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魔法少女ヒギリ×シルヴィア  作者: 鈍痛剣
Chapter2.加速する拳
6/13

『加速する拳』3

 撃鉄を下ろし解き放たれた銃弾が、やはり以前と同じようにシルヴィアの眼前まで迫った所で見えざる壁に阻まれる。魔法の壁はシルヴィアの疾走に合わせて移動しているらしく、これでは近接戦を押し付けられるまで銃撃はまったく封じられたも同然だ。そう悟ったイヴァナはすかさずマジカライズライフルをステッキの姿に戻し、シルヴィアがどこまで間合いを詰めてくるかを判断することに最大の注意を裂くことにした。

 二人の間の距離が5歩分ほどにまで縮まった瞬間、シルヴィアの足が止まる。それをいち早く認識すると、イヴァナはマジカライズステッキを再び変身させ、ダガーの形状に生まれ変わらせる。

 一方、シルヴィアも同様に相手の動向に注目し、考察を開始する。

 イヴァナが得物として選んだダガーは、ごく至近の距離における格闘戦でならば非常に高い戦闘力を発揮するものの、相手に武器のリーチで上回られてしまえばその時点でほぼ成す術がなく、通常なら無手よりマシという保険扱いの装備にしかならない。しかしマジカライズステッキという変幻自在の武器を手にしておきながら、それを始めからダガーの形に変身させたイヴァナの選択は、仮に他の武器に心得がなかったとしても不可解である。

 見れば、ダガーを握る手は臨戦時にあるまじき緩慢さで不気味なゆらめきを描いている。一見すると獲物を弄び挑発している動きのようだが、しかし実は手首のしなやかさと可動域の広さを暗に示しているのだ。

 ダガーのゆらめきがシルヴィアの意識をシミュレーションの世界へと誘う。

 こちらの得物のリーチが広ければ広いほど、振りの速さで勝る相手にとってはむしろ好都合だ。安易に斬りかかろうものなら間隙を縫って急所を討たれるし、逆に防戦に回れば今度は縦横無尽に繰り出される斬撃を前に反応する暇なく切り裂かれることだろう。

 かと言って間合いを開けすぎれば、しなやかな手首の返しと共にダガーの投擲が襲ってくるに違いない。魔法少女の強化された身体能力から放たれる投擲は、銃弾と大差ない速度に容易く達する。いくら間合いを開くとは言え、近接戦の延長に過ぎない距離ではまず間違いなく回避しきれない。投擲する瞬間を認識できても、身のこなしが絶対的に間に合わないのだ。ならばそれを阻止する為にも、相手のフィールドたる近接戦に臨まねばならない。

 挑発と取るか、威嚇と取るか。相手の技量を見定める究極の振るい。

 この振るいをすり落ちるようであれば十秒と足らず命を落とすことだろうが、少なくともシルヴィアは違った。

「フン……面白いヤツね」

「…………」

 シルヴィアが選んだ得物は拳銃だった。

 普通ならまずあり得ない選択を前にして、流石のイヴァナも目を丸くする。

 一瞬、愉快げに目を細めたあと、イヴァナはすかさずシルヴィアの懐へと迫った。対するシルヴィアも飛び込むようにして前進する。

 銃を手にしながら自ら間合いを詰めようとするシルヴィアの奇異な行動を前に、イヴァナは更に度肝を抜かれ、慌てて一歩踏みとどまった。互いに前進した為にイヴァナが計算していたよりも間合いの縮み方が早く、踏みとどまった時点で、既にダガーの間合いまでもう1歩ほど。その1歩も呆気なくシルヴィアの足が踏み越え、半ば強制的にイヴァナはダガーを振らざるを得なくなる。

 最も間合いの遠い武器を手にしながら最も間合いの狭い武器のリーチ内へ自ら飛び込み、あまつさえ格闘戦を仕掛けるなど、シルヴィアが取った選択はどれ一つとして尋常ではない。が、イヴァナにとって有利な間合いの戦いなはずだというのに、不思議と格闘戦は拮抗していた。

 ダガーの閃きをかわされ、マジカライズピストルの銃口が頭に向かう。それを打ち払いダガーを逆手に握り直してふたたび振るうと、持ち手から遮られふたたび銃口が返ってくる。

 数手切り結ぶことでイヴァナは、“この拳銃は剣だ”という確信を得るに至った。

 マジカライズピストルの銃口から伸びる射線は、直線を描いて脅威をなすという点において刀剣に等しいため同様の対処が必要とされるが、このとき最も厄介なのは射線という実体なき刃渡りだ。

 刃に実体がないということは、長大にして同時に短小という至極都合のいいリーチを有することでもあり、しかし拳銃本体がそなえる間合いはダガーよりも短いから、間合いをより詰められてしまえばダガーの攻撃は根本から防がれてしまう。間合いを離すことのリスクは共有させられつつ、格闘戦で不利な要素ばかり押し付けられているようなものだ。

