『真実の貌』3
これから宿泊するはずだったルームへ荷物を取りに戻ったシルヴィアを、不穏な予感が襲う。扉を開けて足を踏み入れた時点でそれは既に漂っていた。
ついさっき、ホステルを出る時まであれほどはしゃいでいた崇城綾那が、打って変わってぞっとするほど静かに押し黙っている。視線の先には――彼女がそんなものを持っているとは思わなかったが――おそらく自前のタブレット端末。動画を再生しているのだろう、絞られてはいるが音声がシルヴィアのもとにまで漏れ聴こえてきている。
聴こえてくるのは人の悲鳴となにやら建築物が崩れるような騒音。だがそれはシルヴィアの背筋を強張らせるのに十分な材料だった。
「崇城綾那……」
「あ、シルヴィアちゃん! どこに行ってたんですー? 着いてすぐ外出なんて、綾那寂しいー!」
シルヴィアの声を聴いた途端、鬱陶しいほど明るい笑顔を貼り付けた崇城綾那がぱっと振り返った。手にしたタブレット端末の画面もまたシルヴィアの目に入り、やはり予感通りの光景を映している。
イシュタル本部近辺の見慣れた大通りだ。だが脇の建物はことごとくひび割れ、破片を足元に散らしている。撮影者のほうへ雪崩の如く押し寄せる市民の面持ちが現地の混乱ぶりを物語っている。そして人の波の切れ間にかすかに見えた、逃げ惑う人々とは真逆を進む、禍々しき赤い影。その背中をシルヴィアは知っていた。
「そ、れは……」
「これですかー? えっとこれはー、たぶん、イシュタルの近所ですねー! なんだか騒ぎになってる? みたいな!」
綾那の眼差しがいやに眩しい。動画に写し撮られている光景は阿鼻叫喚の地獄だというのに、まるで意に介さないといった様子だ。暗い空気にならないよう、彼女なりに気遣っているつもりだろうか。
だが、それにしても綾那の言動からは違和感が拭えない。二重に困惑するシルヴィアを見かね、綾那は動画を一時停止する。そのまま画面を拡大し、シルヴィアが恐れる核心へ無造作に切り込んできた。
「エーデルワイス、ですよね!」
「……!?」
「知ってますよー! シルヴィアちゃんが気にかけてたこの子、なんちゃらの……運ぶ、ってやつ? 見た感じ、めっちゃ手遅れって感じですね!」
「崇城綾那……まさか」
「エレシュキガル様がシルヴィアちゃんに会いたがってるんですよぉ?」
事もなげに言い放った直後、綾那の身体が一瞬にして白の魔法衣を纏う。それから不意を突いて飛び掛かる彼女とシルヴィアの腕が交差するまで、一秒となかった。
即座に反応し魔法衣を纏ったシルヴィアは、容赦なく突き出された掌底をすんでの所で避け、逆に腕を絡めとる。すかさず放たれたもう一方の手からの掌底も止め、二人は互いに押すも引くもできず膠着状態になる。
「シルヴィアちゃんは傷つけずに捕えろって言われてたんですけどー、……綾那、ちょっと欲張りさんですから!」
綾那はいつもの笑みのをそのままに顔を寄せ、シルヴィアの頬を舐め上げてくる。反射的に避けようとするも、組み押さえた腕が逆に固められて身動きを取れない。
頬骨の周りを丹念に舐め回し、こめかみから顎にかけて薄らと流れた汗の軌跡をなぞる。零れかけのジュースの滴を舐められるグラスになったような気分だ。
「香りがとってもお上品ですー! エロっていうより耽美な味! 腋とか膝の裏はどんな味なんですかねー! ブーツを一日履かせて溜まった汗も味わいたくなります! あ、前髪の生え際とかつむじの辺りも後で舐めさせてください!」
「っ……気色悪い……」
「もーう強がっちゃってー! ほんとは気持ち良くてジュワジュワしてるんですよね! もーっと辱めたくなっちゃいますー!」
「クル・ヌ・ギア……変態しかいないの」
「こんなコトされて興奮してるシルヴィアちゃんも変態ですよぉー!」
「していない。微塵も」
「素直にならないともっともーっとエッチなことしちゃいますよー!? もしかしてそれが望みですか! やっぱりシルヴィアちゃんは綾那の見立て通りMっぽいですねー!!」
身勝手な妄想を口走る綾那の態度に、シルヴィアは心底虫唾が走る思いだった。興奮するどころか、嫌悪感によって加速度的に感情が冷めていく。
言動こそ飛躍しているが、彼女の目はいたって正気のように見える。正気でいるからこそ殊更性質が悪い。つまり何者かに操られているという訳ではなさそうだからだ。
「まさか崇城綾那、貴方がクル・ヌ・ギアの諜報員とは思わなかった」
頭が悪そうだから。とまで続けかけたが、言葉に出す気も削がれるほどシルヴィアは呆れていた。
「何人かいるんですよー。会談に参加する組織は大体いますしー、組織自体が実はクル・ヌ・ギアの子分だったりもしますよ! あはっ、言っちゃった! 綾那ってばちょぉ欲張り! どう? 絶望しちゃいました!?」
