第二楽章
第二楽章
驚いたことに、僕の意識というのは、落下直後。強い衝撃があった後も続いていた。もしかして、打ちどころが悪くて死にきれなかったのか。一瞬、悪い予感が頭をよぎったが、どうもそういうことでもないらしい。というのも、僕は痛みというものを全く感じていなかったのだ。
もしかして、ここが死後の世界というやつなのだろうか。
僕は、死んでしまったらそれで終わり。天国も地獄もない。とかなり昔から思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。死んでもなお意識が続いているということは、そういうことなのだろう。今まで自分が信じていたものとは違う現実というのは、なかなかに受け容れがたいものがあるが、否定したところでどうしようもない。なんとかして、僕はこの理解しがたい現状を、自分の中に飲み込んだ。
そう受け容れてみると、俄然興味がわいてくる。黄泉の国というのは、一体どういうところなのだろう。少しだけ楽しくなってきた。
僕はまず、手を動かしてみることにした。指を曲げてみると、きちんと曲がる。どこもおかしいことはない。生前と変わったところはない。
死後の世界というのも、生きている時と特に変わらないのか。何か変わったことがあるに違いないと思っていただけに、少し残念な気分だ。まあ記憶を持ったまま、全く別の生物に作り替えられても辛いので、これでいいのかもしれないが。
手さぐりで辺りを弄ってみると、なんだかジャリジャリとした感触があった。そういえば、死者は天に昇っていくという話だった。ということは、このジャリジャリとしたものは、雲なのだろうか。実際、現実世界の雲は、絵本の中の雲のようにふわふわもしているわけでもないし、上にも乗れないらしいが。それにしても、ジャリジャリとはえらく鋭い角度から攻めてきたものだ。奇をてらえばいいというものでもないと思うが、事実は小説よりも奇なりという言葉もあるしなあ。
これから天に上げられて、地獄行きでも言い渡されるのだろうか。できるなら、あまり辛くないところがいいな、なんて僕が考えていると。
「おい、大丈夫か!」
焦ったような、低い男の声が聞こえた。
天使というものはてっきりかわいらしい子供か、中性的な感じだと思っていたので、野太い声に僕は驚いた。すね毛の生えた中年男性に運ばれるのかと考えると、げんなりだ。せめて見苦しくなければいいが。すね毛丸見えだけは勘弁願いたいものである。
それにしても、もう少し夢をもたせてくれればいいのに。僕は少しばかりがっかりしていた。別にそういう奇をてらったことは必要としていなかったのに。
「怪我はないか!」
やけに焦った中年男性の声が聞こえる。その声は、いい年をしているだろう重厚さがあるのに、落ち着きが足りていなかった。年相応の振る舞いというものを身につけた方がいいと、起きたら教えてあげた方がいいかもしれない。
それに怪我はないか、なんておかしな質問だった。肉体的にいえば、飛び降りた衝撃でバラバラのグチャグチャになっているだろうし、俗に魂とよばれるエネルギー体になったのだとしたら、怪我という概念などありえないだろう。なんて変な質問をしてくる天使だ。僕は中年男性天使の上司に、一言ガツンといわねばならないという、訳のわからない使命感を覚えた。
「おい、坊主!」
僕はそんなふうに呼ばれる年ではないのだが。それにしても、本当にうるさい。今起きるから、少しくらい待ってくれればいいのに。
心の中でぐちぐちと文句を垂れながら、ようやく瞼をこじ開ける。やれやれ、もう少しばかりゆっくりさせてもらいたいものだが。
最初に目に飛び込んできたのは、どこかで見たことのある青空だった。雲一つなく、嫌味なほど晴れ渡った空。どうやら僕は仰向けで、どこかに横になっているらしかった。あまりに飛び降りる前に見た青と、今見ている青が似すぎているので、僕はもしかして、という考えを拭うことができなくなってしまう。
死後の世界に行くのではなく、僕は幽霊になってしまったのだろうか。
