九話 イーヴォ・トッリアーニ2
今、王都で話題になっている歌劇場の馬車止めに、一台の地味な馬車が滑り込んだ。
御者によって扉が開けられ、イーヴォはゆっくりと馬車から降りる。
今はちょうど、劇は終わる前。迎えらしき馬車が、ちらほらと姿を現しはじめる時間である。
目覚めから、すでに二日。あの倒れた日からはすでに四日が経ってしまった。
目覚めたその日伸び放題だった髪は、すっきりと切りそろえて整えられ、かつて身につけていた耳を隠すための帽子は、軽く乗せるだけの装飾品となった。屋内に入れば、躊躇いなく脱ぎ、それを手に持ち、受付に歩み寄る。
ロビーには、あの日見ることが叶わなかった花々の壁があり、幾人もの貴族や大商人の名前札が掲げられていた。
この名前札は、花を入れ替えたあとも、額に入れられ、受付の壁に飾られているらしい。
そちらに目を向けてみれば、一番目立つ場所に、あの日ジョルジョが贈った花についていただろう名前札が飾られている。
イーヴォ・トッリアーニ伯爵
ジョルジョ・ダマート
爵位があるため、イーヴォの名前を先にしたのだろう。
そこに記されたジョルジョの名が、間違いなくその人がいた証しのように感じられ、イーヴォはぐっと唇をかみしめた。
「……麗しき花に、あの日届けられなかったものを持ってきた。通してもらいたい」
事前に聞いていたとおりの言葉を受付に伝えれば、すぐに黒服の使用人がイーヴォを奥へと案内した。
カメーリアは、まだ舞台に立っている。
ここでお待ちくださいとだけ言い置いて使用人は立ち去り、イーヴォは用意されていたソファに身を預け、大人しくその時を待っていた。
姿を現したカメーリアは、舞台が終わって、すぐにここに足を運んでくれたらしく、最後に身につける衣装のままだった。
「お待たせしました。……トッリアーニ伯爵?」
笑顔のまま、しばらく制止していたカメーリアは、立ち上がったイーヴォを見て、何度も瞬きを繰り返していた。
「……あらま? 数日お会いしない間に……表情がわかりやすくおなりですね」
「私は、どのような表情をしていますか。あいにく、ここには鏡がないようですから、私にはわかりませんので」
イーヴォのその返しに、カメーリアは扇を口に当て、少しだけ首を傾げた。
「そうですわね、言うなれば……親に置いていかれた育ちかけの子猫のお顔をしておりますわ」
猫の顔の時より、よほど驚いた表情でカメーリアはそう答え、イーヴォに座るように促したあと、本人もその正面に腰を下ろした。
「その表情は……あの日伝えられなかった感想を改めて、というわけではなさそうですわね」
少しだけ困ったように、軽く首を傾げたカメーリアに、イーヴォは頷いて見せた。
「それを理由に、図々しく楽屋に入り込んだことはお詫びします。どうしても、あなたに直接お会いして、お聞きしたいことができまして、こうして足を運びました」
感想は、また次で。そう言ったイーヴォに、カメーリアは笑顔で答えた。
「それだけ間が空くなら、もう一度見ていただかないと。舞台は日々、成長しておりますもの。……その時はまた、ジョルジョと来てくださるかしら」
彼女がそう口にした瞬間、イーヴォは彼女が自分の質問を理解していることを察した。
「……連絡が取れなくなったのではありませんか? あいにく、私も、本人との連絡は取れませんの」
その答えに、予想以上の落胆を見せるイーヴォに、カメーリアはは改めて、彼女がジョルジョと連絡を取っていた方法を教えてくれた。
「ダマート家に送る場合、伝言では、けして手紙を預かってはもらえません。ですから、手紙に宛名を書くのですが、その際『ダマート家次男様宛』と封筒に書き、門番に預けるようにと言われておりました。名をそのまま書くと、お父様に手紙が行ってしまい、ジョルジョには届かないのだそうです。次男様宛ですと、執事がお父様ではなく、ジョルジョに手紙を渡してくれるのだと、そう聞いております。ただ、今は、それも受け付けてもらえなくなっているようです」