「状況は理解した。もう十分」
馬鹿なら誘導すれば簡単に暴露するだろうと思ってはいたが、綾那はシルヴィアの予想以上に簡単に明かしてしまう。それをきっかけに彼女への評価は底を抜けた。
こんどは鼻の穴を舐めようとしてくる綾那の舌へ、シルヴィアは容赦なく頭突きを喰らわせた。
「あ゛ふ゛ぅ!?」
前歯が宙を舞い、舌は犬歯に食い込み血を吹き出す。綾那が激痛で怯んだすきに、更に情け容赦なしの回し蹴りを顎に食らわせてやる。熱狂も焦燥もなく、戦闘とも言えない事務的な対処。
「ぐえっ」
「…………」
最少の手数で綾那を片付けたシルヴィアは一切感慨を抱くことなく、さっさと荷物を纏めて部屋を後にした。後ろ髪を引かれることなくイシュタルを離れられるという点では、唯一感謝できるかもしれない。
ホステルを出ると、すでにクル・ヌ・ギアの刺客と思われる魔法少女が数人ほど路地を徘徊している。身を潜めて日本まで戻るのは相当に骨を折りそうだ。だがヒギリは既に覚醒しているのだ、もたついてもいられない。
まだパブに残っているはずのアナトにも事態を知らせてから行こう。今晩までは義理を通しておきたい。
意を決したシルヴィアは、身を隠すことなくメインストリートへ躍り出た。
どたどたと荒々しい足音。あちこちから誰かに呼びかける声。いやに切迫した喧噪に目を覚ました枝里の視界に、最初に映り込んだのは真っ白な天井と紗雪の顔だった。紗雪の顔は能面のように表情が抜け落ちていて、内心ぞっとした。
徐々に意識がはっきりしてくるにつれ、記憶が蘇ってくる。無数の少女が命を散らした殺戮の光景だ。クル・ヌ・ギアの奇襲を受け、魔法少女も事務員も、枝里が引き連れていたイシュタルの面々は皆死に絶えた。立ち込める赤い霧とその臭いが鼻の奥に蘇り、思いがけず吐き気を催す。吐瀉物を収めるバケツなどあろうはずもなく、咄嗟にベッドの脇へ撒き散らした。
吐き気が収まり、改めて紗雪のほうへと向き直ったが、彼女は相変わらず無表情のまま。枝里が目覚めたことにも遅れてやっと気付いた有様だ。
「ああ、目覚められたのですね」
「……ここは、病院?」
「枝里さんだけが辛うじて息をしていらしたので」
「…………ごめんなさい」
「なにを謝ってらっしゃるのですか?」
あの凄惨な状況を目の当たりにしたのなら、紗雪が塞ぎ込んでしまうのも無理からぬ話だ。しかしそれにしては、あまりにも淡泊すぎる反応が引っ掛かる。まるで心がここにあらず、別のことに意識が囚われてしまったままのよう。
ふと、紗雪がなぜ生きているのか不思議に思った。イシュタルに残った魔法少女たちは皆、殺されてしまった。
――――ああ、そういえば朱莉ちゃんと紗雪ちゃんだけクル・ヌ・ギアの下部組織を捜査しているんだった。
紗雪の隣に朱莉の姿は見当たらない。本部が奇襲されたことを悟って、ひとまず彼女だけ駆けつけたということだろうか。否、たった二人の戦力を分断する理由としては妥当ではないし、彼女らはもっと聡明なはず。それに連絡をしていなかったのだから、そもそも本部で起きた事について知る由すらないはずだ。
純粋な疑問。何の気なしにそのこと訊いてしまったことを、枝里はすぐに後悔した。
「朱莉ちゃんは、どうしたの?」
「…………殺されましたわ。下らない連中に。全くの無抵抗で、身体中を汚され、壊し尽されて……ボロ雑巾のように朽ち果てていました」
「っ…………」
そこでようやく紗雪の空虚な面持ちに変化が生じた。感情をせき止めていた堤防に亀裂が入り、涙がぼろぼろと零れ落ちる。傷を負い、その痛みに気付いた子供が、徐々に余裕を無くすように。
凛と澄ました佇まいに、物腰柔らかな人当たり。そんな平素の優雅な彼女の姿は見る影もない。そこにいるのは、苦痛に顔を歪ませる哀れな子供に他ならなかった。
枝里には彼女をなだめることすら出来ない。たった一日のうちにあまりに多くの命が失われすぎて、どうしても現実味を感じられなかった。
言葉を失い、縋る先を求めるように辺りを見回すと、まるで巨大な災害が起きた直後のように、廊下を無数の怪我人が運ばれていくのが見えた。枝里のいる病室は異能組織に特別に用意された部屋の一つなのだろう。よほどの非常事態であるらしいにも関わらず、貸し切りの状態だ。
病室に備え付けられたテレビを見やる。液晶越しに映る見慣れた大通りは、戦場の如く荒廃していた。
日が暮れてから有栖と別れ、午後の八時を過ぎたころになっても母親が帰ってこず、連絡すらないとなると、いかに気が長い長谷川小雨でも不安になる。最後の連絡が『仕事を早めに切り上げて帰る』という旨だったというのに、むしろ普段よりもずっと帰宅が遅い。なにか不測の事態が起こったであろうことは間違いないだろう。そしてその疑惑は、テレビの報道番組が告げる“都市部で起きた謎の災害”によってより深刻な確信を帯びる。