まさか未練もない現世にとどまるなんてことは考えていなかったので、不測の事態としかいいようがない。
死んだら終わりで、さっさと終わらせてくれればいいのに。これを嘆くなという方が無理だ。なんという面倒くささだ。あろう事か、幽霊だなんて。こんなところにいる意味はない。さっさと祈祷師のところへ行って、あの世に送ってもらわなければ。
「坊主、立ち上がれるか!」
僕は脱力してしまい動く気にもなれなかったので、中年男性の言葉を無視して、しばらく空を眺めることにした。雲がないので、時間の経過がいまいち分からない。どれほどそうしていたのか、やがて誰かが、ガンガンと何か堅いものを叩き始めた。
音の方へと顔を向けると、ガラスを必死の形相で一生懸命拳で叩いている、中年男性がいた。ガテン系だ。天の使いだか、幽霊だか分からないが、こんなトラックの運転手みたいな外見をしているのか。僕はまじまじとその、どこにでもいそうな中年男性を見つめた。
それにしても、ガラスとはさらに意味が分からない。
僕が落ちたのはコンクリートの上なのだから、ガラスがあるはずがないというのに。
「大丈夫だ意識はあるぞ!」
しばらく僕が無言で中年男性天使を見つめていると、彼は外へ向かって訳の分からないことを叫んだ。意識とは、一体どういうことなのだろう。その単語は、幽霊にそぐわない言葉ランキング上位に入ると思うのだが。
とりあえずあまりにもうるさいから、一旦、彼を黙らせてしまおう。そう考えた僕は動こうとして、自分がいる場所がなんだかおかしいことに気がついた。
空よりも手前、そこには破れたガラスが辛うじて残っているという感じで、枠組にへばりついている。何かが上から降ってきでもしたのか、もともとあっただろうガラスは粉々になってしまっている。それに中年男性の方を向くと、その光景に既視感があることに気がついた。見覚えがあるというか、家のものとは違うが、一般的な車の内装とよく似ている。
もしかして今時の天国というものは、天使がやってきて導いてくれるのではなく、車に乗っていくのだろうか。そういうところまで現代的にする必要はないだろう。変なサービスの良さに僕は怒りを覚えた。
「大丈夫か!?」
中年男性が、また窓を叩く。
ここまで不可解なことが続くと、さすがの僕でもこれは少し違うのではないかと思えてきた。今まで、そうあってほしくないと思って、無理矢理に死後の世界と関係づけようとしていたけれども、無理がある。
もう何度目だという中年男性の言葉に、僕は口で言うより、実際に見せた方が早いと
思い、無事を証明するようにすくっと立ち上がった。ぱらぱらと残っていたガラスの破片が、黒の革張りのソファへと落ちる。
「生憎、全身ぴんぴんしてますよ」
立ち上がると、外の様子が嫌でも目に入ってきた。中庭だ。なぜこんなところにキャリアカーが止まっているのかは分からないが、僕はキャリアカーに積まれた車の中から、外を見下ろしていた。先ほどまではいなかった沢山の人物が、僕を見ている。屋上から落ちて、偶然中庭へと突っ込んできた大型車が積んでいた車によって助かってしまった僕を、見ている。
どうやら僕は、自殺に失敗してしまったらしい。
その事実は、砂に水が染み入るみたいに、僕の中にじわじわと浸透していった。
車から降りると、僕は誰かが呼んだ救急車に詰め込まれて、病院へと運ばれることとなってしまった。特に痛みもなく、目立った外傷もなかったので、最初は断ったのだが、
「あんな高いところから落ちたんだから、つべこべ言わずに乗れ」
という担任の言葉で、渋々ながら、乗り込むこととなってしまった。目立った外傷がないので、救急隊員の人たちが断ってくれるのかと思ったのだが、そうもならない。
余計な仕事をさせてしまったことで罪悪感を覚えていた僕は、なんとなく居心地が悪い救急車に乗って、到着する時をひたすら待ち続けた。付き添いとしてついてきた担任は、ホームルームの時の落ち着きはどこへいったのか、そわそわして、みっともなく足を貧乏揺すりしていた。