 無論こんな芸当は並大抵の人間に成せるものではなく、シルヴィアがどれだけ熟達した戦士であるかが容易に窺える材料でもあった。イヴァナはますます胸を躍らせる。

「あなた、強い。まともにやり合える相手なんて久々よ……」

「……言葉は無用。…………我々はお前を捕まえる」

 シルヴィアの言い放った一言が、イヴァナにはたと本当に果たすべき目的を思い出させる。――撤退だ。

 間合いを離せないこともあって、闘争に興じすぎるあまり自身の置かれている大局的位置をすっかり失念していまっていた。

 あくまで眼前の格闘に集中しつつ、ほんの一握りの注意を他の味方へと向ける。黒服は一人を残して全滅し、その一人も、メッシュの少女に助太刀する形で二人の魔法少女に挑んでいたが、たったいま後方からの狙撃を受けて倒れたところだった。

 メッシュの少女は一人で二人の魔法少女を同時に相手取り、あちらもまた撤退がままならない様子だ。

 後方の狙撃手から放たれる殺気が、メッシュの少女からこちらへと照準を切り替えたのを肌で感じる。二対一になっているあちらよりも、一対一のこちらを優先するのは当然だろう。加えて、間合いを離すリスクを倍増させる狙いもあるかもしれない。

 絶体絶命の状況に立たされたイヴァナは、嫌で堪らないものの仕方なくメッシュの少女へ念話をつなげた。

(ちょっと、メッシュの。この状況どうするつもり?)

(メッシュのとは失敬だネー……ボクにもリンドウっていう名前ガ)

(どうでもいい。対策だけ簡潔に述べろ)

(狙撃手の目がそっちに釘付けなのは丁度イイネ。相手を一瞬押し切ッテ、うしろでイッちゃってるあの子を連れて2回転移するヨ。1回目でキミを背後から拾って、2回目で本部マデ)

(わかったわ)

 宣言するなりメッシュの少女――リンドウは、朱莉が突き入れてくる短槍の柄をこともなげに掴み、更にそれで緋桐の拳を受け止める。

 これまで避けるばかりに終始して反撃する余裕もないかと思われていただけあって、二人は攻勢を削がれてしまった事に驚きを隠せない。その隙を見逃さなかったリンドウは柄と拳の交差部を蹴り返し、足元で痙攣するゆずに手を触れた。するとフィルムの連なりからある一場面だけが抜け落ちるように、リンドウとゆずの姿がぱっと消失する。二人が再び現れたのは、数メートルほど先にいるイヴァナの背後だった。

「――!」

 転移したリンドウの姿を最初に視認したのは緋桐だった。

 変身によって強化された魔法能力を瞬間的に最大行使することで、リンドウの思惑をとっさに把握し転移先の位置を割り出したのだということは、当の発見者たる緋桐すらも気付いていない。そういった分析などにはそもそも今は関心がなく、ただひたすらに“逃がしてはならない”という意識のみが彼女を突き動かしている。

 手にしたマジカライズピストルに再び殺気を装填し、その照準を改めてリンドウへと向け、そして眉間を捉えるなり緋桐は一切の躊躇いなく発砲した。

 予想外の追撃にさしものリンドウも虚を突かれたのか、慌てて掴んだイヴァナの背を引き寄せる。バランスを崩し倒れ掛かったイヴァナの足に弾丸は容赦なく突き刺さり、僅かに角度を逸らして貫通した。弾丸が大腿を通り抜ける間、幾許かの猶予を与えられたリンドウは反れた弾丸を容易く避けてみせる。

「ぐっ……お前!!」

 大腿に穿たれた空洞を撫でる冷たい感触と相反するように、銃傷が熱を帯びる。

 熱の正体が痛覚であるとことと、リンドウの盾にされたこと。その両方を悟りイヴァナが声を荒げた瞬間には、既に転移が始まっていた。



 倉庫から移り変わった景色は、一週間前にも訪れたビル群の路地裏だった。眼を慣らそうと目蓋を閉じていたイヴァナだが、これでは屋の内外こそ違えど仄暗さにおいてはさして変わりない。

 アスファルトの硬い地面に足を着けるなり、大腿を貫く痛みが容赦なく熱量を増す。

 大腿に穿たれた銃傷は一週間前に狙撃されたものとほぼ同じ箇所にありながら、しかし比較にならないほど大きい。

 殺気を弾丸として放つマジカライズステッキの銃撃。その破壊力は行使する者の殺意に依存するものとされるが、だとすればイシュタルの新人と思しきあの少女の懐く殺意は並外れている。はっきり言えば異常だ。

 リンドウを憎悪している瞬間のイヴァナでさえこれだけの殺気を放てるかは疑わしく、しかも契約から日の浅い新米が繰り出したことを考えれば、そもそもの元来持つ凶暴性というものが桁違いなのだろう。イヴァナらが属するクル・ヌ・ギアにとって、先行きに影を落としかねない存在と言えた。

 大腿の出血は殊のほか激しく、急ぐ状況とはいえ応急処置をしないわけにはいかないほどだ。イヴァナが薄汚れた地面に座り込んだのをいいことに、怪我を負わせた原因たるリンドウはおどけた調子でステップを踏んでいる。

