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魔法少女ヒギリ×シルヴィア  作者: 鈍痛剣
Chapter2.加速する拳
4/13

『加速する拳』1

 朝の涼しい空気に触れた肌が無駄な力を宿す。これではいけないと深呼吸を繰り返して身体から力を抜く。息を吐くごとに筋肉が弛緩していき、それに反比例するかの如く意識が研ぎ澄まされていく。

 形だけ落ち着いた緋桐は、正面に向き合ったプラチナブロンドの美少女を改めて見つめる。相手はとっくに準備ができているようで、鷹のように鋭い視線をこちらに向けていた。

 寮棟の地下トレーニング場に立つ二人の間には、凛と張り詰めた空気が流れていた。

「準備できた……かも。シルヴィアちゃん、お願い」

「分かった」

 プラチナブロンドの美少女・シルヴィアは緋桐に浅く一礼すると、さっとファイティイングポーズに移る。緋桐のほうも、彼女から教わったマジカルマーシャルアーツの基本を思い出して構えをとる。

 無音のトレーニング場にゴングが鳴ったような気がする。二人の対戦形式の手合わせが始まった。

 シルヴィアはファイティングポーズのまま微動だにしない。強者の余裕が生む出す、むしろ虚無的なまでの威圧感がそこにあった。

 構えをとったはいいものの、緋桐の頭は真っ白だ。体重の動かし方や狙うべき部位など、理屈だけなら身体に染み付いている。攻撃するための準備は既に纏まっている。緋桐を迷わせているものはそれよりももっと手前にあった。

 攻撃することそのものに迷いがあるのだ。

 決心のつかないままに片足を踏み出し、どこに定めたわけでもない拳で突く。当然ながらそれは簡単にかわされ、逆に相手の拳を眼前に示されただけに終わった。

「う……参りました」

「…………」

 拳を収めると無言のままに一礼し、シルヴィアはトレーニング器具のほうへ戻っていった。

 今日はサンドバッグではなく木人椿(もくじんとう)――丸太に木棒を備えて人の形を模した、中国の南派武術で用いる練習具――を使うらしい。木の軋む音が響きわたり、寂しく消えていく。

「ごめんなさい。えっと、怒って……る?」

「怒ってない。……私の流派ではヒギリの適正と噛み合わない」

「やっぱり、才能ないのかな……。殴りかかっていくことに恐怖心があって」

「…………」

「戦わなきゃいけなくても、どうしたって躊躇ってしまうよ……」

「傷つける痛みを知らなければ、痛みから身を守ることもできない」

「………………うん」

 シルヴィアの平坦な語調が殊更に緋桐の胸に刺さる。いくら教えても成長する素振りがないことを、彼女は怒ってるのかもしれない。怒っている人ほど怒っていないと言うのがセオリーだ。

 申し訳なさに力なく俯いていると、ふと木人椿のきしむ音が止んだ。見上げてみると、シルヴィアが緋桐に向き直っていた。

「上福本紗雪の流派なら相性は悪くないはず」

「それって……」

「彼女の教えを受けるといい」

 待っている、と続けるとそれっきり、シルヴィアはまた木人椿のほうへと向き直ってしまった。

 どうやら本当に怒っておらず、率直な評価を述べただけだったらしい。それどころかより相性のよい流派と師を薦めてくれたのだ。

「あ、ありがとう! ……紗雪さんに話してみる!」

 やはりシルヴィアは冷たくなどない。そう思うと緋桐は、どうしようもなく嬉しくなってしまうのだった。



 魔法少女派遣“イシュタル”の本部は二つの棟から構成されていて、所属魔法少女たちの生活に関わる施設は寮棟、仕事の連絡・作業に関わる施設はオフィス棟、というふうに使い分けられている。

 オフィス棟の地下一階には術式不干渉結界アンチマジカルフィールドと呼ばれる、魔術や魔法などの異能力を封じる結界が常時展開されている。ここは机と椅子と拘束具のみが配置された簡素な部屋で、マジックミラーを隔てた隣の監視室と合わせて、刑事ドラマなどで見られる取り調べ室の様相を呈していた。

 現在、取調室には椅子に拘束された少女と取調べを行っている刑事の2名、監視室にはそれを見守るスーツ姿の大イタチと気だるげな巨乳の女性の2名、合計4名がオフィス棟地下にいた。

 取調室の刑事は、苛立たしげに机をかつかつと叩き、相手の少女が口を開くのを待っていた。

 一方で少女のほうは、ちらちらと落ち着きなく周囲を見回しては青ざめていくばかりで、まるでまともな言葉を発しそうにない。

「…………俺は刑事だけどな、取り調べに手加減は一切不要だと教えられてきた。お前は見たところ十四、五歳あたりのようだが、関係ない。このままクル・ヌ・ギアのことについて口を開かないなら強硬手段に出る。その前にさっさと話しておけ。忠告だ」

「ヒィ……ィイ…………あーぁぅ…………うゥ」

 少女は先日シルヴィアたちが捕獲した、瀬川刑事の殺害・砂垣匠ならびに協力者二名殺害の犯人として取調べを受けている。

 捕獲当時は白いローブに覆われてよくわからなかった容貌も、今では蛍光灯の下にはっきりと確認できる。

 ぱっちりとして吊り上った目に高く尖った鼻、への字に結んだ口元。幾重にもロールさせふわふわする茶髪とは対照的に、気の強そうな印象が全体に見られる。ほんのりと赤らんだ白色の肌に可愛らしいそばかすを浮かべた北欧系の少女だ。