母の携帯電話には通話が繋がらない。会社側の電話番号も同じ。回線が混雑しているのだろう。
小雨はいてもたっても居られず、我が家を飛び出した。決して懸命な判断とはいえない。入れ違いになるかもしれないし、何より現場周辺はまだ混乱しているはずだ。それも重々承知したうえで、しかし家を出ずにはいられなかった。騒乱の中で携帯を紛失しただけかもしれない。最寄りの病院にいけば、運び込まれているかもしれない。小雨とてそんな淡い希望に目が眩んでしまう、年相応の少女だった。
災害の現場は街では南西のほうにある都市部。小雨の家がある住宅地から川沿いに上っていった先だ。普段なら電車に頼るところだが、今は交通機関の類はあてにならないだろう。距離としては少々厳しいが、自転車を使うことにした。
駆け抜ける近所の住宅地は、この非常時にも関わらず驚くほど沈まりかえっていた。皆、外出を控えているのか、それか避難しているのか。なんにせよ災害の影響であることは間違いない。
秋の木枯らしが頬を叩きつける。乾いた空気が、短く呼吸を繰り返す喉を涸らしていく。痛いほど心臓が収縮していた。昼間、余裕の態度で有栖からの相談に受け応えていた自分が、今はひどく憎たらしく思える。肉親の死を連想するだけで、嘔吐感を覚えるほどに怖い。
ふと、泣き腫らした目にごみが入り、前を見ていられなくなる。自転車が電柱にぶつかり、小雨は投げ出されるかたちで転倒してしまった。肘と膝を剥き出しのアスファルトに打ち付け、頬もほんの少し擦れる。即座に立ち上がろうとしたが鋭い痛みが関節を貫いて、しばらく蹲る他なかった。
私は一体何をしているんだろう。馬鹿みたいだ。
閑寂たる川沿いの路地に倒れる自分の姿を思い描き、情けない気持ちになる。家を出たその時から分かりきっていた。現場に飛んでいったところで収穫などあるわけがない。この不安を払拭しうる術など、少なくとも今はないと。少しでも気持ちを紛らわせたくて闇雲になっていただけなのだ。すべて分かりきっていながら走り出したはずなのに、転んだだけで簡単に屈してしまう自分が、この上なくみっともない。
感情が徐々に落ち着き、悲観にも似た冷静さが呼び起こされていく。
やはり家に戻ろう。せめて一晩は待たなければ判断のしようもない。これ以上の暴走は他人様に迷惑をかけるだけだ。
無事なほうの手足を使ってぎこちなく起き上がり、顔を見上げた刹那、視線の通り過ぎた箇所に違和感を覚える。川の対岸、生い茂る雑草の群れに小さなくぼみ。そこに埋もれる茶色がかった後頭部。人だ。
災害は川の上流のほうで発生した。ならば今そこにいるのは、川に落ちてここまで流れ着いた被災者か。考える余地はなかった。つい直前に失われたはずの衝動とも言うべき激情が、我知らず小雨の身体を動かした。
救わねばなるまい――――。それは衰弱する命を前にしたならば誰もが選ぶべき、人として当然の使命だ。だが小雨を突き動かす感情はそんな正義感や義務感でなく、寄る辺ない心の悲鳴だった。
「大丈夫ですか? あの、返事をしてください! 意識があったら……お願いですから!」
橋を渡りながら、掠れた声で呼びかける。近付いていくにつれ、その人影がだんだんと小雨とそう変わりない背丈の少女であることが分かりはじめる。しかも全身が赤く滲んでいる。相当な重傷者に違いない。
川縁へ続く階段を半ば転がるように駆け下りる。雑草を掻き分けどうにか辿り着ても尚、少女は小雨の呼びかけに応えようとしない。だが背中はわずかに上下している。息はあるようだ。
夜風が背筋を撫でた。全身を濡らしたままでいれば、今は息があっても遅かれ早かれ凍え死ぬだろう。川から引き上げるなり、着ていたカーディガンを迷わず少女にかけてやる。そこまでして、ふいに不安が襲った。怪我を負った上に家からはすでにだいぶ離れてしまっている。決して体力に自信があるほうではない小雨が、果たして一人でこの少女を担いで自宅まで戻れるのだろうか。
慌ててズボンのポケットを探る。携帯電話の膨らみは確かにそこにあった。慌てて家を飛び出したために携帯電話を取ることも忘れていたが、運が味方した。すかさず電話帳から瀬川有栖の項目を選び通話する。小雨が頼れるのは今、彼女しかいない。
『もしもし、小雨? 帰ってからテレビ見た? 向こうでなんか災害があったって……』
「今、その被災者を拾ったところなの。私も怪我をしてて一人じゃ運べない。今から来てもらえる?」
『なっ……何処!? すぐ迎えに行くから。一人で無理しないでよ、マジで!』