「ヤー、あの子の殺気は凄かっタ……ネ?」

「お前……よくも私を盾にしてくれたな」

「ボクがやられちゃってたラ、こうして逃げることも出来なかったヨ?」

「……で、ここはどこよ」

「術式痕を辿って本部に来られても困るカラ、一旦別の場所を中継するのサ。その為にもう少し歩かないとネ……?」

 明るく言ってのけるリンドウの笑顔は、当然だがイヴァナを励まそうとして見せたものではない。むしろ喜悦に歪んでいる、と言ったほうがより正確か。

「それなら転移させた少女たちと同じ場所に飛べばいい。向こうでトラックに乗せてまた中継地点まで行くんだから、私達もそれについていけばいい」

「下請けのせいで痛い目をみたばっかりだからネ。帰りくらいは自力で歩いていきたいヨー」

「…………」

「アッ、そういえば今回の責任者はキミだったカナ? ゴメンネ~、皮肉を言うつもりじゃなかったんだヨ~?」

「…………弁解するつもりはない」

 治癒魔術を使った強引な止血を済ませて立ち上がるイヴァナの肩に、気を失ったゆずが押し付けられた。自力で歩くのもやっとなほど痛むイヴァナの足は、更なる負担を受けてまた血を滲ませはじめる。

「だったらせめてこれくらいは働いてくれてもいいヨネ?」

「くッ……」

「それじゃあ、行こうカ?」

 軽やかなステップを刻むリンドウと、一人の少女と負傷した片足を引き摺りながら必死に歩みを進めるイヴァナ。対照的な二つの足音が路地裏の闇へと溶けるように進んでいく。

 これから歩くことになる距離を思うほど、足の痛みが増していくようにイヴァナは感じた。



 小鳥のさえずるような跳弾音と共にイヴァナたちが消え行くのを、魔法少女たちは無言のままに見送る。

 緋桐の容赦ない射撃と刹那の攻防に戸惑う朱莉と紗雪。無口なのは元より、格闘戦で軽く乱れた息を整えていたシルヴィア。

 最初に口を開いたのは、やはり弾丸を放った緋桐自身だった。

「転移先の解析をお願いします!」

「あっ……はい」

 咎めるような緋桐の口調に思索の世界から引き戻された紗雪は、あわてて敵が立っていた位置へと駆け寄る。すれ違いざまに紗雪が覗き見た緋桐の眼差しは、虚ろに空を泳いで今にもひっくり返りそうだった。

「緋桐さん?」

 心配した紗雪の言葉に応えることもなく、緋桐はその場に崩れ落ちる。

 残留思念と共感することによる精神への負荷――――シルヴィアの脳裏に、緋桐が殺人現場で初めて魔法を使った瞬間のことが思い起こされた。

 瞬間的に最大出力で行使された緋桐の魔法は、敵の逃走経路だけでなく、囚われ薬物を打たれた少女たちの残留思念をも同時に観測・共感してしまったのだろう。薬物によって理性と知性を破壊される感覚とはいえ、今際の際の苦痛と絶望に比べれば少なからず負担は少ない。が、それを十数人ぶんも味わうとなれば話は別だ。

 シルヴィアはとっさに緋桐を抱きとめ、淀みない手際で介抱をはじめた。

 術式痕の解析に移ろうとしていた朱莉と紗雪は手を止め、倉庫内を一目に見渡す。

 介抱を受ける緋桐、残された数人の被害者たち、気を失ったままの黒服たち。どれもシルヴィア一人では手に余る状況だ。

「追跡は……断念ですわね」

「仕方ないさ。どっちにしろ人手が半分に減ったんじゃ危なっかしいし」

「ええ。それにしても緋桐さんのあの戦いぶりは……」

「…………」

 三人が垣間見た、緋桐の秘めたる本質。敵の頭を撃ち抜かんとした彼女の冷酷さと才覚は、三人の心に戸惑いという一筋の影を落とした。



 ゆずを連れたイヴァナとリンドウが本拠地にまで帰り着いた頃には既に陽も落ち、日付が変わっていた。

 とある場末にぽつりと建つ陰気なクラブ。その裏口にクル・ヌ・ギアの本拠地へと続く扉がある。扉は錆と煤で隅々まで汚れきっており、お化け屋敷の入り口のようにおどろおどろしく気味が悪い。

 かびの臭いが鼻を突く薄暗い階段を降りていくと、イヴァナたちにとっては見慣れた地下トンネルが広がっていた。

 蜘蛛の巣のように幾度となく分岐を繰り返すトンネルを、イヴァナたちはより奥へ、より入り組んだ方へと迷わず突き進んでいく。二人の目的地は蜘蛛の巣の中央だ。

 最奥部の部屋の前にたどり着くなり、リンドウは愉快げに扉をノックする。部屋の主からの返事は一向に聞こえてこず、代わりに招き入れるように扉がひとりでに開いた。

「戻りましたヨー?」

「失礼します」

 部屋はコンクリート造りの質素な装いをなす書斎だ。中央に取ってつけたように高級そうなデスクが置かれ、やたらと黒光りして存在感を放っている。

「……先ほど、23人の少女が輸送されてきた」

 轟くような低い女性の声。追って備え付けのチェアが反転し、そこに鎮座する者の面貌が露わになった。

 部屋の主は、胡桃色の毛に覆われた狐の獣人――――眷属と呼ばれる幻獣だった。

「言い渡した人数は30、早急にと達したはずだが……?」

「私の不手際によりイシュタルの襲撃を許してしまい、直接連れ帰った者を含め計24名までしか確保できませんでした」

「必要となる最低限は揃えおおせたようだが、しかし誹りを免れる結果とは到底言えまい」

「……承知してます」

「処分は追って通達しよう。お前は下がれ」

「…………」

 獣人の冷たい視線に射抜かれたイヴァナは、解せないと言わんばかりに表情を曇らせ、おずおずと部屋から退出していく。

 扉が閉められ、イヴァナの気配が去っていったのを確認するなり、リンドウはほっと息つき手近なソファに腰を下ろす。ふてぶてしく足をテーブル上に投げ出す彼女の手には、何処から取り出したのか、黒服たちの名簿リストが握られていた。