 そんな生来の刺々しい印象もつい先ほどから失せはじめ、精神に失調をきたし始めているような素振りが見てとれる。

「おい、口を開けと言ってるんだ!! 4人も殺してまで奪ったあの宝玉で、クル・ヌ・ギアは何をするつもりだ!? ほら、答えろよ!!」

「っィイ…………ヒィ……ヒッ、ハァ……ア」

『相模さん、落ち着いてください』

「…………すいませんアナトさん。少し休憩入れましょう」

 相模はスピーカーを通して隣の監視室から届いた言葉を受け、はっと我に返った。恩師を殺した相手が目の前にいるという状況はどうしたって彼の激情を煽る。もはや取り調べというより、怒鳴り散らしているだけにしか過ぎなかった。

 監視室から見守っているスーツ姿の大イタチ・アナトは、少女の尋常でない様子が少し気がかりだった。

「あの子、様子がおかしいね。目の焦点が合ってない」

「魔術的に調合したドラッグかしら?」

「恐らくはね。そうとう酷いものを服用していたようだ」

「情報を漏らされるくらいなら壊してしまったほうがいい、っていう事なのね」

「らしいやり方だよ。リハビリが思いやられるなぁ……」

「私は仕事が詰まってるから、そっちは回さないでほしいわ。仕事のほかにも気になってるコトはあるし」

「枝里にはかなり負担をかけてしまってるからね……仕方ない。僕が引き受けるよ」

 頭を抱えるアナトを横目に、気だるげな女性・枝里がカップうどんを取り出す。机にある電気ポットからお湯を注ぐと、欠伸を噛み殺して背もたれに体重を預けた。目の下にはくまが浮かんでいる。彼女が疲れ果てていることは明白だった。

「ところで仕事のほかに気になる事って、何なんだい?」

「緋桐ちゃんの両親の件。借金をしていたっていう金融組織だけど……聞いたこともない所だから少し気になってて」

「あぁ、それは僕も感じていた。あれはどうにも違和感が拭えないね。近いうちに本格的な探りを入れなきゃ」

「そういうわけで、クル・ヌ・ギアの子にはしばらく構ってられないかも」

「引き渡しの日時も、異能犯罪対策部と話し合わないといけないなぁ……」

 アナトは改めてマジックミラーの向こうでうなだれる相模の背中に目をやる。憤りとやるせなさを滲ませるその虚脱ぶりは、アナトに新たな憂鬱の種を予感させた。



 この数日間、早朝にシルヴィアから稽古をつけてもらうことが緋桐の新しい習慣となっている。トレーニング場に残留するシルヴィアの強い思念を無意識的に読み取っていたため、緋桐が基本をものにするまでの時間は驚異的に短かった。ところが応用の段階に入った途端に、緋桐の成長は全くと言っていいほどに止まった。

 応用の段階に入ってから“相手を攻撃するための技術である”ということをより強く意識するようになり、躊躇いが生まれてしまうのだ。

 仕事でシルヴィアの足を引っ張らないためにも、早急にこの躊躇いを拭い去らねばならない。

 トレーニングでかいた汗を流したら急いで紗雪に頼みに行かなければ、と緋桐は思う。

 二人は階段を上っていき、寮塔一階の最奥にある大浴場へと向かう。

「あっ」

「あら」

 更衣室に入ると、ちょうど紗雪が脱衣しようとしている最中だった。脱ぎかけの衣服から見え隠れする胸は形よく整っていて、枝里ほどではないがそれなりに豊満であった。

「わたくしの胸に興味がありまして?」

「いえ……ちょっと羨ましいなって」

「ふふ、正直ですわね」

 シルヴィアの視線が一瞬、緋桐と紗雪の胸を行き来した気がした。悲しいことに緋桐のそれは紗雪の半分くらいのサイズしかない。もっともシルヴィアに至っては全く無いに等しいのだが、この中で一番幼いであろう彼女では仕方がない。

 着替えながらふと思い出したように緋桐が問う。

「そういえば朱莉さんは一緒じゃないんですね?」

「朱莉は部屋のシャワーで済ませてしまうタイプですの。私は単に気まぐれで朝風呂に来ましたけれど」

「なるほど。確かに朱莉さんはそんなイメージですね」

 紗雪と話しながら準備する緋桐をよそに、シルヴィアはあっという間に衣服を脱いで浴場へ入っていった。その振る舞いはほんの少しだが慌てているように見える。

 なにかまずいことでもしたかな、と不安になる緋桐の横顔を、紗雪は妙ににやにやした顔で見守っていた。

 追って二人も浴場に入る。シルヴィアは入り口から最も遠い蛇口の前にバスチェアを構え、既に体を洗い流していた。

 相変わらずにやにや顔の紗雪はそろそろと近づいていき、シルヴィアの隣に陣取る。緋桐も紗雪の隣に陣取り、一段落したところで恐る恐る本題を切り出した。

「あの……紗雪さんに頼みたいことがあるんです」

「頼み、とは?」

「紗雪さん流のマジカルマーシャルアーツを、私に指導してほしいんです」

 意を決して頭を下げてみると、紗雪はきょとんとした顔で返してきた。緋桐の畏まった態度のせいで拍子抜けしたらしい。

「それはそれは……何故わたくしのもとで?」

「シルヴィアちゃんに指導してもらっていたんですけど、紗雪さんの流派のほうが向いていると助言を受けまして」

「ふふ……っあはははは!」

 緋桐が説明を終えたとたん、紗雪はせきを切ったように笑い出した。それも今までの上品で静かな笑いとは違い、腹を抱えるようにして笑っている。

 もしかして馬鹿にされているのではないかと緋桐は一抹の不安を抱く。しかしそれは杞憂だったようだ。

「な、なにか変なこと言いました?」

「いえ、畏まった様子で当たり前のことを仰るので、なんだかおかしくって」

「当たり前……なんですか?」

「シルヴィア流のマジカルマーシャルアーツを完全にマスターできる人など、シルヴィアを置いて他にいるわけがありませんのよ」

「それってどういうことですか?」

「シルヴィアの魔法は、時間を止めて観察・思考をするというもの。一瞬の戦闘でも無限の選択肢をもつため、できることを絞り込む必要がない――――つまり、覚えるべきことが通常よりも遥かに多くなるのです」

