四話
ふたたび幕が開いた時、舞台にはフィオリーナひとりだけが立っていた。
彼女の、孤独のアリアである。
恋人である芸術家に去られ、母には謹慎を言い渡され、そして父は、急速に悪化して行く一家の立て直しのため、家族を一切顧みることなく奔走し、使用人達はひとりまたひとりと家を去って行く。
その状況におかれたフィオリーナが歌い上げる孤独な心は、自業自得とはいえ、その心の幼さを知らしめ、同情の涙を誘うものだ。
カメーリアは、先ほどまでの軽やかな歌声を忘れたように、悲壮な歌声を劇場に響き渡らせた。
彼女のこの歌は、ある意味この歌劇のできを左右する、最も重要なものだ。
ここでフィオリーナに同情を覚えられなければ、このあと、最後に神官が命がけで呪いを解くその瞬間の感動が台無しとなる。
カメーリアは、この最大の山場と言える場面、劇場中の感情を見事に操り、フィオリーナを、幼さ故に愚かな行為に走った娘として印象付けた。
これがはじめての主演だとは思えない歌声に、ジョルジョは安堵を覚えて胸をなで下ろした。
そしてようやく、隣のイーヴォの様子をうかがうように視線を向けた。
イーヴォの感情は、顔そのものよりも、耳や尻尾、髭の様子で見る方がわかりやすい。だが、今はそのどれも、あまり動きがない。むしろ、その表情、目元のあたりが、困惑したようにときおり眇められるくらいである。
ジョルジョとしては、先ほど幕間でのイーヴォの呟きについて尋ねたいところなのだが、どうやって話をそちらに持っていくかで悩んでいた。
悩むジョルジュをよそに、劇はどんどん話が進んで行く。
フィオリーナの祈りの日々から、その姿を目にした神官との邂逅。そして、神官と言葉を交わすうちに、フィオリーナは己の罪を自覚する。
神官に、己の罪を告白し、涙と共に生涯を贖罪に費やすことを神官に伝えるフィオリーナのその声は、はじめの少女としての歌声とも、先ほどの悲痛な叫びのような孤独のアリアとも違う、静謐に満ちたもの。
あっという間に、最後の場面となり、フィオリーナの祈りの歌が劇場を満たす。そして神官が目覚め、すべての出演者の再登場と共に、全員による喜びの歌で舞台は終わりを迎えた。
観客からの盛大な拍手を受けて、終劇と共に下りていた幕が、ふたたび上がって行く。
ジョルジョも拍手は惜しまなかったし、隣のイーヴォも同じくだった。
ただ、毛に覆われた猫の手では、やはり拍手は音を鳴らせるのが難しいらしく、いくら手を合わせても、ただぱふぱふという音が鳴るばかりだった。
何度かのカーテンコールを終え、終劇となった劇場から、人が立ち去って行く。
ジョルジョとイーヴォは、ふたたび劇場の職員に案内され、楽屋へと向かっていた。
先ほども入った楽屋にふたたび招き入れられると、先ほどはじまる前にあった時よりも、ずっと穏やかな笑みを浮かべたカメーリアの姿があった。
「舞台の成功おめでとう、カメーリア。これで、君の名も大いに知れ渡ることになるね」
「ありがとう、ジョルジョ。でも、まだまだなの。これから先、このフィオリーナが私にとって最大の当たり役と言われるようになるまで、私は彼女を演じ続けるわ」
笑顔のカメーリアは、そのままジョルジョの一歩うしろに立っていたイーヴォに視線を向けた。
「いかがでしたでしょうか。はじめての歌劇で、お心が惹かれるものはありましたかしら」
「はい。幕間が終わったあとのアリアも、最後の祈りの歌も、たいへん素晴らしいものでした。アリアは、あなたひとりが歌っているはずなのに、あんなに声が響き渡るものなのだなと、驚きました。訴える感情と相まって、そう聞こえたのでしょうか?」
イーヴォの感想に、カメーリアは嬉しそうに微笑んだ。
「トッリアーニ卿のお心に訴えるものがあったと仰るなら、この舞台は成功だったと自信を持って言えますわね」
扇で口元を隠し、ころころと笑うカメーリアは、先ほどまで舞台にいたフィオリーナと同じ人物だと思えないほど、明るい笑顔でイーヴォに答えた。
そんなカメーリアを見つめていたイーヴォが、突然思い詰めたように居住まいを正したのは、そろそろ帰るかと部屋を辞する寸前だった。
「あの、たいへん不躾な質問をしてもよろしいでしょうか」
「まあ、私でお答えできることなら、何なりと」
イーヴォは、カメーリアの了承をもらい、ほんの少し悩んだ上で、まっすぐの視線をカメーリアに向けた。
「これはどこかの場所で実際に起こったことだと聞き及びました。……この物語の作者の方にお会いして、お話を聞くことは可能でしょうか」