「イヴァナちんも可哀想だネ~。まさかボクが、エレシュキガル様からじきじきに妨害を命じられているなんてサ」

「言うな。コリウスの飼育にしゃしゃり出てきた奴に非がある。勝手に投薬してくれるものだから、随分と手間取った」

「仕事の失敗を口実にして報酬を減らしていけバ、結果として予定通りの投薬量を推移すル…………何にしても先の長い計画だネ~。ちょっと退屈かモ」

「案ずるな、無聊の慰めならいくらでも用意してやる。……尤も、お前は奴の苦しむさまが見られるなら何でも良いのだろう?」

「そうだネ……イヴァナちんは最高にイイ表情を見せてくれるヨ」

 この部屋に至るまでの数時間、ずっと隣で苦悶していた少女の顔が脳裏によみがえる。リンドウは我知らず、股座に指を這わせていた。

 イヴァナから向けられる憎悪と殺意の眼差し。遺憾と煩悶の表情。苦痛を噛み殺す歯軋りから柳眉の機微に至るまで、一つ一つが鮮明に思い出され、そのたびに身体を淫らに震わせる。間もなくリンドウは絶頂した。

「…………愛してると言っても過言じゃないネ」

「はしたない奴だ」

「あ、そーいえば忘れてたケド。見つけたっぽいヨ、“本物”」

 リンドウの股座を拭き取るのに使われたあと、名簿リストはくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てられる。続いて彼女の懐から取り出された新たな名簿リストには、捕らえた少女たちの顔写真が並べられていた。

「ほう……」

「まさかあの子が“エーデルワイス”だったとは……ネ」




 救仁郷緋桐が吹奏楽部を退部したのは中学一年の冬のことだった。

 それまでの彼女の演奏技術は賞賛を享受することもなく、さりとて特別咎められることもない、平々凡々を絵に描いたようなつまらないものだった。

 誰に勝っているわけでもなく、負けているわけもない。しかし退部届を顧問へ提出するときの緋桐の胸中には、泥水のように混濁した敗北感ばかりが渦巻いていた。

 合奏中における個人の失敗は、すなわち全体の失敗となる。失敗を繰り返す無能には常に冷たい視線が纏わりつく。憤慨、辟易、或いは冷笑。そんな感情の矛先を向けられたくないが為だけに、奏者たちは自虐的なまでの鍛錬を積む。ただひたすらに己を殺し、周囲と同化する。誰にも称えられず、誰からも非難を受けぬように。

 ――――そんな機械的な作業工程が音楽と言えようか。

 緋桐には否定も肯定もできなかった。ただ窮屈さから逃げ出すことだけで精一杯だった。

 自ら選んだ吹奏楽という舞台から逃げ出した事も、まるで上達する気配すらない演奏も、すべてが惨めで仕方がなかった。

 対照的に、緋桐と行動を共にしたいという不純な動機だけで入部した高千穂ゆずはめきめきと頭角を現し、たちまち県でも有数の奏者として名を馳せるようになっていった。が、緋桐が退部届を提出したことを耳に挟むなり、後を追ってさっさと退部してしまったという。

 緋桐が喉から手がでるほどに欲した能力も名声も、ゆずにとっては単なる道楽の一部に過ぎなかったのだろう。

 それからしばらくの間、緋桐は何をするにしても憂鬱な気持ちから脱せなかった。

 学業から開放された放課後のひと時も、数日前までは音楽室へ足を運んでいた時間帯なのだと思うと気持ちが沈む。

「一緒にいたいだけだから、べつに未練なんてさらさら無いわ」

 安心させるつもりで向けてくれているのであろうゆずの笑顔が、心をいっそう濁らせる。悪意などこれっぽっちもない、ゆずなりの気遣いだと分かっているだけに尚重い。

 いつもなら楽しくて仕方ないはずの帰り道の談話が、一つたりとて耳に入らない。

 交差点でゆずと別れた直後、心にすっと解放感が広がり、追って自分への嫌悪感が影を落とす。大好きなものほど大嫌いになる自分はもっと大嫌いだ。

(私は何が好きだったんだろう……なんで好きになったんだろう……)

 沈みかけた夕陽が、町に交錯する光と影を等しく濃くする。

 ふと顔を上げてみれば、橙色に染め上げられた深閑たる路地に、長大な影法師が揺らめいていた。ほどなく影法師は崩れ落ちる。

 女子中学生の通学路に現れた全身黒ずくめの人物など、見るからに不審でしかないが、しかし考えるよりも先に緋桐の足は駆け寄ることを選ぶ。

 倒れていたのは殊の外小柄な少女だった。真っ黒なロングコートが影と重なり長大に見えていただけらしい。

 ダイヤを散りばめるが如く爛々と照るプラチナブロンドの間に、白磁の肌が覗く。東洋人離れした、否、西洋においても稀であろう完璧な目鼻立ちの美少女だ。あまりに洗練されすぎたその面貌は最早マネキンのようですらあり、ストイックに絞られ起伏を欠いた肉体は刀剣のようでもある。背格好から、年齢は緋桐よりも2つほど下に見える。

