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魔法少女ヒギリ×シルヴィア  作者: 鈍痛剣
Chapter1.邂逅
2/13

『邂逅』2

 勤務開始時刻を二時間後に控えた早朝のオフィスに、相変わらず不釣合いなコートを羽織るシルヴィアの姿があった。彼女はデスク上に並べた幾つかの書類と睨めっこしている。どうやら昨日相模から捜査資料を貰ったらしく、それを読み込んでいる最中のようだ。

 資料を凝視するシルヴィアの面貌は無表情ながら、どこか狂気じみた執着を滲ませていた。一番乗りのつもりでオフィスに入ってきたアナトは、彼女の矮躯から発せられる異様な存在感に気付いて肩をすくめた。度を過ぎつつあるシルヴィアの熱心ぶりに若干呆れつつ、二人ぶんのコーヒーを淹れる。

 シルヴィアはコーヒーメーカーの音を聞きとがめたところでようやくアナトがいることに気付いた。

「おはよう」

「今回の事件、どんなものだい?」

「被害者は砂垣匠。マジックアイテムの転売を生業としていて、いくつか協定に違反する販売経歴もあった」

「うーん。きな臭いね」

「遺体に外傷はなく、身体の内側からの爆裂が死因――――異能による殺害と見て間違いない」

「殺害方法は?」

「今のところ不明。被害者の職業から凶器はマジックアイテムという可能性も考えられる」

「問題はどんな凶器だったのか、だね」

「…………」

 事務的な報告を済ませるとそれっきり口を閉ざし、すぐにまた書類の分析に戻る。どこまでも無感動な、ともすれば面倒臭がっているとも取れるシルヴィアの振る舞いに、アナトは溜息を禁じえなかった。

 ここ魔法少女派遣“イシュタル”に勤める少女たちは、はじめは彼女のように心を閉ざしている者が多い。だがそんな少女たちのうち、殆どは同じ境遇の少女たちとの触れ合いに心を開いて社交性を獲得していく。働き口と寝床だけには留まらない恩恵がここでは得られた。

 そんな中でシルヴィアの存在は異例だった。いつまでも心を開かず、開かせず、ただ目の前の仕事に取り組み、食し眠る。彼女は人でありながら無機質の生き方しか知らない。マネキンのような少女とは同僚たちの評だ。

 しかし数々の少女たちを見てきたアナトだけは、周囲とは違った印象を抱いていた。

 シルヴィアは誰よりも不器用で、救いを乞うことを“甘え”と断じる。おそらく彼女にとっての救済は、肉親によってのみ齎されるものなのだろう。だがその救済は決して叶うことのない幻想であり、それを自覚しているからこそ絶望する。“イシュタル”に勤める少女の精神性としては決して珍しいものではなかったが、シルヴィアの場合は、心に抱える“鎖”とも呼ぶべき強迫観念が人並み外れて刺々しく、鈍重だった。

 彼女に救済を齎せるとするならば、肉親にも勝る大切な人を得るか、死によって解き放たれるかしかない。絶対に後者の選択肢だけは取らせたくない、とアナトは思う。

 やがて一人、二人と職員たちがオフィスに入ってくる。カーテン越しに鋭い光を送る太陽に背を向け、欠伸を噛み殺しながらアナトはオフィスを出た。



 玄関扉を開け放った緋桐の眼前には、家具類が全て失せ、床にただ一枚“差し押さえ”と表記された札が置き去られているのみの、空き家同然の有様になった救仁郷家があった。

「ぁ……」

 一瞬の逡巡ののちに状況を理解した緋桐はその場に崩れ落ちた。

 不思議と涙は流れず、嗚咽の一つも漏れない。悲しみの感情よりも先に、宇宙の果てでも眺めているような虚無感に襲われる。冷蔵庫やテレビや布団などの貴重品が奪われてしまったこと自体はどうでもよかったが、それよりも、それらが構成する“日常の風景”が消されてしまったという事実の方が彼女にとって重大であった。幸せだったころの片鱗など一片たりとも残っていない。そこに広がっている風景はただの箱である。

「無用心に家を……空けたばっかりに……」

「緋桐ちゃんは何も悪くないのよ」

 悲痛な背中を見せる緋桐に、枝里がかけられた言葉はたったの一言だけだった。なまじ彼女自身も過去に似たような経験があるだけに、緋桐の心情を複雑にシミュレートしてしまって言葉が出てこない。いっそ何も共感できない他人が無責任に勇気付けてくれれば、どれほど心強かっただろう。

「事務所に、戻るわね?」

「…………」

 無言で頷く緋桐の視線はどこかを泳いでいて、まるで生気を感じさせない。

 枝里は緋桐の肩を抱きながら、自身のポケットから割り箸を取り出した。それを口に運び、割る。思考を切り替えるための枝里なりの儀式だった。

 この重々しい空気には似つかわない軽快な音が部屋中に反響し、脳を貫き、洗い流す。徐々に前向きな思考が沸いてくる。

 緋桐の無事が確保できたと思えば僥倖だ、と自らに言い聞かせた。これはあえて口に出さなかった。



 短くなった煙草を携帯灰皿に突っ込む。それをスイッチとするように、相模は思考を切り替えて事件の概要を思い出しはじめた。

 被害者は砂垣匠、43歳。違法なマジックアイテム転売を繰り返しており、その経歴は二十年に及ぶ。現場は人通りのない裏路地で、周辺に争った形跡なし。死因は体内部での“何かの爆裂”。金品らしきものは全て残されていたが、商売道具のマジックアイテムを所持していなかったことから、奪取されたと見られる――――。

 情報の整理が完了する。それを待っていたかのように眼前の空間が歪み、広がる波紋の中からシルヴィアが現れた。

 魔法少女たちが契約によって習得する魔術のなかでも、転移魔術はとりわけ便利な代物であった。資料を片付けたシルヴィアが相模との待ち合わせ場所に駆けつけるまでにかけた時間は僅か2分ほど。魔法少女には遅刻という概念がそもそもあり得ない、と言っても過言ではなかった。それでも指定された場所に待つ相模の表情が冴えないのは、先ほどまで事件の概要を整理していたせいだろう。

「来たか。……何かわかったことは?」

 シルヴィアの氷点下の瞳と視線が交わる。相変わらず近付き難い少女だ、と肩を落とさずにいられなかった。

「あのあと現場周辺の魔術の痕跡を探ったが、術式反応は検知されなかった。魔術師による反抗ではない」

「魔術師の線は消えたか……。専門家が無抵抗にやられるとも思えないし、マジックアイテムの線も薄いな?」

「……」

「暗殺に特化した能力者ということはプロの可能性が高い。売買の経歴を洗うだけでは足がつかないかもしれない」

 大きく息を吐き出し、頭を掻き乱す。おそらく被害者の売買経歴を洗っていくだけでも、芋蔓式に途方もない数の違法取引を検挙することになるだろう。捜査は足で稼ぐべしとはよく言うが、これでは一歩進むごとに検挙しなければならない事態になる。更にその中から砂垣の殺害を依頼した者を見つけ出す頃には、暗殺者はとっくに消息を絶っているはずだ。

 砂垣の売買経歴に関しては、他の事件で別件逮捕の材料として使える可能性があるので押えておくか、長期間を費やして一つ一つ地道に検挙していくかのどちらかになるだろう。本件の目標はあくまで暗殺者であり、違う方面からのアプローチが必要になる。