真っ白な墓石に似た無数の柱体が整列し、堅牢な壁となりフロアへ進入せんとするものを拒んでいた。しかしアナトが指を触れると、そのうちの一つがあっけなく引き下がっていく。それから連弾を奏でるピアノの鍵盤のように波紋が広がっていき、やがて墓石の群れはアーチ状の通路へとひとりでに変形する。幻獣のみに先へ進むことを許す、高度な魔術で構成された結界。現地へ最初に到着した設営を担当する幻獣によるものだ。もしその幻獣がクル・ヌ・ギアの傘下へ堕した者であったなら、敵地へ淡々と足を踏み入れる今のアナトは、さながら飛んで火に入る夏の虫といったところか。
一時間前、パブに残り一人酒を嗜んでいたアナトの許に、名刺ほどのサイズのカードが投げ込まれた。カードには文章が添えられており、独特の硬い筆跡、顔を合わせられない事情などから、シルヴィアが放ったものであるとすぐに察せた。記された文章は短く、“多くの間諜が潜んでいる。クル・ヌ・ギアの罠”とだけ。仮にこれが虚報だったとして、アナトがその程度で揺らぐような容易い相手でないことはシルヴィア自身が理解しているはず。加えて、少なからず予期していた事態だ。まず疑う理由は無いだろう。
袂を別ちエーデルワイスを奪い合う敵となった自分にわざわざ忠告をくれてやる、そんな年相応の未熟さがアナトには哀れに思えた。おそらく今晩限りは義理を守り通すつもりだろう。アナトのほうは出発する前からシルヴィアを欺いていたというのに。
遠征の末に辿り着いたこの西欧風の古臭い街は、実のところ西欧とは程遠い、モンゴルの山間奥地に位置している。単純な距離としては、ヨーロッパよりも遥かに日本に近いのだ。
無数の転移を繰り返した理由を、魔法少女たちには『クル・ヌ・ギアの尾行を阻止するため』と説明した。それも嘘ではないのだが、真意は別にふたつある。
一つは、対立することが予測されていたシルヴィアを予め攪乱しておくため。もう一つは、クル・ヌ・ギアに下った組織を炙り出す為の、いわば撒き餌だ。そして見事に、その撒き餌につられてアナトたちと接触を図ってきた組織がいた。
柱体のアーチを抜け、遂に会談が開かれるフロアへとアナトが辿り着く。半径にして五〇メートルは優に越える、円形の広大な会議室。その中心にはやはり円形の大きなテーブル。座席は三〇。すでにアナトを除く全ての幻獣たちが着席していた。なにやらざわついていたが、話題については大方予想がつく。それぞれの顔を確認しながら、更に一歩踏み出してアナトは告げた。
「予定よりも早く集まってもらって申し訳ないね。けど皆も知っての通り、状況が状況だ。全員が揃ったことだし、早々に始めさせて貰おう」
「イシュタルの本部がやられたってのは本当なのか。それに、エーデルワイスが見つかったって話もあるぞ」
ひときわ大柄な熊の獣人が立ち上がり、語気も荒々しく問う。
「その件なら確かに、ボクの耳にも届いている。おそらく事実だろう。そちらについても対処は必要になる」対してアナトの返答はひどく抑揚に乏しく、冷たい声音だった。同時に幻獣たちのざわめきは一斉に静まり、代わりに緊張の眼差しが集まった。「それより重要な問題があるのさ。協定に背を向け、クル・ヌ・ギアの手先に堕した者がいる。そうだろう? フラムトゥグルーヴ代表……シャレム」
アナトが言い終わるより早く、シャレムがマジカライズステッキを掴む。ステッキはあっという間に変形し、リボルバーの姿をとる。だが、それが発射されることはなかった。
円筒状に吹き抜けた会議室に銃声が轟き、先んじてマジカライズリボルバーを形成していたアナトの殺意がシャレムの胸を貫いた。
「合流したとき、ボクたちの頭上を鷹が飛んでいたね。キミが使役するゴーレムだったんだろう。狙いとしては、進行を急がせて魔法少女たちの疲弊を誘うってところかな? 術式不干渉結界を仕込んだボクが、その程度の小細工を感知できないとでも思ったかい?」
「……容赦なし……か。悪鬼め……」
「お互い様だよ」あっけらかんと言い放ち、躊躇いなくとどめの第二射をシャレムの頭に撃ち込む。砕けた頭蓋から鮮やかな血飛沫を散らし、“シャレムだったもの”は壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
続けてマジカライズリボルバーを静観していた幻獣たちに向ける。十数名は席に着いたまま凍り付き、その他は即座に立ち上がり銃を向け返していた。裏切り者が半数に達している。予想よりも多い。
「エレシュキガルに何を吹き込まれたのかは知らないけど、キミたちも愚かだね。人類社会を利用する手段を確立し、穏便にエーデルワイス争奪戦を終わらせ得る体制を創り上げたというのに」
「そう言いながら、お前、エーデルワイスを隠し持ってたんだろ」
