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第一楽章

   第一楽章



 別に、何か嫌なことがあったわけではない。

 ただ、何となく死んでみようかと思った。それだけだ。

 

 自殺をすることを決めて、まず僕がしたことは、記憶の整理だった。これから思い出すこともないだろうと、僕はこれまで自分が歩んできた道を思い返してみる。産まれてすぐのことは、さすがに分からないが、物心ついたときからの記憶を掘り起こす。そして、その道が余りにも驚きや興奮というものとは、程遠いものであることを、すぐに僕は理解することとなった。

 幸運なことに、最近何かと話題のイジメとやらに関わることもなく、僕の人生というものは、それ程大きな山も谷もなかった。少しくらいはあったかもしれないが、そんなものは普通の範疇にすぎない。それこそ、平坦すぎるくらい平坦なものであった。

 最後の幕引きは、その中にあって異端といえばそうかもしれないが、この現代ではそんなに珍しいものではない。

 新聞の片隅に載るくらいの珍しさはあるかもしれないが、そこまで尾を引くことはないだろう。そんなふうに僕は考えていた。僕の年齢が年齢だけに、変に取り上げられて騒ぎになるのだけは遠慮したいところである。かといって、遠慮してほしいなどという遺書を認める気にもなれない。まあ、これに関してはまだ実行に移していないので、今は考えるべきではないかもしれない。

 そんな特に面白みもない僕の人生の中でただ一つ、進学先の選択に関してだけは、結構な紆余曲折があった。ように思う。思う、というのは、僕の中ではそれなりの大きな出来事だったけれども、他の人間からしたら通過儀礼のようなもので、そこまで大変なことではないようにも思えるからだ。僕の出来事の大きさを測るものさしが、同年代の平均的なものからずれている可能性がある。ただ、僕の主観的な感想をいうと、進学先を選ぶという出来事は、これまでの人生の中でも一大イベントだった。

 実際大変だったのは、僕ではなく、僕の周りだったのだが。

 この大変さが僕自身の意思によるものであれば、こんなこと――つまり唐突に自殺する気には、なっていなかったかもしれない。僕が進学先を最終的に今の場所に決定したのは、親に勧められた、周りや学校に勧められたからという、ただそれだけの理由だ。僕自身は、入る場所なんて、正直に言うとどうでもよかった。

 こうして進学した高校の名前は、僕の何の面白みもない履歴書の中で、ひときわ異彩を放っている。

 高校の名前、というかその進学学科が。

 入る高校を間違えた、進む道を間違えた、とは思っていない。きっと普通の、それこそ僕の今までの人生に見合うような無難な所に進学したところで、その他大勢に紛れるような三年間が待っているだけだ。今の場所だからといって、それが変わると思っているわけでもないけれども、少なくともこちらの方が変化に富んでいることは、誰の目から見ても明らかだ。

 僕がその他大勢であることは、僕が生きている限り、変わらないだろう。

 ならば、どこへ進学しようと同じようなものだ。

 では目立ちたいのかと言われると、それは違うとはっきりと言い切れる。変に目立つくらいなら、僕はその他大勢のままでいたい。ならば、なぜ今更になって、その他大勢であることを嫌がるのか。それについては、僕自身よくわからないとしかいいようがない。

 でも、人間というのは、そういうものだと思う。

 特に、思春期なんていう、難しい時期の人間は。

 僕が、そんな感じで高校に入学して、早一週間が経とうとしている。

 美しく宙を舞っていた桜もそろそろ散り、地面では薄汚れた桃色が掃き捨てられるその日を待っている。初めての授業が一通り終わり、入学したての初々しさも、慌ただしさも、緊張感も薄れ始める頃。

 僕が、自殺しようといふと思い立ち、実行することを決めたのは、そんな時期。

 五限目の現代国語の授業中だった。

 


 僕が、自殺を決断してからの行動は、驚くほど早かったように思う。

 驚くほどといっても、それは普段の僕に比べてであって、実際には、そこそこ頭が早めに回転している程度だ。でも僕からしてみれば、それは驚愕に値する出来事だった。何せ、僕という人間は、無気力がそのまま歩いているような人間で、自発的という言葉とは生まれた時から縁を切っているくらい、何かしようと思う事も、必死に頭を使うということもしてこなかったのだから。

 死ぬと決めた瞬間。普段は全くといっていいほど働いていない脳が、今までに経験したことがないくらいの働きを見せ始めたことは、やけに鮮明に覚えている。

 今まで、週休四日十時から四時まで稼働(昼休憩込)という、現代社会から確実に置き去りにされること間違いなしの、やる気がないと思われても仕方のない動きしかしてこなかったというのに、急に年中無休二十四時間フル稼働体制になったといえば、分かりやすいだろうか。

 今時、こんな働きかたで暮らしていこうと思ったら、よほど運がないと生きていけないと思う。僕は学生という身分を剥奪された後、自分がどのようになるかということは、普段から、極力考えないようにしていた。僕は自分自身の未来というものを考えないようにして、ただ流されるままに生きてきたのだから、考えたところで、それにかかる労力は全くもって無駄という他にない。

 しかし、頭がこんなにギュインギュインと効果音を立てるくらいの勢いで働いていると、こんなにも自分はできるやつだったのかと、勘違いしてしまいそうになる。かつてない本気の出し方に、僕は自分自身のことだというのに、かなり驚いていた。これくらいの働きを毎日維持できるのならば、もう少し違った生き方があったのだろう。そんな風に考えてしまうのも、致し方なかった。

 だからといって、考えを改める気にはなれなかったが。

 恐らく、これからもこんなふうに脳を酷使し続けるとなれば、それこそ過労だなんだですぐに倒れて死んでしまうに違いない。自殺するまでもなく。だけど、そんな苦しい死に方は、御免被りたかった。僕が、というか人間全体がそういうものだと思うのだが、わざわざ苦しいと分かって苦しい道を選ぶはずがない。なるべく楽をしたいと、労力の少ない道を選択するのは、当然のことだった。

 そんなどうでも良いことを、いろいろと計算している頭の片隅でつぶやいていると、頑張って働いていた部分が、一つの考えをはじき出した。

 なるべく苦しまなくてすむ方法。

 それはやはり飛び降りだろう、と。

 首吊りや水死、焼死や飛び込み等々、考えることのできる全ての方法を頭の中でシミュレートしてみたが、やはり飛び降りという方法が、一番良いのではないだろうか。僕の中でも、知識がある奴が囁いた。その理由は多々あるが、第一に、変に凝ったことをしなくていいということがある。

 首吊りなんていうものは、その名の通り、首を吊るための紐が必要だ。わざわざ首を吊るために紐を買いに行くなんていう面倒なことはしたくなかったし、そもそも面倒だから煩わしいからというような感じで、思いつきで自殺を決心したのに、用意が必要だとか、本末転倒にもほどがある。それに噂によると、首吊りの死体は、あまり綺麗とはいえない状態になってしまうらしい。そんなものは見たくないから、わざわざ見ようと思って探したことなどないので、実際どうなるのかは知らない。しかし、綺麗ではない状態になると知っていて、首吊りを選ぶことは僕にはできそうにもなかった。

 すると次は、電車への飛び込みということになるのだろうが、僕にとっては、論外もいいところだ。そもそも、そんなに他人に迷惑をかけるつもりなどないし、それに残念なことにこの街にある電車といったら、一時間に一本あるかないかの元国鉄か、道路のど真ん中を車と一緒に走っている路面電車くらいだ。

 毎朝学校の前を通っている路面電車を見ているから、その運行速度について、僕はよく知っている。あの速度を見て、あれに飛び込もうと決意する自殺志願者というのは、少しおかしい。はっきりいってかなり遅いし、それにこの辺は停留所が密集していて、走り出したと思ったら止まり、また走りだし、少しだけ走ったと思ったら止まる、その繰り返しだ。