珍しく、扇を口元から離したカメーリアが、改めてイーヴォに視線を向けた。
姿を上から下まで順に確認するように視線を動かしたカメーリアは、深刻な表情で、イーヴォに問いかける。
「あの人は、いったい何をしたのですか? もしかして、そのお姿に関係しているのでしょうか」
「……詳しくは申し上げられないのですが……そのとおりです。そして、そのまま姿を消してしまったので、連絡を取りたいと思ったのですが……家に訪ねても門前払いで、まったく居場所もつかめません。藁にも縋る思いで、こちらに伺ったのですが……」
二日前まで、ずっと社交もせずに家に引きこもっていたイーヴォにとって、ここ数日は焦燥と恐怖の日々だった。
この二日、イーヴォはまったく行動しなかったわけではない。手紙がだめなら、直接行って申し込んでみればと思い、ダマートの屋敷へと行ってみたが、丁重に断られ、ダマート家の誰かどころか、執事に会うことすら叶わなかった。
ならばせめてダマート伯爵にジョルジョについて尋ねたいと王宮に問い合わせたところ、イーヴォがジョルジョに資料を渡したあの日から、長期休暇に入っていると返されてしまった。
ジョルジョどころか、伯爵の居場所すらつかめない今の状態では、社交どころか人付き合いすらこれがはじめてのイーヴォには、これ以上どこに訪ねて良いのかわからない。
そうして、最後の最後になって、ようやくここのことを思い出したのだ。
カメーリアは、ジョルジョの友人だった。おまけに、ジョルジョは、舞台の物語を書いた原作者である。独自の連絡方法も知っているのではないかと、ようやくひらめいたのだ。
それをぽつぽつとカメーリアに伝えたイーヴォは、改めて、知恵を貸してもらえないかとカメーリアに訴えた。
「そうですね……伯爵も長期休暇。ジョルジョも動かずでは……」
しばらく悩んだあげく、カメーリアは、それならとなぜかイーヴォの目の前で、舞台のチケットを二枚、封筒に入れた。
それに蝋封をほどこしながら、説明をする。
「ジョルジョにお兄様がいらっしゃることはご存じですか?」
「はい。確か少し年上の……」
「ジョルジョのお兄様は、お父様の補佐官をなさっておいでです。伯爵が長期休暇でしたら、お兄様は、間違いなく王宮にいらっしゃるはずです。お二方は、王族の方々と大臣の公務の計画を立てるのがお仕事だと、以前伺ったことがございます。社交のシーズンこそお忙しい務めですので、夜会などは基本どちらかお一方、もしくは、ジョルジョが代理で出席することも多かったのです」
幾重にも重なった花びらを持つ花の蝋封をされた封書を差し出しながら、彼女はにっこりと微笑んだ。
「伯爵様に、ただの女優が伝言をお願いするなどもってのほかだとは思いますが、ここは私の演じるフィオリーナに免じて、王宮へ向かっていただけませんかしら。舞台でフィオリーナがお待ちしていますと、オズヴァルド・ダマート様へ伝言と共にお渡し願えますか」
それが、カメーリアにできる精一杯の助力なのだと、イーヴォにもわかった。
その精一杯のチケットを受け取ったイーヴォは、ごくりと唾を飲んだ。
「あの……たいへん情けない話なのですが……私はジョルジョに、兄君について何も聞かされておりませんでした。お顔を拝見したこともありませんので、もしよろしければ、特徴など、教えていただけませんか」
その怯えたような眼差しを見たカメーリアは、苦笑しながら答えてくれた。
