十六話 めでたしめでたしの先へ行く方法5
それは確かに、うさぎだった。
毛繕いでもしているのか、前脚で何度も耳をなでつけては口元でその手をもぐもぐと動かし、そしてまた顔を撫でる。ひとしきりそれが終われば、道の日当たりがいい場所へ移動して、そこで丸くなってうとうとしている。
姿自体は、確かにうさぎなのだ。まだ若い雌らしく、胸元の膨らみは少し小さめだが、毛皮が光を受けてまるで金のように輝いていることから、その落ち着きと相まって、王者のような風格すらある。
その大きさは、遠目から見ても、あきらかに猫以上はありそうだった。手をかくし、耳を伏せた丸い姿勢でいるので、本来よりも小さく見えている可能性すらある。起きて走っていたら、普通に犬の大きさかも知れない。
狩人の案内でここまで来ていた執事のカルロは、それをそっと木陰から顔を出して目にするなり、ぽかんと口を開けていた。
「……大きいな」
小さな声で呆然とカルロがつぶやけば、狩人はそうだろうとうなずきながら、こちらも小声でつぶやいた。
「でしょう? あれだけ大物はそういるもんじゃないんで、これが領主様が触れで出してたやつかなと。あいつ、なぜか毎日あそこにいるらしくて、昨日も仲間があそこで見かけたそうです」
背後で控えている若い狩人は、こんな大物なら、今まで存在にすら気がついていなかったのはおかしいと、領主に知らせることにしたらしい。
確かに、それもうなずける存在感である。
なんと言っても、誰も見たことがないほどの大うさぎである。日々、獲物を探して森を歩き回っている狩人が、こんな大きな獲物を見逃していたとは思えない。
ましてや、道の真ん中に堂々といるような、警戒心をまったく見せない存在である。むしろいたのに見落としていたなら、狩人が自信喪失して弓を置くことだろう。
「あいつ、いつもあそこにいましてね。人がきても、近寄るまでは逃げません。一度犬に追い立てられていたことがあるんですが、木の洞の前で、犬の鼻っ面を殴って、ひるんだところをさらに下から蹴り上げて木の洞の中に逃げていったって聞きました。あんな大きくて凶暴なうさぎは、はじめて見ましたよ」
「……ジョルジョ様……うさぎだと言うことが信じられないほど、たくましいですね……」
カルロが、思わずと言ったふうにつぶやいた。
「捕まえるなら、逆方向から森に入り、追い込みますが」
罠の用意もあると手に縄を持った狩人が、二人のさらに背後にいて、呆然としていたイーヴォに伝えると、はっと何かに気付いたように口を閉じ、首を振った。
「……大丈夫だ。毎日、あそこにいるんだろう? おそらくまだ……わずかなりと、意識があるんだ」
苦笑して、イーヴォはそれからそっと茂みから道へと移動した。
わざわざ、森の中でも人通りの多そうな道の目立つ場所に、本来なら臆病な動物であるうさぎがいること自体がおかしい。
道の真ん中の大うさぎは、まだ大人しく目を閉じ、太陽の恩恵を全身に浴びてきらきらと毛皮を輝かせている。毛色は薄茶で、やはりジョルジョと同じ色なのだと、その姿を見て納得した。
一歩近付けば、何かに気付いたようにぱっと目覚め、こちらを向いた。そのつぶらな瑪瑙色の目が、イーヴォの姿をとらえている。
ほんの数日見なかっただけなのに、懐かしいと感じる色合いに確信を得て、イーヴォはゆっくりとうさぎへと歩み寄った。
「……お待たせ、ジョルジョ」
地に膝をつき、視線をできるだけ低くして、そう声をかけた。
うさぎは、ときおり鼻をヒクヒクと動かしながら、イーヴォを見上げていた。
「大丈夫。すべて用意は調ってる。だから、一緒に帰ろう」
