三話
「というわけで、歌劇を見に行かないか?」
トッリアーニ邸の居間で二人きりになるなり、にっこり微笑んで、封書を一枚差し出したジョルジョに、目の前のイーヴォは水色の猫目を細めて首を傾げた。
「私はあまり外出を好まないので……」
「これ、私も出資している劇団のものなんだ。席は、壁で覆われた貴賓席で、そこに行く通路も通常の席とは入り口から別なんだ。他からは姿が見えることもない。……せっかく王都にいるんだから、ひとつくらい、公共の施設を利用してみるのも良いんじゃないかなと思って」
目が細められたイーヴォの顔では、髭が前に動き、まるで封書の匂いでも嗅いでいるようだったが、尻尾は不安そうに足に巻き付いている。
不安と警戒を匂わせるその姿に、やはり無理かと思ったジョルジョに助け船を出したのは、茶の仕度を調えて帰ってきた、イーヴォの執事だった。
「旦那様。一度王都で陛下に謁見をしたからには、これから先、お断りし辛いお誘いも来るようになるかも知れません。ダマート様のお誘いは、そういったことに慣れるための練習のひとつだと思われてはいかがでしょうか」
この執事は、ジョルジョがここに来た当初から、イーヴォが人付き合いをすることに賛成である姿勢を崩さなかった。
イーヴォ自身も、ずっと傍にいたという執事の意見は、積極的に受け入れる。おかげでジョルジョの渡した歌劇のチケットは、無事にイーヴォの懐に入れられることになった。
「劇団に出資されてるんですね。……なら、舞台裏へのご挨拶もあるんじゃないんですか? それなのに、私がご一緒してもよろしいのでしょうか?」
「心配ないよ。勝手だとは思ったけど、事前にイーヴォの姿については、友人に説明したんだ。その上で、感想をお待ちしています、という言葉も預かっているよ」
それを聞いたイーヴォが、困ったように耳を倒した。
「……歌劇を見ること自体、はじめてなので、ろくな感想も言えそうにありません」
「それに慣れる練習なんだろう? 大丈夫。王宮お抱え楽団の演奏会よりは気楽に見られるよ!」
「ジョルジョ……この国に、王宮楽団より格式のある演奏会があるのですか?」
「ないな!」
迷わずなされた回答に、さすがのイーヴォも、何も言えずにがっくりと肩を落としていた。
翌日、トッリアーニ家の馬車を使い、劇場に乗り付けた二人は、人々がいる表からではなく、裏の入り口から劇場に入った。
ジョルジョは、夜会用に仕立てていた礼服を身につけていたが、その隣に立つイーヴォは、ある意味いつもの猫の顔とは別の意味で目立っていた。
それを横目で見て、ジョルジョは小声で馬車の中から何度も繰り返した質問を投げかけた。
「本当に、耳は大丈夫か? 押さえつけてないか? それに髭だって、そんなぐるぐる巻きだと癖がついてしまうよ?」
「大丈夫です。柔らかい素材ですから、それほど締め付けていません」
繰り返した質問は、その姿に理由がある。
今日のイーヴォの服装は、ぱっと見るとあきらかに不審人物だった。
目深につば広の帽子をかぶり、さらに顔の半ばまでをぐるぐるとスカーフを巻き付け、襟の高いコートを身に纏っている。どれも確かに素材はいいものだし、仕立ても良いのだが、すべてが揃えば間違いなく不審である。
「ここには人がいないのだし、外せば良いのに」
「演目が始まる前に、別の騒ぎを起こすのは失礼ですから。席についたら、ちゃんと外します」
馬車の中からずっと同じ返答を続けていたイーヴォも、さすがに声に若干呆れのようなものが混じる。
そんな二人の前には、いつの間にか劇場の職員らしき黒服の男が立っていた。
「ジョルジョ・ダマート様。そしてお連れ様も、ようこそお越しくださいました」
うやうやしいお辞儀と共に歓迎の言葉を述べ、その職員はそのまま案内をすると二人の先に立った。
「今回上演いたします演目のプリマドンナが、お二方をぜひ楽屋にご招待したいと申しております。ご案内してもよろしいでしょうか」
「えっ……」
イーヴォの足がぴたりと止まるが、ジョルジョはそんなイーヴォの肩をしっかり抱いて、もちろんと答えた。