「恐れることはありませんわ。オズヴァルド様は立派なお方です。実直な紳士でいらっしゃいますわ。そうですね……色合いは、ジョルジョと同じ、薄茶色の御髪に同じ色合いの瞳です。身の丈は、ジョルジョよりも頭ひとつほど高く、総じてジョルジョよりもしっかりとした体つきをしていらっしゃいます。ですが、いつもとても厳しい表情であられるので、社交界の女性達からはよく怯えられていると聞き及びました。どうも、目がお悪いらしくて、眼鏡がない間はまるで睨まれているように感じるそうですわ」
「では、日頃は眼鏡をかけていらっしゃるんですね」
「お仕事で人とお会いになる時は、片眼鏡をかけていらっしゃるそうです。ですから、睨まれることはきっとございません。安心して、お会いになればよろしいですわ」
にっこりと笑って、力強い言葉で保証されたが、そもそも初対面の相手との面会自体がほぼはじめてのイーヴォには、なんの慰めにもなってはいなかった。
カメーリアとの面会が終わって、すぐさまイーヴォは馬車の行き先を王宮へと定めた。
はじめてだからとためらい、後日に延ばせば、それだけ状況は悪くなるし、イーヴォの思考は悪い方にばかり向かっていく。今はとにかく、考える間もなくひたすら動いていたかった。
王宮へ到着し、執務専用の棟の入り口で、オズヴァルト・ダマートへの面会の申し込みを行うと、確かに伯爵の時とは違い、すぐさま了解を得られて応接室へと案内された。
通されたからには、いつまでも待つつもりでいたが、ジョルジョの兄はイーヴォの予想よりも遙かに早く、先に入れられていた茶が冷める気配もないほどの速さで姿を現した。
カメーリアの説明は、たいへん的を射ていたようだった。
背が高く、イーヴォも見上げるほどの位置に顔がある。色合い自体はジョルジョと同じなのに、これほど面影は変わるものかと思うほど、印象が違う。
ジョルジョとこの目の前の人物を並べると、やはりジョルジョは、病弱な男性と言うよりも、健康な女性なのだと言われた方がしっくりくる。
右目側にかけられた片眼鏡は、金細工もなされた繊細なものだが、オズヴァルト・ダマートには、繊細さよりも実直な印象しか受けない。
「お待たせして申し訳ありません。オズヴァルト・ダマートと申します」
豊かに響く声は、先日見た歌劇の、カメーリアの相手役を務めていた男性よりも、耳に残る声だった。
「イーヴォ・トッリアーニと申します」
「どのようなご用件でしょうか」
正面に座った男性の視線は、確かに厳しい。相手の底の底まで見定めるかのような、そんな眼差しだった。
「歌姫カメーリアより、伝言と共にこちらをお預かりしました。「舞台でフィオリーナがお待ちしております」と……」
沈黙したまま、兄はその封筒に視線を落とした。
「……伯爵殿が、町の歌姫の伝言など、気軽に引き受けるものではありませんよ」
オズヴァルドは、口ではイーヴォをたしなめながら、それでも封書はちゃんと受け取った。
「わかっています。ですが、私はあなたに、どのような言葉で面会を申し入れればお目にかかることができるのかわかりませんでした。ご自宅でダマート伯爵に面会を申し込んでも、ジョルジョ殿に申し込んでも、その言葉すら、奥に通してはいただけませんでした。ですから、カメーリア嬢に、お知恵をお借りしたのです。策を弄したことをお詫びします。お話を聞いていただけませんか」
今のイーヴォには、言葉を飾ったりする余裕はなかった。そもそも、貴族の嗜みのような言葉遊びも、イーヴォは学んだことがない。遠回しに用件を伝えるような術もない。
だからこそまっすぐにオズヴァルドに視線を向け、ひたむきに訴えるしかなかった。
オズヴァルドは、その言葉を聞いても、しばらく沈黙したままだった。イーヴォにとっては何時間にも感じられる沈黙のあとに、ようやく一言告げた。
「わかりました」
イーヴォは、大きく目を見開いた。