永遠とも思える時間が過ぎ、病院にたどり着いた僕は、いろいろな部屋を回された。そして、よく分からない機械に通されたり、なんだかいろいろなことを聞かれたりした。少し打ったところがあるくらいで、我慢できないような痛みなどはないのだから、さっさと終わればいいのに、やたらと診察は長かった。そしてそれ以上に待ち時間が長かった。
待っている途中、担任が父さんと連絡を取ろうとしていたが、僕は仕事が忙しいのでかけないでほしいことだけ、頼んだ。それで何か察するものがあったのか、それ以後、担任が僕の前で電話をかけることはなかった。別に仲が悪いとか複雑な事情があるわけではなく、本当に仕事が忙しいから言っただけなのだが。
誤解されているような気がするが、訂正する必要もないだろう。そう思って、僕は担任にそれ以上のことは、言わないことにした。わざわざ、家庭の内情をすべて暴露する必要も感じられなかった。
検査がすべて終了し、ようやく帰ってもよくなったのは、日もとっぷり暮れた後のことだった。総合病院の中を端から端まで回ったので、その頃には僕はへとへとに疲れ果てていた。診察を受ける、検査を受けるということが、これほどまでに疲弊するものだとは。体力にはそこそこ自信があるつもりだったのだが。
それにしても不思議なことに、担任は診察の間も待ち時間の間も、僕に落ちた原因を尋ねることはしなかった。しかし、なぜかと尋ねられても、ありのままを伝えるわけにはいかないので、僕は「事故です」としか答えようがない。だから、ありがたい話だった。
僕と担任は正面玄関が閉まっていたので、救急出口から外へと出ると、なぜか置いてあった担任の車にのりこんだ。診察の結果が出るまでしばらく姿が見えなかったと思ったら、車を取りに行っていたらしい。
助手席か後部座席、どちらに乗るかしばし迷って、僕は後部座席に乗り込むことにした。車の中は、いろいろなものが乗っていてごちゃごちゃしていた。
「トランクに、荷物あるから」
後ろを見ると、確かに革の鞄も、椅子にかかったままだった制服の上着も、楽譜も載せられていた。
「家は市内だよな?」
「ええ。どちらかというと、隣の市の方が近いですけど」
送るから教えてくれと言われたので、僕は取り付けられたカーナビに自宅の住所を打ち込んだ。ここからなら三十分もしないうちに、家に到着するだろう。カーナビもそのくらいの時間がかかることを、たたき出していた。
特に話すこともないので、僕は窓の外を眺める。田舎の夜は早い。車社会とはいっても、この時間だとそれほど車が通っているわけでもない。走っている道が、市の中心部をそれて続いている道路なのも、関係している。
それにしても、本当に生きているのだろうか。僕は、不思議な感じに包まれていた。
死んではいないということは病院の診察を受けたので、理解できている。脈拍もはかってもらったし、心臓の音も聞いてもらった。だからといって、生きている実感があるのかと聞かれると、なかった。
窓へと頭を預けると、ひんやりとした夜の冷気が、僕の頬の熱を奪い取っていく。熱っていた身体が思考が冷やされていく。自殺したいという熱病に浮かされていた僕が、冷静さを取り戻していこうとしている。なぜ、あんなことをしようと思ったのだろうか。今考えると、不思議で仕方がない。
なにがなんでも死んでしまいたいという気持ちはどこかへいってしまったものの、依然として僕の中に、生を失うことに対する興味は残ったままだった。積極的にいこうという気が削がれただけで、それ以外、落ちる前の僕と今の僕とは何も変わっていない。それが、飛び降りてから今まで自身を分析してみた結論だ。
車は、カーナビの案内通りそのまま僕の家へと向かうのだと思っていたが、その途中、車は横道に入って止まった。担任に降りろといわれて降りてみると、そこは最近県内にもいくつか出店し始めた全国チェーンの定食屋だった。
「腹減っただろ。何事も、食べないと始まらないからな」
別に空腹ではないのだが。そう言おうと口を開く。しかし僕が何かを言うより先に、担任の腹の虫が大きな声で空腹を訴えてきたので、僕は黙って定食屋へと入ることにした。