イーヴォの願いを聞き、カメーリアは一瞬だけ、ジョルジョに視線を向けた。
「一応、作者については、本人の希望で名を伏せるお約束になっておりますの。……どのようなお話をお聞きになりたいのでしょう?」
「物語に出てくる魔女について、少し気になる点がありまして……。もしお会いすることが叶わないのでしたら、手紙でも構いません。仲介していただけないかと」
カメーリアは、それを聞き、そしてジョルジョを見て、ふっと微笑んだ。
「私がこの物語を原作者からお預かりする時に、ひとつだけ、約束したことがございました。それは演技についてや原作者への詮索を禁ずるなどと言ったものではない、ごく簡単なお話です。もし、舞台を見て、魔女について尋ねるものが現れたら、教えて欲しいと言うことでしたわ」
ね、とカメーリアの視線がジョルジョに向けられた。
「……私どもは、この物語を、彼から伝えられました。彼自身が書いたものか、それとも彼が誰かからお預かりしたものなのか、それもわかりません。ですから、私があなたにお伝えできることはただひとつ。そちらのジョルジョこそ、あなたのご質問とご要望にお答えできる存在だということですわ」
それを聞いたイーヴォは、目を丸くしてジョルジョを見つめていた。
「彼が、もとより昔話やお伽噺を集めていたことはご存じかしら。私どもは、今回お預かりした物語は、彼のその収集したお話のひとつだと理解しておりました。それ以上の詳しいことは、ご説明することは叶いません。……あなたの疑問が、そちらのジョルジョとのお話で少しでも晴れるとよろしいのですが」
しばらくジョルジョを見つめていたイーヴォだったが、カメーリアの言葉を受けて、すぐさま頭を下げた。
「ありがとうございました。……これから先の公演の成功を、お祈り申し上げます」
「まだ公演の期間はございます。ご希望でしたら、また席をご用意いたしますので、ぜひ足をお運びくださいませね」
「はい。機会がありましたら、ぜひ」
イーヴォの挨拶が終わると同時に、ジョルジョもカメーリアに別れの言葉を継げて、部屋を辞す。
元々、ここへはイーヴォの家から馬車を出してもらっていた。もちろん帰りも、迎えとしてトッリアーニの馬車がすでに出口に待ち構えていた。
二人無言で馬車に乗り込み、当初の予定通り、馬車はトッリアーニの屋敷へと向かう。
二人ともが、ここでは会話ができないと思っているのは間違いなかった。ジョルジョも、話が、家に帰りつくまでの短い時間だけで終わるとは到底思っていない。
馬車がトッリアーニ邸に到着し、二人は揃って屋敷に足を踏み入れる。出迎えた執事に、僅かに指示を与えたイーヴォは、そのままジョルジョを引き連れて、いつも使っている応接室ではなく、奥のテラスへと移動した。
ジョルジョは、なぜイーヴォがこちらへ自分を案内したのかはわからないが、その部屋に足を踏み入れて、ある意味イーヴォがこの話に対して、どれくらいの覚悟を決めたのかは理解した。
応接室は、確かに調度品なども、こちらの部屋よりも数段上質なものを揃えている。客を出迎えるために整える部屋というのは、ある意味家格の見栄も重視しなければならないためだ。
だが、こちらは、家主にとっては寛ぐための部屋だ。十分な採光と、庭が見える大きな窓がある部屋は、応接室よりも明るく、昼に寛ぐには最適の場所だろう。
堅苦しい場所ではなく、できるだけ、自分がおちつける場所で、イーヴォにとっては生まれた時からつきまとう、いまいましい呪いに関する話をしたかったのだろう。
案内された部屋で、イーヴォに薦められて、手縫いの刺繍が入ったカバーがかけられているソファに腰を下ろす。
すぐさま、執事がテーブルの上に茶の仕度を調え、そのままイーヴォの背後に立った。
「……」
二人ともが、話をはじめるきっかけをつかめず、しばらくの沈黙が部屋に訪れる。
つねにない様子に、さすがの執事も不思議に思ったのか、しきりに主に視線を向けていた。
「……何から、お話しすれば良いのか。今まで、あなたは私に、一切この呪いについて、詮索なさることはしなかった。はじめにこちらにいらした時は、領民達については、訪ねても私の話をするだけだろうから、と仰っていましたが、私自身にも、それを聞かなかったのは、なぜですか?」
「君自身に聞かずとも、表面的な話は、他の方々がいくらでも語っていらしたから。君の祖父殿が、魔女の呪いを受け、結果、君の容姿にそれが現れた。それなら、魔女に直接会ったのは、その祖父殿で、君に話を聞いたとしても、結局は伝聞なのだろうと、そう判断したんだ。……呪いが現れた当事者である君に、呪いに関して根掘り葉掘り尋ねて、悲しませるのも本意ではなかったのでね」
