冷やし中華始めません
蝉がミンミ―ンと元気良く鳴いている真夏日。
太陽は調子に乗って顔を真っ赤にして、太陽光を容赦なく僕らに当てる。熱い、熱すぎる、体の一部どころか全身がホットホットだ。こんなに熱かったらきっと東太平洋赤道上で海水の温度が上昇するに違いない! これが噂のロナウジーニョ、じゃなくエルニーニョ現象か、と天気予報を思い出す。皮膚の汗腺から水分が出る。
四月から新入社員となったこのイカにもモテそうな顔をしている僕は、年上のお姉様達から逃げている最中だったりする。実は僕、入社初日から年上のお姉様達に狙われているのだ。可愛いわねとか、弟にしたい、とか言ってくる。なので仕事に集中できない。このままでは何の為に会社に来てるのかわからなくなってしまう。この事を上司に話したら、
「我輩もお姉様に可愛がられた時が遥か昔あったな。うん、アレは良い思い出だ。年老いた今じゃ誰も構ってくれないから君が非常に羨ましいよ」
と言った後突然泣きだしたので、僕はスミマセンスミマセンと何度も謝辞を述べた。僕も数十年後こうなるのかと勉強になった。
お昼休みぐらいはゆっくりしたいと思い、誰も知らないであろう穴場のお店を探し路地裏に入った。
少し歩くと広い空間に出て、そこには寂れた喫茶店が幾つもあったが、営業中なのか準備中なのか閉店中なのかワカラナイので入りづらい。しかし【冷し中華始めました】という定番のフレーズが書かれた看板だけはしっかりとあった。どの店も同じ事を書いているので正直目障り、何故そんなに冷し中華を始めたいんだ?
もうこの辺に穴場はないな、と呟き諦めて社内食堂で昼食をとろうと思ったその時、洋館の外装である喫茶店、
『ウスイケドナニカモンクデモアルノカ?』
を見付けた。何だよこの店名は、と思いちょっと気になったので本日のオススメと書かれた黒板を見る。そこには、思わず見入ってしまう文章が書かれていた――
【冷し中華始めません】
始めろよ! とツッコミたくなるが、この短編のタイトルがそれだからあまり驚かない。ていうか冷し中華始めない喫茶店、初めて見たぞ。この店超気になる、お昼はここにしよう。
色々気になりながらドアノブを引いて店内へ入った。ああ冷房は涼しい♪
メイド喫茶みたいにお帰りなさいませご主人様、という萌える言葉はなくて淋しいけどこれが普通か。萌えなくても、いらっしゃいませって言われるのが普通か。でもツンデレ喫茶も良いな♪執事喫茶はいらねーけど。暑さで頭がおかしくなってきたな……。
店内を見回すも、他にお客は誰一人おらずおまけに店員もいないから溜息はあ。お腹はグゥと鳴る。
「何だよこのサービスが悪すぎる喫茶店は!」
棒読みに叫んでみたが反応ナッシング。こんなんだから客がいないのか、フッと鼻で笑って馬鹿にし回れ右をして外に出ちゃおうと思った瞬間、肩をつんつんされた。
振り向くとそこにいやがったのは、頭髪が温水さんより薄い中年の女性。
「やあ。貴方はどう見てもお客様よね? ニコりと笑っていらっしゃいませ〜」
「ニコりと笑えずいらっしゃいました〜」
僕とこのおばさんしか登場人物がいないのだけは嫌だ。そんなん嫌だから美少女出てこいと強く願う、女神に願う。何だか虚しくて涙が出てきたからハンカチーフで拭おう。
「あらまあ、貴方泣いてるのね? 写メ撮るから微動だにしないでね」
「ちょっ、待てよ!」
「あらあら〜。泣き顔可愛い、もっと泣きなさい」
「あーうー!!!!」
変な声で叫んでしまった原因は、このおばさんが検挙率NO.1を誇った敏腕刑事でもなければ特Aランクのスーパーハケンでもないからだ。どう見てもこんなのアンフェアだよ!