 そんな絶世の美少女が、住宅街に似つかわしくない黒尽くめの服装で、意識を失い倒れ伏している。どれひとつとして緋桐には理解の及ばない状況だった。しかし目の前で倒れている人を無視するわけにはいかない。

 自宅に戻れば、ある程度までなら介抱できる。緋桐はあわてて少女を抱き上げ走りだした。

 抱きかかえた少女の身体は殊の外軽く、本当に人形なのではないかとすら疑わせる。チューバを持ち運ぶのと大差ない感覚で、緋桐はさしたる苦もなく少女を自宅まで運び入れた。

 居間のソファに寝かせると、いよいよもって高価な西洋人形にしか見えない。なまじ背景が賃貸アパートの安い畳と壁紙なせいで、分不相応な調度品に大枚を叩いてしまったような錯覚をする。

 毛布をかけてやると少女の寝顔が幾らか穏やかになったような気がした。

 少女の身体にはこれといった外傷もなく、出来ることもし尽くして緋桐は安堵とともに一息つく。

 いわゆるハーフアップの髪型に纏められたプラチナブロンドが、窓越しの夕陽を受けてなおも煌々と輝いている。鏡面のようなその光輝に見入るうち、徐々に金管楽器のボディが重なって見えてきて、緋桐ははっと目を逸らした。

 今や吹奏楽を思い出させるものにすら拒否反応を示してしまうようになった自分を省み、また寂寥に暮れる。

 昔は音楽も楽器も大好きだった。大好きだからもっと奏でたい、触れていたいと思って吹奏楽部に所属したのに、いつの間にか何が好きだったのかすら忘れてしまっていた。

 棚に飾られているオカリナ。長らく存在そのものを忘れ去られていたそれが、緋桐が音楽の道に興味を示すこととなった最初のきっかけだった。

 そのオカリナはどんな一張羅よりも大切な相棒だった。技術もメロディーも気にせず自由奔放に吹き散らし、そのたびに至上の解放感と充足感をくれた。

 置物同然の扱いになってしまったオカリナを数年ぶりに手に取り、埃を払う。ひんやりとした手触りが、緋桐を拒絶しているような気がした。

「……誰」

 すぐ前方から発せられた声が、竪琴の旋律のように優しく耳朶を撫でる。視線を戻すと、目を覚ました少女がどことなく緊張気味な面持ちで緋桐の顔を覗き込んでいた。

「あっ、起きたんだ」

「…………ここはどこ」

「覚えてないの? 道端で倒れてたから、私の家に運んできたんだよ」

「……介抱を?」

「うん。大したことはしてないけどね」

「感謝する」

「……まだ無理はしないほうがいい、と思う」

「そう」

「…………」

「…………」

 警戒を解いた様子の少女が、しかし更にまじまじと顔を見つめてくる。手持ち無沙汰を持て余す緋桐はよけいに落ち着けず、たまらず口を開いた。

「その……何か?」

「……何故泣いていたの」

「見られてた?」

「……すまない」

「あっ、謝ることないよ! ただ、単に個人的な悩みで……」

「……オカリナ」

 少女の視線が、緋桐の手に握られたオカリナを捉える。不思議とすべてを見透かされているような気がした。

 緋桐が抱える苦悩の原点は、確かにそのオカリナにあった。

 こんな苦しみは今すぐにでも手放したい。悩み疲れた緋桐は、半ば押し付けるようにオカリナを少女に手渡していた。

「吹いてみて」

 唐突な緋桐の言葉を受けて少女は数秒ほど固まっていたが、すぐに無言のままオカリナに口を付けた。

 少女はどこかで聴いた昔の流行歌を奏ではじめる。リズムは安定しないし、ところどころ音程を外していて音色にも透明感がない。ひどく稚拙な演奏だ。

 オカリナは吹奏楽の埒外だが、それでも緋桐のほうがまだ上手に吹けるだろう。

 しかし少女の演奏には躍動感があった。

 吹奏楽部に所属してから久しく忘れていた、自由で伸び伸びとした演奏。緋桐の思い描く理想の音楽を、少女はいとも容易く、無自覚のままに体現してみせたのだ。

 ――――私は一生、この子の演奏に勝てない。

 折れる直前で何かにつっかえているより、いっそ一思いに折ってしまったほうが良い。このとき緋桐の心は、嫉妬や未練などの暗い感情と合わせて、気持ち良いまでに砕け散った。




 心身共に磨耗した緋桐をまどろみから呼び起したのは、窓に差し込む陽の茜だった。

 眼前には上段ベッドの底面と、シルヴィアの端正なる面貌。どうやら緋桐は寮に運び込まれ寝かされていたらしい。

 時計の針は午後6時を指している。あれからまたさらに5時間近く眠ってしまったのか、と緋桐は肩を落とした。

「……起きた」

「なんだか私、気絶してばっかりだね……今日だけで10時間くらい寝てるかも」

「いや、18時間」

「えっ? …………まさか」

「あれから丸一日以上眠っていた」

「……心配かけてごめんね」

「身体に異常は」

「ないよ。多分」

「そう」

 確認を取るなり、語るべきことも思い浮かばず口を閉ざしてしまう。もはや何度見たかも忘れた光景だが、緋桐はいつの間にかこの沈黙に慣れてしまっていた。今ではむしろ心地良いと思える。それも夢の中に見たかつての思い出とは真逆の立場だと思うと、妙な感慨すら湧いてくる。