 それでは少し歩いて川の方へいって、身投げでもするか、ガソリンでも撒いて燃えるか、という話になるのだろうが、そんなものは前述の理由で、考えるまでもなく却下だ。首吊りの汚さで嫌だといっているのに、死体がパンパンに膨らむという水死や、そもそも誰だか分からないくらいに燃やされる焼死を僕が受け入れるはずがない。それにどちらも死ぬまでが苦しいことが、容易に推測できる。

 こうして割とすんなりと、僕は飛び降りをする方向で、決意を固めた。

 そうとなれば、次の問題は、どこから飛び降りるか、ということだ。

 飛び降りする場所となると、場所は限られてくる。

 さすがに二階から落ちたくらいでは、よほど打ちどころが悪くない限り、成功は難しいだろう。生憎なことに、僕の住む町は都会とはほど遠く、高い建物がある場所というのも限られてしまっている。

 この周辺で一番高い建物は、駅前にあるホテルだろう。

 こんな田舎に来る人がいるなんて信じられないけれども、駅前の、それも駅のド真ん前に建っているのだ。立派なホテルが。観光する場所もろくにないというのに。この辺に泊まるくらいならば、一時間に一本くる電車に二時間ほど乗って、栄えている場所へ出た方が、まだいくらかマシだと思う。そちらの方が、選択肢も増えるだろう。この街は、その選択肢すら存在していないというのに。

 でもホテルは少し難しいな、とすぐに僕はその考えを改めることとなった。まず、ホテルの中に入れる気がしない。明らかに近くの高校の生徒だとわかるのに、そう易々と屋上までいかせてもらえるとは思えない。たぶん、入り口で捕まえられるのがいいところだろう。下手したら、中にも入れないかもしれない。

 制服を着ているので、高校生であることを隠すことは、かなり難しいだろう。僕が着ているものが制服などではない、と思わせることができたら簡単だろうが、そんな技術を持っているのならば、別のことにとっくに使っている。制服を脱いだところで、替えの服などというものは持ってきていないし、そもそも私服を取りに一旦家へ帰るくらいなら、思い直している。

 幸いなことに、僕の通う学校は、この県下で一位か二位を争うほどの繁華街の近くにある。一番の繁華街がシャッター街であるという現実はさておき、それなりに――少なくとも三階以上ある高い建物は建っているから、今の僕には丁度良いといえるだろう。

 絶好のチャンスというわけだ。

 他の場所に入りこむことも難しいかもしれないが、僕にとって、それはさほど難しくないように思えてならなかった。というのも、僕という人間は、存在感が希薄とまではいかないものの、目立たない存在だったからだ。さすがに監視されているとなると難しいだろうが、何気なく入っていくだけならば、何の問題もなく侵入することができるだろう。試したことなどないので、どうなるかは分からないが。

 どんな事をやらせても、平凡かその前後を抜け出さない。目立ちもせず、浮きもせず、空気のように溶け込んで、誰の記憶にも残らないような存在。まあ身長だけは平均を大きく逸脱しているが、それくらいだ。恐らく、卒業後名前を聞いて、ああそんな奴もいたなあと思われるランキングの順位ならば、かなり良い所までいくのではないだろうか。そもそも今の時点でも、あまり存在を認知されていないと思う。入学したてというのもあるけれども、それを差し引いても。今から丁度一年後に、僕の名前をあてるクイズをするとしても、それに正解できない同級生は何人かいるはずだ。こんな二十人と少ししかいない教室でも、それくらいの自信はあった。

 しかし、そんな場所よりも、もっと身近にそれなりに高さのある建物があることに、今更ながら、僕は気が付いた。そう、僕が今いるこの校舎である。正確にいうと、僕がいる本館ではなく、一階分高い別館の方だが。

 思いつくと、これ以上にいい場所はないのではないかという気すらしてきた。僕が居ても不自然ではないし、それにわざわざ出向かずにもすむ。準備も他に比べて大変ということもない。良い事尽くめだ。

 あまり下準備に時間をかける気にもなれない。そういうわけで、場所もかなり短時間で決まってしまった。だらだらと考えを引き伸ばしするだけ無駄だと思うので、すんなり決まったことは、喜ばしいことだった。

 思い立ったが吉日ともいうし、唯の思いつきをそれほど長く引っ張りたくもない。そんなわけで、すぐにでも実行したい気持ちで、僕はいっぱいになっていた。

 方法と場所が決まれば、後はもう実行するのみだ。早く実行したいと、柄にもなく身体がうずうずとしてくる。

 しかし残念ながら、思いついたのはいいものの授業中だった。はやる気持ちを抑えて、僕は教壇の方へと視線を向けた。公立の高校を定年まで勤め上げ、この学校に再就職したという、真っ白い髪の老いた教師が、眠気を誘う声で教科書の朗読をしている。つい先ほどまでの僕なら、明らかに睡眠をとっている生徒を見て、もう一度教壇に立つ老人を見て、教師というものも大変だな、なんてしみじみとしていたのだろうが、今の僕には、そんな事を考える余裕すらない。

 この決意が揺らぐことはないのだから、もう少し待てばいい。しかし、早く自分の考えたことを実行したいという、今までに感じたことのないような衝動が、僕の身体を突き動かそうとしてくる。早く試したい。そんな囁きが耳元から聞こえてきそうだ。

 でも、僕の中にある常識だとか、モラルだとか、そういった今から死ぬ人間には必要のないものが、「せめて放課後まで待て」と僕を押し留めた。もういいのではないか、と思うが、そんなくだらないものでも、滅茶苦茶に破るということは、僕には出来そうにもなかった。

 仕方なく、僕はこんなにも頭が回転していることなど普段はないのだから、と今からしようと思えば出来てしまう事を、考えてみることにした。要は、ただの空想、妄想である。

 ――例えば、今、ここで。

 特殊な、人を眠らせる音波でも発しているのではないかというくらいの声で話す教師の場所に、僕が立ったとすれば。

 恐らくまだ入学したばかりだからと真面目に授業を受けていた同級生たちは、驚きざわめき、奇異なものを見るように、僕を見るだろう。その中には、突然の非日常的行動に、期待の眼差しを向けてくる奴もいるかもしれない。今、心地よい眠りに包まれている奴らも、やがて何かがおかしいと異変を感じ、目を覚ます。そして教壇に立つ僕を見て、とても面白いことが起こっていると気が付き、今まで抗うに抗えなかった眠気は、どこかへ飛んでいってしまうだろう。

 教師は、しばし呆然として、それから僕に何かを言うだろう。それは「早く自分の席に戻れ」という僕の行動を咎めるものかもしれないし、「何があったんだ」という、僕の突拍子もない行動に、何か理由があるのだろうと語りかけてくるものかもしれない。

 そのいずれにも答えを返さず、僕はただ黙って、為すべきことを為す。

 そうすれば少なくとも、この教室内の誰もが忘れることなど出来ないだろう記憶を植え付けることに成功するだろう。

 だが、こんな仮定は無意味だ。

 まず、僕は凶器になりそうなものを何も持っていない。ハサミくらいだが、何年も研いでいないそれの切れ味は、どう考えても悪い。それに、別に他人にトラウマを与えるようなショッキングな出来事を起こす気もない。僕の身勝手な思いつきに、他人をあまり巻き込むのはどうだろう、とまだ僕の中でもマシな部分が呟いた。

 多かれ少なかれ他人に迷惑をかけてしまうことは否定できない。しかし僕が考えつく限りでは、そんなに周りに影響を与えない方法を選んでいるのだから、それでいいということにしてもらいたい。僕の存在の軽さというものは僕も知っているし、影響はそれほどないだろう。