 予想を越えて厄介な事件に、相模は頭を抱えた。一方で対照的に、シルヴィアは相変わらず涼やかな表情のまま事も無げに提言した。

「……では最近発生したマジックアイテムにまつわる噂、事件事故の情報を重点的に調べる」

「そうするしかないな。どうせマジックアイテムの強奪が目当ての事件だ」

「マジックアイテムによる殺害も少なからず視野に入れる」

「その線は薄いってさっき言ったばかりだろう」

「そもそも暗殺に長けたプロの異能力者が遺体を処理しない――――自らの手の内をみすみす晒すというのは考えにくい。可能性は低い」

「……そうだな。だが或いは、不測事態が発生したかもしれない」

「闘争の形跡はない……が、確かにその他の不測事態も考えられる」

「とりあえず今はその両面から捜査を薦めていくべきだ」

 刑事・相模は焦っていた。この捜査は彼にとって、上司の付き添いでなく一人前として任された最初の仕事だ。できることなら今すぐにでも結果を挙げ、信頼する上司たちを安心させてやりたいと思っている。故にこの進展が見えない捜査状況にもどかしさすら覚えた。

 一方のシルヴィアはそんなことは露知らず、善は急げとばかりに早速踵を返す。

 年端もいかない少女に捜査の主導権をとられそうになり、張り合おうとしている自分を客観視すると――――相模の焦りは殊更に大きくなっていった。



 緋桐の自宅から歩くこと5分、住宅街を少し外れたところに神社があった。晩夏の厳しい日差しを森林が和らげてくれるため、今の時期は近所の子供たちにとっての絶好の遊び場所となっている。

 穏やかな光に照らされ適当なベンチに腰掛ける緋桐の表情は、意外にも落ち着き払っていた。心配した枝里が何度も「無理はしなくていい」と言い聞かせたが、結局、一滴たりとも涙は零さなかったし、表情を崩すこともなかった。枝里からすると、無理をして悲しみを押し殺す振る舞いの方が余計に気がかりであるのだが。

 やがて枝里は気を遣い、一人で境内の屋台を見て回ることにした。

 緋桐の視界から外れたあたりで枝里は溜息を漏らす。

(特別珍しい境遇じゃないとはいえ……無理して気持ちを押し殺してしまうっていうのはいけないわよね)

 イシュタルに身を寄せる少女たちは大抵が皆、緋桐のように親族をなくし、大切な思い出ごと全てを失ってしまった者ばかりである。緋桐はきっとそのことを知って“こんなことで泣いていてはいけない”“自分以上に辛い目に遭ってる子もいるのだから”などと考えていることだろう。

 実力者として評判も定着してきた今日に至っても未だ心を閉ざすシルヴィアと、ある意味で近い精神性であるとも言えた。自らの感情を偽り、自らの心を押し殺す生き方を覚えてしまったという点で、とてもよく似ている。そしてそんな問題を抱えた少女を二人も抱えてしまったことは、枝里の悩みの種が倍増したということでもある。

(自分だけが特別じゃない、みたいなコンプレックスって、こじらせると本当に厄介なのよね……自分の身辺に起きたことくらい、素直に泣いてあげるべきって教えてあげなきゃ……)

 シルヴィアの屈折してしまった心を解き放たねばならない。緋桐が屈折してしまわないよう支えてやらなければならない。

 二人の少女を案じる枝里は自身もまた、自責することでしか自らを保てない性質の人間になっているということに、気がついていなかった。緋桐たちの心の在り方を変えるには、まず自らを変えねばならないから。

 枝里は水飴を二人ぶん購入すると、そのまま緋桐のもとへは戻らずに、物陰からこっそりと様子を窺うことにした。ベンチに腰掛ける緋桐の背中は頼りなく小さかったが、やはり泣いている様子はない。

(あの子は強いのよね…………だからこそ儚くて見てられない。シルヴィアちゃんにそっくり)

 また一つ溜息を零すと、自前の割り箸で水飴を練りながら、優しい笑みを顔に貼り付けてまた歩きだした。



 “イシュタル”の寮は地上5階・地下2階からなる全7階建てだ。地下1階は魔術の訓練などに使われるトレーニング場、続く地下2階は休憩室となっている。

 トレーニング場は特殊な空間魔術が展開されており、設計図上の面積を遥かに越えた空間が広がっている。転移結界によって本部へと戻ってきたシルヴィアが真っ先に向かう場所といえば、いつもここであった。だがこの日は先客がいた。

 階段を半分ほど下りたあたりで緋桐の背中に目を奪われ足が止まる。未だ彼女とはまともに会話を交わせていないシルヴィアではあったが、緋桐が落ち込んでいるであろうことは一瞥しただけで察することができた。

 時計は既に七時を回っている。食堂が開くこの時間帯に他の魔法少女たちの姿はない。群れることを嫌うシルヴィアは、普段からこの時間帯にだけトレーニング場を利用していた。故に本来ならば先客がいる時点で利用を躊躇うはずだったが、今回ばかりは違う。シルヴィアは自身でも呆れるくらいに、緋桐のことが気がかりで仕方がなかった。とはいえ、同じように人目を避けるためにここを選んだであろう彼女に話し掛けるというのも気が引けるし、なにより“話し掛け方”がわからない。結局、どうすることもできず、シルヴィアは無言でトレーニングを開始することにした。

「あっ……シルヴィア、ちゃん」

「………………」

 すぐ横を通り抜けたのを見て、緋桐はようやくシルヴィアの存在に気づいた。その際、顔を上げた緋桐と、反射的に振り向いたシルヴィアの視線が交わる。緋桐の目は真っ赤に腫れ上がっていた。泣いていたのだ。

 緋桐は咄嗟に腕で目元を隠したが、既に手遅れである。おおかた予想通りだったとはいえ、シルヴィアもこれには動揺して足を一瞬だけ止めてしまった。

「…………見られ……たよね?」

「……………………」

 動揺を悟られないようシルヴィアはすぐさま足を進め、とりあえずの平静を装う。内心では、自分のポーカーフェイスに心底感謝していた。

「ごめん……その、ここ、あの…………うぅ」

 緋桐はひどく取り乱している様子だ。この調子なら動揺は悟られてはいまい、とシルヴィアは僅かばかりの安堵を覚えた。同時に、緋桐に対して何も言えない自分に不甲斐なさを感じた。

 せめて一言、「気にしなくていい」とでも言えれば良かったのだが、それを伝えるだけの勇気はシルヴィアにはまだない。

 手持ち無沙汰を埋める目的もあって、シルヴィアはサンドバッグを使っての稽古を始めた。

 短く深呼吸をした直後、シルヴィアの拳が、掌が、手刀が、目にも止まらぬ早さでサンドバッグを襲う。一の動作が二の動作へと間隙なく繋がり、更に次の動作へと流れていく。目で追うことすら困難な神速の連撃だった。

 サンドバッグの揺れる幅は短いが、打撃はすべて、想定される急所を的確に仕留めている。どう見ても素人技ではない、それどころかテレビで見る格闘家などでは比較にならないほどのレベルの達人がそこにいた。

「ぅ……ぉお…………うおお!?」

 緋桐が思わず我を忘れて感嘆の声を漏らす。それを聴き咎めたシルヴィアの拳には、少なからぬ熱が篭った。しかし決して息は乱さず、あくまで平常時と変わらない穏やかな呼吸を保つ。

 それから三十分ほど打ち続けたあたりで、シルヴィアはようやく手を止めた。心の乱れを振り払うように最後にもう一回だけ強く突きを入れると、手をぽんぽんと叩く。彼女なりの締めの動作だった。

 いつも通りの稽古を終えてすっきりしたシルヴィアは、何も考えず緋桐の方を振り返った。一心不乱にサンドバッグを打つことで目の前の状況を綺麗さっぱり忘れてしまったらしい。本当に何の考えもなく振り返ったシルヴィアは一瞬、後悔した。だがそれは間もなく驚きに変わる。