「なるほど。あ、でも基本の部分は一応、全部覚えられました。私の魔法でトレーニング場に残ってるシルヴィアちゃんの思念を読み取ったら、すんなり覚えきれて」

「まあ。恐ろしいまでの逸材ですわね……。では何故に向いていないと?」

「応用の段階に入ってから、人を傷つけることへの恐怖、みたいなものが生まれはじめて……」

「それは、そうでしょう。シルヴィアは本来排除されていた残酷な技法をも復古させていますの。身体の破壊や容赦ない殺害のために特化しているのだから、本能的に恐怖を抱くのは当たり前のことですわ」

「身体の破壊……」

 今朝まで習っていた技の数々を生きた相手に使ったとき、どんなふうに炸裂するのだろうか。骨を砕き急所を潰すさまが容易に想像できて、緋桐はにわかに戦慄する。やはりそんな拳を積極的に誰かに向けることなど出来そうにない。

「それではお引き受けしましょう。確かに、貴女には私のやり方のほうが向いてそうですわね」

 にっこりと微笑み了承した紗雪は体を洗い終えると、先んじて湯船に浸かっていたシルヴィアのほうへと歩み寄る。またもやにやにや顔に変貌すると、紗雪はシルヴィアの向かい側に浸かった。

「おそらくシルヴィアも、貴女にああいった過激な技を使って欲しくないのでしょう……ね?」

 ずばり言い放たれた言葉に、シルヴィアは目をそらすかたちで応える。それは暗に肯定しているに等しかった。



 数あるカップ麺の中でも、とりわけカップ焼きそばは手間がかかる部類に入る。

 お湯を入れて待つだけでなく、湯切りをしなければならない。粉末をかけておくだけでなく、ソースを麺に絡ませねばならない。それらは至極単純な作業ではあるものの、他のカップ麺にはない“料理をしている感覚”が得られる。

 料理が不得手な枝里にとってカップ焼きそばとは、プラモデルを組み立てるような感覚で楽しめるものだった。

 ソースを絡めた麺に小さく息を吹きつけたあと、一気にすする。

 食堂の端の窓際の席でカップ焼きそばを堪能する枝里は、自身がマネジメントする4人の魔法少女を待っていた。

「お疲れさーん。あれ、紗雪たちは来てないん?」

「まだ来てないのよね」

「ふーん。あたしが一番乗りかい」

 最初にやってきたのは朱莉だった。夏の終わりなだけあって、彼女の肌は数日前よりもいっそう小麦色を濃くしている。

 朱莉はあくびをしながら枝里の向かいに座る。残りの三人が到着したのは、まさにその直後であった。

「すいません、遅くなりましたー!」

「ううん、そんなに待ってないから大丈夫よ」

「あら、朱莉は先に着いていたのですね」

「あたしも今来たばっかりだよ」

 緋桐とシルヴィアは枝里の隣に座り、紗雪は迷わず朱莉の隣に座る。三人は一息つくと、まだ少し濡れている髪をバスタオルで拭く。

 カップ焼きそばを急いで平らげ、枝里は資料を手にミーティングを始めた。

「今回のお仕事は、表社会で横行する誘拐事件の捜査よ。表社会のアナログな手段では不可能と考えられる事件ばかりで、異対部は異能が関与してるものと見てるらしいわ」

「被害者の共通点は」

「女子中学生を中心に、10代の女の子ばかり攫われてるみたい。特に学校では所謂いじめを受けているタイプの子が多いそうね」

「当然だけど、気分のいい話じゃないなー。十中八九、人身売買でしょ。最悪、魔法少女の傭兵隊でも作ってるんじゃ?」

「相模さんが前回に引き続いて組むけど、あまり時間がないみたいだから殆どこの4人に任せることになるそうなのよ。みんな、くれぐれも無理はしないようにね」

「ところでその、現場っていうか、地域はどこなんですか?」

「緋桐ちゃん……あなたの住んでいたあたりよ」



 ミーティングから1時間後、シルヴィアと朱莉の二人はかつて緋桐が住んでいた町――和田町――の神社に足を踏み入れていた。

 神社を取り囲む鬱蒼とした林に身を隠した二人は、神社の石階段の前を通るセーラー服の少女たちに注目する。鞄を手に友人たちと談笑する彼女らは近所の中学校の生徒だ。

 彼女らは学校のある方角とは逆のほうへ歩いている。まだ午前中だというのに下校しているのを鑑みるに、今日は試験か何かで早めに解散になったようだ。捜査を始めようとしていたシルヴィアと朱莉にはちょうどいい。