 そもそも僕という人間が、この世に存在することに、何の意味があるというのだろうか。自分がこの世界を変えることができるなんて、そんな自惚れたことは思っていないし、これからこの世界に影響を与える予定もない。そもそもここで消えてしまったところで、覚えている人間が何人いるのかというところだ。

 僕と言う存在がそのまま残ったところで、覚えている人も少ない。目立たず、平凡で、才もない。よくない性格をしている、という部分だとかなりのものだという自信があるが、それを知る人は少ない。

 わざわざ自分から「僕は性格がよくないです」などとは言わないのだから、当たり前と言えば当たり前の話だ。親しく付き合えば、いずれそれは露呈してしまうものだけど、そこまで親しい人物もいない。

 思いやり等、人間として必要とされる美しい心の持ち主ならば、まず初めの段階で、自殺しようと思い立っただけで、それを実行に移すはずがない。

 思いつきで、特に何の苦しみも無いのに自殺しようとしている自分自身のことを、どう思うかと経ずれられたら、僕は即座にこう答えるだろう。

「よくないと思います。でも、このまま生きていたところで、良い事もないのだから、いいんじゃないですか」と。



 そんな事をだらだらと考えていると、授業の終了を知らせるベルが鳴った。気の早い奴は、授業後の号令もまだだというのに、すでに次の授業に必要なものを出し始めている。そういえば今日は火曜日で、次は六限目だったな。どこか慌ただしくなる教室の様子を見て、僕は思い出す。忘れていたわけではないけれど、考え事をしていたからか、うっかりしていた。

 次の時間は、僕も教室を移動しなければならない。そろそろ移動の準備をしないと、遅れてしまう。ただでさえ、礼儀だのなんだのと五月蝿いのだから、それこそ遅刻なんてした日には、何を言われるか分かったものではない。

 次の授業に必要不可欠なものは学校指定の革の鞄に入らないので、今日はもう一つ袋を持ってきていた。僕は机の脇にかかっていた、黒色を基調としたシンプルなトートバッグを机の上に上げた。中に入っているものがそれなりに分厚く重みもあるので、持ち上げる時に少しだけ力を入れないといけない。さすがに女性ではないので、少し重量があるだけで大変だということもない。

 忘れているものはないよな、と一抹の不安を感じながら、中を見る。

 というのも昨日の夜家で準備をしていた時、明かりもつけずに暗闇の中で、手の感触だけで適当に詰め込んでしまったのだ。何を馬鹿なことをと怒られそうだが、事実なので仕方がない。

 必要なものが全て揃っていたことに安堵して、太い本を何冊も出す。そろそろ移動するかと腰を上げ、僕はようやく机の傍に立っている人物の存在に気が付いた。

「あ、あの……」

 俯き加減で、何やらおずおずといった感じで、か細い声を絞りだすようにしている少女。

 大きな瞳と、化粧でもしているのかというくらい、瑞々しさを全面に出す唇は、彼女の白い肌にとても映えている。頬が薄く色づいているからか、色白なのに、不健康さを感じさせることはない。肩甲骨のあたりまで伸びた薄い色をした髪は、緩やかなウェーブがかかっていて、立ち振舞いも併せて、彼女がとても高貴な存在であるかのように見せている。ブレザーは真新しいものの完璧に着こなしていて、赤いリボンが、よりいっそう彼女の少女的な可愛らしさを引き立たせていた。チェックのスカートから伸びる足は、白く細く、男が守ってやりたいと思わせるためには充分な、完璧な外見をしている。

 そんな彼女の名前は、九十九和音といった。一応、僕のクラスメイトである。

 僕は自分の周りを確認し、もう一度なぜか顔を下に向けている彼女に聞いた。

「……もしかして、僕に話しかけているの」

「う、うんっ。あのわたし、百千くんに聞きたいことがあって」

 彼女の言葉に、僕は思わず怪訝な顔をしてしまった。聞きたい事というが、意味が分からない。しかし、僕の表情を見た彼女の顔が曇るのが分かり、僕は慌てて表情を、いつもの起伏の少ない無表情に近いものに戻した。

「僕に?」

 ここで嫌な奴であるというイメージを与えるのも、良くないだろう。嫌そうな声に聞こえない様に、平静な、いつもの通りの声を出すようにつとめた。

 今度はそんなことを考えながら言葉を発したからか、平常を装えていたらしい。今度は、彼女の明るい表情に陰りが見えることはなかった。

「はいっ」

 首肯し、彼女はずい、と僕との距離を縮めた。女性の距離感というものは、良く解らない。少し近いのではないだろうか。九十九和音から漂う女性特有の柔らかい香りが、僕の鼻腔を擽った。

 正直な所、彼女が僕に話かけてくる理由に、僕は心当たりがなかった。

 何の用事かヒントはないだろうか、ともう一度彼女の姿を良く見てみる。九十九和音の腕の中には、僕と同じような分厚い本の束があった。あんな細い腕で、よくそんなに重たそうなものを持てるものだと、感心にも似た思いを抱かずにはいられない。

 そんなことを口にすると、女性を馬鹿にしているのかと色んなところから怒られそうなので、口には出さなかったが。

 その彼女も持つ本の存在が、次の授業、僕と彼女が受ける授業の内容が同じものなのだろうということを、僕に推測させた。しかし確か僕と彼女は別々の部屋で、それぞれ違う先生に指導を受ける予定のはずだ。

 僕が師事するのは、大蔵先生という、名前に似合わず線の細いおしとやかな感じの人だ。対して、彼女は田村先生という、どちらかといえばふくよかな体型をした大らかな感じの人に師事している。

 だからますますもって、何故彼女が話しかけてきたのかその理由が全く分からない。

「あの、昨日、上の大ホールで練習してたのって、百千くんだよ……ね」

「……うん。そうだけど」

 声と表情は平静に見えるようにできたけど、内心僕は、どうしてという気持ちでいっぱいだった。確かに、昨日の放課後、大ホールにいたのは事実だ。未だ二回ほどしか入ったことのない部屋だったので、演奏会前にどんなものか確認しておきたかったのだ。いつもは誰かしら入っているので入れないのだが、昨日だけは偶然空いていたのだった。

「でも、あれは別に練習していたわけでは……」

 彼女は練習、といったが、実際のところ、僕は練習などしていなかった。

 偶然空いていたとはいっても、常に予約が入っている部屋なので、一度だけ通してみただけだ。

「実はわたし、昨日の百千くんの演奏を聴いてたの」

「……そうなんだ」

「うん。それでね」

 先ほどまでの内気に見えた少女の姿はどこへいったのか、九十九和音は、堰を切ったうに喋りはじめた。

「百千くんも、テンペスト弾くんだよね? 実はわたしもおんなじで……っていっても、私は第三楽章を引くんだけど、それで百千くんの第一楽章を聴いたらね、私も受験で第一楽章弾いたことあるからちょっとは分かるんだけど、すごく独特っていうか、あんなテンペスト聴いたの初めてで、それで今朝大蔵先生に聞いたら、百千くんはテンペスト結構好きだって知って、それでっ」

 一息でそこまで言うと、九十九和音は大きく深呼吸をした。肩が大きく上下している。息が苦しかったのか顔が真っ赤になっている。僕は、ただ呆然として、彼女の口から続く言葉を待つことしかできなかった。

