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二話

 昔話は、森の中に泉の妖精がいる、という話だった。

 ジョルジョが育った場所に伝わる話で、その姿はまるで氷の彫像のように透き通った、綺麗な女性の姿をしているらしい。

 さすがに体が水でできた人以外の生き物と言われても、想像できないのか、トッリアーニ卿は不思議そうに首を傾げていた。


「話では、とても綺麗な女性なんだそうですよ。澄んだ透明な水でできた、裸の女性です」

「……その生き物に羞恥心はないのですか」


 見ていると、いたたまれない気分になりそうだと愚痴るトッリアーニ卿に、ジョルジョは苦笑していた。


「まあ、人外の生き物ですしね。人の羞恥など感じないかも知れません。そもそも、動物達も、服など着ていませんからね。羞恥心というのは、それぞれの文化によって変化するものですし」

「……そもそも、それは実際にいる生き物なのですか?」

「私も、子供の頃にそう考えましてね、実は泉まで見に行きました」


 えっと目を剥いたトッリアーニ卿に、ジョルジョは肩をすくめてあっさり告げた。


「まあ、子供の足でしたので、すごく時間もかかりましたし、途中綺麗な蝶に気をとられて、思いっきり森で迷子になりまして。実際泉には行けたんですけど、そこが本当にその話で語られた泉だったのかは今もわからないんです」

「それで……」

「迷子になって、飲まず食わずの状態で泉を見たら、自分が何をしにそこへ行こうと思ったのかも忘れてしまいましてね。夢中で泉の水を飲んで、泉の近くに生えていた木の実をかじってひと息ついたら納得して帰ってしまったので、その生き物には会うことができませんでした」


 ぽかんと口を開けたトッリアーニ卿は、しばらく硬直した後に、ぼそりとつぶやいた。


「……飲んだ、のか? 透明な生き物がいるかもしれない、泉の水……」


 唖然としたまま、おそらくは素の口調が出てしまったのだろう。それを聞いて、ジョルジョはにやりと笑う。


「飲んじゃいました。忘れてたので。でもまあ、お腹を壊したわけでもなく、今もって、神罰も天罰もないし、かといって祝福があるわけでもないようなので、まあ大丈夫じゃないですかね」


 そのあまりの言いように、ついに耐えられなくなったらしいトッリアーニ卿は、思わずと言った風に吹き出した。平然としたジョルジョの表情を見て、耐えきれなくなったらしい。

 それを見たジョルジョは、してやったりとばかりに胸を張った。


「でもまあ、なかなかうまい水でしたよ!」

「言うに事欠いて、それか……っくっふふっ……」


 必死で抑えようと思えば思うほど、笑いがこみ上げてとめられないようだった。

 ブルブル震え、顔を隠して必死で笑みをこらえようとするトッリアーニ卿に、あっさりとジョルジョは言い放った。


「……笑うなら、思いきり笑った方がすっきりしますよ?」


 そう言うジョルジョは顔を見せた当初から変わらぬ表情で、にっこり微笑んでいた。



 猫の人、イーヴォ・トッリアーニは、親しくなってみれば普通の青年だった。


 思いきり笑わせたのが功を奏したのか、すぐに互いの名を呼ぶ位に親しくなることができた。

 そうなれば、ぽつぽつとだが、彼は自身の話も口にするようになった。

 あれから数回、トッリアーニの屋敷をたずねて共に過ごしたが、大人しく、遊びも知らず、外も知らず、今までどうやって育ったのかと聞けば、ずっと家にいて、部屋でぼんやりと過ごしていたと涙を誘う回答がなされた。