「|変身≪メタモルフォーゼ≫」

 朱莉は林の奥に身を隠し、小声で変身魔術を詠唱する。すると身に着けていたシャツとホットパンツが淡く輝き、先ほどの少女たちと同じセーラー服に変貌する。

 セーラー服の清楚ないでたちに慣れないらしく、朱莉はほんの少し頬を赤らめた。

 続いてシルヴィアも林の奥に隠れ、小声で変身魔術を詠唱する。変身したシルヴィアは清楚で可愛げのある衣装も相まって、いつも以上に人形のように見える。プラチナブロンドの髪がセーラー服の襟の青色と対照的でやけに絵になる。絵になりすぎて、それはそれで問題だった。

「ちょっと待て」

「……?」

「さすがにあんたのルックスじゃ目立ちすぎるだろう」

「……」

「ここはあたしがおとり捜査を引き受けるよ」

「粟ヶ窪朱莉の風体では“いじめを受けている”ようには見えない。被害者の条件に一致しない」

「そうかい? ま、そこはあたしの演技力でカバーさ!」

「実演を求める」

 シルヴィアから振られた思いがけない要求に、朱莉は頭を抱える。魔法少女になる前の彼女は、避けられることはあってもいじめやちょっかいを受けるということがまず無かったので、具体的にどんなことをされるのか、それにどんな風な心証を受けるのか、まるで考えつかない。

 1分弱ほど悩みぬいたあげく、朱莉のあまり容量の大きくない脳は白旗をあげた。 

「…………すまん、やっぱあたしにゃ無理だよ」

「だから私が代わりに」

「じゃあ実演してみな」

「…………」

 代わって今度は朱莉がシルヴィアに実演を要求する。

 いざシミュレートする側に立ってみると想像がつかないのか、2分半ほど口を閉ざしたままになる。それからしばらく“自分に不都合なことをされる”“理不尽な迫害を受ける”といった状況を想像上に再現し、その際に自分がするであろう反応を、朱莉に向けて実演してみせた。

「…………」

 シルヴィアの出した回答は、ただ無言のままに相手を威嚇する、というものだった。しかし数々の危険な場面をくぐり抜けてきたシルヴィアの眼光はもはや少女のそれを越えて、獰猛な肉食獣にも匹敵する迫力を宿していた。こんな視線を受ければ、そこらの暴漢など瞬く間に失禁してしまうことだろう。

「そのへんの女子中学生がそんな凄みを放つわけあるかい」

「…………」

 口は閉ざしたままで、シルヴィアの面持ちがほんの少しだけ落ち込んで見えた。

「紗雪と緋桐が合流してくるまで、素直に聞き込みだけした方が良さそうだな」

「了解」

 こんな取るに足らないやり取りにかれこれ十数分ほどかけ、結局わかったことは、朱莉もシルヴィアも今回のおとり捜査には向いていないということだけだった。



「それでは、朱莉と合流する前に稽古をしておきますわね」

「よろしくお願いします!」

 ミーティングのあと、緋桐は紗雪に連れられて再びトレーニング場へと戻ってきていた。陽が昇り始めたのもあって、さっきよりは室温が高い。

 靴を脱いだ紗雪は緋桐の正面に立って深呼吸をはじめる。準備運動をするのか、と緋桐も慌てて深呼吸をはじめた。がらんとしたトレーニング場に、二人の呼吸音が響きわたる。

 まずは屈伸をしよう――――そう考えて屈みかけた緋桐の顔面に向けて、紗雪はなんの前触れもなく右の掌底を放ってきた。緋桐は突然のことに驚きながらも、とっさに腕でガードし勢いを絶つ。腕の表面に少しひりひりする感覚が残るものの、直前で威力を落としてくれたらしく、大した痛みは感じない。

 突然のことで緋桐が困惑している間に、紗雪は容赦なく第二撃を放つ。

「うわぁっ!?」

 第二撃はもう一方からの掌底。これも同じく防御すると、続けざまに左のミドルキックが迫る。胴に向けて飛んでくる足を叩き落したところで、緋桐は組み手が始まったのだとようやく悟った。

 叩き落され地に着いた足を軸に、紗雪はからだ全体を前に運ぶ。その遠心力にのせて放たれた右の肘打ちが第四撃だ。

 肘の軌道が少し大振りだったことと、組み手であることを把握したことで、緋桐にも反撃の余裕が生まれる。右の手刀で相手の腕に打ち返し、肘打ちの勢いが弱まったところを左手で弾く。そこから続く緋桐の第一撃は右の裏拳だ。

 ところが紗雪は緋桐の反撃を読んでいたかのごとく、軽く頭を捻ってかわす。追って緋桐が左拳を突き入れるも、後退されあっという間にリーチから逃れられてしまった。

 空振りし隙を晒してしまった緋桐の胴にソバットが返ってくる。

 負ける――――緋桐が確信すると同時に、紗雪の動きが止まった。これで組み手は終わりらしい。

「突然殴りかかって申し訳ありませんでしたわ。驚きまして?」

「こんなの驚くに決まってますよぉ……!」

「でもそう仰るわりには、見事に反応できていましたわ」

「いえ、そんな……どうしてこんな急に?」

「貴女の能力がどれほどのものか、僭越ながら計らせて頂きましたの。お見事でしたわ」

 へたり込んだ緋桐にスポーツドリンクが手渡される。焦りと動揺で汗だくになった彼女とは対照的に、紗雪は涼しげな微笑を保ったままだ。こうも圧倒的な差を見せつけられては、流石に落ち込まざるを得ない。

