1月17日曇り 『医者1名』
「新しいの、入ったぞー」
視界の隅に写ったのは、眼鏡をかけたスーツ姿の男。右手には革の旅行鞄。もう片方の手でネクタイの位置を直している。
男はきっちりと整えられた髪型を揺らし、真面目そうな顔つきで口を動かした。
「相変わらずだな。カルラ」
「お前は……」
驚いて三秒、記憶が腹より上に出る気配がなく、カルラはとりあえず質問で返す。
「誰だっけ?」
「どうして僕の顔を覚えてないんだ!」
金属の名前なら全て覚えてるくせに、人間関係となるとずさんになるようだ。
しかし幸いにも、怒った顔には、というよりはその特徴的な泣きぼくろには見覚えがあり、カルラは大きく頷いて、親しげに彼の肩を叩く。
「ああ、ユバスか。眼鏡かけてたから分からなかった」
「ここを出るときにもかけていただろう! お前の目は節穴か!」
納得のいかないユバスは出された手を振り払う。隣で帳簿をつけていたシュラは、啄むような形の口で疑問を述べた。
「あの、どちら様でしょうか?」
「何だ、この幼子は」
「幼くないですよ! 失礼な方ですね!」
いや、幼いよ。とりあえず算盤を壊さないで、お願いだから。
「落ち着け、シュラ。……こいつはユバスっていう、町一番の眼鏡だ」
「医者の、ユバスだ。それだと僕が視力補正器みたいになるだろ。……それで、このシュラという幼子は誰だ?」
ユバスが指差し尋ねると、シュラはカルラの後ろに隠れる。
それで免れるはずもないのだが、今は何も言うべきではないな。膝が壊される。
緊張しながら、ご機嫌を取るように落ち着いて、カルラは説明する。
「俺の弟子。こう見えても17は過ぎたらしいんだ。外見はガキでも、中身は、まあ、大人といえば大人だし、子供扱いはやめてやれ」
「お前に合わせれば全員そうだろう」
「誰が大人っぽい色気のある男だ。俺はいつまでもシャイボーイなんだよ」
「内面の話だ! あと、色気もなければシャイでもないだろ!」
二人とも子供である。
深く呼吸してから、ユバスは腕を組み、訝しげな視線をシュラに注いで言った。
「しかし、本当に17か? どう見ても10か、9くらいにしか見えん」
シュラの外見は確かに幼い。不老不死の呪いでも受けたのだろうか。
しかし、本人の嫌がる話をわざわざ続けるような、この馬鹿みたいになってはダメだ。
幸いにも、真面目なユバスの意識を反らすのは簡単なことだった。
「細けぇな10も20も四捨五入すれば0だろ。どっちだっていいじゃねぇか。今日は冷やかしに来たのか?」
目線だけが移動し、ユバスはカルラと合わせる。そして、小さな素振りで否定を表した。
「……いいや、メスを買いにきた。お前のやつは、王都よりも性能は上だからな」
嘘ではない。そもそも嘘がつける人間ではないのだ。
「お前が誉めるなんて気持ち悪ぃな。雪でも降るんじゃねぇか?」
カルラが茶化すと、ユバスは苛立ちに奥歯を噛む。
「別に誉めてない。それ以外に何も取り柄が無いのだから、それくらい出来なくてどうする、戯け」
「へいへい、照れんなよ。男のツンデレは寒気が走らぁ」
「誰がツンデレだ。デレてもなければツンでもないだろ」
ツンではある。今までのが純粋な、普通の会話だと思っているのなら改心した方がいいだろう。
カルラはけらけらと笑いながら振り返り、軽く手を振りながら家屋部分へと扉を開ける。
「じゃ、取ってくるから、ちょっと待ってろ」
まったく、と呆れたような、嗜めるような言葉を吐くと、ユバスは残された小さな少女に興味を示した。
「シュラ、あの男に何かされていないか? 他所には言えないようなことや、脅されたり」
「い、いえ、そのようなことはありませんよ」
身構えていたシュラは呆気に取られたようで、ポカンと小さく口を開く。
その答えを聞いて、ユバスは文字通り胸を撫で下ろす。
「そうか、それならいい。僕には妹が居てね、君みたいに健気で大人しい子だったから、少し不安になった」
恥ずかしげもなく言う。これが天然というものだ。
しかし、こちらも天然、臆することなく滞りない会話が成立してしまう。
「カルラさんが、虐めてたのですか?」
「子供の頃のことだから、あまり責められはしない。妹の頼みを断ったり、無視したり、避けたり、そんな小さなことではあるが、妹は悲しんでいたと思う」
過去を振り替えるように、古びた木造の天井を眺めるユバス。それを見て、シュラは目を伏せる。
「そう、だったのですか」
「おっと、もう時間だ。メスは帰りに取りに行くと伝えてくれ」
思い出したように懐から取り出した懐中時計は、約束の時間を指している。
時計を仕舞うと、ユバスは急ぐ足取りで通りを進んでいった。
丁度、入れ違いにカルラが戻る。
「遅くなった、って居ねぇのか?」
「時間が無くなったそうで、また来るそうです」
「相変わらず、時間にうるせぇ奴だな。もう少し待てばいいのによ」
真新しい木箱には、医療道具類とおぼしき品が入っている。
「カルラさん、妹さんを虐めてたそうですね?」
「は?」
唐突な会話の始まりに、カルラは眉をぴくりと動かし、箱を下ろそうと曲げた足は途中で止まった。
不快そうに目を細めるカルラに気がつかないシュラは、さらに嗜めるような口調で続ける。
「もう大人なのですから、仲良くしてくださいね。いいですか?」
「おいおい、何を吹き込まれたのかは知らねぇが、俺は虐めてなんかいねぇよ」
「え、でも、ユバスさんは……」
明らかな意見の食い違いに、シュラはようやくカルラの機嫌が悪いことに気がつく。
カルラは丁寧に箱を置き、腰に手を当て、過去を見るように視線を上に向ける。
「俺が虐められてたんだよ。いや、性格には俺ら、か。泥団子食べろとか、生き血をよこせ、とか言うから、皆して逃げ回ってたんだ。あの味は思い出したくもねぇ」
カルラは顔面を真っ青にして項垂れる。何を食べたのかは、聞かない方がいいだろう。
真実味のあるカルラの言葉を信用したシュラは、両手の指を合わせるような仕草で、意外そうに喉を鳴らす。
「あんな真面目な方に、そんな強烈な妹さんがいらっしゃるのですね。驚きです。どのような方なのでしょうか?」
少し楽しそうに微笑むシュラを、カルラは珍しいものを見るような視線を向けた。
「……そういや、まだ知らねぇんだったな。あいつの本名、ユバス・レ・マットっていうんだ」
「レ・マットというと……」
思い出させる悪夢に、カルラは顔色をさらに悪くする。
「妹はエイル、あの薬マニアの兄貴なんだよ」
頭の中で繰り返される、健気で大人しい、という単語の違和感に、シュラは気まずそうに口を結んだ。
果たして、どちらが節穴なのだろうか。
「変わった御兄妹でしたね」
「だな。まともな奴といやぁ、俺くらいだし」
「え?」
「ん?」
まともな奴は、危険を振り撒かないものだ。シュラは後ろめたさからか、諦めからか、そのことを声には出せなかった。
ユバス・レ・マット(22)
趣味……読書
作者メモ……レ・マット家は医者家系です。賢い狂人ほど恐いものはないですね