先程の熊の幻獣が唸るような声で反論する。直前まで素知らぬ顔で質問をしていたというのに、今は誰の眼にも明らかな憮然とした態度だ。演技が達者なようだが、名前は記憶にない。おそらく協定に属する組織でも比較的下位の者だろう。
「だから何だって言うのさ? 皆を代表してエーデルワイスを殺し、キミたち全員が納得する新世界を選ぶ義務がボクにはある。無意味な疑心暗鬼を招かぬ為に隠していたというだけさ」
「どのみちエーデルワイスはエレシュキガルの手に渡った。お前の詭弁に耳を貸す奴なんていない」
「それはどうかな? エレシュキガルが既にエーデルワイスを得たというのなら、なぜ巷では大災害だなんて報道が飛び交っているんだろうね。情報操作されているが、どう見てもあれはエーデルワイスによる殺戮だ。彼女はイシュタル本部にいるはずだけど……それが外に出て暴れたということは、取り逃がしたと見て間違いないだろう」
『よく弁えているではないか。だが時間の問題だ。それに幾ら弁明を重ねようとも、こやつらは聞き入れぬであろうな』
低く、凛々しい女の声。アナトのよく知っている声だ。
円卓の中央にホログラムが突如として展開され、青白く発光する。光は狐の面貌をたたえた獣人、幻獣エレシュキガルの姿をその場に投影した。
「やあ、久しぶりだね。キミに唆される愚者がこれほどいるとは思わなかったよ。存外、潮時だったのかもしれない」
『愚者は貴様とて同じだろう。むしろ聞こえの良い言葉で惑わす偽善者ほど、始末が悪い』
「キミほど露悪的でもない。彼らの気が知れないよ。キミはただの扇動者だ」
二人の口論は今まさに命を賭けて敵対する者同士でありながら、毎日顔を合わせる友人同士がつく悪態のようにも見える。さりとて互いが瞳に宿した殺意には一点の曇りもなく、ひどく不思議な光景だった。
『勘違いをしているな。こやつらは我が手駒となった訳ではない。協定によって保たれてきた仮初の秩序を突き崩す、そのための一時的な団結だ。もとより我ら星の眷属は地上の覇権を奪い合うため生を授かった身。公平、協調を約束する合意など、新たなエーデルワイスを前にした今では欺瞞にすら至らん児戯よ』
「確かに、こうも理性を欠いた馬鹿ばかりなら、協定にも意味はなかったかもしれないね」
彼女の唱える理念は受け入れ難いし、それに惑わされた馬鹿どもへの失望は輪をかけて大きい。故に反論にも熱が入り感情的になっていく。だがそれは半分、芝居のようなものでもあった。エレシュキガルがこちらの言葉に返すかぎりは他の幻獣たちも銃のトリガーを引きはしないだろう。そして彼らの視線と意識はアナトが一手に集めている。好機だ。
呆れたふうに肩をすくめる、わずかな一刹那。明確な意図を含んだ視線を、席に固まったままの幻獣たちに送る。意図は相違なく伝わったらしく、味方側の幻獣たちはすかさず立ち上がり、手にしたマジカライズガンで裏切り者たちに不意打ちを試みた。
再び銃声と閃光が迸る。当然ながら、彼らの不意打ちが成功することはなかった。十数名の殆どが銃を構えようとした時点で感付かれ、殺意の銃弾に倒れた。だがそれでよかった。始めから彼らが形勢逆転してくれるなどと期待してはいない。重要なのは、敵の意識が僅かでもアナトから逸れたことにある。
マジカライズリボルバーを散弾銃の形態に変化。身をすこしだけ屈め、最小の挙動で体重を移動し、慌てて振り向き直した間近の幻獣の頭に銃口をあてがう。トリガーを引くと同時に相手の頭が砕け散った。脳漿とない交ぜになり濁った大量の血液が飛び散り、ほかの幻獣たちの視線を更に遮る。
血飛沫によって生じるほんの小さな死角。存在しないに等しい、コンマ一秒と待たないノイズ。それさえあれば充分だった。
ショットガンを左手に持ち替え、空いた右手に新たにマジカライズリボルバーを召喚する。左手は敵味方の区別なく掃射し、右手で撃ち漏らした手合いを狙撃する。
味方であろうと、この場に揃った者を生かすつもりなど毛頭ない。勢力図が分断されてしまった以上、協定が有する権威は遅かれ早かれ失墜する。一度でも綻びが生じた時点ですべて無に帰すのだ。ならば、新世界の覇権を妨げる存在となりうる分子は早々に片付けたほうが都合が良い。
撃ちながらも安全圏の確保は欠かさない。円形の間取りに円形の座席配置。一つの標的を一斉に狙おうとすれば必ずどこかが障害となる位置関係だ。射線も限られる上、迅速に処理し続けていれば、どれだけ配置が変化しようともある程度は対応可能だ。
銃撃戦が終わるのに、二〇秒とかからなかった。二八名もの幻獣――――異能社会の顔役とも言うべき有力者たちがあっという間に死に絶えた。
あまりの呆気なさに落胆さえ覚える。アナトが齎した安寧は、生態系の長たる幻獣たちを腑抜けへと変えてしまっていたらしい。