苦笑しながらそう告げると、イーヴォは少し困ったように、首を傾げた。
「あの劇は、昨日今日で物語ができて、公開されたものではないはずです。あの物語の作者は、私が社交界に出る前から、あの物語を用意して、魔女の存在を派手に表に出すことで、情報を集めようとした。それほど、あの魔女に関して情報を求めていた。そう言うことなのでしょう?」
「そうだね。私がカメーリアにあの物語を渡したのは、昨年のことだ。私が君の存在を知ったのは、今年、あの夜会の会場だったから……だから当然、この物語は、君とは関係ない場所で生まれたもののはずだった」
「それまで、私の噂はご存じなかった?」
「……元々、君の父君、前当主殿は一切の社交をされていなかった。だから、トッリアーニに関する噂が、人々の口に上ることもなかった。忘れられていたんだ。今年、君のことが噂になったのは、当然ながら君があの夜会に出たから。そうなってはじめて、トッリアーニに関する話を、皆さん口にするようになったんだ」
元々社交界では、みんなが新しい情報に耳をそばだてている。どんなに衝撃的な話でも、呪いを受けたという当時ならば別だが、時間が経てば別の話題に上書きされてしまう。
ましてや、それが呪いという、ある意味人に忌避される話題であり、当主が代替わりし、その人物が一切の社交を拒否していたとすれば、わざわざ口にするのも躊躇われただろうし、忘れられていたとしてもしかたがないだろう。
前当主が、それを狙って社交をしなかったとすれば、ある意味英断だったと言えるが、真実がどうだったかは、今はもうわからない。
ただ、呪いが表に出た当時に、社交界にいた方々にとっては、イーヴォの社交界への顔見せは、昔仕入れていた話の種を披露する絶好の機会だったと言える。それこそ、一斉に、皆がトッリアーニの呪われた話を語りはじめるくらいには、衝撃的な話だったのだ。
それを聞いていたイーヴォは、ひとつ頷いたあと、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、私の呪いは、直接魔女にかけられたものではありません。ですが、当時、その魔女と祖父が対峙した場には、他にも大勢の人がいたんです。ですから、魔女に関しての話は、大勢の目撃談がありました。おかげで、その証言をまとめた資料は、たくさん残っているんです。……あの歌劇に出てきた魔女が芸術家の恋人に語ったのとよく似ている言葉を、こちらの魔女も残しているんです」
――ごうつくばりの強欲ジジイ。お前のその力はお前自身の力ではなく、ただ生まれた場所が貴族だったってだけだろうが。それが威張るようなことかい! そんなお前には、この呪いがお似合いだよ! お前の中に呪いの種を埋め込んだ。いつか生まれるお前の娘が、この呪いを芽吹かせるだろう。そして、その呪いによって、お前の血は繋がらずに消えて行く。お前が必死で集める金も権力も、結局は無に帰すんだ。これ以上の復讐はないだろう?
全く別の場所で語られたとは思えないほど、細部が似ている言葉だった。
まず、魔女が呪いの対象とした相手。魔女を怒らせた本人ではなく、その家に及んでいること。そして、なぜか娘、その家に生まれる女が、厄災を生む、もしくは呪いを芽吹かせるという表現。
ジョルジョは、こちらを真摯な眼差しで見つめてくるイーヴォに、問いかけた。
「……確かに、似ているね。それで、君があの物語の作者に聞きたかったこととは? その魔女が、今どこにいるかと言う疑問には、あいにく答えられないんだけど……」
「違います。……もし、その呪いを授けた魔女が、本当に私の領地に伝わる魔女と同じ存在なら……あの物語の結末は、別になっているのではないかと、思ったんです……。もし、本当に同じ呪いを同じ魔女がかけたと言うなら……この呪いは、私のような存在が生まれないと、本当の意味での解呪はできないのだと、そう聞いていましたので……」
ジョルジョは、そのイーヴォの言葉に、思わず息を飲んだ。
「……それならば、フィオリーナの呪いは、あれでは解呪できていません。当然その血は、あの物語の結末後も呪われていることになります。……だから、うかがいたかったんです。この物語が、いつ頃に起こったことなのか。そして、フィオリーナの血族は、今どうしているのかを」