「す、すごい……! シルヴィアちゃん、すごい!」

「……………………?」

 振り返った先にあったのは、感動のあまりすっかり涙も引いた緋桐の笑顔だった。

「そ、その……拳法? なんていうの!?」

「…………マジカルマーシャルアーツ。アナトが発案した、魔術との併用を目的とした格闘技」

「こ、ここの子はみんな出来るの!?」

「全員、ある程度は習得している」

「あの、わ、わたし、映画大好きで!! アクション映画とかも見るんだけどっ!! それ……さっきの、あれ……詠春拳、みたいでかっこよかったよ!! すごく!!」

「……アナトによれば世界中の様々な格闘術の要素を組み込んでいるらしい。その詠春拳という格闘技もルーツにある可能性はある」

「すっごい! すごい!! すごいすごい!!」

「…………む、う」

 緋桐が目を輝かせて見つめてくる。その眼差しにはまだ僅かに陰りが見えるものの、笑顔そのものに偽りはないように感じ取れた。先ほどまでとの変わりように呆れると同時に、シルヴィアは心のどこかで嬉しいと思う。彼女も緋桐に合わせて笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が強張ってそれを認めてくれなかった。



「んっ……と、これは一体?」

 イシュタル寮の地下二階、休憩室のソファに背を預けて眠っていたアナトは、上階から聴こえてくる激しい音に目を覚ました。時計を確認すると午後八時。普段なら上階のトレーニング場でシルヴィアが稽古をしている時間帯だ。だが今日は少し様子が違う、とアナトは直感する。

 サンドバッグの表面が叩きつけられる軽快な音、鎖が軋む音、突きに体重を乗せて踏み込む音。それらが同時に二つの箇所から発せられているのだ。他の魔法少女たちがトレーニングに使っている時間帯ならともかく、シルヴィア以外に利用する者のいないこの時間帯にあって“二つの音”というものは不可解なのである。

 腑に落ちないアナトが上階に上がってみると、そこにはシルヴィアにマジカルマーシャルアーツの指導を受ける緋桐の姿があった。

(まさかあのシルヴィアが他の子に武術を指導をしているなんて……)

 アナトにしてみれば信じられない光景であった。新参者で縮こまっていたあの緋桐が、よりにもよってシルヴィアと親密になりつつあるなど、恐らくイシュタルに所属する全員が想像すらしなかったことだろう。そして何よりもアナトの目を見張ったのは、サンドバッグに向かう緋桐の動きだった。

(彼女の動き、既に基礎が出来上がりつつある……いつから始めたのかは知らないけど、早いなんてものじゃない……!)

 一口に武術と言っても、武器のみを取り扱うものから素手による格闘のみを取り扱うもの、或いはその両方など、様々な形がある。そんな中で全ての武術に一貫して共通する基礎要素と言えば、“反復練習によって体に覚えこませる”こと。動きを体で覚えることで、実戦に際してその動きを反射的に繰り出すことができるようになるからだ。

 ところが緋桐は、恐らく練習を始めてから一時間もかけていないであろうというのに、既に反復練習をほぼ完璧にこなしつつあるのだ。隣で指導するシルヴィアも、表情だけは鉄面皮を保っているが、その挙動の節々に驚きが滲んで見えた。

(もしや…………救仁郷緋桐、それが君の魔法なのか……?)



 両腕に抱えた花束が重いと感じるのは特別重い花だからなのか、自らの疲労のためなのか、よくわからなかった。病室の前で足を止めるとそれはより重くなって感じられて、どうやらこれは気持ちの問題らしい、と相模は自答した。

 意を決して病室の扉を開くと、部屋の主がこちらを振り向く。壮年の男性だった。

「瀬川さん、ご無沙汰です」

「おぉ、マグロの相模か」

「そ、そのあだ名は勘弁して頂けませんか」

「いいじゃないか。まぁとにかく座れ」

 相模は促されるままにベッド脇の椅子に腰掛けて、花束を手渡す。瀬川と呼ばれた男性は顔を綻ばせながらたっぷりと十数秒ほど花を眺めた。病室には既に見舞いの花が飾られているが、迷惑がられている様子は特になく、相模はほっとする。

「どうだ、捜査のほうは」

「なんとか……順調に」

「そうか。それは良かった」

 相模にとって瀬川は理想的な上司であり、もう一人の父親とも言える。今の時代には少ない義理と人情を地でいく人物で、激昂するときは誰よりも恐ろしく、しかしその温情は誰よりも心に染みる。彼には新米時代から大いに世話になったし、単純に一人の人間として深く尊敬すべき対象でもあった。

 そんな彼の恩義に報いる為と言っては大袈裟かもしれないが、彼も認める一人前の刑事になることが、相模には何よりの目標だ。しかしいざ瀬川という師を欠いた状態になってみれば、年端もいかないシルヴィアにおんぶに抱っこで相模自身は殆ど何もできていないというのが現実であった。

 瀬川を安心させてやれるような一人前の刑事には、まだまだ程遠い。その事実に打ちのめされて、せっかくの面会だというのに、相模の心は落ち込んだままだった。

「どうした? 妙に落ち込んでないか」

「……正直なところ、今回のヤマは協力してくれる魔法少女に頼ってばかりというか…………」

「ガキんちょに頼ってる自分が不甲斐ないってか?」

「…………はい」

「馬鹿。専門家の方が詳しいってのは当たり前だろうが」

「しかし、自分では瀬川さんの鮮やかな手並みとはまるで程遠くて……」

「それでいいんだよ。最初からうまく行くよりよっぽどいい。失敗を知らない奴ってのは転んでから立ち上がれなくなるからな」

「そんなものでしょうか」

「おうよ。俺も昔はお前みたいにな……」

 少しだけ気を取り直した相模を見て機嫌を良くしたのか、瀬川は自分の昔話をはじめた。そんな瀬川の様子に相模は内心で胸を痛めた。



 トレーニング場を出た緋桐は一旦シルヴィアと別れ、アナトの指示を受けて事務室へと向かった。アナトは何枚かの書類を手にしている。どうやら緋桐についてのことらしい。

「ご実家のことは……すまない。きみの身の安全を優先させてもらったよ」

「いえ、大丈夫です……なんとなく覚悟はできてましたから」

「そうか…………とりあえず座って」

 アナトが手近な椅子を引き寄せて、緋桐に腰を下ろさせる。腰あたりの高さから見上げるアナトの体躯は案外大きく、顔との違和感がより強く思える。

「いよいよ明日から、緋桐にも魔法少女としての活動を始めてもらう予定なんだが……まだ魔術と魔法の使い方がわからないだろう?」

「はい……情報が雪崩れ込んできたということだけはわかるんですが」

「それを感じられるようなら現時点では充分すぎるほどさ。これを見てごらん」

 そう言って差し出されたアナトの書類には、魔方陣らしきものが描かれていた。上部には"魔法少女:救仁郷緋桐、適正診断:A"と記されている。

「魔術を効率的に行使するための術式陣だ。魔術を発動する際に、大抵はどちらかの腕に浮かぶようになっている」

「術をかける相手じゃなくて自分の腕……なんですか」

「受ける対象にも"術式痕"……術式陣の痕跡は不可視ながら残るよ。陣の形状は人によって異なるから、さながら指紋のように証拠能力を持つこともある。術式痕の復元には高度な技術が必要だけどね」

「つ、つまり……私だけの、魔法陣……?」

「そういう解釈で問題ない。僕が分け与えた知識を引き出せ……るかな?」

「えっと……それは一体、どういうふうに?」

「あぁ、感覚を掴めないんだね。とりあえず、頭に両手を当ててみてごらん」

 言われるがまま緋桐は両手を左右のこめかみに当てる。それから彼女の頭に蒸すような熱が広がっていくまで、大して時間はかからなかった。しかしその熱は数十秒を数えたあたりから、まるで抜け落ちるように失せていった。気が付けば熱は既になく、代わりに超常の叡智がまるで小学校で習った漢字のように"常識"として意識下に残っていた。

