十話 イーヴォ・トッリアーニ3
ジョルジョの兄、オズヴァルドは、あの僅かな時間の対話で、イーヴォの知りたかったすべてのことを教えてくれていた。
あの会話で、ジョルジョが無事で、会話もできる状況であり、そして、父親によって行動が制限されていることを示唆してくれたのだ。
つまり、正面から会いに行こうが、伯爵に面会しようが、ジョルジョには会えない。
王都にいる間に会う機会があるとすれば、それこそオズヴァルドが教えてくれた、領地への移動の最中だけ、と言うことになる。
馬車でゆっくり、ということから、その移動の道筋も大体特定できる。
王都からダマート所領に向かう様々な道程の中で、馬車が走れるのは、一番整備されている街道である。それなら王都から出るためには、その街道に繋がる門を通ることになる。どんな道を通ろうが、これだけは揺るがないと言うことだ。
問題は、いつ出発かだが、これもほぼ正解がわかる。
馬車でゆっくり。つまり途中で宿泊をする。しかも、急ぐわけではないので、余裕を持った旅程を組んでいる。急ぎではないなら、宿泊施設も厳選される。
貴族の青年が宿泊できるだけの施設を備える街と限定し、そこにたどり着くまでの時間を逆算すれば、いつごろ街を出ることになるのかもわかるだろう。
日付だけはごまかしようもなく、指で書くことで知らせたところを見るに、内容的にはすべて考えられていて、こちらに伝えたということだ。
「……とても、親切な方だな。そして、とても優秀だ」
家に帰り、執事のカルロとの会話でこれらのことを察し、イーヴォは呆然とした。
「ダマート家は、代々とても優秀な方が多く、今の継嗣も、すでに王家の信頼を得ていらっしゃるそうですから」
それだけの人物なら、当然ながら結婚相手には事欠かないだろうに、いまだに独身というのは、やはり本人の表情云々の話ではないだろう。
「旦那様。王都からダマート所領への移動には、普通に駅馬車を利用して途中に二泊する予定になっています。ですが、この予定では、一泊目は馬車泊となります。余裕を持ち、と言うならば、手前にあるデルンという町で一泊、そしてその翌日は、避暑地のリーデンで一泊、そして三日目に所領手前の宿場で一泊、だと思われます。途中の避暑地は、多くの貴族が別荘を構えていらっしゃるので、ダマート家もお持ちかも知れませんし、たとえそうでなくとも、知り合いの誰かは必ずお持ちだと思います」
「旅をするのだものな。避暑地にも立ち寄って一泊なら、確かに旅をすると言えるかもしれない」
「ならば、間違いはないでしょう。初日にデルンへと向かうなら、街道警備が行われている昼の少し前から、夕刻の、祈りの鐘の時までに移動を完了させるとして……昼少し過ぎに出発でしょうね。それなら警備が出発したあと、護衛が少なくとも安全に旅ができますし」
そこまでを理解し、改めて不思議にも思った。
「……なぜここまで教えてくださったんだろうな」
それを不思議に思いもするが、今はこの情報に乗っておくしかない。
とにかくジョルジョに会うことはできるのだから。
「……オズヴァルド殿が示された日付は、明後日……。カルロ、一応使用人をひとり、ダマート家の近くで待機させて、様子を見ていてもらえるか」
「かしこまりました」
「あと、小型の馬車を一台頼む。……ことによっては、車体が傷つく展開もあるかもしれないから、家紋のついている馬車は避けてほしい」
それを聞いた瞬間、カルロはぴたりと動きを止めた。
「……旦那様。強引な手段で馬車を止めることだけは……ダマート家と本格的な諍いとなります」
「大丈夫だ。わざとぶつかるようなことはしない。……ただ、偶然はあるかもしれないから」
「それもできるだけ避けていただきたく……」
「交渉次第……いや、あちら次第だから。声をかけてすぐに止まってくれたなら、それでいいんだが……」
思案顔になるイーヴォの前で何を想像したのか、カルロは顔色を悪くしながらも、何か覚悟を決めたように宣言をした。
「私もお供いたします。ええ、旦那様をおひとりで行かせるわけにはまいりませんからね」
一歩も引きそうにない、カルロの悲壮な覚悟を見て、イーヴォもそれを了承するしかなかった。