「シルヴィアは格闘家としては些か以上に小柄ですわよね」

「そうですね」

「彼女の体格では普通のパンチでも重さに欠け、リーチに欠けますわ。だからそれを補うために、シルヴィア流はインファイトに特化していますの。懐に入られたが最後、多彩な手技と容赦ない急所攻撃の前に屈するしかない…………逆に言えば、懐に潜らないのであれば相手にすらなりませんわ」

「なるほど……だから私には向いてない、と言われたんですね」

「自ら攻めていく勇気がなければ、まず使いこなせはしません。でも先ほどの組み手では、貴女もちゃんと反撃できていましたわね?」

「あれはなんというか……反射的に」

「それで良いのですわ。わたくしは基本的に朱莉の後方支援を担当するのですが、やむを得ず近接戦になった場合も想定してマジカルマーシャルアーツを使いますの。もちろん、自ら仕掛ける為の技術もありますけれど……まずは守りの拳から学びましょう」

「はい!」



 シルヴィアらと同じく和田町に訪れた枝里はいま、救仁郷家の玄関に立っている。一週間前にも訪れたその場所は未だもって差し押さえの札にまみれたままだ。

 気味が悪いほどに札が貼りたくられた廊下を抜けて居間に出る。畳に残るソファが置かれていた跡や、壁に貼られたキャラクターものの古いシールが、生活感を僅かに残していて物悲しい。枝里はそれら一つ一つを眺めながら、知っている限りの情報を思い出す。

 殺害されたのは救仁郷康夫とその妻の恵。二人は当日、水死体となって見つかった。それだけなら単なる入水自殺として処理されるところだが、遺体からは水系魔術の術式反応が検出された。以前から魔術社会の闇金融との関与があったのもあって、保険金目当ての殺害と考えられている――――。

 これまでに得られた情報のなかで枝里が最も気がかりだったのは、二人の関与していた闇金融のことだ。仕事柄その手の組織を相手にすることが多い枝里は、“ネルガル金融”という聞いたこともない組織が記録されていることに疑問を覚えたのだ。

 確証はないが、この事件には何か裏があるかもしれない――――枝里はそう考えていた。

 居間の隣にある寝室へと入り、押入れの中をくまなく観察する。やはり何も残されておらず、落胆したままに襖を閉じようとした瞬間、枝里の目が押入れの天井に不自然な傷を見咎めた。その傷はちょうど指の先を引っ掛けられる程度の大きさで、よく見ると傷の周りの文庫本一冊ぶんほどのスペースだけ、天井の木材とは微妙に違う材質だ。

 枝里は迷わずその部位を引き剥がす。外された木の板の裏には、一枚の写真が貼られていた。

 写真の中では、頬骨の浮いた痩身の男性とパーマがかった髪の女性のあいだで、小柄な少女が満面の笑みを浮かべている。



 和田町の空はうっすらと雲を覆いはじめ、日差しもやや弱い。山のほうから積乱雲がこちらに向かってきている。昼過ぎには雨になりそうだ――。

 誰に披露するでもない自己流の天気予報にも飽き、おかっぱの少女はすこし早足になる。

 しばらくして住宅街の細い道に入ると、向こうから女の子どうしの話し声が聞こえてきた。

「やっぱ顔を変えても、雰囲気がそのへんの学生と違いすぎるなー」

「朱莉こそ」

「そうかぁー……やっぱこういうのってあたしら向きじゃないのさ」

「……」

 声の主は、セーラー服がやけに似合わない長身の少女と鷹のような眼力を放つ少女の二人組だった。

 長身のほうは眠そうなぱっとしない顔で、小柄のほうは狸顔の丸い顔だ。しかしどういうわけか二人とも、その顔と言動の雰囲気が微妙に噛み合って見えない。まるでお面を被っているようにぎこちなくて不気味なのだ。

 立ち止まってまじまじと観察していたおかっぱの少女を、奇人たちの視線がロックオンする。なにやらこちらに興味があるようで、二人はこちらへ歩み寄ってきた。

「あんた、ちょっと話を聞かせてもらえないかい?」

「えっ……なんなの?」

「最近、このへんで誘拐事件が多いらしいじゃん。あたしら引っ越してきたばかりでさ、噂がちょっと気になるわけなんだよ。なにか知らない?」

「さぁ、他の人に聞いてみたら?」

「あれ? ちょっと……」

 二人の間をすり抜け、おかっぱの少女は逃げるようにその場を立ち去る。つい冷たい対応になってしまったが、そんなことに構っていられないほど二人の言動は奇妙だった。そして同時に彼女の神経を逆撫でる質問でもあった。

 曲がり角を二つほど通って、少女はようやく胸を撫で下ろす。振り向いてみても、あの二人の姿はもうない。

「私だって知りたいわよ…………どこに行ったの、緋桐……」



 紗雪の流儀において守りの拳とは、近接戦闘から離脱するための手段だ。

 最短の手数で反撃し、速やかに離脱につなげていく。多彩な手技でもって詰め将棋のように確実に処理するシルヴィアの流儀とは好対称と言える。

 勝つことよりもまず生き延びることに特化したその方法論は、近接戦をなるべく避けたい人間には最適だ。

「守りのための技術ですけれど、必要なことはやはり、たった一歩を踏み出せるか否かの勇気にありますわ」

 それまでトレーニング場の隅に沈黙していた木製の人形が、今はファイティングポーズを構えて緋桐の前に立ちはだかっている。横で見守る紗雪の術行使のもと、ゴーレムを用いた練習が始まっていた。