「うまくいったかな? 軽く質問をしていくから、答えてくれ……"現象制限"とは何か?」

「万物には単体で起こし得る現象に限界が設定されている。これを魔術界では"現象制限"と称する……」

「完璧だね」

 学んだ覚えのない情報がすらすらと口を突いて出てくる感覚は、まるで心と身体が別々になったようであった。

 ――――魔術とは世界そのものにアクセスし、自らに課せられた"現象制限"を解禁する力。そして世界と自らを繋げるための橋のような役割を果たすのが術式陣である。アナトから受け取った情報をうまく引き出せなかったのは、力と情報を得て間もなく繋がりが薄かったためだ。一度開通しさえすればもはや自由自在である。

「……だいたい理解しました」

「一応説明しておくけど、魔法は魔術とは違う能力だよ」

「細分化されていて訓練すれば誰にでもある程度は使いこなせる学問の"魔術"と…………効果が少し大味で、眷属と契約した少女にしか得られないのが"魔法"、なんですね」

「魔術は状況に応じて自由に選び発動できる一時的な能力だが魔法は常に機能していて、発動するしないではなく強弱を制御するものだ……わかるね?」

「魔法少女は変身能力によって魔法の制御をより精密に行える……と」

「うん、契約に伴う情報の提供は問題なく完了したようだね。この確認がしたかった」

 アナトは手元の書類になにやらペンで書き込みをしている。その面持ちは満足げで、彼の緋桐に向ける期待の大きさがそこはかとなく感じ取れた。

 書き込みがひと段落すると、束ねた書類を更に捲り、また新たな書類を緋桐の前に示してくる。そこには女性の名前を書き連ねた表が記されており、うち一つの列に緋桐とシルヴィアの名前があった。

「明日からはシルヴィアと共に仕事にあたってもらうよ。マネージャーの枝里にも伝えておくから、わからないことがあれば彼女に訊いてほしい」

 枝里の言った通り、やはり緋桐はシルヴィアと同じグループに配された。そのことに緋桐は内心で舞い上がっていたが、同時に底知れぬ不安も湧き出てくる。果たして自分のような平凡でつまらない人間にシルヴィアの仲間が務まるのかと思うと、悲しいことに全くと言っていいほど自信がない。

 緋桐の悩みとは裏腹に、アナトは深く息を吐いて安堵している様子であった。



 受け取った書類を眺めて複雑な想いを巡らせながら、緋桐は事務所の食堂へと足を運んだ。ピークを過ぎたせいでまるで人気がなく、利用者は緋桐に先駆けて食堂へ訪れていたシルヴィアのみであった。

 鍋の前を離れて席についたシルヴィアは、机の中央に備えられた調味料を吟味していた。彼女が机に置いた盆は二つ、両方とも同じ献立が揃っている。どうやら緋桐のぶんまで用意してくれていたらしい。

「それ、食べて」

「シルヴィアちゃん……ありがとう」

「……」

 別次元の存在のようにすら思えていたシルヴィアが少なくとも自分を気にかけてくれている。そう思うと、心に巣食う不安が僅かに軽くなったような気がした。

 緋桐は急いでシルヴィアの隣の席につく。間近で見るシルヴィアはやはり美しく、調味料を手に取るさますら白鳥のように優雅であった。そのまま蝶のごとく軽やかに手を振る。その美しさは彼女の周囲に光が舞っているような錯覚すらさせてしまうほどだ。

「というかシルヴィアちゃん……胡椒かけすぎじゃない?」

 主菜のカレーライスめがけて一心不乱に胡椒を振るその姿は異様でありながら、しかし不思議と絵になる麗しさがあった。

「……これくらいでなければ物足りない」

 瓶の中身が半分ほどまで減ったところでシルヴィアはやっと手を止めた。本来なら軽くまぶす程度の調味料のはずが、彼女の手にかかってはもはや具材の一つみたいだ。

 首を傾げながらも緋桐は既に自らのカレーを食べはじめていた。辛さの加減は、市販のレトルトカレーなどに例えるならば中辛といったところか。そのままで充分に辛いものをなにも更に辛くすることはないだろう、と考える緋桐にとっては甚だ不可解な行動であった。

 粛々と手を合わせると、シルヴィアはようやくスプーンを手に取った。そして胡椒まみれのカレーをすくい、小さく整った口へ運ぶ。

 表情から感情を読み取ることはできなかったが、その後ペースを変えずに間断なく口へ運んでいるところを見るに、よほど気に入ったのだろう。

「辛いの好きなの?」

「……」

 シルヴィアは手を止めずに無言で頷く。その姿に緋桐は小動物の食事を想起した。



 夜空の中心に輝く月があまりに美しくて、枝里は見上げたまましばらく動けなかった。はっと気がついて手にしていたやかんに目をやると、すでに湯気の勢いが随分と弱くなっている。まぁいいか、と肩をすくめてカップ麺にお湯をそそいでいるうちに、気の抜けていた自分が段々腹立たしく思えてきた。

 麺がほぐれるまでの間、枝里はまた夜空の月をぼんやりと眺めていた。月の気高く近寄りがたいさまにシルヴィアを思い出して、枝里の心は殊更に憂鬱になってしまう。自分の何もかもが不甲斐なかった。

「苦悩するのは悪いことじゃあない」

 ふいに聞こえてきた声に振り向くと、オフィスの入口に佇むアナトの姿があった。

「いつからここに?」

「きみがやかんを片手にぼーっとしていたあたりから」

「悪趣味なのね」

「そうかな?」

 アナトはすべてお見通しとばかりにビー玉のような瞳を細めた。実際、読心魔術でも使っているのではないか、というくらいアナトはいつも的確に枝里の悩みを言い当ててきた。彼曰く、読心などしなくても顔を見ればわかるのだという。

 わかってるなら、と言いかけて枝里は口をつぐんだ。かつてはシルヴィアや緋桐と同じく魔法少女として活躍していた枝里だが、今はあくまでも彼女らを支えるマネージャーだ。いつまでも支えられてばかりというわけにはいかない。

「……ホント、難しい」

「別に頼っちゃいけないわけじゃない。相談なら応じるよ」

「まだ、今は大丈夫……と思いたいのよね」

 カップの蓋を開けて割り箸を突っ込むと、わずかに硬い感覚が伝わってきた。



 食器類を片付けて食堂を出、寮に向かうまでの間、緋桐はずっとシルヴィアから目が離せなかった。昨日の出逢いと今日の触れ合いで徐々に確信じみてきた考えなのだが、どうやら緋桐は自分でも無意識のうちに、まるでシルヴィアをテレビ画面の向こうに見ていたスター俳優のように思っているらしい。

 相手は自分のことなど知っていなかったが、自分のほうは相手と知り合える日をずっと待ち焦がれていたような――――執着じみた既視感が、同じ時間を過ごすごとに強くなってきているのだ。

(こんな綺麗な子…………忘れられるわけがないのに)

「…………なに」

「……私たち、前にも会ったことが……」

「ない」

「……そう、だよね」

 この日はじめて、シルヴィアが瞳を逸らした気がした。食い気味の即答も気にならないと言えば嘘になる。しかし彼女の面貌はいつもの鉄面皮のままで、訝しかろうともまるで感情が覗けないのだからどうしようもない。緋桐とて人を疑うような事はしたくない性分なのでそれ以上踏み込めず、結果として気まずい沈黙だけが二人の間に残った。

 気を紛らそうとたまらず寮へ視線を向けると、二人の部屋の前に佇む人影があった。出で立ちは見るからに女性のそれだったが、脚をたっぷり肩幅まで広げて仁王立ちになり頭を掻き毟るさまは、男性的な粗暴さを窺わせる。

 怪訝に思った緋桐は残り20メートルといった所で足を止め、人影を改めて注視する。髪の間に覗くうなじやホットパンツから伸びる脚の小麦色が、彼女が活動的な性格であることを物語っている。ラフな服装や若々しい様相も加味すると、どうやら彼女はシルヴィアと同じ“魔法少女”らしい。

