1月16日晴れ 『肉屋1名』
「あ―――」
「聞いてくれよ、カルラぁ~!」
「……その言葉そのまま返してやるよ」
黄昏が空を塗りたくるその頃に、目の前で鬱陶しく涙を流す男は、商店街にある肉屋の主人である。
職業からか、食生活からか、なかなか恰幅が良すぎるため、大いに営業の邪魔をしてくれている。
「で、何だ? 浮気でもバレたか? だから、もっと上手くやれって言ったろうが」
適当にあしらおうと口を動かすカルラに、肉屋は頬の脂肪を揺らしながら一歩前に出て、荒げた声で否定した。
「やってないよ! ……オレら、夫婦なのに喧嘩したんだよぅ」
「はぁ? 一緒にいりゃ喧嘩すんのが夫婦ってもんだろ。いちいち、俺んとこに来んじゃねぇよ。営業妨害だ、さっさと帰れ」
手をひらひらと、野良猫でも追い払うように空を払う。しかし、この程度で売上が変わるほど、繁盛してはいない。
肉屋は肩を落として情けなく懇願する。
「そんなこと言わないで、助けてくれよカルラ。オレとお前の中だろ?」
「誰と誰の中だって? お前に貸しはあっても借りはねぇ」
「そう言わずに、助けてあげましょうよ。いつもお肉買っているのですから」
奥から茶を入れて来たシュラが、お盆を持ってそう言った。確かに肉が食えなくなるのは困ると思い、カルラは仕方なしに腕を組んで考える。
「て言っても、俺は未婚だし、シュラは子供だ」
「子供じゃありません、こんなに大人っぽいのに……」
シュラは子供のように頬を膨らませて憤慨する。大人は"っぽい"なんて言わないのだが。
そんな主張の真偽を測る物差しも無いため、無視して本題に戻る。
「カルラだけが頼りなんだよぅ。八百屋も魚屋も雑貨屋も時計屋も酒屋も断られて、あとはカルラしか居ないんだよ!」
商店街の既婚者を網羅したな。
「消去法でうちに来るんじゃねぇ、てかどんだけ人望ねぇんだよ」
「いや、初めは皆、協力してくれたんだよ。でも、毎日足しげく通ったら、もう来ないでくれって頼まれたんだ」
どうやら本当に営業妨害をしていたらしい。カルラは災害から被害を守ろうと、真顔で小さく頭を下げた。
「じゃあ俺からも頼む、帰ってくれ」
そう言うと、肉屋は不思議そうに首を傾げる。
「オレは皆に嫌われたくないから、行かないようにしてるんだよ?」
「俺には嫌われても良いってか? ふざけんじゃねぇぞ、うちは暇じゃ―――」
「相談乗ってくれたら、これとこれを買うよ」
店の棚にあった二つの商品を指差す。
カルラは親指を立て、満面の笑みで肉屋を見た。
「いつでも来てくれ、俺とお前の中だろ!」
「調子がいいですね」
小さく溜め息を吐くシュラ。
椅子を持ってきて、湯飲みを片手に話を聞く。
「そもそも、原因は何だってんだ? しょうもない話だったら許さねぇぞ」
商品棚に頬杖を付いて、カルラがつまらなそうに尋ねると、肉屋は一人深刻そうに表情を暗く落とした。
「浮気だよ」
「何だ、自白かよ」
「誤解なんだよ! オレはただ道を教えてただけ。それを妻の友達が教えて、怒っているみたいなんだ」
肉屋が立ち上がると、勢いで椅子が後ろに倒れる。それだけで疲れたのか、息も絶え絶えに椅子に座り直した。
落ち着いたところでカルラが状況を整理する。
「となると、その友達が原因っつーことか。道を教えるだけで浮気とは、随分と世間は冷たくなったもんだ」
「ホントだよ。道を教えて、そのお礼にホテルに行っただけで浮気ってね」
「何だ、自白かよ」
疑念の混じる視線が肉屋に集まる。それに気が付いた肉屋は、
誤解の広まりを抑えようとするかのように、目を見開いて手をバタバタと振った。