 呼吸を落ち着けると、緋桐は小さく頷く。それを見咎めた紗雪はゴーレムに向けて軽く指を振り、ゴーレムは緋桐にむけて勢いよく殴りかかった。

 初撃は半歩踏み込んだ右ストレートだ。

 それを左手で逸らしながら、反対側の胸へ体重の乗った右肘を打ち込む。緋桐の動作はほぼ、腕を構えたまま片足を踏み込んだだけに過ぎない。

 肩にエルボーを受けたゴーレムは、その衝撃によってあっさりと分解する。がらがらと音を立てて無数の木の棒と成り果てるさまは、まるで積み木のようだ。

 パーツとパーツの間には灰色のカードが貼られていた。どうやら魔術によってパーツ同士を繋ぎ、有効打が入れば分解するようにしているらしい。

「…………ふぅ」

 張り詰めた糸が切れたように安堵の溜息を吐く。緊張こそすれど、緋桐の呼吸はいささかも乱れていなかった。

 指示された動きを過不足なく完璧に実行して見せた緋桐に、紗雪は賞賛の拍手を送る。

「上出来ですわ。飲み込みが早くて助かりますの」

「いえ、紗雪さんが丁寧に教えてくれたおかげです」

「そんな謙遜を」

「いえいえ」

「いえいえ」

 二人はしばらく謙遜合戦を繰り返しながら分解した木人形を組み立て直した。紗雪が指を振ると木人形はまた動き出す。緋桐もすぐに心構えができたらしく、すぐさま構えを取って頷く。

 次の攻撃は鋭いミドルキックだ。ゴーレムの爪先が半円を描きながら、緋桐の胴へと迫る。

 対して緋桐は、今度は肘も構えずさっと踏み込んだ。ゴーレムの胸に肩をぶつけて押し返す。

 それはタックルと言えるほど体重の乗った動きではない。単にバランスを崩してやるだけでいい。

 後ずさった相手の胴を追って、緋桐は前蹴りを繰り出す。防御の姿勢を取る暇も与えられなかったゴーレムは、緋桐の蹴りを受けて無残に散らばった。

「お見事。これで今日は終わりといたしましょう。朱莉たちが待っていますわ」

「はい。ありがとうございました!」

 二人はふたたび木人形を組み立て直すと、礼を交わしてトレーニング場を出た。

 入口に置いておいた4つのバッグをそれぞれ手に取り、階段を上って寮棟を後にする。

 枯れた向日葵畑をひんやりした風が吹き抜ける。遠くの山々からは緑色がやや褪せていて、いよいよ秋の訪れが近いことを報せているようだ。

「それでは行きますわよ」

「了解ですっ」

 バス停についた緋桐と紗雪は転移結界を通り、またたく間にその場から姿を消した。

 薄暗い路地裏に降り立った二人は、そのままの足取りで表のビルへと向かう。そこは約一週間前、緋桐がはじめて訪れたイシュタルの事務所がある場所だ。

 極道映画に出てきそうな例の殺風景な事務所を通り過ぎ、更にひとつ上の4階へと上っていく。

 4階は打って変わって暖色系の壁紙に囲まれていて、クローゼットを挟んて二つのベッドルームだけがある、簡素ながら息苦しさはまるでない部屋だ。見た感じはビジネスホテルに近い。

 ブラインドのかかった窓際で机を囲むシルヴィアと朱莉が、メモから手を放し二人を迎える。

「……ヒギリ」

「おっ、二人ともお疲れさーん。練習の進み具合はどんなもん?」

「順調でしてよ。彼女はなかなか良い筋をしておりますわ」

「はは……おかげさまです」

 二つのバッグをそれぞれシルヴィアと朱莉に渡し、緋桐はシルヴィアの隣のイスに腰掛ける。紗雪は気がつくと既に朱莉の背中に抱きついていた。

 全員がひと段落したところで、そういえば、と朱莉が口を開く。

「緋桐に説明しておかなくちゃね。基本的にこっちの事務所は窓口扱いなのさ。転移結界の向こうの本部は差し詰め本丸ってやつで、依頼者の応対とかはこっちの3階でやる。ここ4階は見てのとおり泊まってく用って感じ」

