エピソード4
幸い、凜奈ともりょうともクラスは違っていたので、両者ともそれからすぐに顔を突き合わすような事態には到らなかった。
凜奈は学校の廊下で見かける度に何か言いたげな視線を投げかけてきたが、俺の方がすぐに視線をそらし、それからそそくさとあいつから逃げるように距離をとったので会話には到らなかった。いや、違うな。逃げるようになんて卑怯な言い方だ。事実俺は凜奈から逃げていた。
そもそも、あんなことを言われてまだ俺に近づこうと言う凜奈の神経が分からない。俺はこんなにも自分の言葉に嫌悪感を抱いているのに、あいつは違うのか。あいつの考えがまったく分からない。思えば、俺は凜奈の気持ちなんてよく考えたことなかったのかもしれない。あいつはいつも強引で、何か考えるよりまず先に行動するような奴だと思っていた。ばかだな、そんなわけないのに。何も考えていないなんて有り得ないじゃないか。
教室の中はしんと静まり返り、ただ社会の先生の垂れ流しの言説が皆の耳に流れ込んできていた。昼休みが終わった午後の授業。5時間目。室内には弛んだ空気が流れ、何人かは既に睡眠に勤しんでいる。机に肘を突き、俺もその空気に乗じていた。想うのは凜奈で、考えるのはその気持ち。あいつは一体俺のことをどう思っているのか。考えてみると、その答えのヒントは昔日にありそうな気がした。
そのエピソードがあったのは小学校4年生ぐらいだったと思う。丁度その頃になると、女子とつるむような奴は男子にからかわれ、頻繁にそのことをいじられるようになった。小学校に入る前からの幼馴染で、なおかつ人見知りだったこの俺が最も親しくしていたのは当然凜奈であったので、これもまた当然の如くからかわれた。
もちろん、俺もそのことを嫌って、少々意地になっていた。
ある昼休みの教室でこんなことがあった。場にいたのは男子数人で、他は外に遊びに行っていた。
「優太朗さあ、八武崎とラブラブなんだろ?」
この話題は何回か繰り返されている。八武崎というのは凜奈の名字だ。八武崎凜奈。滅多に名字を呼ばないので、時々忘れそうになる。
「はあ? 違うし」
「とか言っていっつも一緒に帰ってるじゃん」
「好きなんだろー?」
数人が、かははと笑い声をあげる。本音を言えば勿論俺は凜奈が好きだった。これは勿論ライクだが。奴らが言っていたのはラブな意味なのだろうが、当時の俺はその違いをよく理解していなかった。ただ、からかわれるのが嫌で何となく反論していた。
「家が近いからで、なんとなくだよ」
この習慣は凜奈が児童会に推薦されその用事で早く登校するようになり、一緒に行けなくなった小学5年まで続いた。
「でもお前、凜奈が給食当番の時、いっつもあいつの分の給食運ぶじゃん?」
「掃除の時の机もな!」
「たまたまだよ」
これは本当にたまたまで、色眼鏡がかかってただけだろう。事実無根だ。給食当番のお盆は、気づいた人がやることになっていた。しかし奴らは囃し立てた。
「好きなんじゃないのー?」
「なんか優太朗顔赤くね?」
「照れてる」
俺はとにかくこの場を収めたかった。
「だから、違うって!」
その時だった。教室の後ろから女子の一群が戻ってきた。昼休みが終了の5分前に差し掛かっていた。俺を取り囲んでいた男子は「時の人来たり」と囃し立てたテンションのままにやりと笑った。
「八武崎ー」
一人が凜奈を呼ぶ。教室後方のロッカーにバスケットボールを置いた女子達の中から、凜奈が顔を覗かせた。他の女子もこちらを向く。
「優太朗がお前のこと好きだってー」
「は!? そんなこと言ってな……」
奴のセリフを必死にかき消そうとした俺だったが、その直後に被せられた凜奈のセリフが全てを持っていった。
「はあ? 何言ってんの。当たり前じゃん、そんなの」
教室中の空気が凍る。その瞬間だけ、急速に音が消えていった。
「え?」
凜奈は事もなげに言うと、一人すたすたと教室後方の手洗い場に向かった。
「優太朗が小さいときからわたしが面倒見てるやってるのに、嫌いとか言ったらぶっ飛ばしてるね」
水の音だけが教室に流れる。女子も男子も固まった中で、何故か俺は強烈にほっとしたことをよく覚えている。
「俺は凜奈の弟でも子分でもないぞ」
そう言うと、凜奈はハンカチで手を拭きながら振り返り、ニッと笑った。
「言うね」
考えてみれば、あの時の凜奈は本当にすごかった。まず、あの歳で臆面も恥じることもなく平然とあんなことを言ってのけたこと。そうして結果的に俺が救われたこと。あの後はそのまま昼休みが終了し、結局そのままうやむやとなった。しかし一つ確かなこととして、その日を境に俺は凜奈のことでからかわれることがなくなった。本当にそこまでお世話になっていたつもりはなかったが、考え直してみると俺は思った以上に凜奈の弟分だったのかもしれない。そうなると、俺が凜奈にどんな風に映っていたのか。
少し分かったかもしれない。