『悪鬼とは言い得て妙だな』顛末をホログラム越しに見守っていたエレシュキガルが、苦笑交じりに口を開いた。
「キミにとっても丁度いい厄介払いになっただろう?」
『ああ、お陰で計画通りだ。障害は一掃され、のこる在野の幻獣どもも雑魚ばかり。これで存分に貴様とやり合える』
「エーデルワイスは再び野に放たれた。ここからが本当の争奪戦というわけさ。首を洗って待っているといい」
アナトは手にしたマジカライズリボルバーの照準をテーブル中央に貼られた術式符に定める。近い将来訪れるであろう結末を予告するように、エレシュキガルごと術式符を撃ち抜いた。
エーデルワイスを取り逃がした結果、表社会に甚大な被害を齎すというかつてない大事件を引き起こした元凶でありながらリンドウは、相も変わらずの飄々とした態度でクル・ヌ・ギア本部に舞い戻っていた。目的は切れかかっているMADの補充。無論、この間にも部下の魔法少女たちをこき使い、エーデルワイスの捜索は続行している。時々無線機を通じて寄越される経過報告に生返事で応え、緊迫する相手の様子と自分との落差にほくそ笑みながら、悠々とMADを静脈注射する。状況が悪化すればするほど、リンドウは愉快に思った。
リンドウは映画を好む。何故そうなったのか、それがいつからだったかは思い出せない。今までに観てきた映画も、多くは内容を忘れてしまった。ただ、近似した場面を前にすると、なんとなくの感触だけは蘇る。今の状況はきっと、ディザスター物かクライムサスペンス。大事件発生後の混乱が波及していく場面。高まった緊張感が破裂し、その余波を受けて無数の時限爆弾が起動していくような、次なる大事件へと繋がるフェイズ。夜が明ければきっと次々に二次被害が連鎖していくのだろう。そうなれば最早収まりがつかない。災禍は急速に拡大し、知らん振りをしていた無垢なる人々をも巻き込んで、血の雨をまき散らすのだ。
例え失態の責を追われたとしても、そんなことはどうだっていい。リンドウはどんな事態も俯瞰し、遊興としてしまう。その為なら自分自身すら駒として厭わない。根っからのエンターテイナー、あるいは道化師だと自負している。想定外のアクシデントが重なり失敗を犯してしまったことは確かだが、むしろそれで良かったとすら思えた。
今もどこかで誰かが死に、悲劇が起きている。そこにはドラマが生まれ、無数の人生と交差して壮大な群像劇を織り成している。人間に知性が芽生えた時から、そんな営みが絶えず繰り返され、何万年にもかけて一大巨編を展開しているのだ。嗚呼、この世界のなんと祝福されしことか。世界はエンターテイメントに満ちている。
恍惚に浸りながら、ふと一人の少女のことを思い出す。イヴァナ。フルネームはたしか、イヴァナ・エランティス。苦悶する顔が麗しく、淫猥で、愛おしい。リンドウにとって今最も興味深い少女だ。彼女は今回、作戦に参加させられず本部の自室に軟禁されている。コリウスへの執着が強いことを懸念し、エレシュキガルから待機命令を下されていた。その判断は正しかったと思う。コリウスが負傷した時、あの場に居合わせたとしたら、彼女は間違いなく作戦を妨害してでもコリウスを護ろうとしただろう。だが、寵愛するコリウスが目の前で傷付くさまを見せつけられたイヴァナがどんな顔をするのかと考えると、それもまた見てみたかった気がする。
度重なる過酷な調整を受けて自我を喪失しかけているあの“人形”如きに、イヴァナはひどく執心している。二人の交友はどうやらコリウスの調整がまだ初期段階にあったころから始まっているらしい。リンドウは、イヴァナを惹き付けるコリウスの存在が邪魔で仕方なかった。世界を俯瞰視して面白がることしか出来なかったリンドウが、初めて魅入られた単一の人物。初恋の相手と言っても差し支えない存在。その少女にとって最も重大な存在が、自分ではなく壊れかけの“人形”であるという事実に、耐えきれなかった。恐らく生まれて初めて覚えたであろう独占欲を阻害されたのだから。
コリウスのことを考えるたび、胃のあたりがむかむかする。出来ることならばすぐにでも殺してしまいたい。だが混乱を呼び込むための駒としては、この上なく優れた存在であることも確かだ。殺すわけにはいかない。それに今では気持ちの折り合いのつけ方も習熟していた。彼女を甚振ることで、イヴァナは最高の表情を見せてくれる。イヴァナを愛でるために用意された玩具と考えれば、それもまた貴重だ。
余興として今日起きた出来事を知らせてやろう。右胸に深々とクナイを刺され倒れたコリウスのさまを、持ちうる限りの語彙を駆使して臨場感たっぷりに聞かせてやるのだ。