 彼女は何度か呼吸をして息を整える。そして今度は、先ほどまでの早口で捲し立てるような勢いなんて全く感じられない、静かな声で言った。

「よかったら――――」

 しかし、その静かな言い方が災いしたのか、九十九和音の言葉は、最後まで僕の耳に届くことはなかった。なぜならば、

「百千君、早く行かないと遅れるけど」

 怜悧で、刃物のような鋭さと冷たさを併せ持つ声が、九十九和音の音を打ち消したからだ。この声の持ち主は、すぐに見当がついた。振り返ると、予想通り。そこには次の授業で一緒になっている、同じ門下の香西がいた。香西の肩にかかるか、かからないくらいの短さの髪は、少しばかり外側に跳ねていた。制服も堅苦しいのが嫌なのか、ブラウスの釦を上まで留めておらず、スカートも真面目に着こなしている九十九と比べると、かなりの短さだ。ずっとそんな格好をしていたら、体調を悪くしそうだ。

「そうだな」

 教室の前に掛けられている時計を見ると、もう少しで授業の始まりのベルが鳴るかもしれないという時間だった。大蔵先生も少しは遅れてくるだろうとはいえ、その前に椅子に座っておくに越したことはない。それに、少しだけ練習もしておきたかった。

「じゃあ九十九。僕は行くから」

 九十九和音にそれだけ告げて、席を立つ。九十九和音は、

「ううん。わたしの方こそ、レッスン前に引き留めちゃって、ごめんね」と申し訳なさそうな顔をして、誤魔化すように僕を見て笑った。



 僕が入学した高校は、生徒数が全体的に減っていることを受けてか、独自の学科というものをいくつか持っている。もちろん普通の、いわゆる大学受験を目指す普通科というものも存在しているし、その中には特進コースだの進学コースだのが、色々と細分化されて存在している。一年間ほど海外に留学するところもあるらしい。しかし、その全てを僕は把握できていない。あまりにも細かくしすぎていて、よく分からないのだ。客引きに多く作りすぎた弊害の一つだろう。教師もすべて把握できていないのではないだろうか。興味があれば別だが、自分が進学する学科にも興味がないというのに、他の学科になど興味があるはずもない。

 僕が通っているのは、音楽科である。

 文字通り、音楽を勉強するところで、僕はピアノを専攻している。というか、僕はピアノしか弾けないので、それ以外の楽器を専攻しようがなかった。

 音楽科とはいっても、一日中ピアノを弾いていればいいわけではない。普通に座学もしなければならないし、筆記試験も普通にある。数学だとか、物理だとか、最低限のことは嫌でも習わなければならない。でも、それと並行して音楽的な科目も学ばなければならない。理論だとか、音楽史だとか、僕の頭はそんなにたくさんのことを詰め込めないので、覚えないといけないことが多すぎても、困ってしまうのだが。

 つまり、音楽科とはいっても、ただピアノを弾いていればいいというわけではないのだ。一日中ピアノを弾いているよりも、適当に息を抜くことができる座学の方がマシといえば、マシだが。毎日弾き続けていたら、精神的におかしくなってしまうだろう。僕はずっとピアノを弾いていられるというほど、演奏することは好きではないのだ。この時点からして、演奏家に向いていないということが分かるだろう。

 専攻の楽器だけではなく、副専攻の声楽やオーケストラの授業があるなどというのは、僕も入学してから知った。バイオリンなんて触ったこともないのだが。

 座学も重要だが、やはりピアノを専攻する以上、一番大事なのは実技の演奏だろう。そもそも音楽科を受験するという時点で、専攻する楽器の実技試験というものがある。僕も普通科の生徒と同じように五教科の筆記試験を受けた後、実技の試験を受けた。まあ試験とはいっても、よく聞く藝大の入試とは真剣さが全然違う。毎年定年割れするような学科の試験を落ちるなどということはあまり考えられない。だから、そこまで気負わなかった。死ぬほど練習することもしなかったのに、合格してしまった時には少し驚いたが。そもそも落とすような人数も集まらないので、基準のラインが低いのだ。

 そんな学科での、僕のレベルは、まあ察して欲しい。受験はそんなものだったが、皆音楽科にきているということは、音楽に対する向上心というものが凄いのだ。

 僕はそういったものが全然ないので、はっきりいって論外だ。ただ弾いていた年数が長いので、習ってないような人に比べたら、そこそこ弾けてしまっているというのが、現状である。

 こんな僕が音楽科に入るなんて、世も末だ。

 僕が音楽科に入るよう勧めてきた、中学時代の担任や音楽教師の頭は、少しどうかしていたのではないかと思わずにはいられない。後悔しているわけではないので、恐らく受験をやり直したとしても、僕はここにくることになるのだろう。それが良いか悪いか、僕にはまだ分からないし、恐らく生きているうちに分かることはないだろうが。



「遅れちゃって、ごめんねえ」

 授業が始まって優に十分は過ぎた頃、ようやく大蔵先生はレッスン室に現れた。ピアノのレッスン室は、グランドピアノが横に二台並ぶように置かれている。その奥のピアノの前に置いてあった椅子に先生は腰掛けた。

「よろしくお願いします」

 頭を下げると、まずは香西の方から曲を通して弾くように言われ、僕は入口近くに立てかけてあったパイプ椅子にかけて、待つことにした。

 本来ならば、専攻科目のレッスンなので、一時間につき一人を付きっきりで指導をされる。しかし来週に新入生の演奏コンサートを控えているので、今日は特別に二人でのレッスンだった。僕のレッスンの時間に、香西が混ざるような形になっている。

 入学式が終わった後に実技の試験があると聞いた時は驚いたと同時に、何故そんな日にわざわざ受験とは違う曲で試験をするのかと思ったが、コンサート出演者を決めるための選抜試験だったと知れば、理解できた。選抜といっても、二十人と少しいるクラスの中でも、半数近くは出ることができるので、そこまで基準も厳しくない。事実このクラスにおいて、そこそこの腕しか持っていない僕も、演奏することになっているくらいだ。

 香西とは同じ門下ということで、入学前の春休み頃から、ちょくちょく顔を合わせてはいた。といっても、雑談らしい雑談をしたこともないので、香西と僕は同じ門下ではあるけれど、特に親しいわけではない。

 そもそも僕は元々別の先生に師事しており、校舎内で、授業としてのレッスンで教えてもらうのが大蔵先生というだけだ。香西もそれほど大蔵先生と親しくなさそうなので、僕と同じように、別に師事している先生がいるのだろう。

 そもそも、クールを通り越して冷たいとまでいわれる香西と、基本的に他人とあまり関わらない僕とでは、余程のことがない限り、仲良くなるはずがない。

 氷のようだと、入学式から僅か二日で噂されていた香西の演奏は、本人と同じく冷酷無慈悲だ。彼女が弾いているのは、ロベルト・シューマンの幻想小曲集作品十二、その中の八曲のうち最も人気がある、「飛翔」という曲だ。僕は自身で弾いたことはないものの、発表会などでは割とポピュラーな楽曲で、何度か耳にしたことがある。

 僕はあまりシューマンという作曲家が好きではない。だからこの曲がどのような曲か、楽譜を読んだこともないので、詳しいことは分からない。そんな僕が、香西の弾く「飛翔」に一言感想を述べるとしたら、強い。これに尽きる。

 彼女の「飛翔」は、華やかさよりも先に、これから戦争でもするのかというぐらいの強さを、聴衆は感じるだろう。主題部分。最初のフォルテから、爆弾でも投下されているのかというぐらいの力強さで、彼女は弾き始める。先ほどから主題の部分に差し掛かると、大蔵先生の表情が厳しくなっている。元々大蔵先生という人は、その大らかな性格通り、モーツァルトとかそういった明るくて楽しい曲を好む人だから――まあ、これは僕の推測にすぎないけれども――特に香西の演奏に思う所があるのだろう。

 しかし香西はテクニックだけは、すごい。

 再現部のオクターブは、音が爆撃を受けているような強さであることはともかくとして、外さない。僕が今まで聞いてきた中でも、かなり速いテンポで弾いているのに、ミスタッチもない。

