七話
了承を得ることなく姿を現したその人に、ジョルジョはいつものように微笑んで、いつものように声をかけた。
「おや、兄上。今日はずいぶんお早いお帰りなのですね」
よく見慣れた兄の顔は、今日もずいぶんくたびれているようだった。
少なくともジョルジョは、この兄が満面の笑みを浮かべ、楽しそうにしている姿は見たことがない。今も、見事な眉間の皺はくっきりと刻まれており、そんなところまで父に似ずとも良いのになどと、ジョルジョはいつも考えていた。
そのジョルジョの態度に微塵も表情を動かすことなく、兄は静かに口を開いた。
「……お前の入る修道院が決まった。例の歌劇が終わるまでは、こちらにいることを許すという父上からのお言葉だ」
父の助手として、つねに王宮にいるはずの兄は、手に持っていた書類の束を、積み上げていた記録の上に投げ置いた。
「歌劇で魔女をあぶり出すなど、やはり不可能だろう。たとえ知っている者がいたとして、場末の酒場に足を踏み入れるような魔女についての情報を知るものが、歌劇を見に来られるほど裕福とは思えない。……すまない、ジョルジョ。結局、お前ひとりを犠牲にする形になった」
「……いいえ、兄上。歌劇は十分、役に立ちましたよ。……魔女の、そして呪いの正体まで、ちゃんとたどり着きましたから」
力なく告げられたジョルジョの言葉に、兄は息を飲んだ。
「どういうことだ?」
顔色を変えた兄に、トッリアーニの記録を一冊手渡しながら、ジョルジョは溜め息をついた。
「兄上は、トッリアーニの現当主をご存じでしたか。あれと、同じものだそうです。まあ、どんな獣が現れるかまでは、さすがにわかりませんでしたが」
兄が、手渡した資料に急ぎ内容に目を通すのを見ながら、ジョルジョは兄が持って来た修道院について書かれた紙を手に取った。
今日の告白を聞けば、イーヴォの方も、ジョルジョがフィオリーナの血族であることは気がついたことだろう。しかし、あの穏やかな青年は、ジョルジョが何者なのか、フィオリーナといったいどんな関係だったのかを問うことはなかった。
それがこちらに気を遣ったためなのか、それとも思いつかなかっただけなのか、推し量ることはできなかった。
きっと、イーヴォは想像もしなかったはずだ。
ジョルジョが、名もつけられることがないまま、母に投げ捨てられた娘だなどとは。
「結局、それを見ても、最良は私が子を成さないことだと思います。ただ、呪いを受ける前に生まれていた兄上の場合がどのようになるのか、その結果では推し量れませんでした。……あるいは、それに書かれていた解決の糸口として、新たな魔女を頼ることができるとは思います。私が家を去ったあとで、父上とご検討なさればよろしいかと」
「ジョルジョ……」
「……呪いが、目に見える形で現れるのが孫世代。それならば、私が子を成せば、間違いなくトッリアーニの悲劇が我が家で繰り広げられる。それが現れてしまえば、遡って母上の愚かな選択も、表に出てしまうことでしょう。幸い、我がダマート家の記録に、娘など、もとより存在しておりませんし、私はこのまま、ダマートの名を捨てて、平民の娘ジョルジャとして修道院にまいりましょう。病弱で、やせっぽちな男なら、病が悪化したとして領地へ向かい、さらに途中で病に倒れたと発表しても、問題は起こりもしないでしょう。……ああ、兄上。その記録は、トッリアーニ家の、血と涙の結晶です。くれぐれも大切にお取り扱いください」
トッリアーニの記録を握る手に力がこもった兄をたしなめ、ジョルジョはいつもの笑みを浮かべて見せた。
「ただ、私にも少しやり残したことがありまして。それが片付き次第と言うことで、よろしいでしょうか。……名もなきわがまま娘の最後の言葉を、父上はお聞き届けいただけるでしょうか?」
「……好きにするが良い。心配するな。父上は、残る私が責任を持って説得するから」
兄の、無理をしているような引きつった笑みを見て、ジョルジョはようやく、安堵したような穏やかな表情を見せたのだった。
礼をしたい。
そう申し入れて、ようやくトッリアーニ家に向かうことができたのは、あの資料を預かって一週間後のことだった。
資料として預かっていたもののうち、イーヴォの祖母の日記については返却することになり、それを持ってジョルジョは足取りも軽くトッリアーニ家に足を踏み入れた。