「もしかして今までずっと……看ててくれたの?」

「……」

 シルヴィアが静かに首肯する。よく見ると彼女の目元にはうっすらと隈が浮かんでいた。

「ごめんね……何もしてないのに寝てばっかりだよ、私」

「……ヒギリは自分を卑下しすぎる」

「そうかな」

「今回は充分すぎるほどに活躍した。もっと誇るべき」

「みんなが……シルヴィアちゃんがいたから怖くなかった。いつだってそう。シルヴィアちゃんがついてるって思えば何でも大丈夫だし、何にだって立ち向かえる」

「…………」

「思えば初めて会った時から似た気持ちを懐いてた。シルヴィアちゃんと会ったとき、テレビに見る有名人と対面したような……そんな感覚がした。そばにいるだけで不思議と誇らしくなってくるんだ」

「…………」

「たぶんその気持ちの正体は……憧れだったんだ。私はずっと、シルヴィアちゃんの奏でるオカリナの音に憧れてた」

「……思い出したの」

「うん、断片的にだけどね」



 斜陽が山々の彼方へ沈みはじめ、同時に空から赤系の彩りを奪っていく。夕空のパレットは徐々に藍色に侵食され、然る後に闇へと移り変わった。

 ひんやりとした風が紅葉の予感を香らせる。残暑もすっかり鳴りを潜めてきた。

 少女は風に揺れるカーテンを眺め、ふと誰に告げるでもなく独りごちる。

「冬の訪れか先か、それとも……」

 二の句に続くであろう不穏な言葉。口は災いの元という諺をとっさに思い出した少女は、あわてて口を噤んだ。

 少女の身体は随分と弱っている。ベッドから下りることすら叶わず、今さっきもすぐ脇の窓枠に寄りかかる形でようやく半身を起こし、外を眺めていた。

 さながら老人の如く衰弱している少女だが、外見はとてもそうは思えないほど若々しく麗しい。目鼻立ちは薄いながらも気品ある美しさを有し、腰まで伸ばした黒髪は絹糸よりも優しい手触りを誇る。

 高校生から大学生といったところの年齢に見えるが、大人びた雰囲気と所作が未成年のそれとはかけ離れている。一言に表すなら、妖しい。がらんとした部屋に一人佇む姿は、一輪だけ咲いた彼岸花のようだ。

 そんな少女の部屋に、扉をノックする音が響き渡る。やって来たのはアナトだった。

「あまり風に当たりすぎると身体に障るよ。最近はだいぶ涼しくなってきたからね」

「無用な心配だわ。どちらにしろ先は長くない」

「出来ればその言葉は聞きたくなかったな……尚更無理をさせられないよ」

 アナトは花瓶に生けられた向日葵を抜き、どこからともなく取り出したコスモスの花を代わりに差す。抜かれた向日葵は瞬く間に枯れ萎み、塵芥となってしまった。

「もうそんな季節……向日葵畑は今日が見納めだったのかしら」

「そうだね。このあとコスモスに植え替えてこようと思ってるよ」

 魔術を統べる幻獣・アナトにとって、畑の花をすべて入れ替えることなど造作も無い。ものの30分ほどで向日葵畑は完全に植え替えられてしまうことだろう。

 少女は窓の向こうに広がる一面のコスモス畑を想像する。コスモスは彼女が特に好いている花だ。しかしそれをアナトを持ってくるのは、決まってよくない報せを運んでくる時ばかりだった。

「…………何かあったのかね」

「クル・ヌ・ギアの動きが最近かなり活発になってる。おそらく近い将来、何かが起きるだろうね」

「エレシュキガルのやつ……何を考えてるのやら」

「改革派の彼女のことだ、きっと大きく出てくる……。僕は今週末にでも“眷属”たちを集めて臨時会合を開こうと思う。その間、面倒は代わりの子に任せていいかい?」

「構わないが……いい機会だわ。シルヴィアに頼んで貰っていいかね?」

「わかった」



 紫煙が風に攫われ、藍色の空に溶けてゆく。そのさまを眺めていると、いつか自分自身まで煙になって空に霧散していくのではないかと、下らない不安感に襲われる。

 煙草は特別好きなわけじゃない。煙草を吸っている間は誰もが孤独だ。根元に向けてちりちりと進む火を見つめているとき、自分だけの世界に浸っていられる。孤独な世界は沈思黙考するのにこの上なく適している。

 手持ちの最後の一本を吸い終わり、相模は眼前の現実へ意識を引き戻した。

 イシュタルの魔法少女たちが潜伏先として使っていたマンションの一室。扉を開くと、中では二人の魔法少女がテーブルを挟み話し合いをしていた。朱莉と紗雪だ。

「遅くなってすまない――――現場に残ったというのは君たちか」

「お疲れ様ですわ、相模さん」

「緋桐はブッ倒れて、シルヴィアはその看病をするって言って聞かなくて……結果、あたしら二人しか現場に残ってないッスね」

「付け加えて、アナトが何やら緊急で開かれる会談に出席するという話も聞き及んでますわ。おそらくその間のイシュタルの事務や、アナトの警護にそれなりの人数が割かれると考えられます。どちらにせよ二人が限界でしてよ」