「なんでも好きなものを食べていいぞ」
そんなことを言われたので、僕は一番高いやつを頼んでやろうとメニューを開いた。ざっと目を通してみたが、リーズナブルさを売りにしているからか、どれも似たり寄ったりな値段だった。残念だ。僕は仕方がないと、自分の好物を頼むことにした。
「そんなものでいいのか?」
運ばれてきた僕の定食を見てそんなことを言ってくる担任の目の前には、山盛りの白飯と大きな皿がいくつか並んでいる。普通の一人前よりは多いが、成人男性の量としては、特別おかしいこともない。ただやはり、担任の年を考慮に加えると、少しばかり多いが。
やけに食べることを勧めてくる担任に、
「……食欲があまりないので」
それだけ言って断る。それに、と僕はベルトの上に乗っている腹を見ながら、つぶやいた。そんなに食べるから、メタボとかいう不名誉なあだ名をつけられてしまうんですよ。
「何か言ったか?」
きょとんとした顔で、担任が僕を見る。
「いいえ。それより早く食べないと冷めますよ」
「おお、それもそうだな」
僕はあまり食欲がなかったが、注文しておいて残すのもいやだったので、無理矢理詰め込む。好物の鶏肉ならば食べられるかと思って唐揚げ定食を頼んだのたが、これならもう少し胃に負担が少ないものにしておくべきだった。揚げ物なんて、胃に負担どころの話ではない。何とか詰めこみながらも、僕は過去の選択を後悔していた。
箸を止めたら終わりだと、僕は休むことなく口にものを入れ続ける。その様子を見て、担任は「そんなにがっついて、よほど腹が減ってたんだなあ」なんて言っていたが、あの人の目は節穴なのだろうか。
自分の分くらい自分で払うといったのだが、生徒に払わすわけにはいかないとのことだったので、僕は言葉に甘えることにした。よくよく考えてみると、僕が払っている授業料が、担任の懐に給料という形で入っているのだから、そんなに遠慮することもなかったのだ。
店から出て、今度こそ家へと帰ろうとすると、担任が少し待っていろとだけ言い残して、どこかへ走って消えてしまった。食べたばかりだというのに、元気な人である。もしかして運動していて、あの体型なのだろうか。だとしたら、先ほどは失礼なことを言ってしまったことになる。
十分ほど車の中で待っていると、ビニール袋を引っさげて、「すまん、待たせたな」と息を切らせて、担任は戻ってきた。
再び担任の運転で車が動き出す。
ラジオの音だけが車内に響いている。
ピアノ音色が流れてきて、何の曲だろうかと僕は意識を向けた。流れていたのは、ショパンのバラード二番だった。僕はあまりショパン、というかロマン派の曲は好みではない。しかし分かりやすい華やかさがあるから、ロマン派とりわけショパンは人気なのだろうかと考えていると、車が動きを止めた。車の外を見ると、見慣れた風景が広がっている。
「ありがとうございました」
住宅街から少し離れたところに、ぽつんと僕の家は建っている。
カーテンは閉まっていないが、明かりはついておらず、僕はまだ誰も家に帰っていないことを知った。
「その、さ」
担任が車から降りようとする僕に、とても言いにくそうに口を開いた。
「何か悩みがあるなら、俺にいえよ」
それはどうも、と僕は返事した。ただ悩みらしい悩みなど僕にはないので、一生この人に相談することはないだろうと、心の中で付け加える。
「それから!」
ドアを閉めようとする僕に、担任は思い出したように慌てて付け加えた。
「明日もきちんとこいよ」
「はあ……」
そんなこと言われなくても、と困惑するしかない。しかし担任の目は何時になく真剣だったので、何も言えなくなってしまう。
「返事は?」
「……わかりました」
僕が返事をしたことで満足したのか、担任はこれもといって助手席においてあったビニール袋を僕に渡してきた。変に断るとまたうるさそうだったので、受け取って礼を言う。
それで気が済んだのか、
「じゃあまた明日」
というと、担任は車を走らせてどこかへと言ってしまった。