その日通された場所も、先日あの告白を受けたテラスだった。
この家の最大の秘密を明かした相手をもてなす場として、応接室よりこちらと言うことになったらしい。寛いだ姿のイーヴォに、ジョルジョは軽く手を挙げ、挨拶した。
「……お久しぶりです。……あの資料は、お役に立ちそうですか?」
その疑問に、改めて姿勢を正し、頭を下げた。預かってきた言葉を口にするのに、いつもの様子ではさすがにいられない。
「フィオリーナの血縁の方々も、トッリアーニ家に対し、感謝していると。本来なら、家長が赴き、あの資料に相応の謝礼をお支払いするところですが、今はまだ調査中ですので、それに関してはしばらくお待ちいただきたいそうです。こちらの呪いの調査が終わり次第、必ず名を明かし、直接お礼を申し上げに伺うと伝言を預かってきました」
「いや、こちらとしては、もう使うことのない資料ですし、お役に立てたならそれで構いません。元々、そちらの呪いは、こちらに責任の一端もあるのでしょうし。それに、今まで秘密にしてこられたのです。こちらに対して名前を明かすのも、相応の覚悟が必要でしょう。私は、フィオリーナのご家族にあの資料を差し上げました。それでいいのです」
「ならばせめて、こちらはお返ししたい。……お祖母様の日記は、大切な思い出も含まれておいでだろうから」
ここから持ち出す際に借りた大きな鞄の中に、十冊ほどの日記帳が入っている。それを今日も傍にいた執事に手渡した。
それを片付けると共に、お茶の仕度をするためにと執事が部屋から消えたあと、イーヴォがなぜか、俯いたまま手を組んでいた。
水色の眼は伏せられたままで、何かの覚悟を決めるような悲壮な雰囲気があった。
「……イーヴォ。どうかしたのか?」
「ひとつ、あの日、どうしても聞けなかったことがあるのですが……」
「君は、あんな大切なものを、私に預けてくれた。そんな他人行儀にする必要はないよ。私に答えられることなら、何でも答えるよ」
イーヴォは小さく息を吐き、顔を上げた。苦しそうに顔をゆがめながら、小さな声でジョルジョにその疑問を投げかけた。
「フィオリーナの、第二子……彼女は今、どうなっていますか?」
「……」
「領地で、呪いの観察をするために、隔離されているという話ですが、当家と同じ呪いだと言うのなら、彼女にはなんの兆候もないはずです。……彼女は、呪いについて、なんと聞かされて育ったのでしょうか。母と同じ立場のはずの彼女は……」
「……案外、普通に育っていたよ」
ジョルジョは、自然と浮かんだ笑みもそのままに、イーヴォに答えた。
「え……?」
「貴族の令嬢として育てられたわけではなかったけれど、ずっと女神官様に見守られながら、自然の中で普通に育っていたよ。災いをもたらすかもしれない子供だからと、感情的にならないように注意深く育てられはしたけど、それだけだ」
大きく目を剥いたイーヴォに、ジョルジョはにっこりと微笑んだ。
「もちろん、呪いに関してはずっと聞かされていた。だからこそ、つねに冷静であれとも言われ続けていた。女神官様は、はじめから大いなる災いが起こるとわかっているなら、どうすればそれが起こらなくなるか、また起こった時に、どう対処すればそれを押さえられるのか、それを一緒に考えましょうとそう言いながら彼女を育てたんだ」
「解呪などは……?」
「女神官様が何かをしていたのかもしれないが、彼女自身を対象にした解呪などは記録になかった」
「では、結婚もしていないんですか? おそらくですが、二十代になったばかりだと推測しますが」
「ああ。元々、呪いについて判明しない限り、外には出せないと言われていたからね」
「そう、ですか……でも、母のように怯えて暮らすよりは、その方が良いのかも知れません」
「君の母君と違い、彼女は第二子だ。上にはちゃんと、跡継ぎとなる男子がいる。だからこそだろうね。……ただ、今後は、その跡継ぎに関して、呪いの影響が出ていないのかを調べるのが急務になるだろう。そちらに関しては、トッリアーニの調査書を見て、解呪ではなく、呪いの種の存在を確認すると言う方向で、調査を進めようとしている。解除方法を考察されていた魔女殿と連絡を取って、協力を仰ぐ予定だ」