部屋の主たるエレシュキガルが不在の会長室を後にし、監獄のような生活スペースへと進む。窓の代わりに檻を設けられた個室の数々は右も左ももぬけの殻で、作戦に駆り出された魔法少女の圧倒的な人数を改めて実感させる。だが決して全員が参加しているわけではない。イヴァナの監視役として三人の魔法少女が残されているはずだ。見渡すかぎり何処にも彼女らの姿は見当たらないが、職務を怠慢しているのだろうか。
やがて突き当りの個室の前にまで辿り着き、いよいよ静けさが訝しく思えてくる。
イヴァナの奴、脱走したか――――リンドウは直感的に悟った。
扉を開くと、果たして三人の魔法少女が血を流し倒れていた。確認するまでもなく絶命していると分かる。猛烈な殺意の残り香が雄弁に語っていた。そしてそれと同質の殺気が背後より鮮烈に漂ってくる。振り向く先にイヴァナの姿はあった。
全身から溢れ出る濃密な闘気。強大な魔力。昨晩とは比にならない生気が今のイヴァナにはある。MADの過剰投与だとすぐに解った。
「イヴァナちん、もしかしテMADを勝手ニ持ち出しちゃっタ? いいのカナ? いいのカナ? これって紛れモない横領だヨ?」
「知ったことじゃないわ。コリウスはどこにいる……言え」
「シッタコトジャナイワーッ。どうカナ? 似てたカナ?」あえて口調を真似て返答し挑発する。だがリンドウの思惑は外れ、イヴァナは毛ほども気にしていない様子だ。よほどコリウスのことが気掛かりなのだろう。
「お前が知らない訳がないわ。疑似エーデルワイスの運用を前提とした作戦だ。コリウスは実働部隊を指揮するお前の手の内にある」
生来の適性を見出され、“世界の理”と自らとを繋ぐ術的感応領域の拡張と、霊魂の強引な書き換えを施され、疑似エーデルワイスへと改造された少女。それがコリウスだ。最終調整を終えた彼女は今、事実上エーデルワイスと同質の存在となっている。
エレシュキガルの目的は、コリウスにエーデルワイスを取り込ませ、より強大な災厄をもたらすことらしい。最終目標の具体的なビジョンまでは側近たるリンドウですら聞き及んでいないが、結果として起きうる事態の大まかな予想はつく。混沌を好むリンドウにとっては飛びつかない理由がない話だ。
今回の作戦――オペレーション・ドゥムジッドのために各魔法少女組織へ内通者を潜り込ませ、在籍する魔法少女と拉致した少女たちとを照合し、エーデルワイスの特定を急いだ。長い時間と共に仕込み続けてきた計画なのだ。いかに最愛のイヴァナであっても、妨害を許すわけにはいかない。
「教えてあげルと思ウ? イヴァナちんト違っテ、ボクハそこまで馬鹿じゃなイんだよネ~!」
言い終えるが早いかイヴァナの放つ正拳突きを回避する。尋常ならざる殺気が放たれていたおかげですぐに反応できたが、一瞬遅れていればリンドウの頭は消し飛んでいただろう。リンドウの知る限りでもかつてないほどイヴァナの拳は速く、桁外れの殺傷力を帯びていた。気がつくと彼女は既に魔法衣を纏っている。膂力と機動性の強化魔術――――それも後先を考えていない馬鹿げたレベルの行使だ。
慌ててこちらも魔法を最大行使する。リンドウが持つ固有魔法の効果は、任意の対象の心身を自由に操るというもの。あらゆる他者を駒として“演出”する、そんなリンドウの性質に起因する効果だ。これを用いれば大抵の相手を戦闘不能にできるし、自害させることすらも容易だ。気に入った相手ほど苦痛を味わわせたい性分のリンドウとしてはあまり進んで使いたくない能力ではあるが、そんな贅沢を言っていられる場合でもない。
戦闘態勢の解除。即座に与えたその指示を、しかしイヴァナはあっけなく無視して足刀蹴りを繰り出してくる。これも回避し、改めて感覚を研ぎ澄ませる。魔法衣によって強化されているはずの身体に、奇妙な不全感。最大行使したはずの魔法が機能しなかったという事実。魔法が無力化されていることは疑いようもない。
事ここに至ってようやくリンドウは思い出した。イヴァナの魔法が、自身を中心として術式不干渉結界を展開するものだったことを。ただでさえ厄介なその能力は、MADによって更なるブーストを受けている。一定のリーチ内に留まる限り、あらゆる異能の力は完全に封じられたままだろう。さりとて後退しようにも背後はイヴァナの個室。退路を断たれた袋小路だ。
普段ならば戦闘技能においてリンドウがイヴァナに後れを取ることはない。格闘戦に持ち込めば難なく捻じ伏せることができる相手だ。しかし今は互いの身体能力に埋めがたい溝がある。技量の差を押し退け得る圧倒的パワーとスピードに対して、こちらはまったくの丸腰。正面からぶつかって勝てる見込みは限りなく薄い。
リンドウは早々に構えを解き、交渉を持ち掛けた。
「OK、OK! ボクの負けだヨ。降参。仕方なイから教えテあげル!」
「早く言いなさい」