驚かせないようにと、ただそれだけを気にしながら、ゆっくりと手を差し出せば、うさぎはその大きな体を起き上がらせて、小さく跳ねながらイーヴォに近付いた。
差し出した手に鼻先をつけて、しばらく確かめるように匂いを嗅ぎ、何かを納得したように、その手に頭を擦りつけた。
「いろいろ言いたいことはあるけど……今は、見つけられたことだけでいいか。おかえり、ジョルジョ」
大きなうさぎの体を持ち上げ、腕にしっかりと抱き留めれば、抵抗もすることなく収まり、されるがままだった。腕だけで抱いているのは大きさが大きさだけに無理なので、体にもたれかかるように抱き直せば、嬉しそうにしがみついてくる。
人である時よりもずっと甘えてくるその姿に、イーヴォの今まで不安で揺れていた眼差しも、自然と穏やかなものとなった。
「ずるいな、ジョルジョ。こんなかわいい姿をしていたら、叱るに叱れないじゃないか……」
そう言って、うさぎとしては大きなその体を、ぎゅっと抱きしめた。
一応、案内してくれた狩人には、礼などはあとで禁猟の撤回の触れと共に渡すことを約束し、屋敷へ帰るために馬車に乗り込む。
ふかふかしていて暖かい、大きなうさぎを抱きしめながら、イーヴォは魔女が届けてくれた手紙を広げた。
うさぎも、カサカサとなる音が気になるのか、顔を上げてヒクヒクと鼻を動かしている。
「……これは、魔女からの手紙だよ。まず、君を探せと言われて、あの家は追い出されたんだ。そのあとで、カラスが届けに来たんだよ。……カラスがあの魔女の声そのままに話しているのを聞いて、すごく驚いたんだ。魔女というのは、不思議な存在なんだな」
折りたたまれていた手紙の中に、さらに小さく折りたたまれた紙がある。
手紙に書かれていた内容に従い、イーヴォはそれを手に取った。
「……あの時、私は君に何をされるのか、さっぱりわからないままだった。強引な礼は、しっかり受け取ったよ。だから私のこれも、受け入れてくれるよね?」
そう言うと、イーヴォはそれを口に入れ、うさぎの体を抱き上げると、小さな声で告げた。
「……もう、幸せになれと言い置いて姿を消すのは、なしにしてくれ。君さえ隣にいれば、どんな瞬間も私は幸せなんだから。君が傍から消えること以上の不幸など、今の私にはないんだ」
そして、イーヴォは、腕の中の大うさぎに、真剣な表情で口づけた。
あの日、ジョルジョが体験したことがどれだけのことだったのか、どれほど不快な体験を伴うことだったのか、それがわかる。
何かわからないものに、ぞわぞわと体中を探られることも、口に殺到する何かも、通常ならば到底受け入れることはできないだろう。
これがジョルジョ相手のことでなければ、耐えられずに、うっかり腕の中にいる小さな体を投げ捨てそうだ。
――そして、改めて、かつてこれに挑んだ乳母の姿を思い出す。
耐えられなかったことを怨んだりはしなかった。ただ、申し訳ないと思うばかりだった。自分のために、命までかけてくれた乳母に、今はただただ感謝した。
その父である侍従にも、そして、祖母にも。
最後まで諦めなかった祖母のおかげで、ジョルジョにまで魔女の話が伝わったのだ。
諦め、引きこもって過ごした孫を、最後まで見捨てずにいてくれた祖母には、まだ人の姿を報告していなかったなと思い出す。
そうして、口の中で最後の瞬間まで暴れていた呪いは、口の中で小さなかたまりとなり、長い長いイーヴォとジョルジョの呪いに苛まれていた日々は終わりを迎えた。
そうなってようやく口づけをやめ、離れてみたが、今はまだ、腕の中の体はうさぎのままだ。
イーヴォが人の姿になったのは、その日の夜のことだったと聞いている。ならば、おそらく半日ほどは変化にかかるのだろうと判断し、先に口の中にある呪いの変化したかたまりを、懐に入れていた手拭いの中に吐き出した。