「えっ、あ……ちょ、ジョルジョ」
「大丈夫大丈夫」
「いや、あの」
ただひたすら戸惑うイーヴォの方を、逃さないとばかりに抱きながら、ジョルジョは職員に案内されるままに、楽屋に足を踏み入れたのだった。
「はじめてお目にかかります。今作品で主演を務めます、カメーリアと申します」
椅子から淑やかに立ち上がり、姿を見せた二人に深々と頭を下げたカメーリアは、そのまま二人を、部屋にあった応接セットに案内した。
「ようやくお会いできましたわ、トッリアーニ卿」
「は、あの……」
「あなたの隣にいるジョルジョは、私の友人ですの。ジョルジョからお話を聞いて、ぜひご挨拶をと思いましたの」
「そ、それは、ありがとうございます……えと」
「ところで……どうぞ、屋内では、寛いだお姿で過ごしてくださいませね」
あきらかに、イーヴォの姿に対してのその言葉に、さすがのイーヴォも帽子をかぶり続けることはできなかったらしい。
「あの……私の姿は、少々人の姿としては変わっておりまして……」
「大丈夫ですわ。隣にいるジョルジョに、あなたのお話はお聞きしていましたの」
カメーリアの言葉を聞いた瞬間、イーヴォの視線がジョルジョに向けられた。
「何か、とんでもないことを聞いておられなければ良いのですが」
イーヴォがそう口にすると、カメーリアはにっこりと微笑んで椅子を勧めた。
「まあ、とんでもない。とても楽しいお話でしたわ。見ていると触れたくなる、素敵なお耳をしていらっしゃると」
何を伝えたのかとその目は訴えていたが、それも長く続けることができないまま、おそるおそる、革の手袋に包まれていた手を帽子にかけた。
ゆっくりと脱いだ帽子の影から、耳がぴょこんと立ち上がる。やはり帽子で押さえてつけていたからか、ピクピクと動いて、まるで今まで押さえつけられていた猫が伸びをするようだった。
思わず手を伸ばそうとしたジョルジョの手を避け、帽子に続いてスカーフを取り去る。
いつもはまっすぐ伸びていた髭が、微妙に曲がっているのは、間違いなく今まで巻いていたスカーフによって癖がついたのだろう。
「ああ、やっぱり癖がついているじゃないか……」
慌てたように、イーヴォがそれを撫でて整えているのを見て、カメーリアは扇で口元を隠しながら、小さな声で上品に笑っていた。
「お二人は、本当に仲がいいのですね」
「お恥ずかしいところをお目にかけて、申しわけありません……」
「本当に、素敵なお耳。お帽子は、窮屈でしたでしょう? どうぞ、劇の最中は、お帽子越しではなく、直接音を楽しんでくださいませね」
カメーリアは、それ以降、イーヴォの姿については何も言うことはなかった。歌劇を見たことがないイーヴォに、見どころなどを解説するなど、終始これから過ごす時間についての助言を口にしただけだった。
そうして、そろそろ時間だと知らせが入り、すぐに控え室を辞して席へ向かう。
荷物も預け、席に収まったところで、ようやくイーヴォが口を開いた。
「……あなたは、あのプリマドンナにいったいどんな話をしたんですか?」
怪訝な表情に、ジョルジョは穏やかな笑みで答えた。
「君の姿が、少し変わっているというくらいだよ。彼女が君の姿で動じることがないのは、本人が、君の姿を恐れたりしていないと言うだけだよ」
その答えに、納得したのかそれとも突き止めるのをやめたのか、あっさりとイーヴォは舞台に視線を向け、椅子に深く腰掛けた。
「そもそも、プリマドンナにお会いできるなら、花のひとつでもお渡しした方が良かったのではありませんか?」
「花はもう届けてあるよ。正面玄関に飾ってあるはずだ。今回は、勝手だとは思ったけど、君との連名にして送ったよ」
それに驚いたように目を見開くイーヴォに、ジョルジョは僅かに肩をすくめた。
「彼女に頼まれて、正面玄関用の花を贈ったからね。一番目立つ場所に、飾られているよ。連名にしたのは勝手だとは思ったんだが……駄目だったかな?」
「いや……あなたが、私との連名に否やがないのでしたら……」