 もちろん、当主となるための教育は施されていたはずだ。彼は間違いなく、紳士であり、貴族の当主としての務めもしっかりと果たしているのだ。

 ただ、その教育は、すべて使用人達が行ったもので、生まれてこの方、親族と使用人以外の人には指折り数えられる程度しか会ったことがないらしい。

 そのうえ、親族と言うのも、もとより兄弟はなく、両親は幼い時に会ったきりだと言う。


「……正直なことを言えば、親も遠い親戚のような感覚です。祖父母も、両親も亡くなりましたし、兄弟などはありませんので、当家は私を最後の当主として途絶えることになると思います」

「そう言う場合は、遠縁から養子をとるものだと思っていましたけど、遠縁もないんですか?」

「ええ。祖父の時代に縁を切られたそうなんです。今回当主になる時に、跡取りについて国に届けるために調べたのですけど、その縁を切った家もことごとく途絶えたそうで。かろうじて父の家系はあるのですが、そちらもすでに跡取りがなく……」

「ああ……」

「使用人達は、私の呪いが解けさえすればと言いますが、私はもう、このままでかまわないと思っています」

「……なぜ?」

「私は、生まれた時からこの姿なんです。今さら、人としての姿など、思い描くことすらできません。私にとっては、人の姿こそが、異形の姿なんです。……どうして自分がと思う気持ちはもちろんありますが、だからといって、人の姿になれば、今までのことがすべてなかったことになるでしょうか」


 そう語る表情は穏やかだが、穏やかだからこそ、イーヴォが呪いに関して、抗うことをやめたことを物語っていた。


「私の呪いを解くのに熱心だったのは、祖父でした。その祖父が亡くなってからは、引き続き細々と祖母が、その祖母も亡くなれば、子供だった私は、ただ息をひそめているしかできませんでした。母とはうっかり顔を合わせようものなら、化け物と叫ばれてものを投げられましたし、父は私が知る限り、一度も領地に足を踏み入れることがありませんでしたので、どこにいるかすら知りませんでした。だから顔も、肖像画でしか知りません。この状態で、肉親のことは、とても身近には思えませんでした」


 ジョルジョは、気付けば言葉を失っていた。

 何かを言わなければと思う心はあっても、今語りかけるべき言葉を、ジョルジョは持っていなかった。


「もう、私の家族と言るのは、使用人達だけです。だから、彼らが望むなら爵位も継承しますし、もういいと言うなら、その時が貴族をやめる時なのだと思っています」


 こんなことを、笑顔で言うものではない。

 そう、軽口でも言たなら。だが、ジョルジョは、その言葉すら口には出せなかったのである。




 がらんとした歌劇場の、前から5列目、中央。

 その場所で、ジョルジョは、自在に感情を込める、豊かな響きを持つ声でアリアを歌い上げる友人の姿を見ていた。

 今日は、明後日に迎える歌劇の初日を前にした、最後の仕上げで行う通し稽古を見学に来たのである。

 友人は今回、とある貴族の女性を演じることになっており、今は山場の場面で、舞台にひとり立って、その女性の心の内を歌い上げている。

 彼女が立っている舞台は、ジョルジョが長年、昔話を調べつつ、書き綴っていた話を舞台用に書き直した物語だ。


 題目は、「フィオリーナの告白」


 くしくも、とある魔女の怒りを買い、呪いを受けた女性の物語である。

 ジョルジョにとってこれは、誰かに聞いて欲しかった、見て欲しかった、そして、誰かひとりでも、この魔女について知るものがいないのか、知りたかった。その物語の集大成だ。

 いつもなら、彼女の魂を込めて歌い上げるアリアに、何かしらの思いが湧き出すところだろうに、ジョルジョの心の中には、いつまでも穏やかな笑顔のまま、悲しい言葉を綴る白黒ぶちの猫の顔があった。


 もう、あのぶち柄は、ジョルジョの中では過去の思い出の中にある、ずっと傍にいた猫のものではなく、人の体を持った、寂しい話ばかりをするイーヴォ・トッリアーニという青年のものだ。