「それにしても、こんな辺鄙な所によく来れたわね。貴方は肝っ玉のすわった人なのかしら、イヒヒヒ」
「そうかもしれませんね。僕女性専用車両に興奮しながら乗れますし」
「ふーん。貴方も犯罪者予備軍なのね」
「温水さんも予備軍?」
「うん。私なんて下着のCMをDVDで録画してるから」
何で頷くんだよ。本人に失礼だろうが!
「さてと、フリートークはここまでにして何かご注文はないの? イヒヒヒ」
「何でもご注文しても宜しいんですね?」
「勿の論よ、イヒヒヒ」
「じゃあ冷し中華で」
サァァァ、締め切っている店内に風が吹き込む。何だよこの演出?
「冷し中華なんて作るのめんどくせーよ」
「えっ?」
「冷やし中華なんて作る気にもならないんだよ」
ナルホド君、だから【冷やし中華始めません】って書いてたのか。
「何故冷し中華始めないんですか? 嫌でも教えて下さい」
外からゴロゴロという雷っぽい音が聞こえた。横目で外を伺ったが、相変わらず晴れている。
「嫌だけど教える。それが貴方の望みなら」
中年女性は、俯きながらキッチンの方へ歩いていった。あの〜話しの途中なんですけど。
「あの小娘め、短冊切りにしてやる!」
聞かなかった事にしよう。小娘は気になるが。
キィー。黒板を引っ掻いたような音が店内に鳴り響いた。冷し中華を始めない喫茶店に入ってきたお客様は、僕が先程女神に願った美少女だった。チャイナドレスを着ている美少女を、僕はニヤニヤしながら見つめる。
「来たわねジャスミン」
中華包丁を右手に持った中年女性は、ジャスミンを睨んだ。僕は早く何か食べてさっさと帰りたいんだけど、もう無理だよね。だってジャスミンが、僕に銃口を向けてるし。
「ハトムギ、この坊やが三途の川に逝っても良いのなら抵抗しなさい。生かしてあげたいなら……わかってるわね?」
坊やって、君より年上だと思うんだが。そんな事よりコイツら何なんだよ! 僕には何もワカラナイよ!
「貴方は卑怯ね。さすが小娘、人質がいないと私と戦えない」
「うるさい! 私は手段を選ばない、ただそれだけ」
僕って人質なのか? 急展開過ぎて着いていけない。ああ、頭痛い。
「彼は一ヵ月振りのお客様なの。邪魔しないでくれるかな?」
「そんなに強きで男前。もう、玉露も番茶も貴方を裏切ったのに」
え〜と。ジャスミンはしたり顔で衝撃発言……で良いのかな?
「な、なんですって! あの二人が裏切るなんて。嘘よ、そんなの嘘よ!」
「真実なのよ。他にも、玄米茶やほうじ茶や甜茶が私の仲間になったのよ♪」
「そんな……」
喫茶『ウスイケドナニカモンクデモアルノカ?』の主人は、その場に座り込んだ。声を出さずに涙を流すその姿は、まるで女房に逃げられたおっさんのようだ。見てて悲しくなる。
「……」
ジャスミンはハトムギの温水さんより薄い頭皮を見つめ、笑いを堪えながらゆっくり近付きしゃがむ。
「皆始めるの、だからハトムギも始めましょう。恐くなんかない、貴方は一人じゃないんだから」
さっきまでとは別人のような、優しい表情と口調のチャイナドレス美少女。
「ジャスミン……」
「大丈夫。大丈夫だから」
店内に沈黙が訪れた。長い、長い――何回鳩時計から鳩が出ただろうか。外はどっぷり真っ暗になっており、今頃電車は帰宅ラッシュで混んでるんだろうなと思った。ん?
「あぁぁぁぁ!!!!」
叫んだ。僕の彼女が実は常にノーパンで、ノーパン同好会の会長という事実を知った時より大きな声で。
バァン、バァン。
「うるさいわね、彼。思わず撃っちゃったよ」
「そんな事よりジャスミン。私よーく考えたけど」
「冷やし中華始めるの、だよね☆」
「冷やし中華始めません」
ジャスミンが泣きながら店を出た。テーブルの上に横たわっているのは、イカにもモテそうな顔をしている男。しかし2発の銃弾は、天井にめり込んでいた。どうやら男は気絶しているらしい……。