「あるわけないだろう。それが駄目だと言うなら、最初から君の家に会いに行ったりしていないよ」
その時、舞台に支配人が現れたのを見て、二人は口をつぐんだ。
支配人による挨拶が終わった時、隣のイーヴォから、ぼそりと一言、告げられた。
「ありがとう……」
それが花の礼なのか、それ以降の話についてなのかは、あえて問うことはしなかった。
劇は、成人の日を迎えて周囲に賞賛されるフィオリーナの場面から始まる。
この劇自体は、どこにでもありそうな物語である。
つねに賞賛され育ったフィオリーナが、自分の彫像を作りたいと思い至り、とある芸術家を見いだした。
若く、美しい芸術家を、フィオリーナはみずからが支援し、自身の彫像を作らせることで、その名を高めさせていく。
フィオリーナは、その芸術家には恋人がいたことを知りながら、金と権力を使って芸術家をみずからの傍に引き留め、結局芸術家はフィオリーナと恋人の関係となってしまう。
芸術家の元恋人は、嫉妬に狂い、魔女の教えを受けてフィオリーナの元に乗り込み、その命をかけてフィオリーナと、その権力の元である一族すべてに呪いをかけた。
魔女はその呪いをかけることによって命を落とし、芸術家はその魔女の死に心変わりを悔いて、みずからの腕を折り、フィオリーナの元を去って行く。
フィオリーナにかけられた呪いによって、彼女には不運がつきまとう。
人は次第に離れ、家の事業は立ちゆかなくなる。家族にも疎まれるようになり、フィオリーナは、神殿に預けられる。
祈りの日々を過ごすフィオリーナを哀れに思った神官が、彼女の呪いを解くための神託を乞い、フィオリーナにかけられた、命がけの呪いを解くには、やはり命をかけてその呪いを解いてくれる存在が必要と言われる。
悩む神官は、諦めの言葉をこぼすフィオリーナを前にして、みずからが呪いに挑むことを決める。
それによって命を落とした神官は、ようやく人の無償の愛を知ったフィオリーナの祈りによってかろうじて息を吹き返し、フィオリーナと手に手をとって喜びの歌と祈りを神に捧げる。
ありがちな物語は、フィオリーナを演じるカメーリアによって命を吹き込まれ、彼女は傲慢な姫君となり、情熱的な愛を語りあう悪女となり、そして恋に恋する乙女となった。
その物語を、ジョルジョの隣にいたイーヴォは、ときおり耳をピクリと動かす以外はなんの動きもなく見つめていた。
その動きが、突如静から動に変化したのは、魔女が芸術家の元恋人に、その呪いを授けた瞬間だった。
――哀れな娘、良いことを教えよう。お前は、あの娘の若さでも美しさでもなく、あの娘が生まれた環境に負けたのだ。娘を憎み復讐したとて、結局その環境は、あの娘からお前の呪いを簡単に取り去るだろう。
少しでも長く、少しでも多く、あの娘を苦しめたいならば、お前はその命すら捧げねばならぬ。それでも憎むか。それでも怨むか。
息を呑み、その身を乗り出さんばかりのイーヴォの視線は、その魔女に釘付けだった。
その水色の眼をいっぱいに広げ、その魔女を演じる役者の一挙手一投足を見逃すまいとしているように、瞬きすら最小限で見つめている。
耳もぴんと立てて、全力で音を聞き漏らすまいとしているようだった。
その目の前で、魔女は自分の弟子となった芸術家の恋人の耳元に口を寄せ、そこで場面は転換した。
舞台には、ふたたび芸術家とフィオリーナが戻ってきた。
芸術家は、ついに完成したフィオリーナの彫像を彼女に捧げ、フィオリーナはその出来に感激も露わに芸術家を抱きしめた。
――あなたの目に映る私はなんと美しい。あなたの手で形作られる私の、なんと麗しい。その愛を捧げられる私は、まるで新たに生まれた女神のよう。
フィオリーナの感激の歌は、劇場に高らかに響き渡る。
その声の影で、ジョルジュの耳は、すぐ傍から発せられた小さな声を聞き逃さなかった。
「……そんな……」
思わずジョルジョがイーヴォに顔を向けた瞬間、大きな破壊音を模した楽隊の音楽が響き渡った。
――呪われよ、フィオリーナ!