 ここで溜め息をつくわけにはいかない。友人が出演する歌劇を見て、溜め息をつくような失礼なまねをするつもりもない。

 だが、心が晴れないまま、劇を見ていたところで、喜びの感情は浮かび上がらない。

 一通りの稽古が終わり、舞台の上から友人がそのよく通る声で席に座ったままだったジョルジョの名を呼んだ。


「どうだったかしら?」


 にっこり笑う友人の表情を見た瞬間、ジョルジョははっと気がついたように顔を上げた。


「ああ、とても美しいアリアだったよ。喉は万全のようだね」


 友人は、にっこり微笑んだまま、つかつかと舞台から降りると、そのままジョルジョのすぐ傍まで歩み寄り、何を思ったのかジョルジョの襟首をむんずと掴むと、ぐいと引っ張った。


「みんな~。今日は解散で良いかしら。私、ちょっとデートしてくるわね」


 チュッと投げキッスを舞台に飛ばし、出演者の冷やかし声を背景に、ジョルジョは引き摺られるように舞台傍にある彼女の控え室へと連れ込まれた。


「……カメーリア」


 舞台衣装のまま、力強くジョルジョを引き摺ってきた女優のカメーリアは、控え室に戻ってようやくジョルジョの襟首から手を離すと、そこにあった自分専用の椅子にどかりと腰を落とした。

「あんな心ここにあらずで見ていられても、参考にならないわ」


 ふうと溜め息をつくカメーリアは、いまだに突っ立ったままだったジョルジョに、ぴっと椅子を指し示した。


「良いからちょっと、座りなさい」

「ハイ……」


 逆らうこともなく素直に座ったジョルジョに、その黒曜石のようなきつい眼差しを向けたカメーリアは、少しだけ周囲を伺うように視線を向けた後に、いつもとは全く違う、小さな声で問いかけた。


「……この舞台、あなたがはじめて書いた台本の初演なのよ? あなた以外、できばえに優劣をつけられる人は、今の段階ではいないのよ。それなのに、何ぼーっとしているのよ」


「……ゴメン」

「なんのために今日、時間をかけてまるまる通しでやったと思っているのよ……」


 すねたように唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向く姿は、今までの女王然とした様子からは窺えないほどに、二十という年相応に見える。