 ――――と、緋桐がここまで考えたあたりで相手もようやくこちらに気付いたいたらしく、髪を振り回すようにして振り返った。ようやく露わになった面貌は、屈託のない笑顔がどことなくボーイッシュな美少女だった。

「ほほーっ!! あんたが新入りだね!!」

「ヒギリ、下がって」

「えっ?」

 相手が身をかがめたのを認めると同時にシルヴィアが半歩下がる。状況をさっぱり理解できていない緋桐が言われるままに数歩下がると、少女はそれを追って壁を蹴り飛び掛ってきた。

 飛び掛ってくる少女の姿は緋桐の目には弾丸の如く映ったが、実際は地を蹴り壁を蹴り空を蹴り、時に身を捻りながらの跳躍や前転を織り交ぜることによって効率的に移動速度を高めているだけに過ぎない。この特殊な移動法はいわゆるパルクールの要素を取り込んだマジカルマーシャルアーツの派生の一つだ。

 一方で落ち着き払っているシルヴィアは特に身構えることもせず、少女が緋桐めがけてシルヴィアの隣をすれ違った瞬間に着地点に足を置く。果たして少女は躓き、派手に転倒した挙句緋桐の目前で大の字に倒れ伏した。

「い゛て゛え゛……」

 ぴくりとも動かない大の字から、恨めしげな声がこぼれる。

 緋桐が顔を覗こうとしゃがむと、少女が急に立ち上がってくるので、咄嗟に頭を引いた。

「だ、大丈夫……ですか?」

「多分ね……それにしても酷いねぇシルヴィア。あたしゃただ新入りの顔を拝みたかっただけなのに」

「…………」

「だんまりかい……まぁいいけどさ」

「えっと……私にご用ですか?」

「あたしは粟ヶ窪朱莉! 新しい後輩ってのがどんな子か、会っておきたかったのさ」

 緋桐が困惑気味に訊ねると、朱莉と名乗る少女はやはり屈託のない笑顔で応えた。

「今さっきのもマジカルマーシャルアーツなんですか?」

「ああ。あたしなりのアレンジを加えた亜流で、あたしは勝手に“エクストリームランニング”って呼んでる」

「マジカルマーシャルアーツはそれぞれ自分の魔法に合った活用法にアレンジするのが前提とされていますものね」

「そうなんですか…………っ!?」

 突如として朱莉のほうから、快活な彼女に似つかわしくない淑やかな声が聞こえてくる。その声は明らかにシルヴィアとも朱莉とも違う、また別の人間の声だった。

 まさか朱莉が声を変えて喋りかけてきたわけではあるまい、と怪訝に思った緋桐が朱莉を注視していると、その背後にぼんやりと人影、それも長髪の女性らしき姿が浮き出てきた。

「ぃっ!?」

「おいこら紗雪、新入りをビビらせるんじゃないよ」

 思わず目を剥いた緋桐の表情に何かを察したらしい朱莉が呆れた様子で肩をすくめると、その肩を抱き抱えるようにして後ろから細腕が伸びる。

 蛍光灯のもとに露わになったのは、細目のにこやかな表情にどことなく気品が漂う、ウェーブがかった長髪の少女だった。

「あら、ごめんなさいね。こればっかりは私の癖ですの」

「ゆ、幽霊……っ?」

「違いましてよ。わたくしは朱莉のパートナー、上福元紗雪と申します」

「救仁郷緋桐、です」

「今後ともどうぞよろしくお願いいたしますわ」

「あっ」

 紗雪と名乗った少女は微笑を見せたかと思うと、朱莉の背後から掻き消え、いつの間にか緋桐に抱きついてきていた。

 まるで気配というものを感じさせない彼女の身のこなしに、緋桐はにわかに戦慄した。

「あー、紗雪はね、相手の視野を認識する能力――そういう魔法を使うのさ」

「ですのでわたくしは一撃必殺に特化した暗殺術のようにマジカルマーシャルアーツをアレンジしましたの」

「そういえばシルヴィアちゃんも、相手の急所を攻撃する練習をやっていた……よね」

「…………上福元紗雪のアレンジとは趣旨が違う」

「そう、なんだ?」

 先ほどから一向に会話に参加しようとしない様子を気にし、緋桐はシルヴィアと朱莉たちの様子を交互に見やる。シルヴィアはどことなく不機嫌そうというか、拗ねているように見える一方で、朱莉も紗雪も彼女に苦笑を向けている。それは決して厭味でなく、どことなく親心を覗かせるような苦笑だった。

 よりシルヴィアのことを知っていそうな二人の様子を見て、緋桐はなんとなく胸が苦しくなるような気がした。



 一日で最も深い闇が白み始めた頃、寂れたバーのカウンター席に相模の姿があった。彼は隣に座る男に無言でバーボンを手渡すと、引き換えに差し出されたメモを確認してポケットに突っ込んだ。

 言葉なく済ませた取り引きにほっと胸を撫で下ろした相模を見て、隣の男はゆっくり口を開いた。

「瀬川のおやじは?」

「入院してます」

「そうか……お前さんも一人で任されるようになったわけだ」

「何か間違ってましたでしょうか……?」

「いや、サマになってきたじゃないかと思ってな」

「まだまだです。今も瀬川さんの真似をしてるだけで」

「今はそれでいい」

 席を立った男に合わせて相模もバーボンを飲み干し立ち上がる。会計には万札だけを置き、釣りも貰わずにさっさと店を出た。

 二人とも特に挨拶を告げることなく無言のままに別れる。ただ別れ際の刹那、相模は男の哀しげな表情を盗み見た。意味深げなその面持ちは訝しいものがあったが、それは今は忘れることにした。

 既に東の空には朱色が差している。この夜一睡もしていない相模は、しかし未だ冷めそうにない情熱によって瞼を突っ張っていた。これといって予定はなかったが、セオリーに従い再び現場に足を運ぶことにした。



「いたいた。一応連絡しておきましょうね」

 早朝からカレーを頬張る緋桐とシルヴィアを見つけて、両手いっぱいに資料を抱えた枝里が食堂に駆け込んできた。枝里は資料の束を一旦机に置くと、力尽きるように椅子にへたり込む。目元にはうっすらと隈が浮かんでいて、彼女の疲労の度合いが見て取れた。

「だ、大丈夫……ですか?」

「ぅ……いらない心配はしないの。まずは情報の共有をしておかないと」

 緋桐の心配を一蹴すると枝里はポケットから取り出した缶コーヒーを一気飲みし、あっという間に空にした缶をゴミ箱へ放り捨てた。しかしそれでも眠気が取れないらしく、瞼を擦りながら話を始める。

「大まかな事件概要は緋桐ちゃんにも既に話してあると思うのだけど」

「はい……転売屋さんの殺害事件ですね」

「オッケーね。それでシルヴィアちゃんの調べによると――死因は体内部からの不可解な爆裂。現場に術式反応なし。争った形跡なし」

「うっ……」

 被害者の死因を想像して、緋桐の顔が見る見る青くなっていく。身体の内側から破壊される死に方というのは、とても食事時に聞いていて心地の良い話題では無かった。

 すっかり食欲の失せた緋桐を見かねて、シルヴィアは無言のままに緋桐の皿を取り、残るカレーを平らげた。

「シルヴィアちゃんの推測では、同業者ないし何らかのマジックアイテム所有者か、暗殺に特化した異能力者……つまり殺し屋。このどちらからしいわね」

「……殺し屋さんの場合は、依頼した人が後ろ盾にいることになるんですか?」

「そうなるのよね。暗殺者の口を割らせることは難しいから……逆に依頼主から暗殺者を割り出すべき」

「なるほど……」

「それじゃあ後は現場でよろしくね」

 連絡を終えた枝里は全身重くてたまらないといった様子に腰を上げると、また資料を抱えて去っていってしまった。去り行く枝里の背中は葬式か何かでもあったのかと思わせるほどにくたびれている。食堂を出る直前、出入り口近くの購買でカップうどんをダンボール一箱まるごと買って自ら荷物を増やしていたのは不可解であったが。