「エーデルワイスを確保するたメのイシュタルの本部ヲ襲撃デ……イシュタル本部は新妃谷市ニあルかラ…………ボクが指揮してル部隊ハ新妃谷市ノどこかにいル。これハ分かるかナ?」
挑発交じりに会話を引き延ばしながら、身振り手振りでアピールし、意識を上半身へ集中させる。その一方で下半身は少しずつ後ずさり、術式不干渉結界<アンチマジカルフィールド>の境目を探る。肩をすくめるようにして半歩。相手を指さすポーズをとり更にもう半歩。
リンドウの見立てでは、イヴァナが展開するフィールドは、強化することで射程範囲が変動するタイプの魔法ではない。
瞬間的に行使される“魔術”と違い、魔法少女の“魔法”は契約が続く限り半永久的に機能し続ける。発動するものではなく、強弱を操るものだ。そして一口に強弱と言っても、射程範囲が変動するものと、効力が変動するものの二種類に大別される。
リンドウはついさっきMADを摂取し、術的強化の施された無線機を使ったばかりだ。いずれも異能の力ありきの代物だが、機能に支障は見られなかった。これほどのMADを過剰投与した上で、もしイヴァナの魔法が射程範囲を変動するタイプだったとしたら、少なくともクル・ヌ・ギア本部全体が覆われていてもおかしくはないだろう。つまりイヴァナの魔法は効力に変動を来すタイプと見るべきだ。
「ソこでエーデルワイスを取り逃がシちゃッたかラ……部隊ハ今、散り散りニなってル。報告だト川に落とさレちゃッタらしいかラ……主に川の下流ヲ探させテテ、位置的にハ北東の辺りだネ」
ほどなくして指先に電流が走るような感触を受ける。指の第二関節から先に僅かだが充足感。フィールドの境目だ。半径にして約2メートルといったところ。決して広くはない。それさえ解ってしまえば、窮地を脱する手立てもある。
「部隊ノ構成員はエーデルワイスにいっぱイ殺されちゃッたかラ、捜索班自体モ少ないんダ。全部デ三班。ボクもそろそろ捜索ニ参加しないト怒られちゃうンだよネ…………!!」
フィールドから飛び退き、すかさず魔術を行使する。反応したイヴァナの追撃よりもリンドウの魔術のほうが一手早い。室内に積まれた物言わぬ三つの肉塊を操り人形とし、一斉にイヴァナへと飛びつかせた。
土くれを死体で代用したゴーレム使役術。リンドウの得意分野だ。以前、瀬川恭参を殺害した際にイヴァナを援護したゴーレムもリンドウが使役したものだった。複数の使役は当然のこと、精密動作や複雑な立ち回りも彼女にとっては赤子の手を捻るより容易い。そして死者を冒涜することにも罪悪感は一切ない。元より皆、駒に過ぎないのだから。
使役する死者のうち一体目はイヴァナ渾身の正拳を受けて跡形もなく爆散する。術式不干渉結界に入った時点ですぐまた操作を受け付けなくなるため、文字通りの捨て駒となる結果に終わった。だがそれは目論見通りだ。二体目・三体目は飛び散る肉片を盾に、意表を突いた軌道――――イヴァナの足元めがけて襲い掛かる。
はじめに前へ出ている方の脚に圧し掛かる。パンチを繰り出す際に踏み込む脚、すなわち体重の乗った“軸”となる脚だ。いかに反応が早くとも、軸足から即座に蹴りを放つことは難しい。脚に絡みつく重さ約四~五〇キロほどの人体を振り払おうとすれば、次に出るのは自然と反対側の脚になるだろう。そこで最後の一体がイヴァナの腰へと飛びつく。軸足を取られ、腰に衝撃を受けたイヴァナは体勢を崩し、仰向けに倒れてしまった。そうして出来た一瞬の隙を見計らい、死体ごとイヴァナを踏みつけにしてリンドウは部屋を飛び出す。
「イヴァナちんはクル・ヌ・ギアを裏切ッチゃうんだネ。寂しいナァー。次ハ正々堂々勝負しようヨ!」
挑発を吐くなり、出口を目指して颯爽と駆け抜ける。背後からイヴァナの怒号が聞こえてきたが、脇目もふらず走り続けた。
内心、今回ばかりは殺されていたかもしれないと思った。しかしここぞという所でやはりイヴァナは詰めが甘い。それ故に彼女がリンドウに勝つことは決して有り得ない。リンドウは生きたい。生きて、より多くの人々の悲劇を演出したい。だからどんな窮地にあっても生き延びることを諦めない。“人形”如きのために命を投げ打つような安い意志に敗れはしないのだ。
災禍は広がり続ける。多くの人々が嘆き、悶え、死にゆく。生ける者もまた悲劇を繰り返す。それを見届け、操ることが今のリンドウにはできる。そんなリンドウの生殺与奪を決定できるのはリンドウ自身に他ならない。如何に愛する人であっても、イヴァナにそれを決定することはできないのだ。
暗く湿ったトンネルを抜け、寂れた裏路地に出る。リンドウを見下ろす曇天の夜空は、新たな悲劇の訪れを知らせるように白み始めていた。
魔法少女ヒギリ×シルヴィア『真実の貌』 終