。
「旦那様。いったい、あの方は何者だったのでしょうか」
カルロの言葉に、いつもとは勝手が違う手で、まず文字の試し書きをはじめたイーヴォは沈黙した。
もし、本当に、イーヴォが想像した通りの人物だとするなら……。
「あの人は……」
思えば、おかしな話だったのだ。
貴族の、たとえ次男と言えど、思いついたからと森の中にひとりで入るだろうか。水の妖精なんて、いるかいないかもわからない存在のために。そして、いくら飢えていたからと言って、貴族の少年が泉の水を口にするだろうか。そのあたりに生えている木の実を口にするだろうか。
イーヴォは、姿こそ猫のようだったが、口にするものに関しては、それこそ使用人達から厳しい躾をされていた。うっかり野生のものなど口にして、それが毒だとしたら目も当てられないことになる。子供だからこそ、絶対に口にするなと言われているはずなのだ。
だが……。
……案外、普通に育っていたよ。貴族の令嬢として育てられたわけではなかったけれど、ずっと女神官様に見守られながら、自然の中で普通に育っていたよ。
あの人が、ダマートの次男であれば、あれは伝聞で聞いた話であるはずだ。なぜなら、あの人は、その娘とほぼ同じ年、二十代前半にしか見えないのだから。
それにしては、見てきたように語るのだなと思った。
だが、本当にあの人の正体が、本人だったとするならば……。
生まれたのは……女だった。それがわかった瞬間、フィオリーナは……悲鳴を上げて、生まれたばかりの我が子を……投げ捨てたんだ。
あの明瞭に話しをする人が、唯一、あの瞬間だけ、泣きそうに顔をゆがめていたのを思い出す。
「……とにかく、ダマート家へ行ってみる。一応、先触れの手紙は出した方が良いと思うんだが……」
問題が、ひとつある。
ジョルジョ・ダマート宛ての手紙は、ダマート家へ送って、本当にあの人に届くのかどうか。
だが、今は悩む時間もない。
使い慣れない手で、苦労しながら書き上げた手紙を、男性使用人に持たせて送り出す。
その間に、急いで身支度をして、いざ出かけようとした時に、送り出した手紙をそのまま抱えた男性使用人が駆けこんできたのである。
「ジョルジョ・ダマート様は、王都の屋敷にはいらっしゃらないと……。そして今は、ご当主もお会いになることはできないそうです」
侍従の持ち帰ったその知らせを聞いて、イーヴォは自身の目覚めが遅すぎたことを、嫌が応にも悟ることになったのである。