「枝里さん……どうしてあんなにお疲れなの?」

「宗頤枝里は他のチームのマネジメントも行っている」

「捜査が重なってるんだ……」

「…………」

 この三日間でもう何度目か分からない気まずい間に緋桐が振り向くと、シルヴィアがほんの少しだけ頭を俯かせているように見えた。



 向日葵畑がビル街の裏路地に塗り換わっていくのを目にして、緋桐は思わず感嘆の溜息を吐いた。初めて自らの手で行う転移魔術は、枝里に連れられて転移した時とはまた違う瑞々しい感動を彼女に与えた。だが、その感動も間もなく消え失せる。

 緋桐が降り立った場所のすぐ目の前には遺体を模ったらしき人型の白線が引かれていて、先ほどまで思い浮かべていた殺害の瞬間の想像図がより鮮明に緋桐の脳裏に焼きついた気がした。

「ここが……殺害現場なの?」

「…………」

 シルヴィアが無言のままに頷く。早速参ってしまっている緋桐とは対照的に、彼女は眉根一つ動かさずにいた。

 殺害現場などには既に慣れきってしまっているのか、それとも人の死に対して何も想うことがないのか。シルヴィアの思惑がどちらなのかは、沈黙のせいでわからなかった。

「やっぱり……気持ちのいい場所では、ないよね」

「……長居無用。聞き込みを開始する」

「えっ、もう!?」

「……既に現場は充分に調べた」

 相変わらずの無表情を逸らして歩を速めるシルヴィアの背中に、緋桐はほんの少しだが人らしい感情が垣間見ええたような気がして、安堵を覚えた。

 置いていかれまいと足を踏み出した緋桐はその直後、何の前触れもなく嘔吐した。

 欺瞞、殺意、恐怖、喜悦、驚愕、焦燥、後悔、理解、確信、苦痛、苦痛、苦痛――――――事件当時の現場に渦巻いていた様々な感情が突如、間欠泉の如く噴出して緋桐の脳を貫いてくる。殺人現場すら初めて見るような少女にとっては、その全てが想像を絶する感情だった。

 いや、そもそも緋桐がこの場所を見るのは、果たして初めてなのだろうか。

「ぅう……っ……あ……」

「……!?」

 くずおれた緋桐のもとにシルヴィアが急いで駆け寄る。この時ばかりは鉄仮面のシルヴィアも不安の色を顔に浮かべていたが、それも今の緋桐の目には映らない。

 感情の濁流と吐き気が一旦落ち着いてくると、今度はわけもなく涙が溢れて緋桐の頬を浸していく。

 心臓が狂ったように早鐘を打つ。どれだけ呼吸を繰り返しても息苦しさは絶えず、深海へ引きずり込まれるみたいに途方もなく絶望的に思えた。

 あまりにも苦しいから、自分はきっとこのまま釣り上げられた魚みたいにのたうち回りながら死ぬのだろうな、と緋桐はどこか冷静に自身を客観視しはじめる。そのまま客観視している自身と苦痛にもがく自身との距離が離れていき、星と星ほどの距離にまでなる。やがて臨界点を越えた音がどこかから聞こえ、全てが刹那のうちに一点へ収束していった。

「……見えた」

「ヒギリ……?」

 突如、緋桐が何も無かったように勢いよく立ち上がった。いつものおどおどしている緋桐とはまるで別人で、亡霊に似て虚脱した雰囲気を放っている。

 異変を察知したシルヴィアが咄嗟に後ずさる。怪訝げに視線を向ける彼女に、緋桐は井戸の底みたいに深く暗い瞳で返した。

「被害者が一人、犯人が二人、目撃者が二人。ぜんぶ見えたよ」

「…………」

「犯人のうち一人は取引相手として被害者の気を引きつけてた。もう一人は流体操作能力で被害者を殺害し、取引相手役がマジックアイテムを使う。そこを鉢合わせてしまった人が二人いて、犯人はすぐさまそれを殺害して…………うっ」

「……!」

 糸が切れたように倒れかけた緋桐の身体を、シルヴィアが確かと抱きとめる。シルヴィアのうなじからは包み込まれるような優しい香りがして、緋桐の心が妙に落ち着いた。

「……一体何が?」

「わからな…………ぃ」



「なるほど……残留思念を読み取る魔法、とはね」

 緋桐に異変が起きたのと同じ頃、オフィスへ向かうアナトの手に握られた契約書が薄黄色に輝いた。魔法少女の契約書だ。光と共に浮き上がった文字に目を通したアナトは、愛らしい見た目に反して深刻な面持ちになった。

 人の感情や思念は時として呪いにも近しい現象としてその場所に残留する。緋桐の持つ魔法はそれらの残留思念を読み取り、理解する能力のようだ。これは捜査を進める上でこの上なく利便性に長ける能力だが、しかし殺人現場の思念ともなると、常人には想像もつかない極限の精神状態をもたらすことが考えられる。とても十四歳の少女が耐えきれる精神的ダメージとは言えない。

 アナトは緋桐の安否が不安で仕方なかった。

「凄まじい才能だ……だが彼女を傷つける為にあってはならない」

 しな垂れ始めている向日葵の向こうに立ち上る入道雲を眺めたアナトの目が、ほんの少しだけ哀の色を孕んだ。



 現場に足を運んだ相模を待ち受けていたのは、意識を失った見知らぬ少女とそれを抱きかかえるシルヴィアだった。

 見るからに異常なる状況なのだが、それよりも相模の目を奪ったのは、あのシルヴィアの鉄面皮に薄らと焦燥の色が浮かんでいることだった。あの無口なミミズクにも感情というものはあるのか、と驚きを隠せない。

 相模は急いで自分の車へと二人を招き入れて、病院へと走らせた。

「その子は一体誰なんだ?」

「救仁郷緋桐……新人チームメイト」

「なるほど」

 新人という呼称に相模はなんとなく自身を重ねて見てしまう。だが魔術の才能や素質に恵まれた少女と彼ではかかる期待の度合いが違うのだろう、と思ってすぐにその考えは捨てた。

「彼女は魔法で残留思念をロードし……事件当時の状況を読み取って見せた」

「おそるべき才能だな。……が、大きそうな代償だ」

「…………」

 シルヴィアを一瞥すると先ほどまでの焦燥は失せており、いつもの鉄面皮が復活を果たしていた。ただほんの少しだけ俯いているようにも見える。その僅かな角度の差がもう一人の少女を気遣う気持ちに起因するものなのなら、それは見間違いであって欲しくない。

 フロントガラスに反射した相模の瞳が、窓の向こうの病院に重なる。車を出発させてからまだ5分と経っていない。

 現場からこれだけ近くに病院があるというのに、鬱蒼としたコンクリートの森の中にいては、たった一人の男の命すら目に留まらないのか。そう考えるほどに相模は忸怩たる想いを禁じえないのだった。



 命を奪われることの絶望と理不尽に対する怨嗟が紫煙のように気管へ押し入り、内臓を握り潰されそうになる。心臓が痛いほど早鐘を打って、頭に抉られるような痛みが広がって、溺れたみたいに息ができない。この苦しみから解き放たれるためなら今すぐ死んでしまいたいと思った。

 朦朧な白の光芒を割る二つの影が見える。それはすかさず後背より現れた新たな影によって断ち割られ、のた打つ自分と顔を向き合わせるかたちで倒れた。影は一組の男女だった。頬骨の浮いた薄幸そうな男と、くしゃくしゃの髪で顔が隠れた女である。