 音に冷たさがあるというのが、難点かもしれないが、まあそれも香西の持ち味の一つなのだろう。

 最後の音も、やはりどこか冷たく鋭く響き、香西の演奏は終了した。ただ強いとはいっても乱暴ではないので、その辺りは綺麗におさまっている。

 先ほど曲中で、あれほどの強さを感じさせていたというのに、香西は顔色一つ変えずに、「どうでしたか」と、どこか微妙な表情をしている大蔵先生に尋ねた。どうもこうも、その顔色を見ればどう思っているかなんてことは一目瞭然なので、わざわざ聞かなくてもいいのではないだろうか。あれほど先生が厳しい表情をしているのに、自分から感想を聞きに行くことができる香西の神経はすごいと、素直に思う。僕なら少しだけ、聞こうか聞くまいか躊躇ってしまう。

 しばらくの間、どのようにして指導したものか悩んでいたようだが、大蔵先生は、今更変えることはできないと判断したらしい。時間も一週間しかないので、今更の軌道修正は不可能だと思ったのだろう。香西にあたりさわりのないことをいくつか言って、彼女の指導を終えた。

「じゃあ、次は百千さんね」

 そう言われたので、僕は青表紙の厚い楽譜を、先生に手渡した。

 人前での演奏は、基本的に譜面を見ずにするものだ。入試で暗譜していない奴はいないだろうし、プロの演奏会でもし楽譜を見ていたら、聴衆は少しどうかと思ってしまうだろう。音楽科にピアノ専攻で入るような人物が弾く曲というのは、大体十分近くなることが多いのだが、弾けてしまうのだから不思議だ。

 僕に限らず、それなりに演奏できるのならば、練習をしている内に覚えてしまうので、楽譜を見ない事がそれほど大変だということもない。それよりも、英単語だとか数学の公式だとか、そういうものを覚える方がよほど大変だ。ピアノなんかは特に指や身体が覚えてしまうのだから、暗記をすることに関しては、ピアノの方が楽である。

 僕はピアノを目の前にして、まずゆっくりと一回息をした。緊張はしていないが、座った直後に弾きはじめるのは、アピール的な意味であまりよくないらしい。音楽に集中していると見せかける、一種のパフォーマンスなのだからと、幼い頃僕は教えられた。

 ざっと鍵盤を眺める。年期があるからか真っ白とまではいかないが、丁寧に手入れされているので、そこまで汚くも見えない。汚い鍵盤は本当に黄ばんでいて、触ることを一瞬躊躇してしまうので、僕は出来る限り鍵盤を清潔にするよう心掛けている。

 右足を強音ペダルに乗せて、踏み心地を確認しておく。僕は左のソフトペダルは使わないので、左はそのままだ。ソフトペダルを踏んだ時の少し篭もったような音が、苦手なのだ。踏むくらいならば、どんなに難しくても鍵盤上で音を調節したい。その気持ちを理解してくれているのか、無理矢理踏ませるようなことは、先生たちもしてこない。

 心を統一して、最初の音に左の小指をのせる。Cis。嬰ハ音。

 弱く。しかし弱弱しい音にならないよう気を払い、部屋全体に響くような音で、最初の分散和音を出す。綺麗に音が鳴れば、後は流れに乗るだけだ。

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲のピアノ・ソナタ第十七番ニ短調作品三十一―二。

 一般的に「テンペスト」という名前で知られる、有名なソナタ。

 その第一楽章。

 それが、今度僕が弾く曲である。



 自画自賛しているようであれだが、今日の演奏はそれなりにうまくいったと思う。ミスがなかったわけではないが、自然な流れで、弾くことが出来た。

 大蔵先生も特に言う事が無かったのか、

「じゃあ来週もその調子で頑張ってね」と一言あったのみで、テンペストについては、それで終了だった。

 後は、元々僕のレッスンの時間だったということもあって、その後の時間はいつもの流れをこなした。スケール(音階のことだ)をしたり、練習曲やバッハのインベンションを少し弾いたり。そんな普通のレッスンをしていると、あっという間に六限目は終了した。

 終了のベルが鳴った時、ああこれが最後の演奏になるのだ、と僕はふと思った。なので少しばかり余韻に浸っていたかったのだが、大蔵先生の

「じゃあ私はちょっと用事があるから、帰るねえ」

 という気の抜けた声によって、強制的にレッスン室から締め出される事となってしまった。別に鍵を預けてもらえば後で教員室に鍵を返しにいくのだが、そんなことを提案する前に、大蔵先生はさっさと帰ってしまっていた。

 仕方なしに廊下に出ると、ガタガタと机を引きずる音がそこかしこから響いてきていた。放課後まで、後はホームルームを残すだけだと思っていたが、そういえばその前に清掃もしなければいけないのだ。面倒だが、全員がしているので、僕だけ参加しないということもできない。

 私立なのだから、業者にでも頼めばいいのではないかと思うのだが、色々事情があるのだろう。

 楽譜を持ったまま掃除ができるはずもないので、掃除をする場所を確認しなければならないこともあって、一旦教室へと戻った。すでに教室の後ろの方に下げられていた、自分の机の上に、楽譜を適当に置く。そして、前の黒板に貼ってある、各自に割り振られた清掃場所の当番表を見た。

 自分の名前を探してみると、今週僕は第五レッスン室の担当になっていた。昨日は、授業が長引いてしまったせいで、清掃に参加することができなかったので、これが今週初めての清掃になる。ついでに、一緒に同じ場所の当番になっている奴の名前も、確認しておく。レッスン室は、ピアノ二台が置かれている他は特に何もない小さな部屋なので、一室につき二人だけ割り振られているのだ。

 表全体を何度も繰り返し見て、僕は同じ当番場所になっている人間の名前を確認した。見た瞬間、表情が歪んでしまう。あまり嬉しくない事に一緒に掃除をするのは、九十九和音だった。

 そういえば前の休み時間に、何かを言われようとしていたことを思い出す。テンペストの話をしていた気がするが、彼女に対して僕が教えることなどないので、さっぱり見当もつかない。本当に聞きたいのであれば、掃除の時にでも、尋ねてくるだろう。

 そう思いながら、少々憂鬱な気分を引っ提げてレッスン室へと向かう。すると、なんとまだレッスン中の札が掲げられていた。

 扉にある小さな窓から覗いてみる。放課後になると、覗かれるのが嫌な生徒がそこに内側から目隠しをしてしまうので、覗くことができないのだが、流石にレッスン中はそんなことはしないらしい。

 窓の中。そこには田村先生から熱心に指導を受けている九十九和音の姿があった。

 困った。僕は顎に手を当てて考える仕草をした。

 これでは、掃除をすることができない。

 どうしたものかと扉の前でしばし佇立していると、視線を感じた。一体なんなのだと、視線を感じた左隣を見ると、隣の第四レッスン室のドアノブに手をかけた状態の香西がいた。僕の事を、変なモノでも見るような目つきで見ている。

 何かあらぬ誤解を招いていそうだったので、僕は違うと香西に伝えることにした。

「まだレッスンが終わってないんだ」

「…………」

 香西が無言で僕を見てくる。僕の必死の弁解は、どうやら彼女に受け入れてもらえなかったらしい。

 別にサボりたくてサボっているわけではないのだから、そんな非難するような視線を向けないでほしい。僕はそう言おうとしたが、口にするだけ言い訳がましく聞こえるということに気づいたので、止めた。

 そのまま、ジッと僕を見つめてくる香西から視線を逸らすこともできず、無言のにらめっこが続く。いつまでこのにらめっこが続くのだろうと、僕が思ったその時。

「――九十九さん」

「え」

 急に香西が口を開いた。ここで九十九和音の名前を出してくるとは思っていなかったので、思わず僕は間抜けな声を発してしまう。

 しかし、そんな僕の様子などまるで眼中にないといった感じだ。少し反応をくれてもいいと思うのだが、香西に言うだけ無駄かもしれない。そんな風に思う僕を置いて、香西は更に言葉を続けていく。