「そうか……やはりクル・ヌ・ギアの動向をかなり警戒しているんだな」

「今回の集団拉致事件で糸を引いていたのがクル・ヌ・ギアだったと分かった以上、警戒せざるを得ませんわ」

「あれだけ強引な手で魔法少女を補充したんだから、近いうちに何か仕掛けてくるのは間違いないね。あたしらも備えなきゃ」

 にわかに覚悟の輝きを宿した朱莉と紗雪の目を前にして相模は途方に暮れる。敬愛する上司を亡くし未だ失意に沈んだままの相模と違い、腹の決まり方が違う。

 年の程は10歳ほど離れているが、経験において相模は二人に遠く及ばない。その差だろう。

 全く情けないことに、年長たる相模が一番のビギナーなのだ。

 能力も経験も劣っているが、大人として少女たちを守り導かねばならない。この類の重圧や責任感というやつは、今まで庇護される側であった相模にとって初めての経験だった。



 オフィス棟の扉を開くと、事務員や魔法少女たちがひどく慌しげに駆け回っている様子が目に飛び込んできた。おそらくアナトの会談出席にあたって人員の振り分けが発表されたのだろう。皆、それぞれの仕事を早急に済ませようと必死のようだ。

 枝里も調査の最中に連絡を受けて急ぎ帰ってきた一人だ。

 周りの熱気に圧されて逸る気持ちを抑え、混雑するオフィスの中にアナトの姿を探す。

 時を同じくして、アナトが二階へ続く扉からオフィスに戻ってきた。向こうもこちらに気付いたようで、人混みを縫って歩み寄ってくる。

「やあ。連絡は既に?」

「えぇ、急いで帰ってきたわ。それで私の配置はどうなるの?」

「枝里には本部に残ってもらう事にしたよ。僕が不在の間、代理で指揮を執ってほしい」

「私なんかに任せて大丈夫なの? 大海先輩とか、他にもっと適任な人がいるでしょう」

「指導者としてより成長して貰える良い機会かな、と思ったんだ」

「それは嬉しいけど、中々なプレッシャーね……」

「何も起こらなければ、特にすることも無い。そう気張る必要はないよ。……ところで、独自捜査のほうはどうだったんだい?」

「まぁ、大方の見当はついたのよね」

 そう言うなり、枝里はポケットから一枚の写真を取り出した。写真は望遠で撮影したものなのか、少々画質が荒い。写し出されているのはマンションの前に佇む黒服の不審な男。その面貌はアナトもほんの少しだが目にした覚えがある。昨日シルヴィアたちが捕まえた犯行グループのうちの一人だ。

「やっぱり架空の金融組織だったの。この男、見覚えがない?」

「昨日、シルヴィアたちが捕まえて異対部に引き渡した連中の一味だね」

「緋桐ちゃんと家具を整理しに行ったあの日、家をこいつが見張っていたのよ」

「! ……まさか緋桐までもが標的だったとは…………早めに保護できて良かったと言うべきか」

 アナトはイタチ顔の表情から複雑な心情を覗かせる。

 犯罪組織から緋桐を守りおおせたこと自体は素直に喜ぶべきことなのだが、しかしその陰には20名もの被害者たちが隠れている。彼女たちを緋桐と同様に無傷で守り抜くことができなかったのだと思うと、手放しで安堵してはいられない。

 そんな忸怩たる想いをひそかに察し、枝里は早々に話題の焦点を犯罪組織へと向けることとした。

「この連中、魔術犯罪の下請組織らしいのね?」

「うん。今回はクル・ヌ・ギアに雇われて誘拐事件を実行していたようだね」

 魔術犯罪のなかでも、今回の誘拐事件のように長期的かつ連続して犯行が繰り返される場合、実行犯の術式痕は繰り返し現場に残さざるを得ない。それが少人数にであればあるほど、術式やマジックアイテムの情報はより多く晒されてしまう。そういったリスクを分散させる為に重宝されるのが下請け組織だ。

 下請け組織を雇い人数を水増しするか、あるいは実行を委任すれば、依頼者にかかるリスクを極端に分散させることができる。

「どうやら前に関わった詐欺事件で使った架空組織を流用、救仁郷夫妻を騙していた……らしいのよ。でも少し疑問もあって」

「他に誘拐した子たちと違って、緋桐にだけこれほど周到な手口を用いるのは不自然だ、ってことだね」

「そう。わざわざ家庭環境を圧迫するだけして、ころあいを見たら両親を殺害……あまりに手が込みすぎてるのよ」

「親族を殺害までされているのは、緋桐の家庭くらいだね。ほかの地域からも被害者は出ていたようだから、まだ断定はできないけど」

「聴き込みもより広範囲で展開しなきゃいけないわね……。和田町にばかり被害者が集中していたことと、緋桐ちゃんにだけ異様に手の込んだ追い詰め方をしていたことから考えて……やはり緋桐ちゃんか救仁郷家そのものにこの犯罪計画の中心軸があったことは間違いなさそうなのよ」

 先日発見した写真も気になる、とまで言及しようとしたところで、枝里は言葉を飲み込む。

 救仁郷家とは別の家族が映された謎の写真。それと事件の中心が何かしらの形で密接に関連しているように思えてならないが、しかし現状、具体的な裏づけがあるわけではない。予感に過ぎない情報を手がかりとするわけにはいかないだろう。