 二人はこの世の終わりを見ているような顔で悶える。きっと彼らも今すぐ死んでしまいたいと思うほど苦しくて、しかし終焉の幕があまりに遠すぎて絶望しているのだろう。ミミズの如くのた打つ二人の姿は同じく苦しみもがく自分自身が投影されているようで、惨めな気持ちになる。こんなものは人の死に方ではない。

 やがて視界のコントラストに黒が際立ちはじめ、全身の痛覚が遠ざかっていくような気がした。もう音も殆ど聴こえない。ここは深海のようだ。そう思ったのを最後に、ふっと全てが途切れる。

 砂垣匠の死はあまりに無慈悲で唐突だった。

 喜怒と楽が抜け落ちた、絶望の諦念だけしかない最悪の死だ。

 徐々にまた明るくなっていく無彩色の視界なかで、砂垣匠の死を追体験した救仁郷緋桐は泣いた。彼の不条理にまみれた死があまりにも哀れで、人の尊さを踏み躙られたようで、どうしようもなく悲しかった。

「緋桐ちゃん……緋桐ちゃん! 目を覚ましたのよね!? 大丈夫!?」

 意識を取り戻しベッドに起き上がった緋桐の傍らには、青ざめた枝里の姿があった。

 カーテン越しに刺さる日光が眩しい。クーラーの冷風が肌に心地良い。消毒薬のような匂いが鼻腔をくすぐる。枝里の必死な声が少しうるさい。五感を一つ一つ確認して、自分が生きていることを実感した緋桐は、今度は安堵の涙を零した。

 どうやらいつの間にか、どこかの病院に運び込まれていたらしい。あやふやな記憶を辿ってようやく状況を理解した緋桐は、はっとして枝里に問うた。

「シルヴィアちゃんは……今どこにいますか」



 緋桐を運び終え所在のない相模は、我知らず瀬川の病室を訪れていた。面持ちにより一層の陰りを見せる相模を、瀬川は苦笑とともに迎え入れた。

「今日はえらく早いな?」

「……いえ、捜査に協力している魔法少女……の二人目が倒れて。搬送ついでに寄ったんです」

「ほう、それはまた」

 廊下まではうだるように暑かったというのに、病室内は別世界のように涼しく、汗に濡れたシャツがあっという間に冷たくなる。着替えないと風邪を引きかねないくらいだ。いつもは夜になってから訪れていたので、日中に面会に来るのは初めてだった。

 空調の冷風を避けて窓際に立つ。外は散歩に出た入院者や、退院する者とそれを迎える家族など、絶え間なく人々が往来している。彼らはここが殺人現場のすぐ近くだということを知らない。それが異能による超常犯罪だということなどは尚更、知る由すらなかろう。表と裏に分けられた社会は、こんなにも薄い隔たりのもとに成り立っている。相模は異能犯罪対策部という肩書きの重さを、改めて実感していた。

「何か悩んでる顔だな」

「わかりますか」

「わかりやすいな、全く」

「……この社会の均衡を、どう考えますか?」

「ひどく脆弱で不安定だな。少しずつ手を加えられてきたとは言え、未だ突発的な不測事態には弱すぎる」

 一般社会の影に異能が暗躍する裏社会という体系の始まりは、意外にも古くない。

 遡ること五十年ほど前、地球の意思によって選ばれた各生物の代表者――星の眷属たちが“大いなる災厄”を予言したことに端を発する。彼らはやがて訪れる災厄に備えるため、人類に“現象の制限を解き放つ”力である魔術と魔法をもたらした。その一方、制限を逸脱した現象の数々によって生じた世界の歪みが、突然変異の如く異能力者――俗に無制限能力者とも言う――を生ませた。

 “魔術師”と“魔法使い”と“異能力者”。一纏めに“異能”と称される彼らの為の社会が成り立つにまで至ったのが、それから20年ほど後。

 今の裏社会はほんの30年前にようやく確立されたばかりの、余りに幼い文明なのだ。表社会とのバランスはかつてに比べれば遥かに改善されたものだが、それでもまだ完全とは言い切れないのが現状だ。

「俺は異能に関わる身として……第二世代ってところだろうか。裏社会が確立して間もない頃の世代だが、はっきり言って本質はその頃から何も変わっていない」

「本質、とは……?」

「隠蔽体質。この50年、魔術と異能力の存在をずっと秘匿してきた性質のことだ。……が、そもそも社会を表と裏に分け隔ててしまったのが間違いだと俺は思う。異能の存在を社会に徐々に浸透させ、認めさせていくことが出来ていれば、こんなリスキーな環境にはならなかった」

「今から表社会に認めさせていくということはできないんですか?」

「無理だろうな。社会の二分化を推し進めた連中っていうのは、要するに能力者の特権を独り占めしたがっていた連中だ。昔も今も、そういう連中がいる限りは不可能な話だろうよ」

「表社会にも、反異能を主張する保守派がいる…………やはり今からでは遅すぎるんでしょうか」

「引っ込みがつかなくなってしまってるんだよ。革命でも起こさない限り、永遠に」

 語気を弱める瀬川の面持ちは、相模のそれを上回る陰りをたたえている。

 かける言葉が見つからず、相模は黙りこくってしまう。社会そのものの在り方を憂い苦悩する瀬川がとてつもなく大きな存在に見えたからだ。

 還暦までそう遠くない瀬川にとって病室で燻っているだけの時間がどれほどもどかしいか、相模には想像すらつかない。それに比れば使命の重さを恐れる自分などは余りにちっぽけで、ひどく情けなかった。

 瀬川の弟子として次の時代を担っていかなければならない立場に自分はあるというのに、一体何をしているのか――――相模の気持ちは殊更に沈む。

「すいません、少し長居しすぎたかもしれないです。そろそろ失礼します」

「…………何か悩みがあるんなら、抱え込まないで相談しろ」

「はい。……ありがとうございます」

 相模は後ろめたい気持ちから半ば逃げ出すように出入り口へと向かう。雰囲気からなんとなく察したらしい瀬川がかけてくれる励ましすら、いまは胸が痛くなるだけであった。

 病室を抜けて廊下に出ると、そこにはシルヴィアが待ち受けていた。

「聞いていたのか?」

「…………」

 問い詰める相模に対してシルヴィアは何も答えない。ただ病室のネームプレートを睨みつけるばかりで、相模のことなど文字通り眼中にない様子だった。静止して一点を見つめる姿は骨董品のフランス人形と見紛うほどに見目好いのだが、対話が成り立たないのでは人形というのも強ち間違いでないように思えてしまう。

 それから一向に口を開かず相模を困惑させていたシルヴィアが、今度は唐突に階段のほうを振り向く。すると程なくしてそちらから緋桐が現れた。緋桐の顔には少々疲れが滲んで見えたが、シルヴィアを見つけるなりそんなものは消し飛んだと言わんばかりに顔を綻ばせた。

「シルヴィアちゃん、ここにいたんだ……ふぅ」

「……体調は」

「問題ないよ、大丈夫。……そ、それより、何かあったの?」

「いや…………何か感じた?」

「……うん。そ、そこの病室から、なんだか変な感じがする……」

 相模が自己紹介がてらに話し掛けようとするも、シルヴィアの発言につられて緋桐も心ここにあらずといった様子だ。ただ一人、異能の力をほぼ持たない相模だけが怪訝に首を傾げる。緋桐は変な感じがすると言うが、つい先ほどまでその病室にいた相模には何も感じられなかった。魔術や無制限能力などの知識に疎い相模とは感覚器官がそもそも決定的に違うのかもしれない。

 才能を持つ者たる彼女たちとはやはり住む世界が違うのか、と相模が嘆息するのと同時に、突如として病室の方向からがたん、と金属が叩き付けられるような大きな物音が聞こえてきた。それは何か物を落とした程度で発せられる音では断じてなく、ただ何らかの破壊音であることだけははっきりとわかる、そんな物音だった。