水晶は、ジョルジョの目の色よりも濃い赤い色をしていた。
魔女の手紙には、終わったら自分の元に持ってくるようにとかかれていたので、あとで届けるために、大切にそれを包んで懐に入れた。
そして、ふと顔を上げれば、目の前に人の頭が見えた。
今、ほんの一瞬、目の前が歪んでいた気がしたのだが、その次の瞬間、腕の中のうさぎは、あきらかに質量を増して、人の姿に変わっていた。
綺麗な薄茶色の長い髪が、豊かな流れを体の表面に作っている。
目を閉じ、眠っているようにも見えるその容貌はあきらかにジョルジョなのだが、目を閉じていると幾分幼く見えるためなのか、女性にしか見えなかった。
イーヴォの目には、その姿が余すところなく飛び込んでいる。すぐ目の前にいるので、視線を外しようもないのだが、その綺麗な丸いふたつの膨らみと、それに続くなだらかなくびれを見た瞬間、イーヴォはそれこそ乙女のような悲鳴を上げ、目の前の体を抱きしめた。
……この狭い馬車の中では、そうでもしなければ、それこそすべて視界に収まってしまう。
なだらかなくびれの下なんか見えなかった絶対見えなかったとブツブツつぶやきながら、真っ赤になっているイーヴォの耳に、馬車の外から慌てたようなカルロの声が届いた。
「旦那様! 何ごとですか!?」
扉がガタンと音を立て、開いた瞬間、イーヴォは叫んだ。
「開けるな!」
すでに手遅れだが、思わず口をついて出たのはこれだった。
すでに扉を開け、中を見ていたカルロは、目を点にして、そして自分の手元を見た。
「……申しわけ、ございません。その……ごゆっくり?」
じわりと扉を閉められて、ふたたび二人きりの空間になったところで、腕の中にあったからだが、微かに震えているのに気がついた。
それに伴い、耳元に小さな、笑いをかみ殺すような声も聞こえる。
「……寝たふりか? ジョルジョ」
「……いや、悲鳴で目が覚めたんだ。さすがに、耳元であれはないだろう」
体を離そうとするジョルジョに、イーヴォは慌ててさらにきつくその体を抱きしめた。
「待て、離れるな! 頼む!」
その表情は見えないが、若干驚いたようにジョルジョは目を見開いた。
「……ずいぶんと、なんと言うか……?」
「君、今、裸なんだ!!」
そう言われたジョルジョは、抱きしめられているまま、自分の体に触れて確かめたらしい。
そうしてつぶやいた言葉は。
「……おお……まあ、獣は服を着ないしな」
「それだけですか!?」
「え……いや、抱きしめられているから、自分でもどうなっているか、見られないし」
「裸です」
「わかってるから。と言うか、いつまでこうやっていればいいんだ?」
ジョルジョの疑問に、イーヴォはわずかに考えた末に答えた。
「……目を閉じるので、離れてください。離れたら、私が着ている外套を渡すので、それを着ていてください。……すみません、裸だとは、想定しておらず……」
そこまでの考えが及ばず、ジョルジョの衣服はまったくこの馬車に積んでいない。
ジョルジョが離れたのを感じて、外套を脱いで渡せば、ジョルジョの「へえ……」とか「ほぉ~?」などという感嘆らしき声が聞こえてくる。
もういいぞと言われてようやく目を開いてみれば、きっちりと外套を体に巻き付けたジョルジョが目の前に座っていた。
男物の外套を身に纏い、このほんの数日の間に大いに伸びた茶色の髪を、なんとか纏めようとしているらしいジョルジョの姿は、どこをどう見ても、女性以外に見えなかった。どんな仕草をしていても、どんな表情をしていても、不思議なほどに、以前感じていた男性らしさはないのである。
