序
※ 男装の麗人小説企画 参加作品です(重要)
その男には、立派な耳があった。
白と黒の毛に覆われた、ぴんと立った三角耳は、今、その持ち主の戸惑いを表すように、ぺったりと後ろに倒れている。
その男には、立派な尻尾があった。
長い尻尾は、全体が白い毛で、先だけが黒い毛で覆われ、日頃はゆったりと揺らめいていた。今はまるで怪奇現象でもおこったかのごとくにびんとまっすぐに伸びて、その白黒の毛を膨らませ、日頃の倍ほどの大きさになっている。
耳も尻尾も、男の身に何かがあったのだと如実に訴えていた。
だが、男にも、我が身に何が起きているのか、理解できていない。
――口づけられている。
今まで、友人だと思った男の顔がすぐ間近にある。この距離で見ると、男のよく見える猫の目は、その秀麗な顔の、肌の肌理まで見えてしまう。
長い睫毛が影を落とし、日頃は好奇心で溢れる眼差しを隠すまぶたを妖艶に彩っている。
男の、驚きに逆立つ白黒の毛に覆われた猫の顔を、両手でしっかりと固定したこの友人のはずの男は、そのまま男に口づけたのだ。
その事実を理解するまで、男は半ば意識を飛ばした状態で、されるがままになっていたのであった。
これ見よがしに天井に飾られた複雑なカットを施された水晶が、蝋燭の明かりを反射して、きらきらと明かりを振りまいている。毎回、これを見るたびに、これだけ派手な品なのに、上品に感じるのはさすが王宮のダンスホールだなと、その水晶の下で女性をエスコートしながら感心する。
「あら、ジョルジョ様。今日はずいぶんぼんやりしておいでね?」
「おや、そうかい? 君のような麗しい女性をこんな間近で見てしまって、目がくらんでしまったのかもしれないね。今日の紅は、いつになく華やかで輝いているから」
「あら、お上手ね。今年初めて試した色なのよ」
「朝露に濡れた薔薇の花びらの色かな。華やかな君の色そのものだ。よく似合ってる」
繊細なレースの手袋に覆われた嫋やかな手に握られた、唇の色よりも薄い赤の扇をそっと口に当てながら、ころころと笑って、目の前の女性はジョルジョと呼ばれた青年の腕に手を絡めた。
ジョルジョは、このきらびやかな場では、若干だが日陰の存在とも言えた。線は細く、髪は柔らかそうな薄茶色。顔も中性的なため、男らしさというものに欠けている。現在、女性には、筋骨隆々の長年騎士の位にあったような男性が好まれるため、むしろ未婚の女性としては、ジョルジョのような細身の青年は結婚相手として忌避するのだろう。
だが、この中性的な青年は、子をもうけた既婚の貴婦人達には絶大な人気を誇っていた。
万人に優しく、女性に対する気遣いを忘れず、いつでもにこやかに相手を受け入れ、褒め称える。懐妊中は忘れていた女性としての自信を取り戻すためにはうってつけの相手として、貴婦人達はこぞってジョルジョの傍に近寄ってくるのである。
今日も、そんな女性をエスコートし、客に解放された広間の中央に向かったジョルジョは、踊りの輪に加わった。
毎年、社交シーズンの一番はじめの舞踏会は、王宮で開かれる。国王主催の春の宴は、その年の社交シーズンの幕開けを告げ、今年デビュタントの若者達の顔見せを行うためのものでもあるので、出席者のごく限られた宴でもある。それに出席できる面々は、上級貴族と国への貢献が著しいと認められた貴族。そして、今年デビュタントである新人達だけとなる。
ここにいる全員が、この会の趣旨を理解しているために、多少若い者が失敗したとしても、微笑ましく見守る者達ばかりだ。
白いドレスに身を包んだかわいらしい花々が、それぞれ後見人に連れられて、各所に挨拶回りをしているのも、またこの宴の恒例の光景だ。
今日、ジョルジョが一緒に踊っている女性も、その花の一輪の後見として、ここに顔を出しているはずだった。
「今日は、妹姫の付き添いじゃないのかい?」
「妹には、両親が付きっきりですもの。今さら、私が常時傍にいる必要もありませんわ」
あとで紹介させてくださいねと笑顔で告げられ、ジョルジョもあっさりそれを了承した。
――会場の空気が変わったのは、このすぐあとのことだった。
ざわりと一瞬、空気が揺れる。この、デビュタントの会場に相応しいとは思えない空気は、滅多におこることではない。
中央で踊っていたジョルジョと女性も、その足を止め、そちらに視線を向けた。
人の波が、少しずつ、綺麗に割れていく。まるで水の波紋でも見ているように、その場所を中心に、人が割れていく。
真ん中にいた人物を見て、ジョルジョもさすがに目を見開いた。
