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プロローグ

 ――そうだ、自殺しよう。

 そんなふうに思い立ったその日のうちに、僕は自らが死ぬ場所にふさわしいと思った所へと足を運んでいた。何も持たずに。着の身着のまま。

 朝、家を出るときに持っていた鞄は、そのままそっくり自分の机の上に置いてきてしまっていた。なぜかというとこれから自殺するというのに、律儀に荷物を持って行くというのも、おかしな話だと思ったからだ。僕の行動パターンを知っている人間がその様子を見ていたならば、教室を出るときに何かがおかしいと思ったかもしれないけれども、僕の行動を一々気にしている人間なんて、一人もいない。それくらい、僕にもわかっていた。自分が何気ない動作の一つ一つまで他人に注目されている。そう考えられるほど、僕は自意識過剰な人間ではなかった。

 いつもならば帰宅のために、外へと出ている時間。何も持たずに、僕は旅立つ。持っていくというよりは、持って逝く、の方が正しいかもしれないなんて考えると少しだけ愉快な気分になれた。そもそも、持って「逝った」ところで、持ち物も一緒にあの世行きとはならないだろうし、加えて、ここは学校の中である。鞄も持たずに学校を飛び出したのならば、その愚かさに笑いが起こるだろうが、学校内を移動する分にはおかしいということもない。

 いつもの僕の行動と比べると、今日の自分の行動はおかしなことではあるが、目立って変というものでもない。

特に持って行きたいものも、なかった。始末したいものも。

 ならば、机の上に置きっぱなしでも問題ないだろう。そんな考えで、僕は鞄を持ってこなかったのだ。どちらにせよ、中に入っているのは授業に関係のあるものと携帯電話くらいで、面白いものなど入っていない。

 身元の方は、まあ、大丈夫だろう。制服を着ているし、生徒であることさえ分かれば、いずれ僕の存在にたどり着くはずだ。そこまで僕の身元にたどり着くヒントが転がっているのに身元不明者に認定するなんて、馬鹿を通り越して、元から頭の大切なネジが抜けているとしか思えない。日本の警察は、そこまで馬鹿ではない。

行き当たりばったりにも程があるが、綿密に計画を立てているわけではないのだから、仕方がない。そのように考えて、僕はまだどこか引っかかるのか、もやもやとしたものを拭いきれずにいる自分自身を納得させた。そもそも計画的にするのであれば、こんな事、途中で踏みとどまっている。衝動的なものでなければ、誰がこんなことをするというんだ。僕は、別にこの世に絶望したわけではないのだから。

 一歩ずつ、慎重に、足を踏み出していく。

 なぜこんなに注意深く歩いているのかといえば、答えは単純。道から落ちないようにしているからだ。これから落ちるというのに、落ちないために慎重になるというのは、何だか、おかしな気がしないでもない。でも今、ここから落ちるということは、自分の本意ではなかった。道半ばで落ちるのならば、自殺ではなく、事故ということになるのではないだろうか。

 それとも、と僕は考えに集中するために、一旦足を止めた。自殺場所へと向かう途中、思ってもいなかった場所で落ちたとしても、自殺と同義なのだろうか。僕の心情としては、事故としたい。でも、どちらにせよ死ぬのだから、同じことかもしれない。本人としては全くもって納得できないが、第三者の目線でみれば、どちらも変わらないようにしか見えないだろう。そもそも単なる事故で、手すりや飛び降り防止の柵なんかを、何らかの方法で越えてしまって落ちるならともかく、僕は自らの意思でその手すりを飛び越えているのだから。はたから見たら今足を滑らせて落ちても、自殺にしか見えないはずだ。

 そんなどうでもいいことを考えながら、もう一度、僕は足を一歩ずつ確実に踏み出していく。自分の意志で、死へと一歩一歩近づいていく。

 五階建ての屋上となると、さすがにそれなりの高さがある。これで見納めになるのだからと、眼下の様子を、少しだけ眺めてみた。

 やはり放課後とはいっても、ホームルーム終了からそんなに時間が経っていないだけあって、人はいなかった。どれだけ下を見ようと、不思議と、恐怖感のようなものは湧いてこなかった。ただ空虚感だけが、静かに胸の中で横たわっている。

 これでいいのか、何ていう問いかけには意味がない。ここで終わらせるのも、今までと同じように過ごしていくのも、僕にとっては同じようなことだ。それならば、せめて、最後に華々しく散った方がいいだろう。

 目を閉じれば、暗闇の中に一人の女性の姿が浮かび上がる。昔は見上げるようにして見ていたというのに、いつの間にか僕はこんなに大きくなってしまった。考えてみれば、皮肉な結果だ。いつも僕の周りに終わりをもたらすのは、同じ曲となってしまうのだから。

 どれだけ時が経とうとも、彼女の旋律が耳から離れない。

 荒々しく大胆で、でもその実繊細だった彼女の音楽は、彼女という存在そのものだった。

 第一楽章、第二楽章。そして、第三楽章。ラルゴ(幅広くゆるやかに)、アレグロ(快速に)、アダージョ(ゆるやかに)――アレグレット。

 いつまで経っても色あせないその音色は、どこまでも美しく、感動的だ。そしてその中には不気味さが包み込まれている。

 演奏が終わり、僕は目を見開いた。もうそろそろ、時間だ。いかなければ。

 辞世の句を詠むような詩的感覚は持ち合わせていなかったので、最後にそれだけ胸の中で呟く。そういえば最後まで、芸術的センスなんていうものとは無縁だった。だから、こんなことをしているのだとも言えるのだが。

 まるで道がそのまま続いているかのように、何げなく、一歩、そしてまた一歩と足を踏み出す。そして、その足が何もない場所に置かれる。最後に思い浮かんだのは、一人の少女の姿だった。真実を彼女に伝えておくべきだったのだろうか。ふと、疑問に思ったそのとき、

「ねえ、死にたいの?」

 突然、後ろから声がかけられる。僕は、振り返った。


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