「……まだ伏せておきたい情報があるのかい?」

「お見通しなのね。……まぁ、これはまだただの勘でしかない段階だから。これから捜査の中で裏付けていきたい所なの」

「うーん……やっぱり代理指揮は別の子に回して、枝里には独自捜査を続けて貰ったほうがいいかもしれないね」

「いえ、代理指揮は請け負うわよ。むしろその方が調査を進めやすいから……代理とはいえ代表権限を利用して魔法少女たちに手伝って貰うことにするけど、良い?」

「普段ならあまり褒められた事ではないけど……この件は僕としても興味深い。少数なら許可するよ」

「助かるわ」



 イシュタルの食堂出入り口近くに売店がある。ここではインスタント食品から文房具に至るまで様々な雑貨品が揃えてあり、在庫にない物でも注文をしさえすれば大抵は三日とせずに届くため、便利な調達屋として魔法少女や職員たちに重宝されている。

 店主はカウンター奥の椅子にいつも腰掛けている女性、鶴喰里歌つるばみさとか。

 売店の店主と魔法少女のマネジメントを兼任するという激務に身を置きながら常にカウンターに待ち構えている彼女は、どんな仕事も人知れずこなす経験豊富なイシュタルの御意見番として皆の信頼を集めるようになっていた。

 買い物とは別に人生相談を持ちかけにくる魔法少女が、今では売店の主なユーザーだと専らの評判である。

 魔法少女・シルヴィアは、イシュタルのあまねく魔法少女たちに知られし鶴喰里歌と会話と交わしたことが殆どない。そもそも売店に訪れることも少なく、訪れてもせいぜい軽食品を一つ二つ買っていく程度だった。しかし今、シルヴィアは初めて購買に雑貨を注文しようとしていた。

「……注文がしたい」

「あらー、珍しいですねー。何を仕入れて欲しいですかー?」

「…………を」

「はてー? 聴こえませんでしたー。もう一度言ってもらえますー?」

「……」

 淡白な物言いに定評のあるシルヴィアが珍しく口ごもる。カウンター前に立ちすくむ姿は、これまでほぼ接点が無かった里歌の目にすら珍しかった。

 判然としない二の句に里歌は首を傾げるばかりで、シルヴィアが欲するものの察しもつかない。

 誰かが横から促してくれる状況でもなく、心なしか途方に暮れたように見える表情のまま凍りつくシルヴィア。獣同士の睨み合いが如く、互いの動向に傾注したまま鶴喰里歌とシルヴィアのあいだで時が止まるようだ。

 やがて意を決したシルヴィアは、ほんのりと赤らむ頬を隠すように俯いて、ぼそりと呟いた。

「…………オカリナ」

「おかりなー? 笛ですよねー。はいー、調達しておきますねー」

「……お願い」

「はい~」

 里歌の微笑みがほんの一瞬、意味深げな影を見せる。すると、事情を察せられてしまったと思ったらしいシルヴィアは、急ぎ足でその場を早々に立ち去ってしまった。

 無論、意味深げな表情を見せたのは何てことのないハッタリだったが、シルヴィアのうぶな反応から逆説的に事情は察せた。

 カウンターに頬杖を突いた里歌は、誰に告げるでもなく呟く。

「若さですねー」



 会議を済ませた相模刑事が自身の住居に戻ってから数十分。ようやく休息の時を得た朱莉は、浴室で一人シャワーに打たれていた。

 浅く日焼けした健康的な肢体を水滴が流れ落ちていく。水滴の流れるさきには、厳めしい面持ちの龍がいた。

 朱莉の背中に大きく描かれた青龍の刺青。その物々しい眼光が鏡越しに朱莉を睨み付け、その場に釘付けにする。

 衣服を脱ぐたびに姿を現す龍は平面的な線の集合体でありながら、生ける朱莉の心に爪を立て、牙を剥く猛獣だ。一度目が合ってしまえば、眼光を遮られない限り決して動くことが出来ない。否、動くことを許されない。

「朱莉!!」

「っ…………!」

 食い殺される――――そう思った矢先、浴室に入ってきた紗雪があわてて朱莉の背中を抱擁した。

 紗雪の乳白の肢体が龍を覆い隠し、朱莉は総身を縛り付けていた緊張からようやく開放された。いつの間にか止まっていた呼吸が唐突に再開し、握り潰されそうな圧迫感を肺に感じる。

 泣き出したいほどの怖気の中で、紗雪の体温だけが温かい。

「こんなこと、久しぶりですわね……急にどうしたんですの?」

「ごめん……寮の浴室と配置が違うから……不意に目が合ってさ」

「もう……わたくしが一緒にいること、忘れないで欲しいですわ。わたくしが朱莉の背中を守りますの」

「…………紗雪、顔見せて」

 言われたとおりに紗雪が肩越しに顔を覗き込ませると、朱莉はすかさず唇を奪う。はじめは突然のことに驚いていた紗雪も、すぐに朱莉を受け入れて唇を啄ばみ始めた。

 それからしばらくの間、シャワーから発せられるものとは別の水音が浴室に響いていた。



魔法少女ヒギリ×シルヴィア『加速する拳』 終

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