オズヴァルドは、一瞬周囲に視線を向け、そしてふたたびイーヴォに向き直った。
「……ここでは、詳しいお話はできません。ですから、ご用件は、簡潔にお願いいたします」
その仕草と言葉で、ここは王宮で、たとえ人影はなくとも人の耳はあることをイーヴォは理解した。
何を口に出すべきか、しっかりと考えて出した結論は、たったひとつだった。
「ジョルジョ殿にお会いするには、どうすればよろしいでしょうか」
イーヴォにとって、あの巻き戻しの魔法は、かけられたイーヴォより、かけた相手の方がより衝撃を受ける印象がある。
たとえ呪文の効果がなくとも、かけた相手は今まで無事でいたことがないのだ。
――だから、ジョルジョは生きているのか、それを確認したかった。
みずから立ち去ったと聞いても、安心はできなかった。
イーヴォを可愛がってくれた侍従は、かけた当日は呪文の効果がなかったことを詫びながらも、普通に話し、一日を過ごしていたが、その翌日、ベッドで眠ったまま、冷たくなっていたのだ。
乳母は、イーヴォの目の前で、悲鳴を上げたあとに突然動かなくなった。つい先程まで、微笑みを浮かべていた顔は、悲鳴を上げたそのままの状態で倒れ、顔を引き攣らせたまま亡くなった。
目覚めたあの時、二日経っていたと聞き、もうだめだと思ったのだ。
一切姿を見せないジョルジョに、面会も受け付けてもらえないダマート家の様子に、イーヴォの頭の中には、最悪の事態しか思い浮かばない。
とにかく、あの人がどんな状態なのか、自分の目で確かめたかった。
一日でも、一刻でも、とにかく早く、ジョルジョの顔が見たかったのだ。
オズヴァルドは、イーヴォの表情を見て、ゆっくりとその答えを口にした。
「愚弟は、もとより体が弱く、先日から寝込んでおります」
その回答に、僅かにイーヴォの肩が跳ねる。
やはり、という思いが邪魔をして、冷静でいることが難しくなる。
「もとより、そろそろ体も限界でしたので、領地で療養生活を送らせることが決まりました。今は弟の体調を見ながら、移動させる日を思案しています。父や執事が、弟への面会のお断りをしているのは、移動前に十分休ませることを意図してだと思います」
「あのっ……ジョルジョ殿は、意識はおありなのですか」
「ええ。今も横になって、毎日しんどい辛いと言い続けていますよ」
その瞬間、イーヴォは、目を瞬いた。今まで一切表情を変えなかったオズヴァルドは、わかりにくくはあるが僅かに笑っていたのだ。
どうやらこの人は、表情を作るのが苦手らしい。
イーヴォもようやくそれを理解した。
「元気に愚痴を言っておりますので、今はそれほど深刻なわけではありません」
そう言ったオズヴァルドは、その手をテーブルの上に置き、素早く何かを書き付けた。
もちろん、それはインクなどをつけて書かれたものではない。だが、イーヴォがそれを理解できるまで、何度もそれを繰り返してくれた。
オズヴァルドが書き付けていたのは、日付だった。
「弟は、馬車でゆっくり領地へ向けて旅をする予定です。もし偶然、その馬車にすれ違うことでもあれば、弟も別れの挨拶のために、顔を出すのではないでしょうか?」
オズヴァルドは、その馬車が出発する日を教えてくれたのだろう。なぜ、教えてくれたのかはわからないが、イーヴォはその日付を頭に刻みつけ、深々と頭を下げた。
「今まで、弟と親しくしてくださったことに感謝します。願わくば、その友情を、弟が領地に向かったあとも続けてくだされば、あれも喜ぶことでしょう」
オズヴァルドは、歌姫カメーリアの人物評どおりの人だった。
実直な紳士。
イーヴォは、深々と頭を下げて、オズヴァルドに心から感謝の言葉を述べた。
そしてふたたびオズヴァルドに、爵位を持つものが、そこまで頭を下げてはいけませんと軽く注意を受けたのだった。