それは、ある意味とても見慣れた顔だった。
幼い頃、親友のように思っていた、どこに行くにも付いてきていたあの子に似ている。
ぴんと立った三角の耳。ふくふくとした鼻口部からぴんと生えている髭。どこをとっても、懐かしい思い出の姿にそっくりだ。ただし、その見慣れた相手の頭は、もっと小さかった。
毛の色は、黒白のぶち模様。白でもない、黒でもない、まるでインクをこぼしたようなぶち模様が、ジョルジョのお気に入りだった。人が割れたからこそ見ることができたその背後に伸びた長い尻尾も、白の先にちょこんと黒のぶち模様。
そんな場所までそっくりなその姿を見て、ずっと昔の、領地を駆け回っていた時代を思い出し、その再会を抱きしめて祝いたいほどだった。
だが、それをするには少々問題があった。他の人ならば、少々で済まないかもしれないが、ジョルジョにとっては少々である。
それは、猫ではなかった。猫の顔をして、猫の耳と尻尾を持った人だった。
男性であることは、衣装からわかる。猫背など縁もゆかりもないとばかりに背筋を伸ばし、まっすぐ正面を見据えている姿は、この場にいる紳士達の中に入り込んでも違和感がないくらい、美しい立ち姿だった。
人の波を割り裂きながら、周囲の雑音を我関せずと、顔を上げてまっすぐに歩いていく様は、あまりにも潔い。
「……いやだわ」
だからこそ、隣でつぶやかれたその言葉は、ジョルジョにとって不思議なほどに違和感を覚えるものだった。
「あの方が、噂の呪われた伯爵様なのね」
「……呪われた?」
先ほど、薔薇の花びらにたとえた唇から紡がれたその言葉に、ジョルジョは目を瞬いた。
「ええ。噂では、あの方の先々代に当たる方が、魔女に呪われたのだとか。そのためにあのようなお姿になられたそうですわ」
眉をひそめて小声で告げた女性に、ふうんと返事をしたジョルジョは、ふたたび目を引く猫の顔に視線を向けた。
人波を存在だけで掻き分けた猫の人は、そのまま王の下へ赴き、最上級の礼をとる。もしかしたら、あの猫の人は、今年爵位を授かったのかもしれない。たとえ王でも、あの姿を見てまったく驚きもしないのは、事前にその姿について知っていたからだとも思える。だからこそ、彼はこの会場に招かれたのだろう。
「周囲にも呪いが降りかかってしまったら、どうしましょう。恐ろしいですわね」
「大丈夫、それはないだろう」
「どうしてわかりますの?」
「もし、本当にあれが呪いで、人に感染するようなものだとしたら、まず、彼の従僕達があの姿になっているはずだろう?」
そのジョルジョの言葉を聞いた女性は、そのまま視線を、この会場にいる貴族達が連れてきた使用人達が立ち並ぶ場所に向けた。
そこには、特に目立つような姿をした存在はいない。どれが誰の使用人かもわからない。近付けば、それぞれ身につけている服装である程度見分けもできたかもしれないが、この距離からだと誰がどこの家かなど、まったくわからない。つまり、あの場に、猫の呪いを受けたような人物はいないし、特に目立つ家はないと断言しても大丈夫だろう。
「それに、陛下にもご挨拶を許されているんだ。あの呪いは感染するようなものではなく、彼はれっきとしたこの国の貴族だと、陛下がお認めになったということだろう?」
それを聞いた女性は、はっと気がついたように口元を押さえた。
もし今の状態で、あの呪いについて憶測を語れば、下手をすればあの猫の人の存在を認めた王に対する不信ととられることに気がついたらしい。
「……そうですわね。陛下がお認めになったのですから、あの方もこの会場にいるべき方なのですわね」
「そうだね」
彼女の、些細な失敗など気にしていないと言わんばかりのジョルジョの様子に、女性はほっとしたように笑顔になった。
「あ、両親が呼んでおりますので、失礼しますわね」
「ああ、いい夜を」
ジョルジョはいつも、来る者拒まず去る者を追わずである。あっさりと笑顔で女性を見送ると、ついと視線を先ほど王の御前にいた人物に向けた。
すでに挨拶は終えたのだろう。ふたたび人混みを割りながら、飲み物の置かれたテーブルに移動していた。
その周囲は、すでにぽっかりと空間が空いてしまっている。
困惑している給仕に、何事かを告げ、飲み物を受け取ると、猫の人はあっさりとテーブルを離れ、隅に移動していった。
今も、周囲ではそちらを見て、声をひそめて語り合う人々がいる。人の身では押さえられたその声は拾うことができないのだが、あの猫の耳はどうだろう。
気がつけば、ジョルジョの足は、そのまま見ていた方角に進められていた。