「彼女は期待されているから」

 零した、というよりも、思わず零してしまったという感じの香西のその一言には、色々と複雑な感情が入り混じっていた。あまりにも複雑すぎて、僕に彼女の真意というものをはかることはできない。

 常に一本調子で、機械が音を出しているのではないかとさえ噂される香西。彼女のそんな声色を、そんな言葉を、僕は初めて聞いた。

 どこか憂いを帯びた表情で、そっと香西が目を伏せる。僕には、それがどこか悲しげに見え、気が付けば口から声が飛び出していた。

「まあ仕方ないだろ。九十九は、特別なんだから」

 九十九和音という名を、僕はこの学校に入る前、同級生になると知る前から知っていた。それは、香西も同じだと思う。香西だけではない。恐らく、この学校の音楽科に属する人間の九割は、九十九和音の存在を、幼い頃から知っているはずだ。

 昔から――といっても十年ほど前からだが、九十九和音という演奏家の存在は、知られていた。僕達のようなピアノ弾きにとって、そして僕と同じ年頃の演奏家にとって、彼女の存在を無視することはできない。彼女は僕たちにとって、憧れの対象であり、恐れの対象でもあった。

 元々幼い頃から数々のコンクールで賞を取っていた彼女は、神童だとか神の子だとか、そういったふうに呼ばれていた。国内海外問わず、彼女はかなりのコンクールに参加し、そして参加したほぼ全ての大会で優秀な成績を収めていた。それを天才と呼ばずして、なんと呼ぶのだ。

 片や僕たちは、そういうニュースを見た親から、和音ちゃんのようにもっと上手くなりなさいなどと言われているわけだ。そこには埋めることのできない、深い深い溝がある。メディアの向こうの遠い存在。九十九和音とは、そういうものだった。

 しかしここ最近、しばらくコンクールなどに出た話も聞かず、名前も聞かなかったので、てっきりピアノをやめたのだと僕は思っていた。神童も大人になればただの人と言うし、結局僕たちが憧れた九十九和音もそうなってしまったのだろう、と。

 しかし入学式で彼女の名前を見て、初めて、僕は彼女がまだピアノを続けていたのだと言う事を知った。僕はてっきり九十九和音はピアノから離れたのだと、自分の中で勝手に結論付けていたので、かなり驚いた。

 そんな名の知られた天才が入学してきたものだから、この学校の先生たちもかなり張り切っている。授業時間が終わってもレッスンを続けている田村先生の姿を見れば、彼女がどれほど期待されているのか、誰の目から見ても分かる。

「僕たちには関係ないから、気にすることもないと思うけど」

 元々彼女と僕たちは、住む世界が違う人間なのだ。

 週末はわざわざ東京まで出向いて、有名な指導者のレッスンを受けに行くのだというし、そもそもかけられるものが違う。お金も期待も、僕たちに掛けられている量とは、比べ物にならない。

 しかし、香西はそれが納得いってないようだった。何が納得できないのか僕にはわからないけれども、そういうものだと自分で結論付けるより他にないと思う。九十九和音と僕たちでは何もかもが違っているのだから。

 しかし、

「百千君は、それでいいの?」

 香西が見透かすような目で、僕を見た。

 この目が、僕は苦手だった。香西と親しくなろうと思わなかった理由の一つに、この目の存在がある。香西の静かで、だが強い意志を持った目で射抜かれると、何でもお見通しだと言われているように感じてしまうのだ。

 僕は、香西の追及するような視線から目を逸らした。そして、もう一度だけ小窓の中、必死で鍵盤を叩く九十九和音を見て、

「いいんだよ、別に」

 それだけ言うと、教室へと踵を返した。



 それから、これといったことも特に起こらず、清掃の時間は終わった。そもそも、真面目に掃除をしている者が少ないので、教室に戻って適当に過ごしていても、特に目立たないのだ。そんな感じで清掃の時間が終わり、机を元の位置へと戻したところで、担任が教室へと戻ってきた。

 僕の担任は、どこからどう見ても声楽をやっているという風貌で、見た目の通り、昔は声楽を専攻していたらしい。それからどうしてこんな田舎の音楽科の教師をやることになったのかは知らないが、興味もない。年齢も詳しいところは知らないが、僕の父親と同じくらいといったところだ。清掃の時間はどこに隠れていたのかしらないが、自分も少しは掃除を手伝えばいいのに。僕は思ったが、こんな新入生気分が抜けきっていない奴に、担任も言われたくはないだろう。

 そんなこんなで、ホームルームも恙なく終了した。終了してしまったとは思っていない。まったくもっていつも通りに、この世界は動き続けていた。

 いつもならばこの時間は、自分の机のところでぐだぐだとしているのだが、今日は違う。ホームルームが終わると、僕は急いで立ち上がり、目的の場所へと向かう事にした。そう、その場所とは屋上である。

 本館の端にある音楽科から別館に向かうには、まず校舎の正反対まで移動してから、別館へ向かう渡り廊下を渡って、階段を上らなければならない。外の階段から上がるという手もあるが、まだ若干制服だけで外に出るには肌寒い季節だ。近道をつくるのが無理なのなら、音楽科を別館近くまで移動させればいいと思う。しかしそうなるとレッスン室が遠くなってしまう。なんだか微妙に上手くできていない。

 僕は上着を羽織っていくかどうか一瞬迷ったが、上にセーターも着ているのだから大丈夫だろうと、そのまま椅子にかけたままにしておくことにした。鞄も持っていかないし、そのまま置いたままでも特に問題ない。

 さて向かおうと教室から出ようとすると、誰かと身体がぶつかってしまった。思いっきり正面からまともに衝突したので、衝撃で身体が跳ねかえる。僕は踏ん張って耐えたので大丈夫だったが、当たった人物は可愛らしく声を上げると、床に尻をついてしまった。

「大丈夫だった」

 僕も不注意だったと、当たった人物に謝罪をする。起き上る手助けになればと、手を差し伸べると、その手がとられた。細く、美しい指をしている。それにしても、少し今日は不注意がすぎるような気がする。注意力がなくなってきていると言われても、これでは仕方がないではないか。

「ううんわたしの方こそ……」

 僕の手を取って、ぶつかった人物が立ち上がる。そして衝突事故を起こした人物が顔を上げ、僕達は暫しお互いの顔を見合わせることとなった。

「九十九」

「百千くん」

 偶然にも、ぶつかったのは九十九和音だった。

 なんとなく九十九和音と顔を合わせたくないなと思っていたのに、これだ。今日は本当についていないのだと、溜息を吐きたくなってしまった。

 彼女と話すことなど特にないので、ぶつかってしまってごめん、ともう一度謝って、教室を出ようとする。

 するといきなり左手首を掴まれ、僕は前へと進めなくなってしまった。

「……何」

 あからさまに嫌そうな声が出てしまったが、仕方がないだろう。人が出ていこうと、歩き始めようとしているのに、何も言わずに腕を掴んだのだから。

「あっ、あのね、今からちょっと時間いい?」

 九十九がなにやら必死になって、僕に尋ねてくる。そんなもの、答えはきまりきっていた。

「ない」

「えっ?」

「時間ない」

 特に入っている予定というものはないけれども、僕にはやるべきこと、やりたいことがあった。それを予定に入れていいのであれば、今日の予定は詰まっている。

 その事よりも、九十九和音との会話を優先させるべき事情があるとは、僕には到底思えなかった。

「そうなんだ」

 かなりはっきりと僕が言ったからか、九十九和音は少し落ち込んでしまった。その様子を見ると悪い事をしてしまった、と一瞬だけ思うが、その痛みは一過性のものにすぎない。気にするほどのことでもないだろう。