外壁に備えられたもっとも大きな門は、この国の主要街道である麦の道からの出入りを管理するものである。
外壁の外には、街道に沿って宿場が広がり、街に入るための許可を待つ人々を目当てにした商売人達が店を広げている。
この門は、国内の貴族の場合、専用の入り口があり、何らかの手段で家紋を見せれば、すぐに通してもらえることになっている。
イーヴォがはじめてこの街に来た時は、馬車の外など見る余裕はとてもなかった。
はじめて領地の屋敷から出ることへの恐怖、人の目に自分の姿がさらされる恐怖、そしてはじめて長時間乗る馬車の振動によって気分が悪くなり、それでも宿に泊まることもできずに先を急ぐしかなかった旅程など、様々な要因によって、最悪の旅路という印象しか残っていない。
改めて見る人々の営みは、イーヴォにとって不思議なものばかりだった。
イーヴォがこの姿になってから、何もかもが色鮮やかに変化したように感じていた。
空は青く、街の多くの家を形作るレンガは、ひとつとして同じ色合いのものはない。
林檎は赤く熟れ、木々の葉は、日の光を受けて色濃く繁る。
人の髪の毛は光を受けると色合いを変え、夕刻になれば、日の光は赤く染まり、夜に向かう。
ジョルジョを探している間は、そちらにばかり気をとられていたからか、それにも気がついていなかった。
あの、ジョルジョと最後に会った日。夢うつつに、ジョルジョの声が聞こえていた。毛が抜けるだけではなく、体を作り替える。そう聞こえたが、今さらそれを強く実感しているイーヴォがいる。
あきらかに、目が違うのだ。
昼、外は眩しく、夜は明かりがないと、暗闇の奥は何も見えない。
イーヴォはそんな、人にとっては意識することすらない事実も知らなかった。
言葉で聞いて、知った気になっていた色を、改めて学び直している気分だった。
それを自分に与えてくれた人は、今もまだ姿を隠したままだ。
結局そこに思考は到達し、項垂れたイーヴォに、外にいたカルロが予定していた場所に到着したことを知らせてくれた。
今は、まだ警備が出発していない時間である。
道の途中で、何かあった時のために設けられた馬車止めに泊まり、ただひたすら待つ。
イーヴォがそこに腰を据えてすぐに、馬に乗った警備隊が姿を現した。
「何かお困りごとがおありですか?」
街からすぐの馬車止めにいたイーヴォ達に、警備隊のひとりが近づき声をかける。これは警備上、当然のことなので、代表してカルロがその問いに答えた。
「いえ、こちらで旦那様のご友人をお待ちしているだけです。理由があり、こちらが先に出発しましたので、合流しようかと思いまして」
ちゃんと家紋のついた馬車なら、何も見せる必要はないが、今の馬車は家紋のないものだ。だからイーヴォは自分の手を差し出した。
その指につけられた指輪と、カルロが差し出した懐中時計の家紋を確認した警備隊は、何かあれば詰め所においでくださいと言い置いて立ち去った。
そしてそれから半時もしないうちに、街道に一台の馬車が姿を現した。
「旦那様!」
カルロの鋭い声を聞き、その馬車を確認する。
ダマート家の家紋が入った、おそらく長旅用の馬車だった。
それに駆け寄ろうとしたイーヴォを制止して、カルロと御者がその馬車を止めるために道に立った。
身振りでダマート家の馬車を止めたカルロがなにやらあちらの御者と話をしている間、イーヴォはその馬車の車体を見ていた。
ごく普通の、貴族が使う馬車の様式である。
大きな荷物を上に載せているその馬車は、足回りが頑丈に作られ、長く乗っていても負担が少ない作りになっている。
ふと、気になってその馬車の窓に視線を向けた。
そこには、外が見られるように窓があり、そこにはカーテンが掛けられている。
イーヴォが見ているその前で、そのカーテンに指が掛かった。おそらくは、突然動きを止めた馬車に不審を覚えたのだろう。そこから、ほんの僅かに顔を覗かせたその人の姿を目に留めて、イーヴォは反射的にかけだした。
中にいた人物は、驚いたようにすぐさまカーテンを閉めたが、それにかまうことなく、さらに御者の慌てたような声もなおざりに、その馬車の扉に手をかけ、一気に開け放った。