「……女性にしか見えないな。一年二年変化していたわけじゃないのに、まるで違って見える」
イーヴォがつぶやけば、ジョルジョはあっさり笑顔で肩をすくめた。
「もう、男になってる必要がないから、呪いがついでに男らしさを持っていったんじゃないか?」
その仕草はいつもと変わらなくて、そこにだけ、名残があるようにも見える。
イーヴォは、それを見て、泣きそうになりながら、それでも笑顔でジョルジョに告げた。
「……それなら、もう、名前も変えていいかな? ……アガタ、おかえり」
アガタと呼ばれ、しばらく驚いたように目を見開いた彼女は、満面の笑みを浮かべてそれに答えた。
「ただいま、イーヴォ。……助けてくれてありがとう。そして、心細い思いをさせて、すまなかった」
後日、二人揃って魔女の元へ向かい、アガタの中にあった呪いからできた例の水晶を魔女に渡した。
魔女は、それを受け取り、イーヴォは、改めて森を魔女のものとすることを誓った。
「トッリアーニの家が続く限り、この森には手を出しません。名を知らぬ偉大なる魔女の領域として、周囲に知らしめ、こちらへの不可侵を代々伝えていきます」
「そうかいそうかい。まあ、そうしてくれるなら、たまにはここに茶を飲みに来てもかまいやしないよ!」
機嫌良くそう述べた魔女に、その前に並んだ二人は揃って、今度は普通の茶でお願いしますと頭を下げた。
家を辞去したあと、そう言えばとイーヴォは隣に立つ、今日は女性の衣装を身につけたアガタに、首を傾げながら尋ねた。
「そう言えば、どうしてあの方は「名を知らぬ偉大なる魔女」と呼ばれるのですか?」
「自分も呼んでいるのに、それを聞くのか……。緑の魔女ミロスラヴァが言うには、本人が、名前を名乗ったことがないので、存在を知っている魔女達はみんな、そう呼ぶんだそうだ。逆に言えば、それが、あの方の呼び名と言うことだな」
「……名前にも、いろいろあるものですね」
まだ、かかとの高い靴を履き慣れないアガタの手を取りながら、イーヴォは森の中の道を進む。
ドレスも靴も、今までのアガタの生涯で、一度も登場したことがないと言いきる品だ。まず、これを着て、普通の女性として過ごすことから、アガタは訓練しなければいけないと侍女から言われてしまった。
しかし、これもまた、イーヴォの人の顔と同じだ。
人生は、まだ半分以上ある。いつかは、新しい姿の方が当たり前だと、笑って言える日が来るのだと、今は二人ともそう考えられるのだ。
「……あ、そうだ。すまないが、またあの森へ立ち寄ってくれないか?」
「もう、タイピンは諦めた方がいいのではありませんか? 新しいものなら、もう手配しましたから」
イーヴォの言葉に、若干眉根を寄せて首を振ったアガタは、触れていた手をぎゅっと握り、さっさと自分でその手を引いて歩き始めた。
「イーヴォからの、はじめての贈り物なんだ。まったく、うさぎの私も気が利かない。一度巣に取りに行けばよかったものを」
「そうなったら、逃げられたのかと私が慌てるところでした。素直に来てくださった方がありがたかったので、そう、うさぎの姿を責めないであげてください」
どうやら、あの呪いを受けた時、ちゃんと服も一緒に飛ばされていたらしい。それをアガタは、木の洞に引っ張り込み、寝床にしていたのだ。
「絶対に、タイピンも寝床にあるはずなんだ。……人の姿だと、視線の高さが違うからか、巣穴にも帰れない」
「だからって、また、探すためだからと、その姿で道に寝転がるのはやめてくださいね。ドレスですからね?」
仲良く手を繋ぎながら森を進む二人は、普通の男女だった。
呪いなど、遠い世界の物語のように縁がなさそうな仲のよい二人の姿を、木漏れ日が照らし出していた。