「どうして今日は泊まっていくんですか?」

「緋桐の歓迎会をするからさ」

「へ?」

 てっきり仕事にまつわる理由があるものだと構えていた緋桐は、思いもよらぬ答えに素っ頓狂な声をあげる。

 一方、期待通りの反応を得た朱莉はすっかりご満悦のようで、得意げな顔を崩さない。それを見かねて紗雪は横から緋桐に助け舟を出した。

「明日以降は和田町内の空き家を借りて泊り込みの長期調査になる予定ですので、それの予行演習も兼ねていますの」

「あぁ、なるほど……。な、なんか色々気を使わせちゃってすいません」

「そんな遠慮しないでいいよ。緋桐はあたしたちの新しい仲間なんだから」

「ヒギリ……仲間」

 朱莉の屈託ない笑顔が胸に暖かい。紗雪の優しい眼差しが心強い。シルヴィアの無愛想な表情が愛らしい。

 イシュタルという新たな環境に放り込まれた緋桐にとって、三人は家族の代わりになってくれる存在なのかもしれない。



 夜の涼風が切り揃えた前髪を揺らし、鼻先をくすぐった。

 数日前までに比べて空気の匂いがすこし薄くなった気がする。夏のそれよりも不思議と淡く、素っ気ない。

 心にぽっかりと空いた風穴にいたく染み込む、そんな匂いだ。

 おかっぱの少女はベランダの壁に体を預け、ピンク色の手帳を開く。中身は無造作に貼り付けられたプリクラ写真と、それに関するコメントを書き記したものである。

 書かれている日付は最も古いものが昨年の6月からで、最も新しい日付は今年の8月。実に14ヶ月間の思い出の記録だ。

 その一つ一つの記憶を思い返しながら、彼女といっしょに映っている一人の少女を指でなでる。

 写真にはキラキラとしたデコレーションと共に“ゆずとひぎり”という文字が書き込まれていた。

 彼女――――高千穂ゆずは救仁郷緋桐の親友だった。

 知り合ったきっかけは学校の教室での他愛もない会話だったが、二ヶ月もする頃には既に唯一無二の大親友となっていた。

 互いに趣味が合うし、一緒にいると楽しいし、相談には真剣に向き合ってくれるし、見ているだけで楽しい。ゆずにとって緋桐はこれまでの人生で最も相性のいい友達と言えた。

 ところがこの2学期が始まってから間もないある日、緋桐は突如姿を消した。

 教師が言うには「親御さんが亡くなって遠くの親戚の所に引っ越すことになった」らしいが、ゆずはそんなはずがないと思った。

 あの緋桐が、人生で最高の友達が、ゆずに何も告げずいなくなってしまうことなど絶対に考えられない。

 それからちょうど同じころに町で発生しだした女子連続失踪事件のことを耳にしたゆずの中に、一つの確信が生まれる。

 緋桐は誘拐されたに違いない。

 誘拐犯はきっと何か巧妙な手口を用いて、犯行を見事に隠蔽したのだろう。

 まわりの人間は皆、そんなわけがないと言って正気を案じたが、ゆずは全く耳を貸さなかった。

 緋桐はきっと、今も助けを求めているのだわ。

 そう主張して曲げない彼女をまわりの人間が気味悪がり、避けるようになるのは時間の問題だった。

 次第にゆずは孤独になっていった。

 緋桐という支えをなくして出来た心の穴はいつまでも埋らず、むしろ日に日に大きくなっていくばかり。

 かといって一介の女子中学生に過ぎないゆずに何が変えられるわけもなく、できることと言えば、こうしてプリクラ写真を見つめて緋桐のことを想うことくらいだった。

「ねぇ緋桐。私、緋桐のせいで一人ぼっちになっちゃった…………」

 小さく呟いた言葉が夜の空気に溶け、風となってまた心の穴に滲む。

 見上げた夜空に星は見えず、ただどんよりとした雲だけが流れていく。



 クラッカーに始まり仮装アイテムやトランプ、果てはボードゲームやテレビゲームと、飽きが来るたびに次なる起爆剤がバッグから飛び出してくる。

 紗雪が集めたというパーティグッズはあまりに豊富で、緋桐たち四人は時間を忘れて熱中してしまっていた。

 あのシルヴィアですら集中している様子だったのだから、紗雪と朱里のたくらみは成功と言えるだろう。

 持ってきていた菓子を次々と平らげながら、気がつけば日をまたぐ時間まで熱狂したが、さすがに0時半を回る頃には眠気もあって熱りが冷めてくる。

 1時にはもうシルヴィアと紗雪は就寝してしまい、残った緋桐と朱里は寝ぼけ眼をこすりながら後片付けを始めた。

「今日はありがとうございました~」

「楽しかったかい?」

「楽しかったです! こんな風に大騒ぎしたの、本当に久々でしたし」

「一緒にやってく仲間だし、やっぱ仲良くやっていきたくてさ。喜んでもらえて良かった」

「いろいろ迷惑をかけるかもしれないですけど、明日からよろしくお願いします」

「……うーん。丁寧語にまだちょっと壁を感じるよ。タメ語でいいんだけど?」

「壁なんてそんなつもりじゃ……だって、朱里さんも紗雪さんも年上ですよね?」

「あたしは16で紗雪は15だね。そういう緋桐は?」

「14です」

「なんだ、たった2つじゃん。タメみたいなもんでしょ?」

「中2と高1ですよ! だいぶ違いますって!」

「そうかな? シルヴィアなんか12だけどあたしにタメ語だよ」

「あっ、シルヴィアちゃんって12なんですね。そういえば初めてちゃんと知った気がします」

「12のあいつもタメ語なんだし、遠慮しなくていいんだよ?」

「いえ! 年上にはちゃんと丁寧語じゃないと、なんというか落ち着かないんです」

「マジメだねー。まぁ無理強いするのも良くないし、仕方ないや」

 後片付けが終わり、散乱していたパーティーグッズがバッグに全て収まる。

 持ってきたバッグのうち2つはパーティ用で、泊り込みのための道具類は残り2つのバッグに2人分ずつ用意されていた。そんなところに紗雪の妙な気合が窺える。

 飲食物もあらかた片付き、二人はほっと一息つく。

 換気がてら開いた窓からは秋の涼風が流れてくる。雲のかかった薄い月明かりが、不思議と緋桐の感傷を誘った。

「何か考え込んでる?」

「えっ、あ、いえ……今日みたいにお泊りで遅くまで大はしゃぎしたのって、いつ以来だろう、って思って。そうしたらだんだん、前の暮らしが恋しくなってきちゃいました」

「……そっか」

「きっと私、まだまだ未練が残ってるんだと思うんです。大好きな親友がいて、両親がいたあの頃に。……なんというか、イシュタルで働いていくのに目的みたいなのがまだ無くて、尚更弱気になっちゃって。正直、ちょっと投げ出したいくらいです」