「違うよ! ご飯奢ってもらったの! 厭らしいことなんてしてないって、カルラの口からも、そう言ってもらえないかな?」
「でもな、奥さんの怒る理由も分かるし、お前が紛らわしいことをしたのが悪いし」
「解決してくれたら、これも買うよ」
肉屋が言うと、調子よくカルラは満面の笑みで親指を突き立てる。
「お前が正しい、奥さん間違ってる!」
カルラの隣で会話を聞いていたシュラは、人差し指を唇に当て、率直な疑問を投げ掛けた。
「でも、どうやって解決するのですか? お肉屋さんから頼まれた私達の言葉では、信じて貰えないような気がしますが」
「大丈夫だ、丁度いいものがある。……これだ!」
得意気に腰ベルトから取り出したものは、棒状の部品に円柱の鉄塊がくっついたような構造の、ハンマーに見えるものを取り出した。
「ただの鎚に見えますね」
「というか、ただの鎚だよな」
カルラの作品には普通のものが少ない。しかし、これに限っては、その数少ない普通の品である。
にも関わらず、カルラは首を振って否定の意を表した。
「これは普通の鎚じゃない、硬く丈夫で破壊力のある鎚だ。これを奥さんの後頭部目掛けて殴ると、あら不思議! 記憶が無くなる!」
カルラの持論である。けして真似しないように。
「それじゃ記憶が無くなるとは限らないだろ!」
問題はそこじゃない。
「その時はもう一度、強く殴るといい。二度と喧嘩の起きない家庭が出来るぞ」
「家族が亡くなってるじゃないか!」
肉屋はようやく、相談する人間を誤ったことを悟り、重い体を立たせて言った。
「もういいよ、オレだけで何とかする」
のそのそと、気の重い足音を街道に響かせて、肉屋は自宅へと足を運ぶ。深く溜め息をついたその時、後ろで声が聞こえてきた。
「待って下さい」
小さな体を忙しなく動かし、シュラが肉屋に駆け寄った。すぐ目の前まで近寄ったとき、シュラは服の袖から白い腕を伸ばし、握られた拳を差し出す。
「これをどうぞ」
「これは?」
蒼く透明な、空のような色を持つ不格好なそれは、鳥の形を成していて、飛び立つ羽は風を捉えようと天を眺めている。
「私が作った、ガラス細工です。……ご存知ですか? 烏は必ず夫婦を作るそうです。苦労を掛けた時間の重さを知り、純粋な気持ちが伝えられますように、お守り代わりに受け取って下さい」
祈るように、重ねるように、口に出した想いを聞いて、肉屋はそのガラスを手に取った。
「……ありがとう、シュラちゃん。オレ、頑張るよ!」
自信の見えるその表情は前を見ていて、肉屋は迷うことなく家路を急いだ。
その影が薄れて、シュラが振り返ると、壁に寄りかかって聞いていたカルラが言った。
「いい作品だ。腕を上げたな」
その言葉に、シュラは驚いて目を丸くする。
「知っていたのですか?」
「在庫が減りゃ、嫌でも気づくさ」
「え、在庫確認していたのですか?」
さらに驚く声を出すと、不服そうにカルラは顔をしかめる。
「……お前は俺を何だと思ってんだ?」
「カルラさんですよ。私の師匠です」
優しく微笑むシュラを見て、カルラは鼻を鳴らして店の奥に入る。
「ふん、分かってんならいいさ。戻るぞ」
「はい!」
誰かの悩みを解決できたことに充足感を感じ、小さな幸せを二人は感じた。
結局、何一つ売れなかったことを除けば。
肉屋の主人(32)
趣味……食事
作者メモ……肉屋の人って、お肉好きなのかな? とりあえず太っているイメージはある。
町の肉屋……一般肉から魔獣肉まで取り扱う専門店。残った肉は主人が食べている。