 直前までの少女たちの奇行も手伝って混乱に放心していた相模は、数秒経ってからようやく“病室から破壊音が発せられた”という事態を理解した。気付けばシルヴィアと緋桐は既に病室へと突入している。追って病室へ駆け込むと、そこには血みどろになりながら床を這う瀬川と、白いローブに身を包み宝玉を手にする少女の姿があった。

「瀬川さん……!?」

「ひいっ!? 血……血が!」

「クル・ヌ・ギア……!」

「ちっ……」

 ローブの少女はこちらに気付くと、ばつの悪そうな表情でおもむろに窓から飛び出す。投身自殺かと思われたのも束の間、少女は隣のビルへと飛び移っていた。恐らくは壁を蹴って跳躍したのだろうが、とても人間技とは思えない。シルヴィアたちと同じ魔法少女なのだろうか。

 目を疑う相模をよそにシルヴィアは独り言のようにぶつぶつと何かを呟いたあと、少女を追って同じく窓から飛び出していった。カメラからフレームアウトするように、シルヴィアの姿が見えなくなる。彼女のあの矮躯で同じような真似ができるのだろうか、と不安がよぎったが、ものの数秒後には隣のビルへと弾丸のごとく飛んでいくシルヴィアの姿が再び見えた。ただし、服装は先ほどまで着ていた漆黒のロングコートとは打って変わって、西洋の祭服に似た装いになっていた。

 相模はしばし呆然としたのちに、はっと気がついて瀬川のもとへと駆け寄る。傷は胸部にあり、湧き水のように血が溢れてきている。

 ナースコールの方へ目を移すと既に緋桐が押してくれていた。看護師や医者が駆けつけるまでどれだけかかるかわからない。それまでに止血だけでも出来れば良いのだが、胸の止血法など相模には皆目見当もつかなかった。手当たり次第にベッド上のシーツなどで押さえつけてみたが、純白の生地が赤く染まっていくばかりで流血は少しも止まらない。

 狼狽に涙ぐむ相模の肩を震える指が掴む。瀬川の顔は先ほどとはまた少し違う、悔恨に歪んだ表情を浮かべていた。

「相模……俺は謝らなきゃ……ならん」

「無理に喋らないでください!!」

「砂垣匠……あれは……俺が殺した」

「は……!? な、何を言ってるんですか瀬川さん!?」

「正しい……先輩でいられなかった…………それだけ……謝らんと、な……」

「どういうことなんすか!! 何言ってるかわかんないですよ!!」

 相模の涙目をしっかりと見据えたまま、次第に瀬川の指から震えが収まっていく。肩越しに力が無くなるのを感じたかと思うと、瀬川の手がぱたりと滑り落ちた。それはあまりにも唐突すぎて、まるで世界に一人だけになったような、途方もない虚無感に襲われる。

 紛れも無く今この瞬間、瀬川は命を落とした。いくら目を逸らそうとも認めざるを得ないその現実を前に、むしろ涙は引っ込んでしまった。唯一頬に残った雫がゆっくりと顎へと到達し、墜落する。

 雫は開け放たれた窓から吹き抜ける風に運ばれ――――瀬川の膝から外れたギプスにぶつかって消えた。



 摩天楼の空を縫って白と青の二人の魔法少女が飛ぶ。ビルの屋上に着地してはすぐまた跳躍して次のビルへと向かうその様は、バウンドを繰り返すスーパーボールのようだ。そして軽いほど多く跳ねるスーパーボールと同じように、追跡戦ではより装備の軽い方が有利となる。ローブの下に幾つかバッグと思しきものを装備している白の魔法少女は、青の魔法少女――シルヴィアと比較して些か鈍重であった。

 互いにこのままの速度を保っていれば、数十秒としないうちに肉迫することだろう。そこから格闘戦へと持ち込めば、まずシルヴィアが負けることはない。

 唯一懸念すべきは、敵のリーチだ。

 白いローブの少女とてこのままシルヴィアを振り切れるなどとは考えていまい。おそらく彼女は妨害を受けない距離まで逃げてから、転移魔法で振り切ろうと考えているのだろう。ならば尚更、これ以上距離を詰められるわけにはいかないはずだ。一定の範囲内に踏み入れば、射出系能力を用いての攻撃を仕掛けてくるに違いない。問題はその攻撃がどれほどの距離から始まるのかである。最悪、回避不可能な距離まで近づけておいて一気に叩くという手段に出る可能性もある。

 不用意に接近するのは危険だと判断したシルヴィアは、距離を保ちながら携帯電話を取り出し、枝里と通話を始めた。

『もしもし、シルヴィアちゃん! 今どうなってる!?』

「目測10メートル前後の距離を保ちつつ追跡を続行中。迎撃を警戒」

『わかったわ! 攻撃の許可は既に取ってあるのよ! 後は……』

「隠蔽結界の準備を」

『はいはい!』



 枝里の運転する軽自動車が、法定速度も信号も無視して都会の道路を爆走する。半ば強引に乗せられた緋桐は助手席で、激しい揺れと戦っていた。

 病室へと辿り着いた枝里が状況を把握してから、緋桐の手を引いて車を出すまでの時間はとてつもなく短かった。さすがはあのシルヴィアのマネージャーを努めているだけあって、枝里の機敏さは尋常ならざるものがある。

 一方で緋桐は、嵐のように目まぐるしく移り変わる状況に混乱を禁じ得ないでいた。

 病室にいた二人――――死んだ男性と襲撃した少女の顔は、事件現場で見た残留思念に現れた主犯二人と一致した。おそらく病室の前で不穏な感覚を覚えたのも、残留思念と一致する存在が近くにいることを、緋桐自身の能力が知らせていたのだろう。

 それにしても腑に落ちないことが多い。刑事が殺人に手を染めたこと、彼が殺害されたこと、共犯が魔法少女であること。加えて、シルヴィアの発した“クル・ヌ・ギア”という言葉も不可解である。しかしそういった疑問を解消する暇もなく枝里に強引に連れられ、今に至った。

 もはや今は理解せずとも良いのだと、自らを諭すしかなかった。

「聴こえたわね緋桐ちゃん!」

「は、はい!?」

「ダッシュボードにあるカードを取って、起動してみて!!」

「えぇっ!?」

 運転中の通話でまたもや道路交通法を違反した枝里が、突如思い出したように緋桐に指示をしてきた。緋桐は目を丸くする。確かに収納スペースにカードはあったが、起動するという言葉の意図をはかりかねていた。しかし焦燥に歪む枝里の横顔を見ていると、とても意味や方法を訊ける様子ではなさそうだ。

 緋桐は半ば自棄になってカードを手に取った。カードには人の頭部と半円のマークが描かれていて、タロットカードのように縦に長い形状をしている。

 このカードは使用時から前後の1時間内、距離にして半径1キロメートル内にいる一般人が知覚した異能にまつわる記憶・情報を改竄するマジックアイテム――らしい。初めて触るはずのに、古くから慣れ親しんだ道具のように使い方がわかってしまう。紙製の表面から指を通して、脳に直接魔術のイメージが伝わってくるのだ。

(これなら……!)

 緋桐は意を決してカードに意識を注ぎ込み、窓から突き出してみせる。するとカードから瞬く間に波動が広がり、やがて淡雪のごとく風に溶け、消えてしまった。あまりにあっさりと消えてしまうものだから失敗したのではないかと不安になる。

 枝里の横顔からは、少しだが緊張が解けているように見えた。

「こ、これで大丈夫でしょうか……?」

「うん、完璧よ!」

「よかったぁ……」

「じゃあコレ、1キロ置きに発動してよね! 頼むわよ!」

「えぇっ!?」


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