怒りと悲しみをその身に纏い、ついに芸術家の元恋人は、フィオリーナに呪いをかけた。
――お前の傲慢な心、強欲なその性格、それを育てたすべてを私は憎む。呪われよ! お前と血を同じくする者達! 呪われよ、フィオリーナ! これから先、この家に生まれた女はすべて、災厄を生むこととなるだろう。我が怒りと悲しみを思い知るがいい!
その言葉を最後に、倒れる元恋人。そしてそれを見ていた芸術家の改心。
ジョルジョは、それらの歌を聞きながら、息をひそめて隣のイーヴォに視線を向け、そして気がついた。
先ほどの魔女の場面では、目を見開いて魔女の様子を見ていたイーヴォは、なぜか今、困惑の表情を浮かべて、魔女の弟子の最後を見つめていた。
思い悩む主の心を表すごとくに、尻尾は忙しなくくねくねと動いている。ぽふぽふと、自分の座る椅子に叩きつけている小さな音がジョルジョの耳に届いているのだ。
そして、芸術家の退場と同時に、幕間となったのだった。
幕間となったあとも、イーヴォは何か腑に落ちないとばかりに沈黙していた。
ジョルジョはしばらく悩んだ上で、覚悟を決めてそんなイーヴォに声をかけた。
「あの、大丈夫、か?」
その言葉に、ようやく顔を上げたイーヴォは、はっと気がついたようにジョルジョに視線を向けた。
「あ……はい、大丈夫です。やはり、催しごとに慣れていないので、つい聞き入って、ぼんやりしていたみたいです」
どうやら、今が幕間であることに気がついていなかったらしい。
飲み物を運んでもらい、二人で飲んでいる間も、イーヴォは沈黙したままだ。日頃もそれほどみずから積極的に会話をする人ではないが、それにしてもである。
「……その……やっぱり、あまり気乗りしないかな。それなら、今日はもう……」
どうしても気が乗らないなら、カメーリアにはあとで詫びることにして、今日はここまでにしようかとまで考えたジョルジョの言葉を遮り、イーヴォが小声で尋ねたのである。
「この劇は……実際にあったことを元にしたものでしょうか?」
その疑問に、ジョルジョはこちらも小さな声で答えた。
「あ、ああ。とある地方で本当にあったことだと言われている」
ジョルジョはそう告げたあと、慌ててそれに付け足した。
「あ、でも、君のその呪いとは違うものだと思う。君の領地とは離れた場所の話だから」
距離で言えば、国内ではあっても、互いの領地はまったく交流のない場所のはずだった。
だが、イーヴォは、しばらく悩んだ末に、その重くなった口を開いたのである。
「おかしなことを聞いてすみませんでした。……私が知っている魔女と、似たようなことを言う魔女が他にもいるのかと、そう思ったんです」
その瞬間、ジョルジョは、自分の長年の疑問について、答えを持つ人物が目の前にいることを理解したのだった。