しばらくその場は、沈黙に支配された。
御者も、カルロも、イーヴォも動けなかった。馬車の中にいた人物も、驚いたように体を引きながらも、イーヴォの姿を認めて、はあと溜め息をついた。
「……あー……これは私、かっこ悪いな」
はは、と笑いながら、そんなふざけたことを言った友人は、イーヴォに視線を向けて、気まずそうに両手を上げた。
「やあ、久しぶり。素敵な髭はなくなったけど、澄んだ水色の瞳は変わらないね、イーヴォ」
ジョルジョだった。
間違いなく、ジョルジョだ。
ふざけた言葉回しまでそのままな、ジョルジョだ。
――そう思った瞬間、まったく動くことがないまま、イーヴォの目から湧き上がった涙が、まるで滝のように流れ落ちた。
「え、うわ!?」
瞬きもせず、凝視したまま、ただ涙を流しはじめたイーヴォに、慌てたように手をあちらこちらにさまよわせたジョルジョは、結局自分が身につけていたアスコットタイを外して、イーヴォの目元を急いで拭った。
「そんなに泣いたら、その綺麗な水色も、真っ赤に染まってしまうよ、イーヴォ」
「……いき、てた……」
「生きてるよ。あの日だって普通に家に帰ったし、生きて元気に今馬車に乗ってるよ。足も手も取れてない、正真正銘元気いっぱいだ。だからほら、イーヴォ。泣き止んでくれないか」
「い、いき、て……」
イーヴォはそれ以上、言葉が出なかった。
言葉にならない様子のイーヴォに、先に折れたのはジョルジョだった。
ジョルジョの上着の裾を握ったまま、言葉もなくただ泣いているイーヴォのために、ひとまず馬車を降りて、そのまま乗っていた馬車の御者に対して、馬車止めに入れるように指示をした。
その間も、イーヴォはもう何をしていいのかわからないまま、ただ本能に従い、逃がさないとばかりにジョルジョの上着の裾を握り締めて泣いていた。
その姿を、情けないともみっともないとも思いはするが、涙は止まらないし、ジョルジョがまた姿を消してしまいそうで、どうしても手が離せないのだ。
「ええと、よく私がここに来ることがわかったね」
ジョルジョは、イーヴォに話しかけることは諦めたらしい。カルロに視線を向け、そう問いかけた。
「旦那様が、各所でジョルジョ様のお話を伺った結果です」
カルロがあえてオズヴァルドの名を答えることを避けたのは、オズヴァルドの立場を慮った結果である。
イーヴォも、何か声をかけなければと思いつつ、結局何も言葉にならない。
おそらくジョルジョもそれを察したのだろう。何を思ったのか、突然その手にいつもつけていた家紋の指輪と赤い石つきの指輪を手から抜き取ると、それを馬車の座席に無造作に投げ入れた。
「そのまま行ってくれ。可能なら、そのままデルンを抜けて、リーデンへ」
「かしこまりました」
「あとは父上の好きにしろと家に伝えておいてくれ」
「それは私どもではできません」
「まあ、言わなくても、父上は何とでもするだろう。それなら、予定通り進めてくれていいからと、兄上に伝言を頼む」
「それでしたら……承りました」
ダマートの御者は、ジョルジョのその言葉に従い、なぜかジョルジョを置いてそのまま走り去っていく。
イーヴォもカルロも、その展開について行けずに、ただ呆然と馬車の姿を見送ってしまった。
「さて……イーヴォ、すまないが、私の足がなくなってしまった。よければ、そちらの馬車に乗せてくれないか? 目的地は、君の家でかまわないから」
笑顔のジョルジョに、ちょっと近所に乗せていってくれと言わんばかりの口調でそう告げられたイーヴォは、呆然とするあまり、今までずっと出ていた涙もぴたりと止まった。
なくなったも何も、自分で送り出したんじゃないかと思ったが、邪気のない笑顔を向けられ、思わず笑いがこみ上げる。
「我が友人、ジョルジョ。当家へご招待してもよろしいでしょうか」
最初の夜会で、毛を逆立ててジョルジョから遠ざかったイーヴォは、まだ涙のあとも残るそのままの顔で、微笑みながら友に伺いを立てる。
「もちろん、喜んで」
ジョルジョは、その恭しいイーヴォの招待を、眩しいほどの笑顔で受け入れた。