「じゃあ、その後でもいいから」

「ちょっと今日は 無理なんだ」

 今日というか明日以降ずっとだけど。心の中で付け加える。

「そっか、それなら明日は――――」

 やけにしつこく食い下がってくる九十九和音に、僕は少し苛立ちを感じ始めていた。普通、ここまで無理だって言われたら、諦めると思うのだけど。九十九和音は、そういったものを読み取るのが、非常に下手だった。もう少しそういったことはきちんと勉強しておかないと、後々困るのは彼女自身だというのに。

「明日また聞いてよ」

 明日会う事はないだろうけど。果たす事のできない約束をする気もなかったので、それだけ口にする。その僕の言葉でとりあえずは納得したのか、九十九和音は、

「じゃあ、明日。また教えてね」

 それだけ言うと、掴んでいた僕の手首を離した。

 また掴まれてはたまらないと、僕は挨拶もそこそこに、教室から飛び出していた。九十九和音の前から逃げるようにして。



 別館の五階。ほぼ音楽科専用となっているらしい大ホールを抜ければ、目当ての場所までもうすぐだ。

 ホームルームが終わったばかりなので誰もいない、無人の大ホールを抜けて、外へと通じるドアを開く。外側の階段は出入口に鍵がかけられていることが多いので、このルートが一番確実だ。屋上へと上る外階段は鎖が掛けられていて、生徒が登らないようになっている。が、こんなものは跨いで飛び越えようと思えば、いくらでも飛び越えられる。つまり、生徒の良心を信じるということなのだろうか。学校の変に詰めが甘いところは、よくわからない。

 僕は鎖を跨ぐと、階段を一段飛ばしで、思いっきり駆け上がった。大股で、スキップするような軽さで、足を運ぶ。

 自分でも驚いてしまうほど、足取りも身体も軽い。十も数えないうちに、僕は屋上へとたどり着いた。

 普通ならば立ち入ることができない場所なので、僕以外には誰の姿も見えない。誰かの姿があった方が、驚きだ。誰もこないからか、屋上には何もない。また長年清掃もまともにしていないのか、かなり汚れている。水はけが悪いのか、ここ数日雨など降っていなかったのに、水たまりがいくつか残っていた。僕はどうせ汚れているのだしと、年甲斐もなく、水たまりの中へと、思いっきり足を踏み入れてみた。校舎専用の靴が、その中の靴下が濡れていく。 

 こんなことをしたのは、いつぶりだろうと僕はしみじみと考えた。そういえば僕は昔から子供らしくないと言うか、可愛げのない奴だった。人見知りはしなかったような記憶があるが、どちらにせよ他人と関わることを嫌がって、一人でいる方を好む子供だったのは間違いない。

 落下防止のためか、少しだけ高くなっているコンクリートの塀から身を乗り出して、下を見る。真ん中だけくり抜かれた四角い形をしている本館と別館。元々コの字に近かった本館に別館を継ぎ足すようにつくったようだ。別館は一階部分だけ、中庭に車を入れるためか、ぽっかりしているものの、それ以外は本館と特に作りが違うということもない。

 ここから見下ろすと、その真ん中にある中庭がよく見える。

 池があって、創立者かどうかよくわからない銅像が立てられた中庭は、不可侵条約でも結んでいるのか、どの部活動も使用していない。

 私立らしく、部活にも力を入れているこの学校は、人数のわりにかなりの数の部活や同好会が存在していて、活動場所の奪い合いが激しいらしい。駅の近くだからか、この学校の校庭というのは車で二十分ほどの場所にしかないというのも大きな原因の一つだ。そのため大きな行事になると、学校の体育館では入りきらないので、近くにある公営のホールを借りている。元々この学校は生徒数あたりの面積が非常に少ないのだ。だから中庭なんて真っ先に使われるのではと思っていたのだが、不自然なくらい誰もいない。

 そんなどうでもいいことを考えながら中庭を見ていると、向かいの校舎で誰かが窓から顔を出し、そして僕の方を見た。

 ように思ったが、実際どうだったのかよくわからない。しかし本当にごくわずか、一瞬だけ、目があってしまったような気がしてならない。

 慌てて塀の内側に身を隠したが、見つかってしまっているのならば、今更隠れたところで意味がない。

 これは、困ったことになった。

 あの誰かが、そのまま自分の心の中に、僕の存在を隠していてくれればいいが、最悪なのは、教師に僕の事を言ってしまう事だ。誰かが進入禁止の屋上にいると聞いたならば、教師は僕の所に来ざるを得なくなる。

 ここまできたというのに、邪魔をされたら、元も子もない。

 もう少し色々と感慨に耽っていても良かったが、こうなったら、さっさと実行してしまった方がいいだろう。

 僕はそう思うや否や、落下防止のコンクリートの塀を乗り越えた。少々高いが、僕の胸元程度の高さなので、頑張れば飛び越すことも難しくない。そして、塀の向こう側、少しだけ出っ張ったところへ、両足を置いた。

 塀の中にいた時はそれほどでもなかった風が、けっこう強い。五階建ての、何も遮蔽物のない所なのだから、当たり前といえば当たり前か。僕は風に身をとられないように気を付けながら、慎重に次の行動にうつった。自分の足元を覗き、中庭に人はいないことを確認した。

 僕一人が死にたいだけなのだから、誰かを巻き込む必要は全くない。落ちた僕が万が一助かって、その下敷きになった人が亡くなるという事態だけは、絶対に避けなければならない。

 中庭ではなく、学校の外を選んだ方がいいのではという意見があるかもしれない。しかし、それは不可能だ。別館の内側は中庭を向いているのだが、その反対側というのは、自転車置き場になっている。雨避けの簡易な屋根があるので、そちら側から降りると、そこに叩きつけられることになる。屋根の下には大量の自転車が置いてあるのだが、その上に落ちると、帰れなくなる人がいるかもしれない。偶然自転車を取りに来た人がいたら、それこそ大問題だ。

 ちょうどこの場所から中庭に落ちると池に落ちてしまいそうだったので、僕はもう少し場所を変えることにした。そろそろと、一歩ずつ確実に横に移動していく。

 ――そんな時だった。

 こんな状態の僕に、ある意味間抜けとも思える質問をしてくる奴が現れたのは。



「ねえ、死にたいの?」

 その声が耳に届いた瞬間、僕は驚きのあまり、動きを止めてしまった。もしかしてもう教師がきてしまったのかと急いで振り返る。誰もこないはずの屋上。僕しかいないはずの屋上。そこに現れるとしたら、もう教師くらいしか考えられない。

 しかし、僕に声をかけてきたのは、教師ではなかった。

 振り返った先。

 そこには、身を乗り出すようにして僕を見ている、美少女の姿があった。

 くりくりとした大きな目に、すっと通った美しい鼻筋。そっと瞬きをすると、そんなに近くないにもかかわらず長い睫毛が少し震えるのが分かる。その睫毛一つとっても、何気ない動作でさえも、彼女が動くたびに思わず息を止めてしまう。

 長く伸びた、淡い栗色の髪は、その美少女がこの国の人間ではない事を何よりも示していた。染めているように見えないのは、睫毛も同じ色をしているからか。前髪は綺麗に切りそろえられている。しかし全く地味な印象を与えず、アクセントのように彼女という存在を引き立たせていた。髪の毛の先から爪の先まで、どこをとっても非の打ちどころがない。全てが完璧で、ここにいるというそのことだけで、ありとあらゆる人間が跪くぐらい、彼女は完全無欠の存在として、存在していた。