その話を聞いて、イーヴォは目にもあきらかに、安堵の表情を浮かべていた。
「……祖父の行動も、祖母の思いも……これでようやく、報われた気がします」
イーヴォの、潤む水色の眼を見て、思わずジョルジョは手を伸ばした。親指で涙を拭ってやれば、透明な滴がその指についてきた。
猫が感情的に涙を流すところは見たことがない。悲しそうに鳴き声を出していることはあっても、それに涙は伴わない。
ならば、イーヴォの涙は、これこそ彼が間違いなく人である証だった。
「そうだ、イーヴォ。フィオリーナの血族からの礼とは別に、私からもあなたに礼がしたいんだ」
そのジョルジョの申し出に、イーヴォが涙で潤んだ眼もそのままに、きょとんと目を瞬いて、首を傾げた。
「礼など……。むしろ、私の方がしなければと思うくらいですから」
「あんな最初の出会いから強引に押しかけてきた人間を受け入れてくれた礼がまだなんだ」
肩をすくめておどけるジョルジョに、涙を忘れたようにイーヴォは大きく目を見開いた。
「……強引だという自覚はおありだったんですか?」
「あったとも。とりあえず一番褒めたたえたい場所を考えたあげくが、あの出会いの挨拶だったんだ」
さも意外だとばかりにつぶやくイーヴォに、ジョルジュはにやりと笑って答える。
「最初から今に至るまで、自分が強引だったことも、君に遠慮がなかったことも認める。……認めた上で、礼も強引に行かせてもらう」
「え、あの、いったい、何を?」
イーヴォの白黒ぶちの耳が、怯えたように倒れた。尻尾もすっかり足に巻き付いているので、よほど怯えているらしい。
久しぶりに見た、逃げ腰のイーヴォの隣に移動して、肩を掴んでその目をしっかりと見つめる。
「……私達は、友達だよな?」
「もちろんです。が……それが、何か」
ジョルジョは、その躊躇いのない返事に、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、大丈夫だな」
そう告げたジョルジョは、素早く懐から小さな紙を取り出し、口に含んだ。そして、イーヴォの両頬を手でしっかり固定すると、そのまま勢いよく口づけた。
愛情の表現にも、いろいろあるだろう。
手を握りあうのも、互いの頬を擦りつけあうことでも、両手を広げ、相手を抱きしめるのもまた温かな心の発現だ。
だが、今回必要なのは、そんな柔らかな表現で交わしあう愛情ではない。互いのうちまで受け入れあう、そんなすりあわせるような行為だ。
必要なのは、すでにイーヴォに蔓延っている呪いに、ジョルジョが認められること。
イーヴォの血を繋ぐ能力があると認められること。そして、いなくなれば、心に空虚が生まれるほどに、互いを思う心があること。
掌に、硬直してぴくりとも反応しないイーヴォを感じる。
結局、ジョルジョの性別は明かさないまま強行したため、イーヴォは混乱したのだろうなとこんな状況でのんきに思う。
長い長い時間だったような気もする。また、瞬きするほどの間だったようにも思う。
イーヴォの体から、次第に力が抜けていく。それを掌で感じた瞬間、それはきた。
変化はまず、首筋に感じた。まるで何かを確認するように、するりと首筋を何かがなで上げた。ぞわりぞわりと、体中に何かが這い寄るのを感じる。首筋に、足首に、手首に、全身を覆うように、何かがジョルジョに巻き付いてくる。
僅かに目を開けば、口づけているイーヴォは、半眼で視点もあわず、朦朧としているような気がした。周囲に、目に見える変化はないのに、確かに肌には何者かが触れている感覚がある。
それを確認した瞬間、今までただざわりざわりとジョルジョを確認するだけだった何かが、一斉に襲いかかってきた。
口の中に、溢れんばかりに見えない何かが押しかけてきていた。その激流のような何かは、一斉にジョルジョの中に浸食しようと口の中で暴れていた。
だが、その次の瞬間、ジョルジョの口の中には熱が走り抜けた。
ジョルジョは、あの資料を受け取り、すべて読み終わってから今日まで、全力を挙げて、ある人物を探し出した。
資料に書かれていた、最後の条件をまとめた魔女である。
幸いにも、彼女はそれほど王都から離れていない町に、普通に店を構えて住んでいた。魔女と言われれば、それこそ最初の原因になった魔女のように森にでも隠居していそうなものだが、彼女は街で普通に暮らしている、植物を専門とする魔女だったのだ。