 これを演じて欲しいと本人に訴えたことから、友人として付き合うようになった彼女に対して、自分の今日の態度を反省したジョルジョは、素直に頭を下げた。


「本当に、ごめん」

「……ねえ、あなた、いったい何を悩んでいたの? 普段、なにもかもを受け流してきたあなたが、珍しい」

「……そう、だな。受け流すには、ちょっと辛いのかな」


 そう告げたジョルジョの様子を見て、カメーリアは立ち上がり、ジョルジョの目の前に跪いた。


「衣装が汚れるよ? プリマドンナ」

「これは練習用だもの。汚れてもいいの。……あなた、本当にどうしたの? あなたと知り合ってもう二年になるけど、あなたから辛いという言葉が出たのは、はじめてよ」


 ジョルジョの手が、嫋やかなカメーリアの手でそっとすくい取られ、ぎゅっと握られた。


「……ジョルジャ」

「そんな名前の人はここにいないだろう?」

「いるわ、目の前に。……私は役者よ。目の前にいる相手の性別を見分けられないはずがないでしょうに」


 ジョルジョは、その瞬間、今まで消えたことのない笑顔を消した。


「……カメーリア。その話は……」

「他に言うつもりも、脅迫するつもりもないわよ。はじめからわかっていて、ずっと黙っていたのだもの。今さらでしょう」


 ジョルジョが顔をしかめたのを見て、カメーリアは微笑んだ。


「あなた、私にこの台本の草案を見せた時、これが最後の機会なんだと言ったわね。……悩んでいるのは、その最後についてなの?」


 ジョルジョは、一瞬躊躇った後、首を振った。


「……友人ができたんだ。ずっと昔の、たったひとりの親友と、うり二つでね」


 突然の話にも、カメーリアは表情を変えることなく耳を傾けていた。それに勇気づけられるように、ジョルジョは重い口を開いた。


「幸せに、なって欲しいんだ」

「……その、昔のお友達の替わりに?」

「いや。……似ているのは、出会うきっかけにすぎないよ。ただ……彼が、静かに諦めているのが、辛いんだ」


 そしてジョルジョは、カメーリアに、友人の話をした。

 猫の耳、猫の尻尾、全身にぶち柄の毛皮。生まれた時から呪いを受けて、ずっと呪いと共にあった人生を送ってきた友人について。

 カメーリアは、それを聞いて、しばし思い悩むように目を閉じた。


「……呪い、ねぇ……もしかして、この話って、その人の話なの?」


 傍にあった台本を手に取ったカメーリアが首を傾げた。


「いや……。それはない。そんなはずはないとわかっているんだけど……人ごとに思えなかったんだ。だから、話しかけてみた。本人は、とても紳士で公平で、穏やかな人だ。貴族としての務めも理解している。そのためならば、呪われた姿で人前に出ることも厭わなかった勇気の人だ。……だけどあの人は、呪いに関しては、産まれた時から傍にあったのだからと諦めきっている」


 パラパラと台本をめくるカメーリアは、とある場面のページに目をとめ、それをジョルジョに指し示した。


「……この演目のフィオリーナは、呪われても猫の姿になんてなってないのよね?」

「そうだね。だから、全く別の呪いなんじゃないかと思う。それに、あの人は、直接魔女に呪われたわけではないそうだから。……話では、呪われたのは母方の祖父に当たる人物だったそうだからね。その人が、猫の姿だったという記録はないよ」


 しばらく、その台本をしげしげと眺めたカメーリアは、ふうと溜め息と共に立ち上がり、化粧台から封書を取り出した。


「……もともと、今日渡すつもりで用意していたのだけど……ちょっと待ってなさい」


 すぐさま身を翻し、部屋を出て行ったカメーリアは、ふたたび姿を現した時、その手に二通の封書を手にしていた。

 その封書を差し出し、彼女は強い眼差しで今も思い悩むジョルジョにきっぱりと言い切った。


「持って行きなさい。この劇場で、一番人目につかない貴賓席、二人分よ。……それで是非、あなたのお友達から、演技の感想を聞きたいわ」

「カメーリア……だが……」

「この話の呪いが、あなたのお友達のものとは別だと言うなら、なんの問題もないわ。……この劇の主人公であるフィオリーナと同じように、魔女から何らかの呪いを受けているあなたのお友達は、これを見て、呪われているのが自分だけではないと勇気づけられるかもしれない。もちろん、反対のことを思うかもしれないけれど」


 無理矢理持たされた封書を困惑して見つめるジョルジョをじっと見つめながら、カメーリアは小さな声で問いかけた。


「私は、あなたからあの物語を預かった時、内容に関して聞くことはあっても、あなたを詮索することはしないでおこうと決めていたの。あなたの性別や生活に関してもよ。それでも、ひとつだけ、ずっと聞きたいことはあったの。答えようと答えまいと、かまいはしないけれど、心残りにしたくないから一応聞いておくわね。……秘密主義のジョルジョ。人については誰よりも知っているのに、誰にもあなた自身は知らせない、ジョルジョ。あなたがフィオリーナなの?」

「……違うよ。少なくとも、私はその呪いの魔女の姿は見たことがない」


 カメーリアの問いかけに、ジョルジュは無理矢理笑みを作り、首を振る。

 その魔女を、見たことがあるのなら、こんな物語など、書く必要すらなかった。見たことがないからこそ、ジョルジョはこの魔女について、調べているのだから。

 カメーリアは、それ以上問いかけることもなく、必ず見に来てねと告げて、ジョルジョを送り出したのだった。


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