「うーん……戦う理由なんてのは結局その人次第だから、どうしろとも言えないよな。これはあたしの考えだけど、イシュタルで働くってことは誰かの心のために戦うってことだと思う。それは直接事件に関わってる人たちだけに限らなくても、身近にいる大切な誰かのためとか」

「身近にいる大切な人…………それって、誰のことですか?」

「あたしの場合は……やっぱり紗雪かな」

「っ~~!」

「あたしに寄り添ってくれる紗雪のために、あたしも紗雪を守ってあげたいからさ。紗雪の“理由”を助けながら、二人の居場所を維持していたい。少なくとも今は、それが戦う理由かな」

 緋桐の顔があっという間に紅潮し、声にならない唸りを漏らす。

 前に事務所で朱里と紗雪の意味深な会話を見たときと同じだ。自分の事ではないのに何故か妙に興奮してたまらない。

 緋桐は友人の恋愛話に、当人を差し置いて盛り上がってしまうタイプの少女だった。

「というか、朱里さんと紗雪さんって! どっどど、どういう関係なんですか!?」

「うん? それは……秘密さ」

「っ~~~~!!」



 青い光が明滅し、てらてらとした石壁に反射して目を眩ます。その度に部屋の中心に座る一つの影がびくびくと震えていた。

 下水道のような苔むしたトンネルから脇へ逸れた場所に、その部屋はあった。

 足首の高さまで水浸しになった床にへたり込む人物はひどく痩せこけている。か細い骨が青ざめた背中に突っ張り、真下にうっすらと浮かぶ血管を強調する。一糸纏わぬ姿であるために、殊更に目立って仕方ない。

 顔は腰のあたりまである、くすんだ白髪に隠されている。度を越して痩せ細った体躯だけではもはや判断が難しいが、13,4くらいの女だろうか。

 標本ではないか疑いたくなる彼女の風貌は、死体のように不気味で儚い。

 部屋の扉がぎぃと音を立てて開き、一人の少女が入ってくる。褐色の肌に金の髪を纏わせ、頬に一文字の傷跡を刻んでいる少女。先日、シルヴィアたちと戦ったあの少女だ。

 入ってくるなり泣きそうな表情を浮かべる彼女に目をむけ、白髪の少女は、紙くずがたてる音のように掠れた声で呟く。

「……いう゛ぁな」

「ただいま。……私が戻ってくるまでの間、なにもされなかった?」

「いう゛ぁな、いう゛ぁな」

「…………」

「いたい…………こりうす、いたい」

「……ごめんね。すぐに仕事を終わらせて、お薬、持ってきてあげるからね。そうしたら痛みなんて、すぐ忘れちゃうから」

「いう゛ぁな」

 イヴァナと呼ばれた金髪の少女は、自らをコリウスと名乗った白髪の少女の背にやさしく腕を添える。それは彼女なりの、抱きしめるという仕草の再現だ。

 抱きしめたくとも、力の加減を間違えてしまえばコリウスの身体を壊してしまいかねない。だから腕を回すだけだ。イヴァナは決してコリウスを抱きしめることはしない。

 コリウスの肌からは体温というものが感じられない。身体も微動だにしない。そこに人がいるという実感はまるでなく、石膏像に手を添えているようにすら錯覚する。

 こうして抱き締めるふりをするほど、コリウスという一人の少女の存在感が危うく思えて、イヴァナの心は痛んでいく。

 やがて耐え切れなくなった彼女はコリウスから離れ、部屋を出た。

 扉の隙間から覗いたコリウスは、何もない壁を見つめたままで、こちらを振り向こうともしない。

 胸を刺すような切なさに打ちのめされていると、横でちゃかちゃかと金属音が鳴っていることに気づく。扉にかんぬきをかける音だ。

 かんぬきをかけたのは、滝のように真っ直ぐ落ちる前髪で右目を隠した少女だ。前髪の端には緑色のメッシュが入っており、鼻のとなりに一閃のスポットライトが当たっているみたいだ。

 メッシュの少女は恍惚の表情で、被った帽子のつばを撫でている。

「ビューティフル。実にビューティフル! 堅牢な独房に佇む白の少女、それに寄り添い、しかし抱き締めることができない金の少女。電球の頼りなげな光とでこぼこした独房が生み出す陰影が、このシーンの情緒をより引き立てていル! 私なら引きのワンカットで空間を活かしながら撮りたいヨ!」

「殺すわよ」

「その眼光、70点! 役者としてはまずまずかナ」

「……ッ!!」

 イヴァナの拳が空を切る。怒りのあまり咄嗟に出た拳は、簡単に避けられてしまった。

 依然としてイヴァナの瞳は怒りの火を灯している。殺すという宣言は決してただの脅しではなかったらしい。

 一方、メッシュの少女はあくまで飄々とした態度を崩さず、イヴァナをからかうような口調のまま続ける。

「和田町にロケに行けってサ。あそこの景観は平凡でつまらないけド……攫った女の子たちを例の倉庫で調教してるらしいから、それだけは見物かナ」

「…………悪趣味ね、クズ」

「そんな悪趣味な連中のせいでボクらはクル・ヌ・ギアの狗になってるんだけどネ? ヒヒヒヒ!!」

「…………くっ」

 メッシュの少女の話し方はひどく癇に障るものだった。

 彼女は目に映るすべてを鑑賞物として楽しんでいる。まるで出来の悪いB級ホラーを笑いながら観ているような、小馬鹿にした話し方なのだ。

 イヴァナは彼女のそんな態度が大嫌いだった。

 戦闘能力が拮抗しているからそう簡単ではないだろうが、いつか隙を見つけて必ず殺す。そう思っていた。


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