壮年と思われる、魔女としては意外に若々しい彼女は、イーヴォの呪いについても記憶しており、ジョルジョの願いに応え、大急ぎでひとつの呪文を誂えてくれた。
ジョルジョは魔女ではない。呪文などは使えないし、呪文を読めと言われて読めるようなものではない。
だから、体液をつけるだけで呪文が発動できるように、一枚の呪文書を魔女に用意をしてもらったのだ。
その呪文は、予定通り、ジョルジョの唾液を吸収することで発動し、その口の中で、イーヴォに蔓延った、発芽した呪いの種とのせめぎ合いを開始した。
先ほどまで、ただ撫でるだけだった何かが、自分が攻撃されているのを理解したのか一斉にジョルジョを締め上げる。
喉は、内側にも呪いが入り込んでいたからなのか、締められるようなことがなかったのが幸いだった。
ときおり、喉の奥を突くようにえぐられ、吐きそうになりながらも、ジョルジョはひたすら耐えていた。
骨はきしみ、皮膚は引きつり、全身痛まない場所はないほどになりながら、それでも次第に自分を取り巻くそれらが、小さくなっていくのを感じていた。
それに従い、口の中に、小さな小さな塊ができていくのを感じる。
最後の抵抗のように、その暴れていた何かが、ふたたびイーヴォに戻ろうとしているのを感じ、ジョルジョは芽を食いちぎらんばかりの勢いで歯を食いしばる。
口の中の塊は、少しずつ少しずつ、ころころと転がりながら球状になり、そしてぴたりと動きを止めた。
すでにイーヴォは、ぐったりと気絶したようになっていた。気がつけば、イーヴォは顔をジョルジョの手に挟まれたまま、ジョルジョの体にもたれかかるようにしてその姿勢を維持していたようだ。
ようやくイーヴォと離れたジョルジョは、口の中にあった塊を舌で何度か突き、動きがないことを確認してから、行儀悪く果物の種でも飛ばすように、口の中のものを吐き出した。
テラスの床にころころと転がっていくそれは、イーヴォの眼とよく似た色をしている、綺麗な水晶玉だった。
それを見届けて、口の中に指を入れ、魔女が作ってくれた呪文書を取り出した。
「……私の中には、もう種はあるんでね。お前の種は、引き受けられないよ」
そうつぶやいたジョルジョは、ぐったりと背中をソファに預けながら天を仰いだ。
「……疲れたな」
ぐったりとつぶやくが、ここで意識を失ったりするわけにはいかなかった。
全身に、先ほど締め上げられたきしみが残っているが、それ以上に大切なことがある。
ジョルジョに体を預け、気絶しているイーヴォには、まだ猫の耳がついていた。もちろん尻尾もちゃんとある。
だが、そのどちらもが、まったく動かなくなっていた。
イーヴォの顔に手を当ててみれば、いつもぴんと伸びていた髭が、ポロリと落ちてジョルジョの手の中に落ちてくる。
頭を撫でてみれば、艶やかな猫の毛皮の手触りに、僅かにざらりと違和感がある。
人としての髪の毛が、通常ではあり得ない勢いで伸びているのだ。
「……そうだよな。ただ毛が抜けるだけじゃなく、完全に作り替えているんだものな。魔女殿は巻き戻る過程で変化しているから、少し時間がかかるだろうと言っていたが……髭も生えるのかな」
イーヴォの、今まさに変化している最中の頭を太ももに乗せ、ゆっくりと変化しているその頭を、そっと撫でる。
「強引なことをして悪かった。それだけは謝るよ。だけど……イーヴォ……人は、どれくらい生きると思う? 健康に生きていれば、五十歳、六十歳は当たり前なんだぞ。……二十三の君なら、人生はまだ半分以上残ってる。……いつかきっと、鏡を見ても、人の顔の君が当たり前に思う日は来るよ。だから……諦めることに、慣れないでくれ」
あの、悲しい諦めの表情を見た日には出なかった言葉を、ようやく口にすることができた。もういいとイーヴォが言うたびに、言えなかったいつかという未来が口にできた。
「どうか幸せに、イーヴォ。二十三年、悲しみを背負っていた分、それ以上の長い人生で君が心豊かに、穏やかに過ごせますように。……ずっと、君の幸せを祈っているよ」
穏やかな笑顔で、気絶したままのイーヴォの頭を愛おしげに撫でながら、ジョルジョは聞こえていないだろう言葉を紡いでいた。