「百千、すすむ

 その喉から発せられる声までも、彼女は美しかった。鈴の様に可愛らしく、どこか凛とした響きを有した音は、世界を震わせる。空気が彼女にひれ伏し、ありとあらゆる音が、色を失う。

「ぼ、僕が何だって?」

 数秒ほど経って、僕は震える声を絞り出しだ。ようやく彼女が僕の名前を呼んだことに気づいたのだ。しばらく彼女という存在に目を奪われていたので、何を言われたのか、分からなかった。

 それにしても、最初は教師が止めに来たのだと思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。彼女のような存在を、この学校内で見かけたことは無い。ならば考えられるのはこの学校の生徒という可能性だが、それも有り得ない。なぜなら、彼女は制服を着ていないからだ。

 彼女の顔にまず目を奪われてしまったので、服装を気にする事は出来なかったのだが、彼女はなぜか和服を着ていた。なぜ、この時代に和服なんだろう、と疑問を抱かずにはいられない。明治や大正といった時代ならともかく、今は儀式的な行事の時くらいしか見ることのない和服。

 しかし、すぐにそんなことはどうでもいい、と僕は思った。美少女がどんな格好をしていようと、僕には関係のないことだ。

 異国情緒あふれる外見をしているので、古臭い和服も彼女が袖を通すだけで、非常に真新しく見える。外見より中身だという奴がいるが、見た目というのは、やはり重要だ。

 そんな和服美少女は、どぎまぎしている僕を見ると、

「はあ……」

 呆れたように溜息を吐いた。

 これが良い意味を持つものならばいいのだが、彼女はやれやれというか、心底嫌そうな表情をしている。なぜ初対面の彼女に、そんな反応をされなくてはいけないのだろう。こんな外見をしている人物は、一度見たら忘れるわけがないので、彼女と僕の面識はない。それは、間違いないと断言できる。

「昨日、ピアノを弾いていたのは、あなたね」

 彼女に問われて、僕は暫し、答えるかどうか迷った。彼女が僕の演奏を聴いて、何か勘違いをしてしまったのなら、申し訳ないような気もした。しかし、九十九和音にも知られているのだから、ここで誤魔化す意味がない。

 僕は、正直に答えることにした。

「……そうだけど」

 それにしても、何故彼女はこんなタイミングに声をかけてきたのだろうか。

 早いところ済ませてしまいたいというのに、また引き留められそうな雰囲気が出始めている。九十九和音といい、この少女といい、こう邪魔ばかりされると、少し苛々としてしまう。

 もう一度、今度は睨みつけるようにして少女の顔を見ると、最初の感動はどこへいってしまったのか、確かに綺麗で可愛いのだが、心を動かされるような強い感情はわいてこなかった。さっきまでの、あの感動は、一体何だったのだろうか。一度見たくらいで、あの感動がどこかへと消えてしまうものではないと思うのだが。不思議だ、と思ったが、割とどうでもいいことなので、そんな疑問は頭の中から消し去った。

 それにしても今日はやたらと、昨日の演奏について聞いてくる人が多い。そんなに僕のテンペストに気になるところがあるのだろうか。

 僕自身、僕の演奏はそこまで上手いわけでも、面白いわけでもないと思っている。楽譜通り、そっくりそのままとはいかないが、僕のような演奏をする奴は、他にも沢山いるはずだ。しかし、もしかしたらその認識を改めなければならないのかもしれない。ピアノの才能が僕にあるというのが、もう少し早く――あと五年ほど前に分かっていたら、もっと別の道があったに違いない。今更そんなことが分かったところで、僕はこの行為を止めるつもりにはなれない。 

 九十九和音のように話が長くなるのならば困るが、どうなのだろうと、少女の口から出る次の言葉を待つ。

 すると美少女が口にしたのは、予想もしなかった、ある意味とんでもない言葉だった。

「なら、死んで」

 迷いなく、言い切られる。

「はあ?」

 初対面の人に、というか人に入ってはならない言葉が聞こえたような気がして、僕は思わず聞き返していた。この美少女は、顔に似合わずとんでもないことを言ったような。いや、美少女だからこそ、こんなことを言ってしまうのか。

 しかし、そんな驚く僕を気にする様子もなく、もう一度彼女は同じようなことを口にした。

「死ぬなら、さっさと死んで」

 てっきり死んではいけないとか、そういう類の言葉を言われるに違いないと思っていた僕は、思いもしなかった彼女の言葉に、思考が止まってしまった。頭が真っ白になるという言葉がここまでぴったり当てはまることもそうないだろう。

 止められたところで、僕が行為を中断することはない。誰にとめられても、僕は実行する気だった。だから、彼女が止めに入らなかったから、残念という気持ちはなかった。むしろ、背中を押してもらっているようで、喜ばしくもある。しかし僕の気持ちとは別の部分――つまり常識とかそういったものに凝り固まった部分が、こいつの言動は如何なものか、と眉を顰めていた。

「死ぬ気、ないの?」

 僕が呆然として、動こうともしなかったからだろう。彼女は不機嫌さを隠そうともしないで、再び声を紡ぐ。

「いや、死ぬよ」

 死ぬ気がない、というのは少し聞き捨てならなかったので、僕は一応訂正しておくことにした。死ぬ気はある。ただ、思いがけない人物の登場で、タイミングを逃してしまっただけだ。

 まだ教師がここまで上がってくる気配はない。しかしずっとこんなところにいたら、見つかってしまう。先ほどの塀の中で見られた時は違い、今の僕は、誰の目から見ても飛び降りする人にしか見えない。そんなところを見つかったら、非常に面倒なことになる。変に注目されるのは御免だ。

 さっさとしろよ、という思いを隠そうともしない彼女の視線が、僕の背中にビシビシ当たってくる。親の仇でも見るような目で、美少女に見られている。そういう趣味がある人だったら、涎を垂らしながら万札の束を献上してしまいそうなほどに、強い。僕にはそういった趣味がなかったので、残念なことに嬉しさなどというものは微塵も感じ取ることができなかったが。

 彼女に何かをした記憶はないのだが、何が彼女の気に食わなかったのだろうか。もしかして、昨日の僕の演奏なのだろうか。人に殺意を抱かせるほどの演奏というのは、それはそれですごい気もするが。

 まあ、どちらにせよ、もうどうでもいいことだ。

 彼女がなぜ僕を憎んでいるのか、何ていうことは、これから行うことに全く関係がない。僕は、死後の世界というものも信じていないので、落ちてしまえば、それで終わりになる。関係ないことに、わざわざ思考を割く必要はない。

 もう一度だけ下を見て、誰もいないことを確認する。

 ――よし、誰もいない。準備はこれで整った。

 下を見て落ちるか。上を見ながら落ちるか。僕は一瞬だけ迷ったが、上を見ながら落ちることにした。思えば生きている間は、下を見ていることが多かったような気がする。自信がなさそうに見えると何度か言われたことがあるが、下を向いていたのであればそう見えるのも致し方ない。

 頭上を見上げると、曇り空が多いこの地域にしては珍しい、カラッと晴れた雲一つない青空が広がっていた。雨が降っていなくてよかった。晴れているのなら、死体の処理もそこまで大変ではないだろう。

 そして僕は、いつも歩いている時と同じように、何もない場所へと足を踏み出した。

 宙に体が浮き上がる。どこまでも浮いていられるような気がして、僕は楽しくなった。しかし当然ながら、その感覚は一瞬だけだった。重力という圧倒的力に、に僕などというちっぽけな存在が、敵うはずもなかった。

 全身を等しく引っ張られて、僕は落ちていく。

 随分と長い間、落下していたような、一瞬だったような。

 時間が過ぎ、全身に強い衝撃がくわわる。そして、僕は死んだ。


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